ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

辻井伸行くんのこと

2009年07月30日 | 音楽
辻井伸行くんという、二十歳のピアニストがいます。
2ヶ月前にアメリカで開催されたヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで、
日本人として初めて優勝したので、一躍有名になりました。

彼が子どもの頃に演奏しているのをTVで初めて聴いて以来、
わたしはひそかに応援していました。

初めて聴いたのが何の曲だったのかは覚えていません。
ショパンだったような気もするし・・・。
12歳の時の彼の初めてのリサイタルの映像かもしれないし、
その後、指揮者の佐渡裕氏との協演もありました。
題名のない音楽会、だったかな。
2005年には、かの有名なショパンコンクールで、
ファイナル(最終)には残れませんでしたが、
セミファイナルまで残り、批評家賞を受賞しました。
その時のドキュメンタリーも観ました。
(今回また再放送されたようです。)

初めて彼の演奏を聴いた時、なんて澄んだ音色なんだろうと思いました。
そしてとにかく指の動きが速い!
子どもらしさがまだ残りつつも、将来を予感させるようなその音色に、
これからこの子は、どんなピアニストになるのだろうと、
思わずTVの画面に釘付けになってしまいました。

わたしもつなないピアノを弾くので、映像として演奏家を観る時は、
音を聴きながらも、どうしても鍵盤の手元ばかりを見てしまいます。
普通は、フレーズの終わりに指を鍵盤から離すとき、手首や腕も自然に上がります。
そうやって常に腕の力を抜いて、次の音を出す瞬間に備えるのです。

でも彼は、鍵盤の中央部分を弾いている時は感じないのですが、
鍵盤の両サイドまで弾かなければならないフレーズのところになると、
指がねて、手首や腕もあまり上げずに、鍵盤をなでるように弾いていました。

どうしてこんな弾き方でこの音色が出せるのだろう???
わたしの興味は、ますますわいてきて、聴き入っていました。

そのうちにふと、彼がほかの演奏家とは異なるからだの動きをしているのに気付きました。
あの動きは、誰かに似ている・・・。

そうだ、スティービーワンダーだ!
・・・もしかしてこの子は、目が見えてない???

そして番組の終わりになって、彼がやはり全盲であったことがわかりました。
あのからだの動き、頭の動かし方、指や腕の動かし方が、納得できました。

それ以来のひそかなファンでした。

今回の受賞は、とても嬉しいです。
ネットなど拝見すると、いろんな意見がありますが、優勝は優勝です。
いや、優勝でなくても、素晴らしい才能があることは、多くの人たちが認めるところでしょう。

今回のヴァン・クライバーンコンクールでの演奏は、ネットの動画でも観ることができました。
ファイナルの演奏は、フィギュアスケートで村主さんが使用していることで知られている、
ラフマニノフのピアノコンチェルトでした。
でもわたしは、彼のセミファイナルでの演奏に、さまざまなことを思いました。
セミファイナルでの曲は、べーートーヴェンのピアノソナタ「熱情」でした。

ベートーヴェンがこのソナタを作曲した時は、すでに聴力のほとんどを失っていました。
誰もが知っている交響曲「運命」の頃にはすでに難聴が悪化しはじめています。
そして、「第7番」(←「のだめ」で有名になりました)「田園」「第九」などは、
聴力がほとんどなくなってからのものです。
でも、現代のわたし達は、「耳の聞こえないベートーヴェンの曲」とは思いません。
そんなことは関係なしに、年末には「第九」がそこここで流れます。

辻井邦行くんを「全盲のピアニスト」と称するのは彼に失礼というものでしょう。

聴力を失った作曲家の曲を、視力を持たずに育った若者が演奏している・・・。
つまるところ、音楽に大切なのは、ものを感じる「心」なんですね。


マニフェスト

2009年07月27日 | Weblog
このところ、新聞でもTVでも、与党と野党とのマニフェスト合戦の話題でもちきりです。
一般国民のわたしたちから見たら、足の引っ張り合いのようにも見えますが・・・。

次期政権をとるかも知れない野党のマニフェストに、子ども支援が盛り込まれていました。
それはそれで歓迎すべきなんだけど・・・・、
「絵に描いた餅」を見せられているように感じてしまうのは、わたしだけでしょうか?

子どものいる家庭に、子ども一人あたりの育児給付金なるものを補助して下さるそうです。
それは大歓迎ですが、子どものいない家庭にしわよせが及ぶようになったらいけないですね。
高校生も(公立かな?)授業料は無料にする、とか・・・。
でもさ、高校生ぐらいの年齢になれば、勉強したくない子だっている。
高校の授業料を無料にするぐらいなら、保育園の負担をもっと軽くして欲しい。
保育園児を持つ親御さんは年齢も若いですから、お給料だって多くはありません。

子育て支援として金銭的バックアップをはかるのであれば、
0歳児~小学生(できれば中学生)までの年齢層の子ども・家庭に、もっと援助して欲しい。

そして、どこの保育園・保育所でも、お預かりするお子さんの人数に対して、
ギリギリの保育士さんの人数配置なのです。
ひとりでも手のかかるお子さんがクラスにいれば、大変です。
そのための補助要員の保育士さんを増やそうとするには、
そのお子さんが「手がかかる=発達障害」といった「診断書」がないと、
補助要員はつけていただけません。
こうして、書類上の「発達障害児」が増えてしまいます。

発達障害児がいけない、ということではありません。
ただ、なんでもかんでも、ちょっと手がかかると障害児扱いにしないと、
まともに子どもの世話もできない世の中になってしまっている、
そのことが、とても残念に感じるのです。

(発達障害については、本題とずれてしまうので、また別の機会に・・・)

0歳児なら3~5人にひとりの担任、
小学生なら、10~20人にひとりの担任、中学生なら、20~30人にひとりの担任、
で、義務教育の期間は、どのクラスも、担任と副担任がいて、
新米教員は数年間は副担任として現場の勉強をする、
このぐらいの制度改革はできないものなのでしょうかねぇ・・・。

医療の現場はもちろん大変ですが、
実は教育現場はもっと大変なことになっていると感じています。
医師にはまだ、研修医制度があります。
医師免許を取得しても、いきなり新米がひとりで患者さんを受け持つことはありませんが、
教育現場では、新任教師がひとりでいきなりクラス担任とかしてるでしょう?
本当は、学校や幼稚園の先生たちだって、数年間の研修期間は必要だと思います。
ましてやこのご時世、想像もつかないクレームをつける親御さんもいるでしょう。
資格だけで経験のない若い先生方には、あまりにむずかしい試練だと思います。
先生にも「不登校」や「うつ」が増えているらしい。

でも、保育士さんや教員を増やすためには、その報酬も必要なんですね。

それを、どうにかできないものなのでしょうか。

ゆとり教育を見直せといったって、
「ゆとり」の教育システムに対しての報酬が決まっています。
多くの先生方は、ほとんどボランティアで課外の業務をこなしているのではないでしょうか。
その上、生徒や親から罵倒されたのでは、たまりません。
(医師と同じで、なかには困った先生もいらっしゃるかも知れませんが・・・)

今の学校現場の疲弊と崩壊は、そのまんま、近い将来の医療現場と同じです。
いえ、すでに同じになりつつありますね。

保育園・保育所は管轄が文科省ではなく厚労省ですから、事情は少し違いますが、
人数を増やしたくても、報酬の面で増やせないのは同じだと思います。

例えば・・・、
保育園の数を増やす。保育士の人数を増やす。保育料の負担を軽くする。
小学校、中学校のクラスを少人数性にして増やす。
そのための担任教諭も増やす。
栄養士・養護教諭・学校カウンセラー(臨床心理士)も、全ての学校に配置する。
(これらの資格をもった人たちも就職ができます)

インフルエンザ・おたふくかぜ・水痘・肝炎・ヒブ、など、
現在任意で有料のワクチンを、全て無料にする。
全国の中学生までの医療費を、無料(が無理ならせめて1割負担でも)にする。

一家庭あたりいくら、という支援も結構だけど、せめてこっちをどうにかして欲しい。

高校生になる以前の、もっと小さい子どもたちが生活している全ての場面での支援を、
何とかして欲しいものですね。

この国の将来を本当に憂えて何とかしようとするなら、
まずは教育(勉強の教育だけじゃなくて)と健康維持にお金をかけないと・・・。

本当にそういうことに財源を導入するのなら、消費税が多少上がったって、
文句を言うひとは少ないと思うのですが・・・。

家族旅行・2

2009年07月26日 | 医療
数日前、小さいお子さんを連れての旅行のことを書きました。

週末、まるで台本でもあったかのようにそっくりの状況のお子さんが来院しました。

2歳になるそのお子さんは今週の初めに発熱でおいでになって、一旦は解熱しました。
数日後の再診のときはまぁまぁ元気でした。

センセイ、週明けに2泊3日の旅行に行くんですけど、大丈夫でしょうか?
お母さんが心配そうに訊きました。

う~ん、このままだったら行って行けないこともないけど・・・。
(でもちょっと不安・・・)

もしお出かけになる時は、お子さんんの体調に合わせて、スケジュールは変更してね。
ホテルの中で過ごすことになることも予想しててね。

そんなお話をしてお帰りいただきましたが・・・。
わたしの不安は的中、その夜からまたちょっと微熱。
翌日もおいでになりました。
お母さんはお仕事が休めなくて、お父さんが都合つけての来院です。
来院時の体温はもう38度になってました。
今度は咳も鼻水も出てきました。食欲もまだ本調子ではありません。

診察が終わって帰る頃には、お母さんもお仕事を早めに終わらせておいでになりました。
お父さんから、来院時にはもう体温が38度になったという連絡を受けたらしく、
すでに旅行のキャンセルの手配もしてきたのだそうです。

キャンセル料は多少かかったけど、子どもが心配ですから・・・。
そう言ってお子さんを抱っこしてお帰りになるお母さんの表情は、
1回目の再診の時に旅行の相談をしていた時よりも、明るくなってました。

その後どうしたかな。
お熱がちゃんと下がってるといいな。
食欲も戻って、機嫌も良くなってるといいな。
週明け、そのお子さんは当院に「プチ旅行」の予定です。

来年、再来年は、もっともっと丈夫になってますからね。
近い将来、必ず家族旅行ができますからね。

お父さんとお母さんの勇気に拍手! です。


家族旅行

2009年07月22日 | 医療
真冬に比べればこの時期の小児科外来は割合すいているのですが、
毎日高熱の患者さんがおいでになります。
ほとんどはいわゆる「夏かぜ」なのですが、実はこの夏かぜ、くせものです。
咳やはなみずはそれほど出ないのに、高熱だけが、3~4日続きます。
そのあとは、けろっと治ってしまうことが多いのを、わたしはわかっていますが、
数日はお熱が続くかもね~、3日後ぐらいにはおいで下さいね~。
とご説明していても、やっぱり、そこは親心。
熱が下がらないのが心配で、このところ毎晩のように、電話問い合わせがあります。

さて。
例えば3日目の再診で、だいぶ快方にむかってきたところ、
あと数日で元気になるでしょう、と予想される小さなお子さんがいるとします。
でも、夏のこの時期は、お熱が下がってそれで終わり、にならないのが小児科外来。
この時期は、親御さんから次のような質問が多いです。

 センセイ、あさってから数日出かけるんですが、いいでしょうか?

 え? どこに?

昨今はあまり立ち入らないほうがいいのかな・・・、と思いながら、
実はわたし、結構あれこれ詳しく聞きます。

 誰と? いつから? 何泊?
 目的は? 旅行? 里帰り? 
 場所は? ホテル? 実家? 友人の家?
 交通機関は? 新幹線? 飛行機? 車?

ご実家、とくにお母さまのご実家なら、治りかけならオッケー。
勝手知ったる実家なら、何かあっても気を遣うことはないでしょうから。
でも、旅行となると、ちょっと事情は変わってきます。
小学生・中学生なら、自分でも具合が悪いことを言葉で表現できますが、
2~3歳までの小さなお子さんはそうはいきません。
治りかけと思っても、体力的にはまだまだ、安静が必要なことがあります。
自家用車での遠出なら、何かあれば途中で予定変更ができます。
でも、新幹線の車中で、万が一、熱がぶり返したら?
おなか痛いと泣いて、吐いてしまったら?
新幹線や飛行機は、途中で止めて、って訳にはいきませんものね。
ホテルなら救急病院を教えてもらえるけど、それに家族だけの問題だけど、
泊まるのが友人の家なら? そこに同じくらいの小さいお子さんがいたら?
もし立場が逆だったら? うちの子にうつらないかな、って、内心は不安にならない?

細かいことを先回りして心配しすぎても、人生楽しくないですが、
小さいお子さんの場合は「何かあるかも」と想定して計画を立てたいものです。

ん~・・・、あさってからは、ちょっと無理っぽいんだけどなぁ・・・、
と思うのですが、
忙しいお父さんやお母さんが、仕事の調整をして休みをとって、
おそらく何ヶ月も前から切符やホテルの手配をしてたんだろうな~、
上のお兄ちゃん(お姉ちゃん)も楽しみにしてるんだろうな~、
その気持ちは、わたしにもとってもよくわかるので、
なるべくなら、行かせてあげたいのが、親心、もとい、小児科医心。

いつもより長めにお薬を処方して、
母子手帳と保険証は忘れないでね、絶対、無理はしないでね、
とお話しして、行ってらっしゃいと言います。

でも、時には、心を鬼にして、ストップをかけざるを得ないこともあります。
こういうときは、楽しみにしていたご家族の気持ちを考えると、
わたしもとても残念です。

ただね。
実は、小さいお子さんは、無理して遠出しなくても、
休みの日に家族とそのへんにちょっと「お出かけ」するだけでも、
じゅうぶん楽しいはずなんですよね。

よくよく考えると、
休日に遠くに出かけたいのは、実は親のほうだったりするんですねぇ。
何を隠そう、我が家もおんなじでした。
子どもたちがまだ保育園の赤ちゃん組・年少組の頃に、
親子のふれあいと称して週末になると連れ歩いて、
結局週明けに体調を崩してしまって、何度も実家が保育園になりました。
(ぶつぶつ文句を言われながら・・・^_^; )

 子どものためというより、親が出かけたいんじゃないの?

というのは、当時わたしの親から叱られた言葉です。
親に言われたことだから反発もしたし、わたしたちはイシャだよ!という、
今にして思えば中身の伴わない自信もありました。

でも、今になって振り返ると、
もっと落ち着いて子どもとかかわってあげた方が良かったな、
と反省することはたくさんあります。

おっきな遊園地はないけど、幸い当地には近くに小高い山があります。
お弁当持ってハイキングのまねごとだっていいし。
日帰り温泉だってたくさんあるし、近くの公園だっていいんですよね。
特別なイベントや遠くに出かけなくても、楽しめることはたくさんある。
身の回りのことで楽しむ工夫をするのも、楽しみのひとつかも。

お子さんが小さいうちは、親も我慢なんだなぁ。

これって、大事なことだと思います。

市民ミュージカル「人類の破片」

2009年07月20日 | Weblog
昭和20年、全国各地に原爆模擬爆弾が投下されたことを、2年前に書きました。
7月20日は、当市に投弾された模擬爆弾によって亡くなった少年の命日です。
追悼の市民ミュージカルは、今年で5回目になります。

写真は、亡くなった少年が眠っているお寺で保存している、実際の爆弾の破片。
長さは約50センチ、重さは約15キロだそうです。

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      【あらすじ】

場面は昭和20年頃。
兄と弟が紙飛行機で遊んでいます。
弟が、紙飛行機を木にひっかけてしまいました。
兄が、弟を抱きあげて、ひっかかった紙飛行機を取ってやっていました。
あんちゃん、また紙飛行機作ってね。弟が言います。
どこにでもある、兄弟のほのぼのとしたシーンです

場面は変わって、平成21年7月20日。
小学校教師のケイコ先生は、生徒たちを連れて、
近くのお寺に原爆模擬爆弾の破片を見学に出かけます。
太平洋戦争がどういうものだったかを、ヒロシマやナガサキだけではなく、
子どもたちに、身近なこととして知ってもらうためです。
先生と生徒たちは、ドレミの歌をうたいながら出かけました。
ところが生徒たちは、爆弾などには興味がなく、怖がってしまって、
勝手にどこかへ遊びに行ってしまいました。
ひとり残ったケイコ先生は、調子っぱずれのドレミの歌を口ずさみながら、
子どもたちにどう説明したらいいのか、考え込んでしまいました。
(ケイコ先生は音痴という設定です)

一方、場面は昭和20年7月20日に変わります。
タカオ少年が、朝から田圃に出かけ、田の草取りをしています。
その時、少年の耳に、聞き慣れない歌が聞こえてきます。
 ♪ド、はドーナツのド、レ、はレモンのレ・・・♪
「あれ、なんだべ・・・??」
少年は不思議に思いながら、田の草取りを続けていました。
そのうちに、今度は、音程の狂ったドレミの歌が聞こえてきました。
「誰かいるんですか~?」
タカオ少年は尋ねます。

するとその声はケイコ先生にも届き、7月20の同じ日、同じ時間、同じ場所で、
昭和20年と平成21年の時空を超えて、ケイコ先生とタカオ少年が会話します。

 あなたは誰ですか?

 どこから来たのですか?

 どこにいるのですか?

その時、ケイコ先生が自分の携帯の画面を見ると、
なんと、昭和20年7月20日になっているではありませんか!
ケイコ先生は、慌てて、持って来た資料の、当時の新聞を確認します。
昭和20年7月20日、午前8時30分過ぎ、この町に爆弾投下。
そこでケイコ先生は気付きます。
「も、もしかしてあなたは、タカオさんですか?」
声の主はそうだと答えます。
ケイコ先生は、慌てました。
「タカオさん、早く、早く、逃げてください!!」
必死に呼びかけますが、その声はなかなか伝わりません。

その頃、タカオ少年の耳には空襲警報が聞こえていました。
ずいぶん長い空襲警報だなぁ・・・・。
・・・・・と思っていたところに爆音が響き・・・・。

しばらくしてタカオ少年は、自分が死んでしまったことに気付きます。
少年の亡骸を発見したケイコ先生は、
「間に合わなかった・・・、」
・・・と泣き崩れます。
その時、幽体離脱したタカオ少年と出会います。

タカオ少年は、矢継ぎ早にケイコ先生にいろいろ尋ねます。


せんせは、いつの時代のひとですか?

 ・・・・64年後の、平成21年から来ました・・。

平成? 天皇陛下は・・? 64年たった・・・。
せんせ、この戦争は日本が勝ったんでしょう?

 ・・・・ケイコ先生は答えられません。

少年は尋ねます。

せんせ、この大きい爆弾は、何?

 ・・・(ケイコ先生は、言うべきか迷いながら)
 ・・・・せ、世界初の、げ、原爆模擬爆弾、です・・・。

少年はびっくりして、さらに尋ねます。

せんせ、爆弾で死んだのは、オレだけでしょう?
世界初の、・・原爆、って、・・なに?
そのあとに、なにがあるの? 教えて、せんせ・・・。
もうアメリカは、他にこんな爆弾は落としてないよね?

 ・・・・ケイコ先生は、目を真っ赤にして首を振るだけです。

じゃあ、64年後は、平和なんでしょう?
さっき、♪シー は しあわせよう、 ・・て歌ってた・・・。

 ・・・・ケイコ先生は答えられず、両耳を手でおおってしまいました。


タカオ少年は、ケイコ先生の様子に、すべてを悟りました。
そして、ケイコ先生の持っている携帯電話を借ります。
未来は田圃からでも電話できるんだね。
そう言って、届かないはずの電話で、かあちゃん、ねえちゃん、弟たちに、
最期の言葉を、電話で話しかけます。

 かあちゃん、俺です、タカオです。

 かあちゃん、おれ、田の草取り、がんばったんだよ。

 ごめん、田の草、残してしまった、・・ごめん。
 
 かあちゃん、俺、おっきな爆弾受けてしまった・・。

 俺の設計した飛行機にのせてやること、もうできね・・・。

 かあちゃん、兄弟たちに、伝えてください・・。

 あんちゃんは、もう、だめだ・・・。

 弟たち、ねえちゃん、みんな、生きろよ・・・・。


場面は変わって、また平成21年に戻ります。
ケイコ先生は、お寺の境内で気を失って倒れたことになっていました。
携帯の画面が壊れたぐらいで良かったよかったと、校長先生も安心していました。
音感の良くないケイコ先生が、子どもたちの歌の指導を上手にできたことも、
奇跡的だと校長先生はとても喜んでいました。
ケイコ先生は今度、広島にお嫁にいくので、学校を辞めるのです。
子どもたちは、お礼にドレミの歌をうたいました。
そして、先生に感謝のことばを伝えていました。
原爆模擬爆弾のことを教えてもらって、ありがとうございました、と。
そして、タカオ少年のお姉さんからも、学校に感謝のお手紙がきていました。
子どもたちに、少年のことを伝えてくれたことです。

また場面は変わって、お姉さんからの手紙の朗読とともに、
お姉さんの回想シーンになります。
タカオ少年は飛行機が好きで、いつか自分が設計した飛行機に、
ねえちゃんたちを乗せてあげると言っていたのだそうです。
昭和20年7月20日の朝、田圃に出かける少年を最後に見たのはお姉さんでした。
爆音が鳴り響いたあと、お姉さんは胸騒ぎがして必死になって弟を捜しました。
そして、田圃で変わり果てた弟の姿を見つけたのです。
家族の悲しみの中、
(ねえちゃん、生きろよ・・・・)
お姉さんには、弟の声がかすかに聞こえたように感じたのでした。
その後お姉さんは看護婦となり、若くして亡くなった弟の冥福を、
看護の仕事を通して祈り続けてきました。

最後の場面でタカオ少年がふたたび登場します。

 せんせい、きっといつか、せかいじゅうのひとが まあるくなって、

 ドーナッツ、っていうお菓子、たべれるよね

 ♪ドー は ドーナッツ、ソー は あおいそらー

 ♪シー は し・あ・わ・せ・ようー

 みなさん、し・あ・わ・せ・に~


得意だった紙飛行機を手に持って、舞台を一巡します。
実際に舞台を観に来て下さっている、
実在の「タカオ少年のお姉さん」の前にその紙飛行機を捧げ、
最後は破片の上に紙飛行機を置いて、幕になります。

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この日は、まだご存命のお姉様のほかに、
タカオ少年の同級生の方々も多数おいでになっていました。
広島・長崎の方々も毎年いらして下さっているとのことです。

タカオ少年が眠っているお寺の本堂で行われるので、
いわゆる「舞台」とはまた違ったお客さんと出演者との一体感があるようです。

わたしはほんの裏方の手伝いにもならないぐらいの役割ですが、
(しかもドレミの歌の伴奏の出だし間違えるし・・・(T_T) )
タカオ少年や出演者の方々の熱演には、つい涙が出てしまいます。

5年前、たまたま当市に転勤でいらしていた方が、
この事実をもっと広めなければいけないと考えて下さって、
脚本から演出まで手がけてくださり、始まった劇。
今も多くのボランティアの方々の協力で、上演することができています。

人の記憶は、歳月とともに風化されます。
あるものは美化されて残り、あるものは存在さえも無くなってしまうことも・・。
次の世代に語り継がなければならない事実を、わたしたちは忘れないように、
せめて年に数回でも思い出す日は、必要なのだと思います。

 (台詞などは、一部略してあります)

父の形見

2009年07月17日 | 家族
父は、真面目を絵にかいたように整理整頓を欠かさない人でした。
 (わたしは似ないでしまいました・・)
持ち物も大事に大事にする人で、捨てずにきちんととっておくので、
万年筆やら財布やら鞄類もコレクションのようになっていました。
旅行に行けば、必ず家族や診療所の職員全員にお土産を忘れませんでした。
それは湯飲み茶碗だったり、お守りだったり、ストラップだったり。
同じように、わたしがどこかに出かけて買ってきたものも、
くだらないものでも、大事にしてくれました。
気難しい人ではありましたが、「物の価値」そのものよりも、
「お土産の気持ち」を汲んでくれるようなところがありました。

父が最後に入院していたとき、薬を仕分けして入れる袋が欲しいと頼まれ、
わたしはデパートでベネトンの化粧ポーチを買ってきました。
それは薄いグリーンでナイロン地の、なかなかおしゃれなポーチでした。
父もたいそう気に入ってくれて、いつもベッドの枕元に置いていました。

父の葬儀の日、棺をいよいよ閉じる段になって、
ちょっと待って、と母が言い、父の荷物から何やら取り出しました。
それは、わたしが買ってきたあのポーチでした。
お父さんがあの世で薬がないと、困るから・・・。
そう言って母は、そのポーチも棺におさめました。
その時不謹慎にもわたしは、
あぁ・・、それ、わたしが欲しかったのに・・・。
と思ってしまったのです。
もちろんその場でそんなことは言えませんでしたから、
ポーチも父と一緒に灰になりました。

書き味にこだわって買い集めた万年筆の中でも一番書きやすいものを、
今は、形見と称して母が使っています。
 (わたしにはなかなか貸してくれません)
男女兼用のおしゃれな鞄類や衣類や腕時計など、愛用の身の回りの物のほとんどは、
母が選んで親戚知人の方々に差し上げました。
ネクタイのほとんどは夫に。
で、わたしには、父の形見の品がなかったのです。
いや、わたしは一人娘だからいずれ全部引き受ける訳なので、
今更形見云々とはさもしい考えだなぁと、自分を戒めてはいるのだけれど、
父の命日が近づくと、時々、あのポーチのことを思い出します。

その後、葬儀が一段落して、同じポーチを探しにデパートに行きましたが、
もうありませんでした。どうやら季節限定品だったようでした。

55歳の定年退職まぎわでがんを患った父は、
持って2年でしょうという主治医の予想をはるかに超えた、15年を生きました。
亡くなるまでに9回の入退院を繰り返しました。
日中は別に付き添いの方を頼みましたが、夜間の殆どはわたしが付き添いました。
大学の長い休みの時だったり、勤務を休んだり、入院先から出勤したりして。
ポーチには、父の闘病とわたしの看護の思い出のような、こだわりがあったのです。

父の命日と、わたしの医師免許証の公布日が同じ日。
亡くなった時間(○時○分)とわたしの誕生日の月日が同じ数字。
数字の偶然。
勤勉な父からの、怠け者の娘への無言の遺言のようにも思います。

・・・と、ここまで書いてきて、ふと思いました。

  父の、いちばんの形見。
  それは、わたし自身。

孫が!?

2009年07月14日 | 子どもたち
孫が産まれたらこんな気分? >^_^< 
そんな風に感じるお産がありました。

わたしが当地に帰ってきて、初めて大学から外の病院に勤務した時に、
初めて「わたしの外来」に通ってくれていた兄妹がいました。
(外の病院、というのは、大学勤務に対して使う表現です)

その後また大学に戻り、さらに別の病院に勤務し、開業してからも、
ときどきおいでになりました。
お兄ちゃんは、今どき珍しいぐらいの爽やか少年、
妹もこれまた目元涼しげな可愛らしいお嬢ちゃんでした。
こんな出来たお子さんたちを育てたのはどんなお母さまかと思いきや、
なかなか型破りなドラマチックなお母さまで(しかも美人ときている)、
思ったことはずばずばおっしゃる(だからわたしと気が合う)。
さまざまなシーンでの、本質をとらえたそのお母さまの言葉には、
わたし自身が実は、とても助けられていました。

爽やか少年は青年となって海外で仕事に就き、
お嬢ちゃんはお嬢さんになってお嫁に行きました。
そのご家族から、ふしめふしめのお知らせが届くたびに、
すでに鬼籍に入られたお父さまもきっと見守って下さっているのだろうと、
ご家族のしあわせを祈っていました。

お嬢さんが新米お母さんになった日、
目の前で力強く泣く赤ちゃんを診察しながら、
それまでのご家族が過ごした日々に思いをはせました。
命って、こうやって、次の世代に伝えられていくんだな・・・。

当地にきて初めての患者さんが、お母さんになって、
その赤ちゃんをわたしが抱っこしてるなんて!
孫、って、もしかしたらこんな気持ちなんでしょうか!?

 ごめんね。ほかの赤ちゃんたちと区別してる訳じゃないからね。
 赤ちゃんは、みんなみんな、かわいいからね。
 


自己嫌悪

2009年07月12日 | 日々のつぶやき
8月の夏休み・お盆の時期と、年末年始をのぞいた季節は、毎週末といっていいぐらい、
学会やら研究会などの勉強会があります。
もちろんその全部に出席できる訳ではりませんが、
こつこつ、黙々と「自分で勉強する」ことが苦手な(嫌いな ^_^; )わたしにとっては
なるべく参加して、耳学問でもいいから、何かを吸収したい。
お体裁じゃなく本気でそう思っているので、
できるだけ、近くで日帰りできる勉強会には出かけるようにしていました。
勉強会にもいろいろな形態があります。
個々の先生方がそれぞれの研究テーマや珍しい症例などを発表するものや、
あるテーマ(たとえばインフルエンザとか)の第一人者の高名な先生をお呼びする、
「講演会」形式のもの。
それぞれに、聞いていれば糧になるのです。
勉強会のあとにはたいてい「情報交換会」という、いわゆる懇親会があり、
これもなるべく出るようにしていました。
大きな会場でたくさんの出席者のいるところでは気後れして聞けないことでも、
懇親会でなら、ご挨拶がてら、素朴な質問ができるからです。
(質問を受けた先生が、ナンじゃこのアホウは!?とお感じになるかどうかは別として)

もうひとつ、わたしが心がけていること。
それは、なるべく地元の多くの先生方と顔見知りになることでした。
わたしたちのギョーカイにもいわゆる「派閥」というか「学閥」みたいなものはあり、
地元の大学出身じゃないわたしは、別にそのことで区別される訳ではありませんが、
当地で一緒に勤務したことがない先輩や若い先生方のお顔を知りません。
勤務医の頃は、開業の先生方から患者さんを紹介される側でしたが、
開業してからは、その立場が逆になります。
患者さんを紹介する時に、紹介先の先生の顔が浮かぶかどうか、
その先生と面識があるかどうかは、実はとても大きな意味があると、
これも本気で思っています。
 「お忙しいところ、すみません。よろしくお願いいたします。」
一度でもお会いしたことがある先生に、前もって電話でこうお話するだけでも、
患者さんが安心して病院を受診できるのではないかな、と思うからです。
 
母校の大学を辞めて当地に帰ってきて、来年で20年になります。
地元の大学に籍を置いたのは数年でしたが、
心ある先輩・同僚・後輩の先生方によくしていただき、
今もさまざまなことを学んでいるつもりです。
いろんなとこに顔を出していると、そのうちにいろいろ頼まれることも多くなり、
頼まれたことはできる限り引き受けようと、これまた本気で思っているので、
いつのまにか、役割が増えてしまいました。
役割といったって、たいそうなことをしている訳ではありません。
わたしなんぞよりもはるかに激務をこなされている先生方がたくさんいらっしゃいます。
ただ、わたしの空っぽに近い脳味噌では、なかなかおぼつかないのです・・・。

そのひとつ。会計を担当している県の小児科医の集まりが、この日曜日にありました。
わたしは、出席者に配る領収書の但し書きを間違えてしまったのです。何十人分も。
先週は別の研究会の世話人をしていたので、忙しかったのは事実だけど、
それは言い訳になりません。
慌てて会場で(講演を聴きながら・・^_^;)新しく書き直して配りました。
昨年は、会場に向かう途中の高速でスピード違反で捕まって遅刻するし・・・。
今年は万全を期したつもりだったんだけどなぁ・・・。

自己嫌悪はこれだけではありません。
今度の会では、新生児ご専門の先生の母乳育児に関するご講演がありました。
講演のあとは、会場で質疑応答があります。
ある先生が、講師の先生に質問しました。
そのやりとりが白熱して、まとまりがつかなくなってしまいそうだったので、
つい、つい、ですよ、・・・わたしも発言してしまったのです。
だって、母乳のことだったんだもの。
でも、まとめようと思っての発言が火に油を注ぐような形になってしまい、
聴いていた他の先生方にはおそらく大ヒンシュクだっただろうなぁ・・・。
講師の先生にも、質問なさった先生にも、結果をしては失礼なことをしてしまいました。

こういう時は、しっぽ巻いてさっさと帰ってふとんかぶって寝たい、そういう気分です。
でも、何食わぬ顔で懇親会にも出席しちゃうわたし。ほんとにイヤだ。

思っていること、感じていることを、穏やかにさりげなく人に伝えるのが、
むかしから苦手です。
いや、正確には、その時は気付かなくて、後になって、しまった!と後悔します。

ちいさい頃のわたしは極端な人見知りでした。
小学校の学芸会では、台詞のある役はもらったことがありません。「木」とかね。
今じゃ誰も信じないけど。
長ずるにつれて、自分でもこのままではいけないと思って、
人前で無理してしゃべっていたら、いつの間にか今のわたしが出来上がってしまいました。
空気を読めないつもりじゃないのだけれど、空気を読みすぎて何とかしなくちゃと思って、
黙ってりゃいいものを発言しては失敗する・・、この繰り返しです。
あ・・。こういうのも、空気読めないっていうのかな・・・。

あ~あ、ばかだったなぁ・・。


もうすぐ巣立ち

2009年07月06日 | 日々のつぶやき
今年のツバメたちも、こんなに大きくなりました。
これは、時々羽ばたいている子ツバメです。
落ちそうで落ちないのですが、見ているこちらはハラハラです。
まだ勝手に飛んだりしちゃいけないだろうに、
おなじ兄弟でも、おとなしくしてるヒナと、
親のいないところで羽ばたき練習しちゃうヒナと、いるんですね。
ツバメの世界も、おんなじだぁ。(^_^;)


エサを待つヒナたち。
3羽のヒナのうしろにこんもり白く見えるのは、羽ばたいてたヒナ。
しょっちゅう、もそもそ動いてます。


親ツバメがエサを運んできてるところです。
なかなかシャッターチャンスが難しいです。

巣はいくつかあるのですが、カラスや他の鳥たちにつつかれたりして、
毎回、何羽かのヒナが犠牲になります。
今年も,卵のままだめになったり、巣から落ちてしまったヒナがいました。
そうやって生き延びて、大きくなって海を渡ってまた翌年帰ってくる、
その自然の不思議には脱帽です。

まけちゃいられないぞ、ニンゲン!