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迷う心が進化して悟って仏になると思っていたのがまちがいであったのである。ただ初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。

2020-05-31 10:58:54 | 日記

谷口雅春先生は

「実相とは神である。“ある”ものは神“のみ”である。神の心と、神の心の顕現のみである。これが実相だ。」

とお悟りになりました。

「神の心」とは現象を縦に貫く実相であり、

「神の心の顕現」とは

実相の展開せる現象世界であります。

これが釈迦の悟りであり、

キリストの悟りであります。

久遠生き通しの生命の復活を

お悟りになられた後、

谷口先生はご自分が分ってきたことを

次のように記しておられます。

自分自身が実は

「空」の内なる「妙有」(真如)なのだと

気づかれたのです。

現象は実相の影であり本来あるものではなく、

見えない“実相”が天地の初めから存在しているのだと

覚られたのである。

私が“実相人間”というのは、

現象を超えて現象に生きてはたらく“実相の心”(われ)のことです。

迷いとか悟りとか云ったって、

もともと大いなる悟り(実相)のなかにおいて、

人間が(自由な)心で行なっていることであり。

実は天地の始めから“神の子”は“神の国”にいるだけだから、

その真実に気がついたと

書かれているのです。

(生命の実相第20巻 谷口雅春著)

【それ以来、心、仏、衆生三無差別の心というものが本来無いものであるということがわたしにハッキリわかった。迷う心もないから、悟って仏になる心もない。迷う心が進化して悟って仏になると思っていたのがまちがいであったのである。ただ初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。その実相の心が展開した実相の天地があるだけである。浄飯王の王宮を出て、伽椰城を去ること遠からず、菩提樹下に6年間静思して初めて悟りをひらいて仏となったという現象の釈迦牟尼仏は本来無かったのである。】


たった今、人間は「無量寿のいのち」を生きている「久遠の実在」なのである。

2020-05-31 10:47:08 | 日記

さらに雅春先生のお悟りは

深遠壮大なものとなります。

でも実は

人間一人一人は間違いなくこれと同じで

崇高で偉大なる“神の子”“仏”なのであります。

この素晴らしい事実を

人々に伝える目的で

谷口雅春先生は

世に出たのです。

聖者中の聖者であります。

これに気がついた人は

世に伝えましょう。

真理のみを伝えましょう。

(生命の実相第20巻 谷口雅春著)

【『法華経』の中で、釈迦自身が、

「我実に成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由他劫であると言った久遠の仏のみが実在であったのである。その久遠の仏が今ここに生きているのだ! 十字架上に磔(はりつ)けられて、「神よ、神よ、なんぞ我れを捨て給うや」と哀号したイエスは本来無かったのだ。永遠の神性―「アブラハムの生まれぬ前から生き通し」とみずから言ったキリストのみが実在であったのだ。自分もまた、明治26年11月22日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。ここのままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ。」】

最後に書かれている「現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。ここのままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ。」

という部分は、

たった今、

人間は「無量寿のいのち」を生きている「久遠の実在」なのであるという、

意味であります。
また「ここのままで」と書かれているのは、
人間の本体の仏なるものは、
移動したりしていないで、
ただ実相界においてどっしりと坐している「大仏」さまであるからです。


新約聖書「ルカによる福音書」

2020-05-30 11:39:36 | 日記

新約聖書「ルカによる福音書」
第19章 エルサレムに迎えられる
43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、

44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」


この現象世界に存在しているのは、実相人間つまり“神の子”だけです。

2020-05-30 10:38:48 | 日記

人間は神の肖像なのだ。神の肖像(イメージ)として創られたのだからつまり“神”なのだ。神の一部なのである。

創世記第1章には

このように記されています。

27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。

神が造った全てのものは

「始めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

「言人となりて我らの内に宿った。」

とあるように

一切合切“神”であるのです。

現象世界はその実相世界の写しだから、

物質と見えている現象世界も、

全部神です。いのちです。

人間は肉体として現れていますが、

実は見えないいのちが、

見える状態に五官の働きによりなっているだけで、

人間は時間空間の世界で実相を表現する舞台設定をされているから、

現象に見えるものは存在していますが、

時間空間も非実在だし肉体人間も非実在であって、

現象世界は幽なる実相世界の顕なる世界への表現空間として存在していて、

現象世界の奥には“見えないいのちの世界”つまり実相世界が、

根底に存在しているのです。

それが“生命の実相”の世界、つまり“神の子”です。

“神の子”つまり実相人間は、

実相アサガオがアサガオの一生を司るように、

人間の一生を司るわけで、

これを人間誕生以来ずっとやってくれています。

だからこの現象世界に存在しているのは、

実相人間つまり“神の子”だけだと言えるのです。

(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳)

【さて今やわたし達は“神の子”であり、神そのものの肖像であるのである。神と“神の子”との間には何の分離もないのである。わが内に宿る聖なる生命は完全なる活動となってそれ自身をわたし達の生活となって再現するのである。

 わらら一同、神なる父に感謝いたします。あなたは常にわが願いを聞き給います。わたしたちが扉をひらいてあなたを呼ぶに先立って、既にあなたの応えはわが門前に待っているのです。このことを感謝いたします。】