新約聖書「ルカによる福音書」
第14章 安息日に水腫の人を癒やす
4 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手をとり、病気をいやしてお返しになった。
新約聖書「ルカによる福音書」
第14章 安息日に水腫の人を癒やす
4 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手をとり、病気をいやしてお返しになった。
谷口雅春先生はアメリカに於いて19世紀の中葉に勃興したメタフィジカル・ムーヴメントについて、『神癒への道』というご著書の中で次のように説明しておられます。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【この哲学は、今までの哲学が、或いは象牙の塔上の空想的哲学であったり、或いは机上の空論であったりした欠点を補って、実証を携えて登場したのであります。この哲学運動の創始者はいわゆる光明思想家群であって、各々類似の学説と実証とを携えて、或いはメンタル・サイエンスと称し、或いはスピリチュアル・サイエンスと称し、或いはレリジアス・サイエンスと称し、色々の名称を付したものでありますが、互いに手を携えてその運動を展開したのであります。彼らは言います。「唯物論者は、凡ての事物の根源は一つでなければならないという点に於いて正しいのである。然しながらその一つの根源は『霊』であって、霊のみが唯一つの存在であり、物質は霊の或る法則に於ける現われ即ち、『現象』にすぎないのだ」と主張するのであります。この運動は最近の新興物理学の進歩によって、物質が一定の形態を備えた空間的容積を有する存在ではなくそれはエネルギーの波動に還元さるべきものであるという学説にバックされて、科学と宗教との間の闘争を調和せしめつつあるのであります。この立場に於ける思想は今日メタフィジカル・ムーヴメントの人達によって、指示せられているのみならず、多くの一宗一派に偏よらない宗教のリーダー達によって採用されているのであります。生長の家の哲学も此の新しき科学と調和する哲学を採用して出発しているのであります。】
谷口雅春先生ご自身が、生長の家はメタフィジカル・ムーヴメントの哲学を採用して出発したとお書きになっていることに注目する必要があります。「実相独在」という思想は、用語はともかくとして古くから在り、メタフィジカル・ムーヴメントがこれを現代化したわけです。谷口雅春先生がなさったことは、この実相独在が万教に帰一する根本思想であると断定されたことであり、それを実証なさったことであります。罪と病と死とが“無い”という思想は、“実相独在”から来るわけなので、こういう表現は雅春先生から初めて使われたとしても、思想自体は昔からあった思想であります。
谷口雅春先生が説明しているメタフィジカル・ヒーリングの方法について紹介します。
神想観と重なることが多いです。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
<ただ彼が神の子でありすでに完全であるという実相を「観る」だけであります。そしてその観をじっと持続するのであります。>
【メタフィジカル・ヒーリングの想念者は病者をみとめないのであります。ただ彼が神の子でありすでに完全であるという実相を「観る」だけであります。そしてその観をじっと持続するのであります。現象にあらわすためには「持続」は問題となります。丁度、それは写真を写すときにカメラのピント硝子に、像を映してじっと持続するように、心の世界にその相手の完全なる姿をじっと描いて或る時間その観を持続するのであります。するとその観の模型通りに神なる宇宙の創化作用がそこにその形を実現してくるということになるのであります。かくて「時間」はあらわすための手続きとしては必要であるが現象以前に於いては、念じた瞬間に念じた通りになると云うのが本当であります。】
<神の造りたまえるこの世界を完全と観、神のつくりたまえる人間を完全と観る>
【次には人の問題に入る。誰でも、神の造りたまえるこの世界を完全と観、神のつくりたまえる人間を完全と観ることのできる人なら誰でも出来るのが、このメタフィジカル・ヒーリングであります。】
<実相の世界と実相の人間を完全と観る練習が必要>
【もしそれに修行というようなものが要るとするならば、それは「実在の世界は完全のほかはない」と云うことを書いた真理の書を度々読んで、その道理を心の底深く知り、毎日、五感の世界に目を閉じて、実相の世界に目を開き、完全なる実相の世界を観、完全なる実相の人間を観る練習をして、心が散乱して完全不完全交々の姿を心の中で交代に観るようなイライラした精神不統一状態から脱却しさえすればいいのであります。その為に諸君に薦めたいのはフェンウィック・ホルムス博士のメンタル・サイエンスを噛みくだいて書いた「人生は心で支配せよ」と云う本であります。】
新約聖書「ルカによる福音書」
第14章 安息日に水腫の人を癒やす
3 そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」
肉体面に違和感を感じる時があるのは、
一見物質世界と見える現象世界に
われら人間は生を享けたからだ。
もっとも肉体の違和感は
私の場合は一日10回の聖経『四部経』の黙読で克服してきたし
消極的な想念ばかりしていたのを
現在は積極的な想念をする人間に変わってしまったのだから
「信」と「観」が人間のどんな状況も変える力があることは
間違いはない。
原動力は『四部経』黙読と神想観そしてアディントンの『奇蹟の時は今』の熟熟読である。
ただ一時(いちどき)に変わったのでなく
徐々に徐々に好転したので、
人はわたしを奇蹟とは言ってくれない。
でも実際は奇蹟である。
この現象の世は
実は実相なる“霊”の表現であるから
“無い”のであって
変わりに実在しているのが生命の実相の“霊”のみである。
そのことをアディントンは書いているので
抜き書きする。
現象的に現われる肉体の不調を
こうしたものだと受け流す必要がある。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
【容態や現象的条件には何の力もない。
境遇や環境的条件には何の力もない。
宇宙には唯一つ“神の力”のみが存在する。
わが内に、今此処に全能なる神が在(いま)す。
この全能なる神の完全なる正しい活動を妨げるものは何もない。
神の正しき活動を妨げる人も、場所も、物も条件も、そんなものは何一つないのである。】