さらば池田大作-消えた「上御一人」の跡 野田峯雄 (2016/11・第三書館)
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◆ 博正よ!
池田大作は博正に何を期待したのか、どうなってほしいと思ったのか。大作はずっと池田家万代路線を夢みてきた。それを実現するにはどうしたらいいのか。
いまは何はさておき博正に創価学会インターナショナル(SGI)会長の椅子を、はっきりと、確実につかませることだ。それを実現できれば、博正はSGI会長として、少なくとも「たとえば象徴天皇のような存在」に成長できるのでは。
とともに、これこそ重要だが「私」の海外資産を、安全に継承保存していける。
池田大作はとりわけ90年代の“宗門との最終的ぶつかりあい”のころからしきりに「SGI」を高く掲げるようになった。「名誉会長」だと軽く見られがちだ、それに比べ「SGI会長すなわち世界会長」のほうがサマになると考えたのかもしれない…。とにかく彼は日本創価学会に右足を乗せ、SGIに左足を乗せて立ち、うまくバランスをとってきたのだった。
しかし。博正が「私」のような絶対支配者になるには、SGI会長の位置からさらに一歩前へ出て、日本創価学会会長の椅子をつかむこと。周囲の思惑はともかく、本人の気質や心情などから判断すると、心もとない。博正には“国内外の全創価学会を一挙に束ねる力”がない。
としたら。どうしたらいいのか。いずれにしろさしあたってやるべきことをやっておこう。
池田大作は02年会則でSGIを表に出して国際部門を充実させたが、これは、「大作の創価統治機構」を「博正の創価統治機構」へ変換させるためのタネを蒔く作業だったとみられなくもない。はたせるかな博正はこれまでに創価世界の海外関係業務をほぼ掌握しきり、それと並行するように、いわゆる池田大作の海外資金の管理人になりつつあると推定される。
しかし、池田大作の思い(池田家万代)は、原田稔や正木正明や谷川佳樹たちを主役とする「池田大作欠落の2014年動乱」により妙な方向へそれていく。これについては後章で述べよう。
◆ 「あえて申し上げておきたい」「(私を)忘れるな」
2006年11月10日に聖教新聞はこう報じた。
「創価学会の会則に基づき、学会の会長選出委員会(議長=西口良三総務会議長)が9日午前10時半から東京・信濃町の学会本部で行われ、全員の賛同で新会長に原田稔氏を選出した。この決定は引き続き行われた最高指導会議(和田栄一議長)で承認された。任期は5年。新理事長には正木正明氏が任命になった。秋谷氏は最高指導会議議長に、青木氏は同副議長に就任した。(略)
学会創立80周年(2010年)へ、池田名誉会長のもと『師弟』の精神を根本に広宣流布の未曾有の上げ潮が築かれるなか、学会の新時代建設に向け、新しい指導者群が誕生。全国が『異体同心』の団結で広宣流布運動の一層の大発展を期していくことになった。今回の会長交代は、会長在任期間が長期に及んでいること、また後継の人材も多数育ってきていることなどを踏まえ、秋谷氏が、創立80周年へ本格的な出発をする『11・18』創立記念日を前に会長を次の世代に引き継ぎ、学会の新たな発展を期すべきであると、辞意を申し出たことによるものである。
原田新会長は、経験、識見ともに豊富で、青年時代から池田名誉会長に薰陶を受けてきた直系の池田門下生である」(注と略、行詰め=本書筆者)
同日の本部幹部会(新時代第一回本部幹部会)で池田大作は新しい最高幹部たちをムチ打った。
原田稔新会長には、「誠実の二字で会員につくせ」。
正木正明新理事長には、「正木理事長。創価学園・創価大学出身の第一号の最高幹部になった君には、『創価の伝統』の光彩を放った歴史をつくり始めよ」(大拍手=聖教新聞記事の注)。
81年7月から06年11月までの約25年4力月にわたって会長をつとめた秋谷栄之助には、「いままでのご恩返しのために、これからも広宣流布のために、不惜身命で戦え!」。
そして幹部たち全員に、「仮にも、威張るなど、もってのほかである。幹部は、会員に奉仕する立場である」。
さらに。
池田大作はいわば体をくるりと回転させる。
「広宣流布のために、本当に苦労されたのは、初代牧ロ先生と二代戸田先生である。お二人の遺志を継いで、三代の私が、創価学会の大発展を決したのである(大拍手)。私自身のことではあるが、未来のために、あえて申し上げておきたい。
創価の三代には、厳然たる師弟のつながりがある。永久に、これを忘れてはならない」
第3章 へんなお別れ
◆ また、お会いしましょう!
ちょっと曇りっぽいけれど気温20度あまりの、2010年6月3日午後の東京千駄ケ谷の創価国際友好会館で創価学会本部幹部会が開かれた。
そのとき異変が伝えられた。
原田稔創価学会会長が参集している幹部たちにこう告げた。
「昨夜、本日の本部幹部会について、池田先生からご指導がありました。『明日の本部幹部会については、弟子の君たちが、団結して、しっかりやりなさい。皆が、創価学会のすべての責任を担って戦う時が来ているのである。学会の将来にとって、今が一番大事な時である。ゆえに私を頼るのではなく、君たちが全責任をもって、やる時代である。私はこれからも君たちを見守っているから、安心して、総力を挙げて広宣流布を推進しなさい』とのことでした」
長谷川重夫副理事長が池田大作メッセージを代読する。
「法華経の会座において、幾度も繰り返される弟子の誓願があります。それは、“私たち弟子は、師匠の仰せ通りに広宣流布を成し遂げます。どうか、ご安心ください。心配なさらないでください”という誓願であります。弟子たちが、本気になり、一丸となって、不惜身命の祈りと行動を起こしてこそ、真実の勝利がある。これが、法華経の後継の真髄なのであります。
ゆえに、私は、きょうは、あえて出席いたしません。
厳然と一切を見守っておりますから、原田会長を中心に、皆で明るく元気いっばいに行いなさい。戸田先生は、75万世帯の願業が一歩一歩、達成に近づいていくなかで、私たちに、一つ一つ、戦いの指揮を託していかれました。
先生は『みんなも立派に育ってきたからな。君たちに任せるよ。自分たちで責任をもって考え、進めていきなさい』と言われ、時には本部幹部会等にも出られなかったのであります。
それは、未来のために考え抜かれた師子王の訓練であることが、私にはよくわかりました。先生は、仏法において、何よりも大切な「時」というものを鋭く見極められて、弟子たちが永続的に前進し、勝利し、発展していける流れを創ってくださったのです。
特に、私に対しては厳しかった。『大作、私が打てる手は全部、打っておいたぞ。あとは、おまえが思う存分、戦いまくれ! 勝ちまくれ!』と厳命されたのであります。
今、私も、戸田先生とまったく同じ心です。君たちに万事を託していく総仕上げの「時」を迎えているからであります。(略)戸田先生の愛弟子として、私は、行くところ向かうところ、『立正安国』の勝利の旗を打ち立ててきました。(略)
ともあれ師弟は不二であります。ゆえに、どんな時でも師弟の心は一体です。師弟不二であれば、何も恐れるものはない。皆、体を大切に! 正義の我らは朗らかに前進しょう! また、お会いしましょう!(大拍手)」(改行変更・略=本書筆者)
◆ 3度めの転倒
池田大作が創価学会本部幹部会という最高のハレの舞台に顔をみせなかつたのは2000年代へ入つてから三度めである。
一度めは03年5月3日の本部幹部会。75歳のときだ。5月3日は創価学会の大祝祭日「創価学会の日」であり、彼はこの日を自身の結婚日(52年)および第三代会長就任日(60年)とし、ようするに“組織記念”と“個人記念”をごちやまぜにしていたが、そんな公私二重の意味を持つきわめてたいせつな日に設定した最高舞台をドタキャンしたのだった。脳梗塞もしくは心筋梗塞などと取りざたされた。
二度めは05年3月3日の本部幹部会。「インフルエンザでお休みします」
と説明した。77歳だった。ちなみに09年にはなんと死亡説が流れている。しかし、これは池田が弟子たちの顔色を知るために流したガセネタと推定された。
三度めは前述の10年6月3日本部幹部会である。82歳だった。
池田大作メッセージは戸田城聖の本部幹部会欠席に言及している。死者(故戸田城聖)を自分に都合のいいようにつくりかえるのは池田大作の日常的な悪癖のひとつだが、今回のメッセージには、どことなくせっぱつまった雰囲気がただよっていた。
戸田城聖は57年4月に初めて本部幹部会を欠席した。さらに同年10月にも。この本部幹部会欠席から約半年後の58年4月に急性心衰弱で亡くなった(享年58歳)。池田大作によると、戸田城聖はその微妙な日々、「一つ一つ、戦いの指揮を託していかれました」という。
「特に、私に対して厳しかった。『あとは、おまえが思う存分、戦いまくれ! 勝ちまくれ!』と厳命されたのであります」
戸田城聖が託したもの(厳命)とは。どうやら、ハイライトは、あの「エレべーターでの出来事」のようだ。でも、そこへ入る前にちょっと「今日も元気な大作さん」に触れておきたい。
---------(101P)-------つづく--
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