ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

4月1日

2011年04月01日 | 家族
地元の総合病院で看護師として勤務する娘の、今日は初出勤だ。
最初ぐらいは弁当を作ってあげようと思っていたのに寝坊した。
だめな母をよそに、娘はちゃんと起きて自分で弁当を作り、
緊張した面持ちで出かけた。

・・ムスメ、ちゃんとやっていけるだろうか。
こんな非常事態の時だから、皆の足手まといにならねばいいが・・・。

子どもがいくつになっても、親は親バカだ。

そんな心配をしていた昼過ぎ、娘から夫の携帯にメールが来た。

 あたし、彼氏ができましたぁ!

夫はびっくりした。
彼氏って、誰だ とすぐに返信するも、その後は応答なし。

夜、ただいまぁ、と元気に娘が帰宅した。
オマエが聞いてよ、彼氏のこと、・・と夫はさかんにわたしをせっつく。
かなり動揺している。

オトウサン、こんなことでうろたえてどうする
そういうわたしも、初出勤の初対面であろうに、まずは仕事だろうに、
カレシがどうのと浮ついているようでは先が思いやられると、ため息が・・。

ちょっとちょっと、こんな時期にいくら何でも不謹慎だし、
メールの送信相手間違えなんじゃないの?

わたしがそう聞くと、娘はニンマリしてひと言。

 今日は何月何日?

・・????

あ、そうか、エイプリルフールかぁ・・・・

3週間ぶりに、家族で笑った。
こんな時にユーモアを届けてくれた娘に感謝。
でも笑ったあとに、笑いあえる家族がいることに、心が少し痛んだ。

3月11日からの出来事が、全部エイプリルフールだったらいいのに。



錦秋はここにも・・

2010年11月18日 | 家族
今日は爽やかな晩秋のいいお天気でした。
めずらしく昼休みに少し余裕があったので、自宅に戻り、庭に出てみました。


桜の落ち葉が鮮やかに最期の彩りを芝生に添えています。


だいぶ大きくなった二代目コロ。
わたしを見つけて喜んで飛び跳ねるので、このポーズを撮るのに苦心しました。


これは、庭の隅に植えてあるナナカマド。
この木はとても硬くて、7回かまどにくべても燃えにくい、という意味から、
「ナナカマド」というのだそうです。
写真ではわかりにくいですが、深い赤!なのです。
このナナカマドは、ダムに水没した実家から持ってきたもの。
わたしが中学生の時に、父と遠縁のじいちゃんと一緒に山にハイキングに行った際に、
苦労して掘って持ち帰り、庭に根付かせたのです。
山を降りるときに激しい雷雨に遭い、3人でびしょ濡れになって帰ってきました。

そのじいちゃんはすでに鬼籍に入られましたが、
長いこと営林署に勤務し、山のことなら何でも知っていた生き字引のような方でした。
果樹園や田畑に出没する熊を仕留めたり、猟師の腕も相当なものだったようです。
お正月にはじいちゃんが仕留めたヤマドリの肉でお雑煮、というのが毎年のことでした。
いつか、もっと高い山に連れて行ってやるから、とじいちゃんは約束してくれましたが、
その後わたしは受験勉強などで山登りどころではなくなり、
そうしているうちにじいちゃんも年老いて現役を引退せざるを得なくなり、
約束はお互いに果たせないままでした。
このナナカマドの赤をみるたび、父とじいちゃんと3人で山へ行った日のことが思い出されます。

今、実家のあった村はダムの湖底になり、わたしは街に移住して、
ここも充分な田舎の風情はあるけれど、やっぱり実家のあった村にはかなわない。
子どもの頃には当たり前のように肌で感じ取っていた季節の移り変わりが、
今は、あ、もう秋なんだ、と、後から気付いたりする。
でも、もしかしたらこれって、わたし自身の感覚が鈍っていたのかも。

ちょっと気持ちを静めて、落ち着いて身の回りを見回せば、
庭先にだって季節はちゃんとめぐって来てるんですね。

秋の便り

2010年09月25日 | 家族
ねぼすけの私が、朝、コロの散歩に行ってます。
(これがけっこう辛い・・・

散歩コースの堤防沿いに、コスモスが咲いていました。
携帯なので画像がいまいちですが。

         

コスモスを見ると、亡くなった夫の母を思い出します。

夫の実家は米どころの酒田で、母の部屋の真ん前には田圃が広がっていました。
その部屋の前にはまだ手入れされてない庭があり(改築したばかりだったので)、
母はその庭に、コスモスの種を蒔いたのだそうです。

    秋になったら、ここにコスモスがぱあっと咲くから

まだ元気だった頃に訪ねた時、そう母は嬉しそうに話していました。
母の部屋から、はるか南にはかすかに月山が見えます。
母は毎日、あの月山のずっと向こうに息子がいるんだなぁ、
と思って暮らしていたのだそうです。

母の庭のコスモスがどのように咲いたのかは、わかりません。
その後、母の具合が悪くなってしまったのです。

ちょっとの時間を作ってでも、訪ねればよかった・・・。
後悔は今も澱のように心の中にあります。

いつかわたしも、ここの庭にコスモスを蒔いてみたいと思っています。

新しい家族

2010年06月26日 | 家族
コロがいなくなって約2年半、新しく犬を飼う気持ちにはなかなかなれず、
でも、動物のいない寂しさはかわらず、
時々ペットショップなどをひやかしに覗いたりしていました。
どのわんこを見ても、コロとは違うし(あたりまえだが)、
新しくペットを飼ってしまうとコロのことを忘れてしまうような気もして、
なかなか次に踏み出せないでいました。
でも、ついに買ってきてしまいました
時々ひやかしに行ってたペットショップにわたし達が入っていったら、
ケージの中の段ボールの陰からトコトコと出てきて、
小首をかしげながら、じいぃっ、とわたし達を見つめたのです。
目が合ってしまったら、もうダメです
黒くてふわふわした柴の子犬♀でした。
コロは茶色だったけど、この子は黒いから、いいかぁ、
なんて勝手な理由を自分たちにつけて、
家に連れてきてしまいました。

名前をどうしようか・・・。
遠くに居る息子や娘たちとも相談して、
二転三転した末に、結局落ち着いたのは「コロ」。

庭の隅で眠っている先代コロは怒るかしらん。
いやいや、彼女は優しい犬だったから、むしろ喜んでくれるかも。
(これも勝手な理由かもしれないけど)

正しいお金の使い方

2010年02月14日 | 家族
家計のやりくりをする時は、まず食費・光熱費・住居費など最優先するものがあって、
子どもがいれば教育費、家族の医療費と続き、その上で余裕があれば、衣類やら趣味などにまわす、
というのが、どこのご家庭でも当たり前のことでしょう。

たとえば、今度子どもが高校に進学するとします。
入学金や制服代や教科書代がかかります。
マンションのローンはまだ残ってるし、暮れのボーナスはわずかでした。
わたし(お母さん)も入学式に着ていくスーツ欲しいんだけど、
この間お父さんの背広新調しちゃったし、今回は古いので我慢するかな・・・、
ってことも、よくあるでしょう。
(我が家はほとんどがこの逆だけど・・^_^;)

つまりですね。
収入が変わらない、あるいは減っているなら、支出だってそれに合わせる、
ってのは、至極当然の、誰でもフツーに考えることなんです。

それがどうよ。
国にお金がないのに、新政権はマニフェストを守るべく、
おかしなことばっかり。
もちろん、言った以上は守っていただきたいとは思いますが、
そのひとつが高速道路無料化。
これ、本当に大多数の国民が望んでいると思ってるのでしょうか?
土日1000円にした結果招いた大渋滞、どう考えますか?
そりゃあ、高速道路が一律1000円は、魅力ですよ。
なら、自家用車だけではなく、荷物を運ぶトラックも同じく1000円にすべきでしょう。
無料化のそもそもの目的は、物流の安定とコストダウンをはかり、
地方格差をなくすことなのだそうですから。

でもさ。
国にお金がないのに、本当に大丈夫なの?
無料化にするとして、その財源は?
道路のメンテナンスは?
お金がかけられなくなって、道路が傷むなんてことは、ないの?

高速道路を無料化にするぐらいなら、新幹線代や飛行機代を安くしてよ。
1000円じゃなくていいから、せめて今の半額。
その方が、地方格差はなくなるんじゃない?

財源は決まってるんだから。
それ、わたしたちの税金なんだから。
税金を払える国民の数(つまり人口ね)は、減ってるんだから。
収入が限られてるなら、その中から何を優先してお金を使うか、っていうのは、
国の予算も家計費も、考え方は同じじゃないの?

これって、乱暴な考え方かしらん?

要するに、優先順位があるでしょ、ってことが言いたい。
その優先順位は、「高速道路」じゃなくて、将来を担う「子ども」でしょ、ってこと。
だから「子ども手当」を困ってない家庭にも均等にばらまくんじゃなくて、
本当に困っていてお金を必要とするところに、正しく遣って欲しい。
前にも書いたけど、
全ての予防接種を無料化して定期接種にして欲しい。
給食費も無料にして欲しい。
保育料を安くして欲しい。
保育園も増やして欲しい。

収入のまだ少ない若い世代の親たちが、安心して子育てができる環境ができれば、
子ども産もうと思う親御さんも増えるんじゃないですかね。
それが少子化対策じゃないですか?
そうすれば世の中の景気だってもっと良くなるはず、とわたしは思いますがね。

永田町のセンセイ方のお給料は毎月約230万円ぐらいだそうな。
その上、新幹線代や飛行機代も支給されるし。
もちろんそれは必要経費なのでしょうけど。
でも、一律この金額って、どうなのかな。
一般国民の金銭感覚では計りかねます。
これも、わたしたちの税金ですよね。
ついでに言わしてもらえば、これこそ「事業仕分け」したらいかが?

「センセイ」と呼ばれる職業

2010年02月13日 | 家族
医師になりたての頃、研修先の大学の教授からいわれました。

「君たちは、今日から医師として研修がはじまります。
 患者さんたちからは、センセイ、センセイ、と言われます。
 しかし、勘違いしてはいけません。
 この大学病院の中で白衣を着ているからセンセイと呼んでいただけるだけで、
 患者さんたちが君たちを信頼してセンセイと言っている訳ではありません。
 医師免許があるというだけで、まだ何もできない君たちにとって、
 これから出会う患者さんこそが先生といえます。
 患者さんを診察することで教えられ、本物の医師になるのです。
 ゆめゆめ、そのことを忘れないように。
 センセイという言葉に決して天狗にはならないように。」
 
あれから20ウン年。
エラそうにしているつもりではなくても、そういう印象を与えてしまったなぁ、
と反省することもしばしば。
とはいえ、ある時には毅然として振る舞わねばならないこともあります。
親子が友だちのようになってしまってはいけない(とわたしは思っている)のと同じで、
ほどよい距離を保ちつつ、的確な助言ができればいいのかな、というのが、
ようやくつかんだわたしのスタイルです。
だから、言わねばならないと思うことは、やはりお伝えするようにはするつもり。
(できるだけ、エラソウじゃなくね・・・)

いや、今日はこんなことを書こうと思ったんじゃなかった。

「センセイ」と呼ばれる職業のことでした。

 学校・幼稚園・保育園の先生、
 小説家、
 習い事などの先生、
 議員さん、

・・・などでしょうか。

医師の過重労働やストレスは最近たびたび耳にしますが、
もちろんそれも、その通りなのですが、
「センセイ」という職業で今いちばん大変なのって、学校関連の先生かも・・。
昨日、ある患者さんのことで、ある学校の先生から相談を受けました。
直接診察をしている訳ではないので、一般的なことしか言えませんでしたが、
聞けばきくほど、担任や養護の先生のご苦労ぶりがしのばれる内容でした。
わたしたち医師は、どんなに手の掛かる患者さんでも、
その患者さんとは一対一で向き合う時間をとることができます。
でも、教育関係の先生方はそうもできない現状があります。
30人前後の生徒に対しても、同時に同じように目配りをしなければなりません。
相手にするのは生徒だけではなく、その家族もです。
何か事がが起これば非難の的になることもあるでしょう。
よほどの使命感がなければ、続けられない職業かもしれません。

さて、「センセイ」の代表格である議員さん、
特に永田町のセンセイ方の使命感のほどは、いかほどなのでしょうねぇ・・・。

「末は博士か大臣か」
これって、かつては利発な子どもへの期待を込めての言葉だったはず。

別の友人の教師からきいたホントの話。
受け持ちの子どもからこんな質問されたそうです。(^_^;)
「ねぇ、センセ、大臣て悪いことする人?」

サンタクロース

2009年12月25日 | 家族
今日もワクチン接種でてんてこまいでした。

毎年このクリスマスの時期は、インフルエンザワクチン接種のお子さんに、
痛いのがまんして予防注射頑張ったら、きっとサンタさんからごほうびがあるよ。
なんてお話しながらやるのですが、
今年は、診察中にそんな世間話をする余裕も取れない有り様でした。
接種を待つお子さんがたくさんいるので、付き添ってくる親御さんも、
わたしの世間話に相槌を打つことも遠慮するのか、
ただただ、子どもが動かないように必死に抱っこするのに精一杯の様子です。

こんなことは、今年限りだよね、きっと・・・。

でも今日は、おいでになるお子さんたちに、
「昨日サンタさん来た?」
なんて聞きながら診察する時間が少しはありました。

この日記にたびたび登場する、ブロック大好きのAくんは、
なんと地球儀だったそうです。
ブロックはもう卒業で、次にお願いしてるのは望遠鏡なんですって。
大きくなったら、いろんなところにお母さんとばあちゃんを連れて行ってあげるんだって。

こんな会話もありました。

 わたし:サンタさん来た?
 子ども:うん。来たよ。ゲームもらった。
 わたし:いいなぁ。センセイのところには、来なかったんだ。
  (そばで介助についた看護師も)
     いいなぁ。カンゴフさんとこにも、来なかったんだぁ。
 子ども:(わたしの顔を心配そうにのぞき込むように)
     ・・・おりこうにしてなかったからじゃない?
 わたし:(苦笑しながら)そっかぁ・・。
     センセイ、毎日みんなに注射してるもんねぇ・・・。

子どもがサンタクロースの存在を信じているのは、いくつまででしょう。
サンタなんて本当はいない、プレゼントはお父さんやお母さんが準備するもの、
と初めから教えているご家庭もあるようです。
それはそれで、ひとつの方針。

我が家では、どうやってサンタが来たように演出するか、
それが毎年この時期のわたしたちの楽しみでした。
絵本などでは、サンタは煙突から入ってくることになってるのですが、
もちろん我が家に煙突などはありません。
子どもたちも、今夜は寝ないでサンタがどこから来るのかを見届ける、
などど言い出すこともありました。

ある年はこんな工夫をしました。
まだ子ども達がまだ小さかったので、親子4人で同じ部屋で寝ていました。
でもそのイブの夜は、夫が電話でお産で呼び出されたりして、
それでなくても期待と興奮で寝付けない子どもたちも、起きてしまったのです。
すっかり寝込んだところで枕元にプレゼントを置こうと思っていたのに、
計画は変更せざるを得ません。
仕方なく、わたしも子どもたちを連れて階下のリビングに降りていって、
お産に行った夫を待ちながら、
さて、どうやって演出しようかと内心策を練っていました。
夜中、帰ってきた夫が、ばたばたと2階へ駆け上がっていきます。
んんん? どうしたのかな?
と思っていたところに、またばたばたと降りてきて、
みんな、ちょっと、ちょっと、早く2階に来て! と夫。
行ってみると、階段を上がったところの北側の窓が開いていて、
なんとその下にプレゼントが!
時計は12時を少し回ったところでした。

 「お父さんが病院から帰ってくる時に、家の2階の窓が開いてたんで、
  気になって行ってみたら、これが置いてあったんだよ!
  きっと、窓から来たんだ!」

と興奮気味に子どもたちに話す夫。
「ほんとだ! 窓から来たんだねぇ!」
とはしゃぐ子どもたち。
 (わたしもびっくり!)

とうちゃん、えらい!
あなたは主演男優賞だよ!

毎年こんなことをやってたので、実はうちの子どもたち、
今時の子にしては恥ずかしいぐらい大きくなるまで、
サンタクロースを信じていました。

いや、もしかしたら、ある時期からは本当のことはわかっていて、
でも演出しているわたしたちを気遣ってくれてたのかも知れませんが・・・。

ともあれ、サンタを信じさせようと何日も前からあれこれ演出を考えていたあの頃、
宝物のような時間でした。

父の形見

2009年07月17日 | 家族
父は、真面目を絵にかいたように整理整頓を欠かさない人でした。
 (わたしは似ないでしまいました・・)
持ち物も大事に大事にする人で、捨てずにきちんととっておくので、
万年筆やら財布やら鞄類もコレクションのようになっていました。
旅行に行けば、必ず家族や診療所の職員全員にお土産を忘れませんでした。
それは湯飲み茶碗だったり、お守りだったり、ストラップだったり。
同じように、わたしがどこかに出かけて買ってきたものも、
くだらないものでも、大事にしてくれました。
気難しい人ではありましたが、「物の価値」そのものよりも、
「お土産の気持ち」を汲んでくれるようなところがありました。

父が最後に入院していたとき、薬を仕分けして入れる袋が欲しいと頼まれ、
わたしはデパートでベネトンの化粧ポーチを買ってきました。
それは薄いグリーンでナイロン地の、なかなかおしゃれなポーチでした。
父もたいそう気に入ってくれて、いつもベッドの枕元に置いていました。

父の葬儀の日、棺をいよいよ閉じる段になって、
ちょっと待って、と母が言い、父の荷物から何やら取り出しました。
それは、わたしが買ってきたあのポーチでした。
お父さんがあの世で薬がないと、困るから・・・。
そう言って母は、そのポーチも棺におさめました。
その時不謹慎にもわたしは、
あぁ・・、それ、わたしが欲しかったのに・・・。
と思ってしまったのです。
もちろんその場でそんなことは言えませんでしたから、
ポーチも父と一緒に灰になりました。

書き味にこだわって買い集めた万年筆の中でも一番書きやすいものを、
今は、形見と称して母が使っています。
 (わたしにはなかなか貸してくれません)
男女兼用のおしゃれな鞄類や衣類や腕時計など、愛用の身の回りの物のほとんどは、
母が選んで親戚知人の方々に差し上げました。
ネクタイのほとんどは夫に。
で、わたしには、父の形見の品がなかったのです。
いや、わたしは一人娘だからいずれ全部引き受ける訳なので、
今更形見云々とはさもしい考えだなぁと、自分を戒めてはいるのだけれど、
父の命日が近づくと、時々、あのポーチのことを思い出します。

その後、葬儀が一段落して、同じポーチを探しにデパートに行きましたが、
もうありませんでした。どうやら季節限定品だったようでした。

55歳の定年退職まぎわでがんを患った父は、
持って2年でしょうという主治医の予想をはるかに超えた、15年を生きました。
亡くなるまでに9回の入退院を繰り返しました。
日中は別に付き添いの方を頼みましたが、夜間の殆どはわたしが付き添いました。
大学の長い休みの時だったり、勤務を休んだり、入院先から出勤したりして。
ポーチには、父の闘病とわたしの看護の思い出のような、こだわりがあったのです。

父の命日と、わたしの医師免許証の公布日が同じ日。
亡くなった時間(○時○分)とわたしの誕生日の月日が同じ数字。
数字の偶然。
勤勉な父からの、怠け者の娘への無言の遺言のようにも思います。

・・・と、ここまで書いてきて、ふと思いました。

  父の、いちばんの形見。
  それは、わたし自身。

虹の橋

2007年11月09日 | 家族
コロがお世話になった動物病院のスタッフの方から 、
「虹の橋」というお話を教えていただいた。
原作者不詳のまま、世界中の沢山の動物のサイトに伝わっている詩なのだそうだ。
原文は英語だが、古いインディアンの伝承にもとづいているらしい。
以下は無断転載大歓迎のサイトから・・・。

  _________________________________

    【第一部  虹の橋】

  天国の、ほんの少し手前に「虹の橋」と呼ばれるところがあります。
  この地上にいる誰かと愛し合っていた動物は、死ぬとそこへ行くのです。
  そこには草地や丘があり、彼らはみんなで走り回って遊ぶのです。
  食べ物も水もたっぷりあって、お日さまはふりそそぎ、
  みんな暖かくて幸せなのです。

  病気だった子も年老いていた子も、みんな元気を取り戻し、
  傷ついていたり不自由なからだになっていた子も、
  元のからだを取り戻すのです。
  ・・・まるで過ぎた日の夢のように。

  みんな幸せで満ち足りているけれど、ひとつだけ不満があるのです。
  それは自分にとっての特別な誰かさん、残してきてしまった誰かさんが
  ここにいない寂しさのこと・・・。

  動物たちは、みんな一緒に走り回って遊んでいます。
  でも、ある日・・その中の1匹が突然立ち止まり、遠くを見つめます。
  その瞳はきらきら輝き、からだは喜びに震えはじめます。

  突然その子はみんなから離れ、緑の草の上を走りはじめます。
  速く、それは速く、飛ぶように。
  あなたを見つけたのです。
  あなたとあなたの友は、再会の喜びに固く抱きあいます。
  そしてもう二度と離れたりはしないのです。

  幸福のキスがあなたの顔に降りそそぎ、
  あなたの両手は愛する友を優しく愛撫します。
  そしてあなたは、信頼にあふれる友の瞳をもう一度のぞき込むのです。
  あなたの人生から長い間失われていたけれど、
  その心からは一日も消えたことのなかったその瞳を。

  それからあなたたちは、一緒に「虹の橋」を渡っていくのです・・・。


    【第二部  虹の橋にて】

  けれど、動物たちの中には、様子の違う子もいます。
  打ちのめされ、飢え、苦しみ、
  誰にも愛されることのなかった子たちです。
  仲間たちが1匹また1匹と、それぞれの特別な誰かさんと再会し、
  橋を渡っていくのを、うらやましげに眺めているのです。
  この子たちには、特別な誰かさんなどいないのです。
  地上にある間、そんな人は現れなかったのです。

  でもある日、彼らが遊んでいると、橋へと続く道の傍らに、
  誰かが立っているのに気づきます。
  その人は、そこに繰り広げられる再会を、
  うらやましげに眺めているのです。
  生きている間、彼は動物と暮らしたことがありませんでした。
  そして彼は、打ちのめされ、飢え、苦しみ、
  誰にも愛されなかったのです。

  ぽつんとたたずむ彼に、愛されたことのない動物が近づいていきます。
  どうして彼はひとりぼっちなんだろうと、不思議に思って。

  そうして、愛されたことのない者同士が近づくと、
  そこに奇跡が生まれるのです。
  そう、彼らは一緒になるべくして生まれたのでした。
  地上では巡りあうことができなかった、
  特別な誰かさんと、その愛する友として。

  今ついに、この「虹の橋」のたもとで、ふたつの魂は出会い、
  苦痛も悲しみも消えて、友は一緒になるのです。

  彼らは共に「虹の橋」を渡って行き、二度と別れることはないのです。

  ______________________________

コロも待っててくれるかな・・。
そして・・・、
ニンゲンの【虹の橋】も、きっとあるように思う・・・。


さようなら、コロ

2007年11月08日 | 家族
 先日、飼っていた愛犬が死んだ。
 柴の雌で、名前はコロ。
 名前とおりの、ころころ太った犬だった。

 コロが我が家に来たのは13年前の夏だった。
 丁度父が亡くなって1ヶ月してからのこと。近所のペットショップで一目ぼれした母と夫が買って来たのだ。母にしてみれば、父がいなくなった淋しさもあったのだと思う。そんなに仲のいい夫婦ではなかったように見えたが、夫婦というものはわからないと、このときに思ったものだ。

 亡くなった父は獣医だったが、いわゆる動物病院の獣医ではなくて、県の家畜保健衛生所に勤務していた。そのせいなのか、父の性格や世代のせいなのかどうかはわからないが、犬猫を「愛玩動物」として飼うことが父は嫌いだった。
 実家がダムで水没するまで、家にはいつも犬や猫がいたが、服を着せたり、リボンをつけたり、家の中に入れたりするのは、我が家ではご法度だった。地面で生活するのが本来の姿である動物にとって、それは迷惑きわまりないことのだ、というのが父の持論だった。だから、わたしが子どもの頃は、猫を抱いて寝たり、犬を家に上げたりすると、ひどく叱られたものだ。
 常に動物達とは一線を引いた飼い方をしていた父であったが、代々我が家で飼っていた犬や猫たちは父を一番信頼していたようだから、やはり本質的には動物が好きだったのだと思う。

 我が家はずっとそのような飼い方だったので、初めは当然のようにコロは家の南側の軒下においた犬小屋で生活した。
 夏は日差しが直接当たり、毎年ひどい湿疹で悩まされた。
 湿疹の出来方はまるでアトピーのようだったが、犬にもアトピー性皮膚炎ってあるのだろうか? などどと思いつつも、獣医さんに診ていただこうとはあまり考えないでしまった。

 めったに吠えない犬だったが、隣の家の猫が庭に侵入してくるとけたたましく吠えた。
 そのくせ、スズメが自分のエサをついばんでいても知らんぷりをしていたっけ。
 犬のくせに、水が苦手だった。
 散歩で河原に行っても、水際にはなかなか近寄ろうとはしなかった。
 山村の実家で飼っていた柴犬はどの子もみんな、河原に行くと喜んで水遊びをした記憶があるのだけれど、コロは都会の犬なのかなぁ、なんて、勝手に考えていた。
 だから、雨と雷も嫌いだった。
 大雨が降る夜や、雷が鳴るともう大騒ぎで、しきりに「中にいれて~!」と、縁側からリビングのガラス戸を前脚でドンドン叩く。根負けしたわたしたちは、仕方なく家の中に入れてしまう。
 結局、こんなことを繰り返しているうちに、いつのまにかコロは座敷犬になってしまった。

 室内で飼うようになって、いつでも一緒に生活してみると、犬のくせに、わたしたちの会話は何でもわかっているように思える。こうなるともう、ただの犬ではなくて大事な家族そのものだった。もっと早く家の中に入れてあげれば良かったとさえ思った。
 毎年夏に悩まされた湿疹も出なくなった。
 わたしはアレルギーの専門医でもあるので、アトピー性皮膚炎や気管支喘息のお子さんの保護者の方には、「毛のあるペットは室内では飼わないようにね」なんて外来では言ってきた。それなのに、自分の飼い犬を室内で飼って、その犬の湿疹が良くなったのだから、笑えない話だ。エライ先生が聞いたらヒンシュクものだろうなぁと思いつつ、こういう共存の仕方もありかなぁ、なんて勝手に都合のいい理由をつけていた。
 
 コロは争い事も嫌いだった。
 家族の誰かが口論をしていると(それは大抵はワタシなんだけど・・・)、困ったようにそわそわして、しっぽをたらしてわたしの手をぺろぺろ舐めたり、「もう、やめて!」というかのように「ワン!」と吠えたりした。
 子どもが叱られたりすると、その子どものところにすり寄って行った。
 飼い犬というのは、その家の主(あるじ)が誰かわかっているというのは本当のようで、コロも夫が大好きだった。
 夫が帰宅する時間になると、リビングのドアのあたりをうろうろ動きまわるのだそうだ。夫とわたしが一緒に帰宅して、最初にリビングに入るのがわたしだったりすると、
 「あれぇ?、ちぇっ、おかあさんかぁ・・・ おとうさんは?」なんて表情になる。
 夫が夜、お産でクリニックに行ってしまうと、しばらくの間、リビングのドアの前にお座りをして待っている。その後ろ姿はとてもいじらしく、思わず抱きしめたくなるのだ。
 コロはピアノの音も好きだった。それも、モーツァルトやショパン。
 ベートーヴェンやジャズは嫌いだった。それとトランペットの音も。
 でも、CDやテレビから流れる音楽には無関心だった。不思議なことに「ナマ音」にだけ反応するのだ。
 夫がトランペットをとり出すと、やめてくれぇ・・ という表情でそばを離れる。
 わたしがピアノの練習を始めると、大好きな夫のそばにいても、ピアノの下にやってきて寝そべる。
 でも、嫌いな曲や下手くそだと、またしっぽを垂らしてどこかに行ってしまう。
 だから、上手く弾けているかどうかは、コロの態度でわかったようなものだ。
 
 コロは、家族の中心というのでもないのだけれど、いないと「家族」じゃないみたいな、そんな存在だったのだと思う。

 おはよう、コロ。
 行ってくるね、コロ。
 ただいま、コロ。
 おやすみ、コロ。

 この13年、毎日こんな言葉をかけていた相手がいなくなってしまったという生活は、想像していたよりもずっとずっと、切なく、さびしい。
 所詮犬なのだからいつかは・・・、と思っていたはずなのに、「ペットロス」など他人事だと思っていたのに・・・。

 もしかしたら・・・、と今になって考えることがある。
 亡くなった父は、家畜行政に関わる仕事をしていた。
 酪農家の家畜に伝染病が発生すれば、その家畜は殺さなければならない。
 怪我をした競走馬などの多くも、そういう運命なのだそうだ。 
 父の仕事には、そういったことも含まれていた。
 家畜を処分する指示を出してきた日の父は、いつもよりお酒をたくさん飲んだ。
 牛も馬も、最期を悟ると涙を流すんだぞ・・・、と父が言っていたことを思い出す。
 もしかすると父は、動物たちとはいつか必ず別れが来ることを思い、いつも一線を引いていたのかもしれない。

 コロは、もう少しわたしたちが健康を考えていれば、あと数年は生きたかも知れない。13歳といえば犬としては長生きだとは思うけれども、日頃ニンゲンを診る仕事をしている私たちにとって、動物の健康なんて二の次、という傲慢さがあったように思う。

 いよいよコロの具合が悪くなってからお世話になった獣医さんも、スタッフの方々も、とても親切にして下さった。コロのからだは相当弱っていたのだけれど、そんなになるまでほっといた飼い主を責めることなく診て下さった。
 恥ずかしいけれど、「医療の原点」ということにあらためて気付かされたようにも思う。

 死ぬ前日には自分で立つこともできなくなり、それでも頭を持ち上げて起き上がろうとするのが、見ていて可哀想だった。
 今夜はそばについていてやろうと思い、ソファで寝る準備をしようと自分の部屋に着替えにいっているわずかの間に、コロは息を引き取った。ついさっきまで意識があったのに。
 そばにいなくてごめんね、コロ・・・。
 まだ温かいコロに声をかけながら、動物は自分の死に目を人に見せないというから、もしかしたらわたしがそばを離れるのを待って、命を終えたのだろうか・・・。そんなふうにも思った。

 コロが我が家に来た時はまだ小学生と幼稚園だった子どもたちも、大学生になって家を離れている。コロが生きた13年間は、わたしたちの子育て真っ最中の13年間でもあった。
 泣いたり笑ったりの日々のなかに、いつもコロがいた。

 コロ、たくさんの楽しい時間を、ありがとう。
 さようなら、コロ。


浄土平(じょうどだいら)

2007年08月16日 | 家族
当市のはずれには、国立公園になっている連峰がある。
その頂上付近に浄土平という湿原がある。
ここには天文台があり、天文マニアには結構知られた場所だ。

大学の夏休みで帰省している子ども達を連れて、夜、浄土平までドライブした。
そこは携帯が圏外なので、夫は留守番である。

数年前、長男も長女も、天の川も流れ星も見たことがない、と言った。
降るような星空を当たり前のように眺めて育ったわたしは、ひどくびっくりした。
そうか・・・。
当地のような地方の田舎町でも、街灯やらコンビニの灯のせいで、
わたしの記憶にあるような星空を、この子達は、知らないのだ・・・。

お天気のいい夜に、いつか見せてあげよう、と約束はしたものの、
子ども達にも都合があり、私にも仕事の都合があり、
なかなか、夜の山道ドライブが実現しなかった。

このお盆休みは、連日、猛暑・晴天である。
夜になって吾妻山に目をやると、中腹の温泉宿の灯が見える。大丈夫、晴れている。
思い立ったが吉日とばかり、夕食後に出発した。

ヘアピンカーブを幾重も過ぎ、眼下に盆地の街の灯が宝石をちりばめたように広がる。
「うわぁ~っ!」
「おぉぉ~っ!」
そのたびに、まるで小学生のような歓声があがる。

そして、浄土平に到着。
車を降りると、そこは、天然のプラネタリウムだった。

天の川は真上に流れている。
天文台の方に、こと座のベガと、夏の大三角を教えていただいた。
北の空には、北斗七星と、カシオペア。

流れ星がいくつも夜空を横切っていった。

何億光年という途方もない時間を経て、星の光りは届く。
宇宙の神秘の前には、ただひれ伏すほかはない。
人の悩みや苦しみなどは、なんてちっぽけなものだろうと思えてくる。

そうだった・・・・。
わたしは、幾度となく、この星たちの輝きに、心を救われてきたのだった。

子ども達は、飽きずにいつまでも空を眺めている。
どうだい、きみたちのふるさとも、捨てたもんじゃないでしょう。
これから先、つらいことがあったら、今夜の星空を思い出すといい。
いつか、大切な人と、来れるといいね・・・。


姑(はは)のこと

2007年08月15日 | 家族
ゴールデンウィークの初日、姑が亡くなった。
今年は姑の新盆だ。

2年近く寝たきりだったので、覚悟はしていたが、亡くなったのは、急だった。
連休中のことでもあったので、代診の先生の手配もつかず、
夫は、長男・喪主でありながら、通夜にも告別式にも、参列できなかった。
小児科のわたしの場合は、いざとなれば、他の医院を受診してね、と言える。
でも、お産ばかりは、そうはいかない。
院長は不在なのでよそで産んで下さいね、という訳にはいかないのだ。

わたしの外来だけを急遽、休診にして、子ども2人と共に、通夜と告別式に出た。
夫の実家は、お隣の県、ここから200キロくらい離れた市にある。
葬儀の実際は、姑と一緒に暮らしてくれていた姉夫婦が取り仕切って下さった。
姉夫婦には、ただただ、感謝するばかりである。

長男の嫁でありながら、わたしはまさしく名前だけの嫁であった。
夫の実家に行っても、何もすることがない。(できない。^^;)
「○○子さん、まず、座って、お茶でものめ~」
「○○子さん、まず、これ、食べれ~」
いつも、夫の実家を訪ねるとすぐに、姑のこの歓待が挨拶代わりであった。
夫の実家にはいつもたくさんの人達が出入りしていたので、
どこに座ればいいのかもわからない。
何をするにも、わたしは姑に聞かなければ行動できなかった。
内心は何もできない嫁だと思うことばかりだっただろうに、
わたしに対してはいつも、大らかに優しく接してくれた。

通夜・告別式でも、つい、
「おかあさん、これは・・・?」・・・と姑を探してしまいそうになった。
その姑は、もういないのに・・・。

夫には9歳上の姉がいるが、夫が産まれるまでの間に、2人の子どもがいた。
2人とも、亡くなっている。
原因は、血液型不適合のための溶血性貧血による、黄疸のせいだった。
今だったら救命できるのだが、昭和20年代の田舎でのことである。
2人のうち1人は、2歳まで生きたそうだが、
寝かせるとすぐに痙攣を起こすので、その子が生きている間は、
常に抱っこしていなければならず、布団に横になったことがなかったという話を、
何度も、何度も、聞いた。

舅は産婦人科医、姑は小児科医であった。
共に、太平洋戦争を体験し、姑は東京大空襲も体験している。
2人の子どもを亡くした話をする時の姑は、
涙ぐむでもなく、誰を恨むでもなく、ただ、淡々と語るのだった。
それだけに、子を亡くした親の無念さが、伝わるのだった。

舅は軍医で満州に行っていたが、復員後は、隣県の大学で数年間勉強を続けていたという。
舅が不在の間、家を支えたのは、姑だった。
舗装道路も殆どない田んぼの道を、自転車を押して、毎日40軒近くも往診したこと。
帰ってきたら、自分の食べるごはんがなかったこと。
当時、親戚知人の子ども達を、何人も預かっていたのだそうだ。
何度となく聞いた苦労話には、いつもどこかにユーモアが混じっていた。

姑は、当時の女性としては大柄な人であったが、
その風貌通り、懐のひろい人だった。

2人の子どもを亡くした後に授かったのが、夫である。
夫も黄疸が強かったらしいが、幸いにも無事であった。
大事に大事に育てたであろう長男の嫁が、一人娘だなんて、
本心では許せないことであったに違いない。

それでも許していただけたのは、
子どもを亡くしたという体験があるからだったのかなぁ、とも思う。
生きて、しあわせに暮らしていればいい、という気持ちだけで、
わたしのような世間知らずを嫁に迎えて下さったようにも思う。

姑は2年前に軽い脳梗塞になった。
それでもまだ少しは会話もでき、食事もできるということだったが、
以前のような気力が次第に衰えてきていると、姉から連絡をいただいた。
ちょうどその頃長男が高校を卒業したこともあり、
夫は地元の大学に留守手伝いの先生をお願いし、一家で姑に会いに行った。
皆でレストランで食事をしたのだが、姑は、病気のせいもあり、
一ヶ所にじっと座っていることが困難だった。
変わり果ててしまった姑の表情や姿に、わたしはかける言葉を失っていた。
結局レストランの入り口のソファで横になって休む姑に、
皆が食事が終わるまでの間、交代で付き添った。
わたしがそばにすわると、姑は目を閉じたまま、細い声でこう言った。
「○○子さん、ごめんなさいねぇ・・・」
姑は、自分のからだや心が思い通りにいかないことを、わたしに詫びるのだ。
それは、姑の正気の部分が、あるだけの気力をふりしぼって言ったようにも思えた。
(おかあさん、ごめんなさいは、わたしのほうです・・・・)
姑の手をにぎり、背中をさすりながら、声がつまってしまって言葉にならなかった。

姑との会話らしい会話は、それが最後であった。

わたしたちのクリニックの院長室には、「忍」と達筆な筆で書かれた色紙が掛けてある。
それは、わたしたちが開業する時に、姑から夫に贈られたものだ。
その色紙は、姑が嫁ぐ際に、姑の実家の父が姑のために書いたものだという。
(姑の実家は寺で、姑の父親はそこの住職であった)
姑が亡くなった後、色紙の額の裏側から夫に宛てた手紙を発見した。
そこには、自分の元へ帰ってこない選択をした息子への母親の覚悟と、
それを受け入れる大きな愛情が込められていた。

姑は、いつも家族の中心にいた。
大きな山の裾野に広がる沃野ような、ふところの広いあたたかい人であった。

 おかあさん、ごめんなさい。
 そして、ありがとう。
 わたしはあなたが、大好きでした。

合掌

引っ越し・あれこれ

2007年03月24日 | 家族
子ども達の進路が決まり、入学手続きも済んでいる。
娘は大学の寮に。息子のアパートも決めた。あとは引っ越しだ。
・・・ところが! 引っ越しの準備が遅々として進まない。
今我が家は、泥棒が入っても判らないような有り様になっている。(T_T)
まったく、もう! ちゃんと自分で整理しておきなさい、って言ったのに!
「がみがみおばさん」はやっぱり当分返上できそうにない。(^^;)
娘は寮だから机その他の家具はいらないし、
息子は予備校の寮にいた時の荷物をそのまま送ればいいとタカをくくっていたけれど、
どうしてどうして、案外必要なものが、あとからあとから出てくる。
仕事が終わってから、毎日一緒にこまごましたものを買いに出かけている。
(もうすぐいなくなるんだなぁ・・。買い物も一緒に行けなくなるなぁ・・。)
心もさびしいが、財布もだいぶさびしくなってしまった。

外来も毎日忙しい。
例年ならインフルエンザの流行もそろそろ終わる時期なのに、
今年は今が流行のピークだ。
昨日は小学校の卒業式だったけど、インフルエンザで欠席のお子さんもかなりいたようだ。
お父さんの転勤で引っ越しする患者さんのご家庭も多い。
引っ越し準備の真っ最中に、お子さんが熱を出したり・・・。大変だなぁ。
世間が忙しい時期は、家庭内も忙しい。

その上、タミフル騒動だ。
いいかげんにしてくれ、厚生労働省! そしてマスコミ!
過去にインフルエンザワクチンを中止した結果、どうなった?
日本脳炎ワクチンも事実上中止してるけど(実際は中止ではなく、積極的に勧めない措置)、
昨年某県で日本脳炎に感染した子が出たことは、あまり報道されてないけど。
もっとも、ワクチンとクスリは違うし、
タミフルに関しては、濫用のブレーキにはなったと思うけどね。

話が引っ越しからそれてしまった。
患者さんが引っ越しするにあたって、紹介状をお持ちいただくことが多い。
ため込んでた紹介状書きも、だいぶ終わったところだ。
書きながら、それぞれのお子さんやお母さま達のことが思い出される。
この子は、クスリ嫌がるんで、叱ったっけなぁ・・・。ごめんね。
この子は、下の子が産まれた時、赤ちゃん帰りして大変だったなぁ。
この子は、何度も点滴して、頑張ったんだよなぁ。
この子のお母さんは忙しいのに、いつも子ども達の身なりがちゃんとしてたよなぁ。
うちに通ってくれて、ありがとう。
きみたちの、泣き顔も、笑顔も、忘れないよ。
新しい街でも、元気でね。
新しいかかりつけの先生、どうかどうか、よろしくお願いします。
みんな、いい子たちです。

3月のこの引っ越しシーズン、わくわくして、ちょっとさみしい。

実はわたし、珍しく一昨日から熱発してるのさ。
なのでちょっとハイテンション、ちょっとセンチなのかも。
インフルエンザの検査は2回やったけど、シロだった。あぁ、良かった・・。(^^;)
明日も荷造り・買い物、頑張るぞ。
母は寝てられないのだ。