ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

大野病院の看護師さんたち

2011年03月31日 | 東日本大震災

小児科外来は、連日の放射線報道を心配して、いつもより少ない。
でも外来には毎日のように、被災地から避難してきたお子さんがおいでになる。
わたしはつとめて普通とおりに、言葉をかけるようにしているが、
どうしても被災地でのお話を聴くことになる。

今日は数ヶ月前まで県立大野病院に勤務していたというお母さんから話を聞いた。
そのお母さんの、もとの同僚たちから聞いた話だそうだ。

県立大野病院は、例の、産婦人科医が逮捕されたとで全国的に名前が知られた病院だ。
その病院は、大熊町というところにある。
大熊町は、福島第一原発のある町だ。

避難命令が出て、入院患者さんも、職員たちも、急遽避難しなければならない。
地震・津波で、家や身内を失った職員も大勢いたそうだ。
患者さんたちを避難させながら、同時進行で職員たちも避難していく。
被災の免れたひとたちも、自宅に戻る時間さえない。
病院はだんだん人手が足りなくなってくる。
その中で、数名の看護師さんたちが、最後まで残った。
彼女たちは、家も、家族も津波で流され、自分ひとりしか残らなかった、という人たちだった。

 わたしたちは、もう待っている人もいないのだから、ここにまだいることができる。
 あとの患者さんたちのことは、わたしたちが残ってやるから、
 家族やお子さんたちのいる人たちから先に、避難してください。

そう言って、他の同僚たちを先に避難させ、最後まで残ったのだそうだ。
かつての仲間を思いながら話すお母さんの目は、真っ赤だった。

「使命感」と「宗教観」とを一緒にはできないけれど、
わたしはコルベ神父と永井博士の話を思い出していた。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/1414/risa-t/st_kolbe.htm

http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato089.htm

ほかの地域にも、消防団や役場の方々の同じような話を耳にする。

救助活動で命を落とした警察官や自衛隊の方々もいる。
原発事故の復旧に当たっている方々も、それぞれの胸の内にあるのは使命感であろう。

いつか、何十年かのちに、歴史の教科書にも記載される方々もいるかもしれない。
映画や小説になるかも知れない。勇気ある美談として。

でも、それがなんだ。

美談がなんだ。

そのひとたちに、家族を帰してくれ。

ささやかな暮らしを、返してくれ。

うつくしい町を、村を、海を、返してくれ。


X線検査で受ける放射線量は?

2011年03月30日 | 東日本大震災
毎日のように、各地の放射線レベルが報道される。
どこそこの水道水だの、どこそこの野菜だの。
ここ数日は、放射線量も減ってきている感があるが、
小さいお子さんを持つ親御さんや妊婦さんは、人ごとではなかろう。
政府発表の「直ちに健康に被害はない」という言葉の意味は、
医療従事者ならだいたい想像はつくのだけれど、
「直ちに」じゃなければ、いつまで続けば危ないのか、と不安になるのが普通だ。

そこで、X線検査を受けた時の放射線量はどのぐらいなのか、調べてみた。
2004年:日本放射線医学界雑誌より抜粋したのが、次の表。
μSV(マイクロシーベルト)なら、というのは、わたしが書き加えたもの。
(うまく縦のラインがそろわないのはご容赦下さい)

   検査     部位     単位(mSV)  μSVなら
  一般X線  頭部(単純)     0.1     100   
        胸部(単純)     0.4     400
        胃(バリウム)    3.3     3300
  X線CT  頭部         2.4     2400
        胸部         9.1     9100
        上腹部       12.1    12100
        下腹部       10.5    10500
  集団検診  胃(透視)      0.6      600
        胸部(撮影)     0.06      60

1mSV(ミリシーベルト)=1000μSV(マイクロシーベルト)と換算する。

例えば、今日の福島市は約3マイクロシーベルトだった。
これは、1時間あたりの放射線の量である。
つまり、今日の福島市民が、1時間、すっぽんぽんで外にいた場合、
約3マイクロシーベルトの放射線を浴びる、ということになる。
ただし、それが全て体内に取り込まれる訳ではない。
雨量や花粉などと同じイメージで捉えていただければいいだろうか。
24時間に換算すれば、3×24=72(μSV)だから、
胸のレントゲン写真1枚(400μSV)よりも、はるかに少ない線量なのだ。
しかも、レントゲン写真は明らかに「胸部に」放射線を当てる。
レントゲン写真1枚で健康被害がおきたらどうしようと悩む人は、あまりいないはずだ。
その上現実には、24時間素っ裸で外にいることはあり得ないので、
連日の放射線量に恐れおののくのが、いかに馬鹿馬鹿しいことかがわかる。

かといって、このまま原発事故がおさまらない限り、
一般市民の方々の不安も、風評被害も消えることはない。

東京電力の現場の方々も自衛隊も警察官も消防隊の方々も、連日命がけだ。
その方々こそは、今後、健康に暮らせますようにと、日本国民の誰もが心から祈っているはず。

東電の社長さん、入院なさっていらっしゃる場合ではないと思うのですが・・・。


東京電力のご家族

2011年03月28日 | 東日本大震災
初めておいでになった患者さんを診察する時、
よほど外来が混んでない限り、わたしは必ずカルテの「保険」のところをみて、
親御さんの職業が何かも頭にいれておく。
そのお子さんの家庭環境を知るための、ひとつの手がかりになるからだ。
(詮索している訳ではありません。)

避難してくる方々のなかには、東京電力のご家族もいる。
お子さんのお父さんたちは、今まさに、福島原発の災害現場で、命がけの作業をしている。

ご主人のことも心配ですね、と問いかけると、
お母さんは涙ぐむ。
携帯の基地も津波でまったくダメになっているので、現地とのやりとりできないのだそうだ。
現地で作業にあたっているお父さんは、仕事が終えたあと、遠く離れた町まで出かけ、
避難している家族に連絡をとる手段しかない。

4月から、こちらの幼稚園や学校に転入するお子さんもいる。
東電ということで、子どもがいじめられたりしないか・・・。
夫への心配、子どもへの心配、先の見通しも立たないことへの不安といらだち、
被災者でありながら、加害者であるかのように思われることへの憤り・・・、

わたしには、かける言葉がなかった。

  ・・・困ったことがあったら、いつでもご連絡下さいね。

ありきたりのことしか、言えなかった。




絵本を届けに行ったら・・・

2011年03月26日 | 東日本大震災
午後から、県庁の児童課まで絵本を届けに行った。


うちの子どもたちが小さい頃に読んで聴かせた本、
読ませたいと思って(でもほんとは自分も読みたくて)買った本、
ついつい集まってしまった数々の本は、一部屋分、図書室のようになっていた。
今回の地震でその部屋もめちゃくちゃになり、まだ片付いてない。
散らばった絵本を片付けながら、
これらの絵本を避難しているお子さんたちに寄付したらどうかな・・・、
そう思って地元の大学小児科にもMLを通して提案したら、何人かの先生達も手をあげて下さった。
小さいお子さん向けのはだいぶ集まったようなので、
わたしは小学生のお子さんも読めそうなものも選んだ。

最近の外来には、被災したお子さんじゃないのに、
夜泣きしたり、お母さんや大人にまとわりついたり、
自動車やブロックを並べては「ツナミだぁ~!!」と乱暴に壊してみたり、
やっぱりストレスでしょうか? という相談が増えた。
一日中流れているTVの災害映像、ずっと見せてませんか? と訊くと、
情報がわからないと怖いので、そういえばTVつけっぱなしでした、
というご家庭がほとんど。
(そういえば我が家もそうだった)
子どもは、大人のようにごまかす術を身につけてないから、
怖い思いはそのまま心にダイレクトに植え込まれてしまうことが多い。
災害映像は、なるべく見せない方がいい。

お子さんが起きている間はできるだけラジオなどから情報を聴くなど、
ご家庭でもちょっとの間は工夫なさった方がいいかもですね・・・。
お母さんとのこんな会話も外来で増えてきた。

こういう時こそ、絵本の出番。

県庁前についたら、大きな観光バスが停まっていた。
ナンバーを見たら、なんとなんと、鹿児島だ!

はるばる陸路を来て下さったのだろうか。
バスの中には、支援物資と思われる段ボールの箱がたくさん積み込まれていた。
本当に、こういう時に人の温かさがわかる。

鹿児島県と福島県・・・。
まさか、明治維新のわだかまりにこだわる福島県人はいるまいね。


(携帯で撮った縦長の画像を横にしてアップするのがなぜかうまくいかず、数日間下書きのままでした)

福島原発1号機運転開始の日

2011年03月26日 | 東日本大震災
40年前の今日、3月26日。
この日は奇しくも、福島原発1号機が営業運転開始した日なのだそうだ。
東京電力にとっても、初めての原発の営業運転だったとのこと。

当時の誰もが、40年目の今日、こんな事態を迎えるとは予想だにしなかっただろう。
いや、本当は県民の誰もが、アタマの隅の隅に、心の深い深いところでは、
怖れていたかもしれない。
国と企業側の「安全です」という言葉を、怖れながらも信じるしかなかった。

福島県の貧しさが産んだ悲劇だ。




東京電力のお姉さん

2011年03月26日 | 東日本大震災
昨日の昼過ぎ、登録してないアドレスからの着信があった。
03・・で始まるから、東京からだ。
誰だろう? 東京にいる友だちの誰か? などと考えながら電話に出ると、
「○○さんでしょうか? 東京電力です。」と爽やかなお姉さんの声。
実は大学を卒業した娘の引越が、震災翌日だった。
地震のどさくさで、電気は止めたものの、どうも解約するのを忘れてきたらしい。
電話は、解約の確認だった。

爽やかなお姉さんの声は続く。
「2月の電気料金の領収書をお送りしますので、今のご住所を教えて下さい。」

郵便番号のあとに、福島県・・・ と言いかけると、
電話の向こうで、お姉さんが一瞬、息を呑んだのがわかった。

「あの・・、大丈夫だったでしょうか・・・?」

 ーはい、うちは内陸部なので、津波の被害はあまりありませんでしたが・・。

「そうですか、よかったです・・。本当に、申し訳ございません・・・。」

 ーいえいえ、おたくさまの責任ではございませんから・・・・。
  東電の作業員の方々も一生懸命やって下さっているのは、わかってますから・・。

こうお伝えすると、
 
「ありがとうございます。本当に、申し訳ございません・・・。」

そう言って、電話を切った。

こんな、部署の異なる社員まで、謝っている。
ただの社交儀礼じゃないことは、電話を通していても、その口調でわかった。
そうなんだ、東電が、東電が、とひとくくりに非難するけれど、
東京電力の社員は、いっぱいいる。みんな、肩身が狭かろう。
原発の作業員にも、関連会社の作業員にも、家族がいる。
いってみれば、そのひとたちも、被害者かもしれない。

悪いのは、誰?

わたしたちは、誰にこぶしを振り下ろせばいい?

避難所のお子さんと犬

2011年03月25日 | 東日本大震災

午後の外来が終わってから、市内の避難所になっている高校に行って来た。

事前に避難所の担当の方に連絡したところ、
3歳ぐらいのお子さんが、なかなか下痢が治らないので診てもらえたら、とのこと。
といっても、実際の診察室ではないので、できることは限られている。

その高校は、わたしの母校でもある。
数年前に校舎を建て替え、校名も校歌もかわり、母校とはすっかり「別物」の感があるが、
正門とそれに続く多行松の植栽は同じだった。

避難所になっている第二体育館(武道館となってるらしい)に行くと、
この時間帯はみなさん外に出られてて、あんまりいないんです・・、とのこと。
それでも、小さめの体育館には、約30名ぐらいの方々が休んでいた。

お子さんはまだ2歳半で、ちょうど午睡の最中だった。
診察したところ、さほど悪い状態ではなかった。
たまたまウンチをしていたが、治りかけのようだった。
診察の時は爆睡状態で泣かなかったのだけれど、
おむつ替えの時に起きてしまい、抱っこをせがんでぐずった。
そんなに大声で泣きわめいた訳ではないのに、小さい子どもの泣き声は体育館に響く。
避難している他の方々が、いっせいにこちらを向く。
子どものことだ、仕方ない、みんなわかっている。
わかっていても、その視線は、わたしにさえ、痛い。

あぁ、小さいお子さん連れの避難には、こういう気苦労もあるんだな・・・。

そのご家族は、命だけは助かったものの、津波で家はまったくなくなったそうな。
きけば、わたしの叔母の住んでいたところに近い。
「生きていればなんとかなる」
若いお母さんは、笑顔でそう言ってガッツポーズを取った。

体育館を出ると、軒下でコリーのミックスのような犬を連れた若い男性がいた。
犬は、さかんに主人にぴょんぴょん跳びかかる。
まるで子犬がじゃれているようだ。
ワンちゃんも連れておいでになられたんですね?
一緒で良かったですね、という思いをこめて、わたしは笑顔で問いかけたつもりなのに、
男性は伏し目がちに、こいつはいつもは車の中にいるんです、という。
小雨が降っているから、ペットだって散歩で濡らしたくはないだろう。
放射線はいやだ。犬だって家族だ。
他の避難している方々に遠慮しながら、ここで散歩のかわりに遊ばせている、
そんな風に感じた。

地震から、まだ2週間。
地震から、もう2週間。

考え方もとらえ方もいろいろだ。

同じ場所で肩寄せ合って何日も暮らしていれば、
見なくていいことも見え、聞かなくていいことも聞こえてくるだろう。

「みんな助け合って」なんて言うのは、まだましな場所にいる者の詭弁かもしれない。

復興までの間に、どうかこの方々の心がくじけてしまいませんように。
祈ることしかできない。


屋内避難と自主避難とほうれん草と牛乳

2011年03月25日 | 東日本大震災

あれから2週間。
各地での被災の状況が、だんだん具体的になってきた。
地震・津波で町ごと役場までもがほぼ壊滅のところ、
町長さんまでもが亡くなった町、
災害現場のもろもろの撤去をしようにも、仮設住宅を建てようにも、
町全体が被災に遭い、作業にあたる人たちも被災者、重機も流されて何もない、
避難所になっている学校やら公民館などにも、いつまでもいられる訳じゃない、
先の見通しをどのように立てていけばいいのか・・・、

南三陸町の方が、町ぐるみでの避難を考えざるを得ない、という内容のことを、
ある番組の取材でおっしゃっていた。

どの被災地も、同じような苦悩を抱えている。

そして、ここにきてようやくというか、福島県の被災状況は他とは異なるという報道が、
少しずつではあるが、増えてきたように思う。

原発から20キロ~30キロ圏内の地域の方々は、屋内避難の指示が出ている。
その地域の毎日の放射線濃度は、実はここ福島市より低い。
にもかかわらず、屋内避難地域というだけで、民間業者が来なくなった。
ただでさえ少ないガソリン・灯油はおろか、日常生活での食料品その他、
スーパーやコンビニの棚には、何もない。
営業もできないから、さっさと自主避難してしまう店主たちも増えた。
閉じ込められたまま、避難所ではないから、支援物資も届かない状態になった。

飼い殺しだ。

今日になって国は、屋内待機の方々にも、自主避難を促す、といった主旨の会見をした。

ふざけるな。

その上、野菜や原乳の規制だ。
「健康にはただちに問題はありません」
とコメントをつけながら、野菜や水道水の規制をする。
暫定の基準があるのだから、行政としては仕方なかろう。それでも、
一部地域の野菜・原乳に放射線が検出されたとしても、なぜそれが県内全域の規制になるのか?
この広い福島県の、ほとんど放射線の及んでいない会津地方まで、なぜ?

総理殿。
あなたはかつて厚生大臣の頃、O157による食中毒でカイワレ業者が風評被害に遭った時、
メディアの前で、カイワレを食べて見せたではありませんか。
あの時と同じように、「健康にはただちに問題はない」ほうれん草を、食べて下さいますか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

文体を変えました。
前回までの日記は、地震当日からの書き留めておいたものを、まとめて一気に書いたものです。


水道水について心配しておられる妊娠・授乳中女性へのご案内

2011年03月24日 | 東日本大震災

上記題名の通知が、日本産婦人科学会より出されました。
http://www.jsog.or.jp/news/pdf/announce_20110324.pdf

PCで開けないかたもいらっしゃるかもしれませんので、全文を載せます。
尚、読みやすくするために、段落を変えてあります。(赤い文字は私が強調)

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【水道水について心配しておられる妊娠・授乳中女性へのご案内】
                               平成23 年3 月24 日
                               日本産科婦人科学会

平成23 年3 月23 日(水曜日)東京都の金町浄水場の水道水に
1kg(1.0 リットルあるいは1000 ミリリットルに同じ)当たり210 ベクレルの放射性物質が
含まれていると発表されました。
以下に、1kg 当たり200 ベクレル前後の放射性物質を含む水道水(軽度汚染水道水と表現します)を
長期にわたって飲んだ場合の健康への影響について学会の見解を示します。

1. 軽度汚染水道水を妊娠期間中(最終月経開始日より分娩まで)
 毎日(計280日間)1.0 リットル(1,000 ミリリットル)飲むと仮定した場合、
 妊娠女性がその間に軽度汚染水道水から受ける総被曝量は
 1,232 マイクロシーベルト(1.232 ミリシーベルト)と計算されます。

  おおよその母体被曝量は以下のように算出されます。
  総被曝量(マイクロシーベルト)=(摂取ベクレル総量)×2.2÷100
  例えば、
   500 ベクレル/kg の水を1 日1.0 リットルずつ365 日飲むと
   500×365×2.2÷100=4,015 マイクロシーベルト(約4.0 ミリシーベルト)
  となります。

2. お腹の中の赤ちゃん(胎児)に悪影響が出るのは、
 
赤ちゃんの被曝量が50,000 マイクロシーベルト(50 ミリシーベルト)以上の場合と考えられています。
 なお、日本産科婦人科学会では放射線被曝安全限界については米国産婦人科学会の
 推奨に基づいて50 ミリシーベルトとしてきております。

 一方、これら問題に関する国際委員会の勧告、
 ICRP (International Commission on Radiological Protection) 84 等に基づいて
 安全限界を100,000 マイクロシーベルト(100 ミリシーベルト)とする意見もあります。
 この違いは他の多くの安全性指標と同様、安全域をどこまで見込むかという
 考え方の違いによるものです。
 なお、
赤ちゃん(胎児)の被曝量は、母体の被曝量に比べて少ないとされています。
 胎児が100,000~500,000 マイクロシーベルト(100~500 ミリシーベルト)の被曝を受けても、
 胎児の形態異常は増加しないとの研究報告もあり、
 ICRP84 は「100 ミリシーベルト未満の胎児被曝量は妊娠継続をあきらめる理由とはならない」と
 勧告しています。

3. 母乳中に分泌される(出てくる)放射能活性を持ったヨウ素は母体が摂取した量の4 分の1 程度
 と推測されますが、確定的なことはわかっていません。

4. これらを総合すると、
 
現時点では妊娠中・授乳中女性が軽度汚染水道水を連日飲んでも
 
母体ならびに赤ちゃん(胎児)に健康被害は起こらないと推定されます。
 また、
授乳を持続しても乳幼児に健康被害は起こらないと推定されます。

5. しかし、胎児・乳幼児は成人に比べ被曝の影響を受けやすいとされており、被曝は少ないほど安心です。
 したがって、軽度汚染水道水以外の飲み水を利用できる場合には、それらを飲用することをお勧めします。

6. 妊娠中女性は脱水(体の中の水分が不足すること)には特に注意する必要があります。
 したがって、のどがかわいた場合は決してがまんせず、水分を取る必要があります。
 のどがかわいた場合には、スポーツドリンク、ミネラルウォーター、ジュース、牛乳、などがお勧めです。

7. 今後も水道水の放射性物質汚染(ベクレル値)には注意して下さい。
 今回お示しした式を使用して、野菜などからの被曝も計算できます。
   野菜何グラム当たりのベクレルかに注意が必要です。
   1.0 キログラムは1,000 グラムと同じです。


放射線報道に慌てないで下さい

2011年03月24日 | 東日本大震災

福島第一原発事故は、回復のきざしがあるのかないのか、
政府・東電の発表は、まだ予断を許さないとのこと。
発表される放射線濃度は、日ごとに少なくなってはいるようですが・・・。

でも、ここにきて、やはりというか、風評被害が目立ってきました。

野菜農家も、酪農家も、大打撃です。
東京都の水道まで、検出されたという報道で、日本中がおかしくなっています。

先日、福島県立医大やいわき市、福島市などで、
長崎大学医学部教授 山下俊一 先生の講演がありました。
山下先生は、チェルノブイリで被災した子ども達を20年間診療した経験を持つ方です。
http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/interna_heal_j/chernobyl-2.html
県立医大での講演内容を、聴いた先生方からMLで知らせていただいたので、ここにも書いておきます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 一言で言えば、乱暴な言い方ですが山下先生の講演内容は
  「自分がチェルノブイリを20年以上調査をしている経験から言うと、
  今回の事例は避難距離をとっていれば問題ない。私が言うのだから信じて下さい。」
 という内容でした。
 口調は非常にソフトで科学者の牧師さんに放射線被曝について話を聞いたような感じでした。
 会場内すべて聞き入っていました。

 以下箇条書きに書きます。

 1.日本の国は原発立国なのでそれなりのリスクはある。当然東京でも今回の影響は測定される。
   関東圏の人が長崎まで来るような事例があるが、原発に対するリスクコミュニケーションの不足による。

 2.原発で現在作業をしている方々はまさに決死隊であるが、避難地域圏外の人々が逃げ出してしまうのは、
   正しい情報の伝達と理解がされていないからである。

 3.現在の避難距離には論理的裏付けがある。

 4.1年間の自然被爆量は2.4mSev/yearであるが、
   現在の医大保育園のすぎのこ園の園児の測定では2.0mSev/yearであった。

 5.チェルノブイリ原発事故で最初にその異変に気付いたのは、
   数千キロ離れたスウェーデンの原子力発電所であった。今回の事例は全く違う。

 6.広島、長崎の原爆投下後、草木も生えず、復興に何十年も掛かると思われていたが、
   実際は半年後から復興が開始された。
   今後、原発の状況が終息した時点で、あらためて被爆状況を測定し、復興が開始されるだろう。
   国が主導し勧められるべきである。

 7.食品は当然サーベイは必要であるが、避難勧告圏外に関しては摂取しても問題ない。

 8.福島の人々には現状を正確に捉え、
   将来的にも正確に把握しここから全世界に情報を発信して行かなければならない。
   長崎大学は大学をあげて協力を惜しまない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまりは、現段階では、慌てることはなく、いつも通りの生活をしていればよい、
ということのようです。
もちろん、乳幼児に対しての予防対策は必要ですが。


2011年03月24日 | 東日本大震災

3月20日
買い出しの帰り、ふと見ると北東の空に小さな虹が出ていました。
雨が降った訳でもなかったはずなのに。

いつもなら交通量の多い国道ですが、ガソリン不足と放射線の風評で道路はがらがら。
車を寄せて、携帯で撮影しました。

 この日は、開いているドコモショップで、壊れた携帯をみてもたっらところ。
 なんのことはない、壊れたかもとフォーマカードを取り出したりしていじったせいで、
 フォーマカードが裏返しに入ってたらしい。

直った(というべきか?)ばかりの携帯での初撮影。

この青空のずっと向こうには、空腹と寒さをこらえて頑張っている被災者の方々がいます。
こんな澄んだ空に、放射線が飛んでいるなんて・・・。

今、わたしにできることは、なんだろう。
毎日毎日、同じことを考えています。

 がんばれ 福島

 がんばれ 宮城

 がんばれ 岩手

 がんばれ 茨城

 がんばれ 東北

 がんばれ みんな

 がんばれ ニッポン

 


東京都消防庁の会見

2011年03月24日 | 東日本大震災

3月19日
福島第一原発3号機への放水のため、自衛隊のほかに東京都消防庁も出動。
大変な覚悟で任務を遂行して下さいました。

隊長ほか2名の方々の記者会見を聴きながら、涙がこぼれました。
涙ながらに隊員のことを気遣う言葉には、
本当にこの国を守ろうという使命感が溢れていました。

「信じて待っています。」

「日本の救世主になって下さい。」

メールを返すご家族の不安と心配は、いかばかりだったでしょうか。

消防庁の方々の会見での説明は、これまでの東電や官房長官の会見のどれよりもわかりやすく、
わたしたちの心に響きました。
会見終了後、TVに向かって思わず拍手しました。

自衛隊の方々・消防庁・各自治体の消防隊員・警察官・東電の作業員の方々、
ほんとうに、ほんとうに、ありがとう!!

これから先、仮に福島県全体に避難命令が出ても、
わたしたちも、最後の自分の患者さんたちをしかるべき医療機関に紹介するまで、
逃げずに頑張ります。

ほんとうに、ありがとう。
わたしたちも、あなた方から勇気を貰いました。


そして、1週間が過ぎた

2011年03月24日 | 東日本大震災
3月18日
地震から1週間。
原発の3号機は、まだ温度が下がりません。
核燃料は露出したまま、放射線漏れはまだ続いています。
自衛隊・消防庁・警察の方々・東電作業員の方々が、必死に頑張って下さっています。
わたしたちは、祈るしかありません。
どうか、ご無事で・・・。

地元の県立医大小児科を中心に、MLを活用しながら、被災した子ども達や、
被災してなくても医薬品不足で治療困難になることが予測される子ども達のために、
今、着々と活動しています。

わたしのクリニックにも連絡が来ました。
福島市及び伊達市では、紙おむつやミルクは不足が深刻になってきたそう。
わずかでもいいので、何とか都合つけられないか、とのこと。
うちのクリニックも紙おむつやミルクはぎりぎりではあるのだけれど、
ちょうどいくつか手にはいりました。
幸いにも、当院では母乳支援をしているので、ミルクの消費はあまりありません。
福島市・伊達市の災害救援窓口に、粉ミルク・紙おむつを届けてきました。

ただ、各市の救援物資受付窓口も、物資は届くものの、人手不足でなかなか配るのが困難な様子でした。
ボランティアの腕章をつけた高校生が結構いました。

頑張れ、日本の若者たち!!

娘が帰ってきた!

2011年03月24日 | 東日本大震災
3月16日

先週東京の看護大学を卒業した娘が、やっと帰ってきました。
無事国家試験に受かっていれば、4月から地元の病院に勤務する予定です。

娘の引越は、地震翌日の12日に予定していました。
わたしも行くはずでしたが、なにせ新幹線も不通だし、今はここを動く訳にはいきません。
状況が落ち着くまで引越を延期するかどうかも迷いましたが、
荷物だけは引き取ってもらえるとのことだったので、予定通り決行。
住まいも引き払うことになっていたので、その日娘は友だちのアパートに泊めてもらい、
翌13日は、息子の住む名古屋へとりあえず身を寄せることに。

この時もまだわたしたちは、原発問題も、なんとかなると思っていました。

でも、発表される状況は、一向に進展なし。
それどころか、悪化しているとしか思えない報道。

いっそのこと、こっちでの就職はチャラにして、名古屋のどこかに勤務するか?
「親」の気持ちがチラリと頭をかすめます。

毎日電話で連絡を取り合ってましたが、さすがに、娘も息子も声に元気がありませんでした。

それしにても、名古屋から福島まで帰って来る交通手段がありません。
東北新幹線は那須塩原までは復旧しましたが、そこまで迎えに行けるだけのガソリンがありません。
息子の車で、ふたりで新潟経由で戻るという選択枝もありますが、
途中経路の長野でも大きな地震がありました。 道路事情が心配です。
息子も、4月から始まる病院実習の打ち合わせ?とかで、
23日にはどうしても登校しなければならないのだとか。
こっちに帰ってきたところで、今度は名古屋まで帰るガソリンがありません。

あれこれ悩んでいたら、セントレア(中部国際空港)と福島空港との臨時便があるそうな。
子どもたちに調べさせたら、ちょうど16日の便が手に入るらしい。
息子も実家を心配して、自分の切符も予約しようとしたら、空港の方に言われたそうな。

 福島に行く人はほとんどいないので(そりゃ、そうだろう)ガラガラですが、
 福島→名古屋は、キャンセル待ちが200人ぐらいいますよ、

わたしたちも、無理して帰ってくるなと息子には言い、娘だけ帰ることになりました。

さて、福島空港から当地までは、約70キロあります。
ここまで迎えに行くガソリンもぎりぎりなので困っていましたが、
郡山市までシャトルバスがあり、郡山市から福島市までの臨時のバスもあるとのこと。
ところが、郡山市から福島市行きのバスは長蛇の列で、娘は乗れず、
次のバスは2時間以上後らしい。

郡山市までならガソリンもどうにか間に合いそうなので、迎えに行って来ました。

娘から聞いた、福島上空にさしかかった時の、隣の乗客たちの会話:

 ーあれ、山の上になんか白っぽいのが舞ってるるけど、放射能?

 ーちがうダロ、あれはスギ花粉じゃねぇの?

東京での揺れもかなりのものだったらしい。
震源地が宮城沖と報道で聞いて、東京でこれなら、うちは相当な被害だと思ったそうです。
自宅には電話もつながらないし、本当に心配だった、泣きそうだった・・、
11日から今日までのことを、娘は車の中でずっとしゃべっていました。

娘がこれから勤務する予定の病院にも、避難している方々が多く搬送されています。
こんな時期に新人で勤務するムスメ、きっと例年の新人よりもずっと大変だ・・。
でもそれは黙っていました。

頑張れ、ムスメ。