創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・公明のスキャンダル-42

2018-09-21 05:49:44 | Weblog

 <サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
     これでもあなたは信じますか   内藤国夫  (日新報道 1989/06)
    ------(P.255)---(以下、本文)-------

第7章「シンドローム現象」
◆ 忍田 和彦、正木 正明…の創価大グループ
    池田二世の擁立、護持をさせられる“ご学友”たち
 忍田和彦と正木正明、学会青年部長と男子部長である。学会青年部の№1と№2に位置する二人は、共に創価高校、創価大学の出身。忍田は高校、大学の一期生、正木は三期生である。この二人は、学園のOB・OG会である「鳳友会」の理事長(忍田)と、創価大学のOB・OG会である「創友会」の委員長(正木)を務めることで、学会青年部の頂点に立つとともに、創価大・創価学園閥の頂点にも位置する。
 昭和六十三年八月二十曰付け「聖教」紙は、前日の人事異動で青年部長、男子部長に就任した二人の紹介記事を掲載。それによると、忍田は、「創価高校、創価大学の一期生。高校時代も成績は抜群で、創立者賞を受賞。通学生グループの中心者としても活躍。また大学では創大祭実行委員長を務めるなど、学園、大学建設の先駆を切った」由。
 また、正木も「創価高校で級長会副議長、創大時代は自治会の委員長」を務めた。
                      ☆
 忍田、正木は学生時代、共に自治会活動に携わっているが、実は、この学生自治会の中枢に身を置いたことこそ、彼らをして今日の地歩を固めさせた第一の理由なのである。
 創価大学学生自治会第四回定期学生大会(五十年五月二十三日)において採択された大会宣言文によれば、同自治会は「創立以来、創立者(池田)構想の実現を唯一の目標とし、その達成に全学友の情熱と連帯のスクラムを組んで邁進」し続ける組織であり、具体的には、「創立者講演の学習を推進し、池田の構想を徹底して学生に学ばせる」組織である。
 要するに、表向き宗教教育はしないとする創価大学にあって、大学当局にかわって、学生を池田イズムという一元的価値の下に糾合するとの“本音”作業の担当組織がこの自治会なのだ。
 池田は、「創価大学は、何といっても最後の砦なんだから、しっかり守っていこう」(四十八年七月十三日、大学教職員、学生代表との懇談)「ともあれ、“天下取るまで大事な身体”とはわが創大生のことであります」(五十二年七月十七日、第六回滝山祭でのスピーチ)等と語っているよう
に、創価大学を自らの権力基盤の“最後の砦”と位置づけるとともに、創大生を、自らの野望である天下取り(これを池田は広宣流布と称する)のための手駒、毛沢東における紅衛兵にみたてている。
 その命脈を司どるのが、学生自治会である。忍田や正木はその中枢に位置し、積極的に洗脳作業を押し進めるとともに、創立者構想実現のための障害となる“敵”との闘争にも挺身していった。
                      ☆
 自治会初代中央執行委員長の窪田正文に、その顕著な例をみることができる。
 創価大学では、開学直後に、非学会員の教員を中心に教員組合が結成された。自らの権利の確保と、学長をはじめとする役職者の任命制や、教員資格のない池田以下の学会幹部が教壇に立とうとする、その非民主的、理不尽な大学運営に抵抗しようとしたものだ。とりあえずは、創価大学を一般大学なみの民主的な大学に、との意図の下に教員組合は結成された。
 しかし、これが池田の癇にさわった。
 「組台も三流、ネズミです。かきまくられている。大学が建ってまだ日が浅いのに組合をつくって、エゴだ」(五十年四月十日)「(組合関係者との会食について)なんにも面白くないんだから。空爆ですよ、徹底的に僕をいじめたんだ」(同年五月一日)
 直ちに池田は彼の子飼いの弁護士、山崎正友らを理事に任命し、組合対策を実施させた。しかし、下手に手を出せば不当労働行為となる。そこで考え出されたのが、学生を煽動して教員組合潰しを図ることだった。
 「一期生、二期生の諸君は、どうか自分たちがこの大学の創立者であると自覚をし、本気になってもらいたい」(四十七年十一月二十四日、第二回創大祭でのスビーチ)と池田が学生をおだてあげる。そして、池田の意は大学を守れということだと、大学当局は自治会を使嗾して教員組合にワナをかけさせたのである。
 委員長の窪田らから、「大学建設に関して意見を交換したい」との誘いを受けた、当時、組合の中心人物だつた砂田吉一教授がウイスキーを一本さげて学生のアバーに出向いたのは、この直後。
 忌憚のない意見を交換できるものと思った砂田教授は、酔いも手伝って、現状の大学運営を批判した。窪田らはその言質をとるや、直ちに「創立者を批判した」として同教授を吊るしあげ、以後、「組合は創立者を批判する組織。創立者構想を阻害するものゆえ解散せよ」と、全学的キヤンべーンを張り続けていった。
 あわせて、組合員の教員の授業ボイコットを決議する。昭和四十八年のことである。
 忍田が、「大学建設の先駆を切った」というのは、こういう活動歴を指している。
                      ☆
 窪田は、この謀略的キャンべーンの結果、教員組合へ参画する教員が少数にとどまった功により、学内において絶大な権限を得た。もともと自治会の委員長は、池田が大学に来校の折、常に池田のそばに侍り、行動を共にするだけのもの。池田が唯一の価値の源泉である大学にあっては、それは女子学生の憧れの的であった。教員組合潰しの功によって、何でも思いの通りになると錯覚したのか、窪田はこれら女子学生に対し「池田先生に会わせてあげる」という言葉を殺し文句にして、以後、次々と手をつけていく。だが、スキャンダルはやがて表面化し、大問題となる。しかし、池田の大学支配を貫徹するために、自治会の委員長にキズをつけてはならないとの配慮から、学生部長の篠原誠や弁護士の山崎正友が画策し、委員長を交代させることでスキャンダルをもみ消した。
 が、そんなだらしない男がなんと、学会本部のエリートが配属される池田の側近集団、第一庶務に就職したのだ。もちろん、この抜擢は、池田のなせる技にほかならない。窪田の唯一の取り柄は、池田にこびりまくること。一時は相当に池田に重用された。絶頂期には、池田の指示を秋谷、北条に直ちに伝達する重要任務を果たした。また、池田の家に直接呼ばれることもしばしば。池田との距離が相当に近い人物だった。
 ところが、やはり昔のクセが出て、第一庶務の女性に手を出してしまう。その結果「第一庶務の女は全部オレのもんだ」と内心で考える池田の逆鱗に触れ、名古屋の会館に左遷。相手の女性も結局、第一庶務を退職した。
 喜劇的結末といえよう。
 これに対し、忍田、正木らはいわゆる優等生。だが、逆にいえば、総て金太郎アメ的存在で、個性がない。どこを切ってもハイル池田の顔が出るばかり。面白味も、共感も、一般の会員には感じられないため、人気はない。
 また、高校時代からエリートとして組織をエスカレー夕に乗って登ってきただけなので、個としてはからっきし意気地がない。例えば、正木は昨年十二月七日、埼玉県の男子部幹部会において、打倒池田に立ち上がった藤原軍団を「犬畜生より劣る、アメーバ、ミトコンドリア」と罵倒、 さらには、反池田の日蓮正宗正信会についても「昔、正信会に行った奴にもガンガンいってやった」と自慢している。だが、そのちようど一か月前の十一月七日、正木は大阪から帰京の際に、篠原誠の項でふれた、創大同窓で、旧知の正信会法華講機関紙「継命」の乙骨正生と新幹線で出会し、乙骨から「コーヒーでもどうか」と誘われたにもかかわらず、「もう飲んじやったから」と逃げている。「ガンガンいってやった」どころではない。犬畜生以下と罵る相手を、一人では、“折伏”する胆力さえないのである。
                      ☆
 このように、池田に対して優等生である創価大学学生自治会は、学費値上げ問題でその面目を遺憾なく発揮した。
 創価大学は毎年、約十億円ほどの歳入不足となり、これを学会の寄付で賄っていた。大学当局、学会側は、これを学費値上げで補う腹づもりだったが、金が足りないから直ちに上げるのでは、池田の威信を傷つけることになる。そこで、教員組合潰しを自治会に行なわせたように、
ここでも、世にも珍しい、学生の側から、「学費を上げていただこう」とのキャンべーンを展開させた。
 中心となったのは、昨年七月十七日の創価学園記者団暴行事件で中心となった寺西宏友。
 寺西らは、「池田先生にこれ以上ご迷惑をおかけすることはできない」というキヤッチフレーズに、学費値上げキャンべーンを張った。その結果、物価スライド制の学費値上げ案がスンナリと導入された。
  -----(261P)----つづく--
                  --目次一覧は、本項第2回<H30・8・12>に登載--

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