ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

小さなヒーロー

2007年08月17日 | 子どもたち
時々かぜをひいて受診する、3歳のお兄ちゃんと、1歳の妹。
お兄ちゃんはクルクルの巻き毛で、一見、女の子みたいに可愛い。
妹のほうは、まだ人見知りの真っ最中、といったことろ。

お兄ちゃんの診察が終わって、妹の番になった。
お兄ちゃんは、お母さんの膝を妹に譲って、そばで見ている。

聴診器を当てているあいだじゅう、妹は、私や看護師の顔を見ては泣き叫ぶ。
あばれてなかなか診察ができないので、お母さんも必死で抱っこする。

と、そのとき。
お兄ちゃんが突然、ウルトラマンの「シュワッチ!!」のポーズをとった。
わたしめがけて、「シュワッチ!」をさかんにしている。
目は真剣そのもの。

彼は、大事な妹がいじめられていると思ったらしい。
ウルトラマンになって、妹をいじめる「ワルイヤツ」をこらしめているのだ。
こんなに小さくて可愛いのに、気持ちはしっかり、アニキなんだ。

ごめんね、お兄ちゃん。いじめてるんじゃないんだよ。(^^;
でも、大事な妹のこと、守ろうとしてくれて、ありがとうね。

きょうだい、って、いいなぁ。

浄土平(じょうどだいら)

2007年08月16日 | 家族
当市のはずれには、国立公園になっている連峰がある。
その頂上付近に浄土平という湿原がある。
ここには天文台があり、天文マニアには結構知られた場所だ。

大学の夏休みで帰省している子ども達を連れて、夜、浄土平までドライブした。
そこは携帯が圏外なので、夫は留守番である。

数年前、長男も長女も、天の川も流れ星も見たことがない、と言った。
降るような星空を当たり前のように眺めて育ったわたしは、ひどくびっくりした。
そうか・・・。
当地のような地方の田舎町でも、街灯やらコンビニの灯のせいで、
わたしの記憶にあるような星空を、この子達は、知らないのだ・・・。

お天気のいい夜に、いつか見せてあげよう、と約束はしたものの、
子ども達にも都合があり、私にも仕事の都合があり、
なかなか、夜の山道ドライブが実現しなかった。

このお盆休みは、連日、猛暑・晴天である。
夜になって吾妻山に目をやると、中腹の温泉宿の灯が見える。大丈夫、晴れている。
思い立ったが吉日とばかり、夕食後に出発した。

ヘアピンカーブを幾重も過ぎ、眼下に盆地の街の灯が宝石をちりばめたように広がる。
「うわぁ~っ!」
「おぉぉ~っ!」
そのたびに、まるで小学生のような歓声があがる。

そして、浄土平に到着。
車を降りると、そこは、天然のプラネタリウムだった。

天の川は真上に流れている。
天文台の方に、こと座のベガと、夏の大三角を教えていただいた。
北の空には、北斗七星と、カシオペア。

流れ星がいくつも夜空を横切っていった。

何億光年という途方もない時間を経て、星の光りは届く。
宇宙の神秘の前には、ただひれ伏すほかはない。
人の悩みや苦しみなどは、なんてちっぽけなものだろうと思えてくる。

そうだった・・・・。
わたしは、幾度となく、この星たちの輝きに、心を救われてきたのだった。

子ども達は、飽きずにいつまでも空を眺めている。
どうだい、きみたちのふるさとも、捨てたもんじゃないでしょう。
これから先、つらいことがあったら、今夜の星空を思い出すといい。
いつか、大切な人と、来れるといいね・・・。


姑(はは)のこと

2007年08月15日 | 家族
ゴールデンウィークの初日、姑が亡くなった。
今年は姑の新盆だ。

2年近く寝たきりだったので、覚悟はしていたが、亡くなったのは、急だった。
連休中のことでもあったので、代診の先生の手配もつかず、
夫は、長男・喪主でありながら、通夜にも告別式にも、参列できなかった。
小児科のわたしの場合は、いざとなれば、他の医院を受診してね、と言える。
でも、お産ばかりは、そうはいかない。
院長は不在なのでよそで産んで下さいね、という訳にはいかないのだ。

わたしの外来だけを急遽、休診にして、子ども2人と共に、通夜と告別式に出た。
夫の実家は、お隣の県、ここから200キロくらい離れた市にある。
葬儀の実際は、姑と一緒に暮らしてくれていた姉夫婦が取り仕切って下さった。
姉夫婦には、ただただ、感謝するばかりである。

長男の嫁でありながら、わたしはまさしく名前だけの嫁であった。
夫の実家に行っても、何もすることがない。(できない。^^;)
「○○子さん、まず、座って、お茶でものめ~」
「○○子さん、まず、これ、食べれ~」
いつも、夫の実家を訪ねるとすぐに、姑のこの歓待が挨拶代わりであった。
夫の実家にはいつもたくさんの人達が出入りしていたので、
どこに座ればいいのかもわからない。
何をするにも、わたしは姑に聞かなければ行動できなかった。
内心は何もできない嫁だと思うことばかりだっただろうに、
わたしに対してはいつも、大らかに優しく接してくれた。

通夜・告別式でも、つい、
「おかあさん、これは・・・?」・・・と姑を探してしまいそうになった。
その姑は、もういないのに・・・。

夫には9歳上の姉がいるが、夫が産まれるまでの間に、2人の子どもがいた。
2人とも、亡くなっている。
原因は、血液型不適合のための溶血性貧血による、黄疸のせいだった。
今だったら救命できるのだが、昭和20年代の田舎でのことである。
2人のうち1人は、2歳まで生きたそうだが、
寝かせるとすぐに痙攣を起こすので、その子が生きている間は、
常に抱っこしていなければならず、布団に横になったことがなかったという話を、
何度も、何度も、聞いた。

舅は産婦人科医、姑は小児科医であった。
共に、太平洋戦争を体験し、姑は東京大空襲も体験している。
2人の子どもを亡くした話をする時の姑は、
涙ぐむでもなく、誰を恨むでもなく、ただ、淡々と語るのだった。
それだけに、子を亡くした親の無念さが、伝わるのだった。

舅は軍医で満州に行っていたが、復員後は、隣県の大学で数年間勉強を続けていたという。
舅が不在の間、家を支えたのは、姑だった。
舗装道路も殆どない田んぼの道を、自転車を押して、毎日40軒近くも往診したこと。
帰ってきたら、自分の食べるごはんがなかったこと。
当時、親戚知人の子ども達を、何人も預かっていたのだそうだ。
何度となく聞いた苦労話には、いつもどこかにユーモアが混じっていた。

姑は、当時の女性としては大柄な人であったが、
その風貌通り、懐のひろい人だった。

2人の子どもを亡くした後に授かったのが、夫である。
夫も黄疸が強かったらしいが、幸いにも無事であった。
大事に大事に育てたであろう長男の嫁が、一人娘だなんて、
本心では許せないことであったに違いない。

それでも許していただけたのは、
子どもを亡くしたという体験があるからだったのかなぁ、とも思う。
生きて、しあわせに暮らしていればいい、という気持ちだけで、
わたしのような世間知らずを嫁に迎えて下さったようにも思う。

姑は2年前に軽い脳梗塞になった。
それでもまだ少しは会話もでき、食事もできるということだったが、
以前のような気力が次第に衰えてきていると、姉から連絡をいただいた。
ちょうどその頃長男が高校を卒業したこともあり、
夫は地元の大学に留守手伝いの先生をお願いし、一家で姑に会いに行った。
皆でレストランで食事をしたのだが、姑は、病気のせいもあり、
一ヶ所にじっと座っていることが困難だった。
変わり果ててしまった姑の表情や姿に、わたしはかける言葉を失っていた。
結局レストランの入り口のソファで横になって休む姑に、
皆が食事が終わるまでの間、交代で付き添った。
わたしがそばにすわると、姑は目を閉じたまま、細い声でこう言った。
「○○子さん、ごめんなさいねぇ・・・」
姑は、自分のからだや心が思い通りにいかないことを、わたしに詫びるのだ。
それは、姑の正気の部分が、あるだけの気力をふりしぼって言ったようにも思えた。
(おかあさん、ごめんなさいは、わたしのほうです・・・・)
姑の手をにぎり、背中をさすりながら、声がつまってしまって言葉にならなかった。

姑との会話らしい会話は、それが最後であった。

わたしたちのクリニックの院長室には、「忍」と達筆な筆で書かれた色紙が掛けてある。
それは、わたしたちが開業する時に、姑から夫に贈られたものだ。
その色紙は、姑が嫁ぐ際に、姑の実家の父が姑のために書いたものだという。
(姑の実家は寺で、姑の父親はそこの住職であった)
姑が亡くなった後、色紙の額の裏側から夫に宛てた手紙を発見した。
そこには、自分の元へ帰ってこない選択をした息子への母親の覚悟と、
それを受け入れる大きな愛情が込められていた。

姑は、いつも家族の中心にいた。
大きな山の裾野に広がる沃野ような、ふところの広いあたたかい人であった。

 おかあさん、ごめんなさい。
 そして、ありがとう。
 わたしはあなたが、大好きでした。

合掌

同級会

2007年08月12日 | Weblog
11日に、中学校の同級会があった。
ほんとは身辺イロイロあって、同級会で浮かれてる立場ではなかったのだが、
幹事だったので、出席した。

卒業以来久しぶりの人もいて、中には、
えっと・・、どちらさまでしたっけ? なんて人も当然いるのだけど、
話しているうちに、タイムスリップしてしまう。
ほんとはみんな、メタボに注意!の中年のオジサン・オバサンなんだけど、
「全然変わんないね~♪」・・なんて言えちゃう。(^^)
何かで読んだのだが、そういう時は、過去の映像で相手を見ているらしい。

ご来賓で出席していただいた先生方も、矍鑠(かくしゃく)としてお元気だった。
思えば、中学時代の恩師の年齢を、とっくに越えている私たち。
でも、恩師にはまだまだかなわないなぁ、と思う。
コワイだけだと思っていた先生が、以外に優しく話しかけてくれたり・・。
立場上、言わねばならぬことは、きっとたくさんあったに違いない。
今になってみると、あの頃の先生方のお気持ちが、少しはわかるような気がする。

わたしたちの学年は結束が固いらしく、5年毎に学年全体の同級会をやっている。
悲しいことに、訃報もあった。

生きていると、いろんなことがある。
ドラマのような人生を送っている人もいる。

社長さんも、部長さんも、所長さんも、大学教授も、先生も、お母さんも、
同級会では、み~んな、ただの昔の中学生だ。
臆面もなく呼び捨てにできるのも、同級生だからこそ。
肩書きのいらない時間を過ごすのも、中年以降は大事なことだよなぁ。

何人かの同級生から、
ひまわりさんて、昔はもっとオトナシかったよねぇ、
と言われた。
え~、そうかなぁ、アタシは、結構お調子者でさわいでいたけどなぁ、
というのは、自分の記憶。
私の中学校は、小学校から持ち上がりの生徒がほとんどで、
私は中学からの、いわゆる「外部生」のひとりだった。
個性的な同級生が本当に多い学校だったから、たぶん埋もれていたんだろうなぁ。
わたしなりに、うんと気をはっていたのは事実。
(ネコをかぶっていた? ^^;)
それが「オトナシイ」という印象になったんだろうなぁ。

楽しいことはたくさんあったけど、悔しい思いもいっぱいあった。
でも、そのどれもが、大切な宝物だ。
だって、その時間があったから、今のわたしがいる。

自分の知らない自分発見も、同級会の楽しみかも。

(でも、幹事はそろそろ「卒業」したいなぁ・・・)

原爆模擬爆弾

2007年08月06日 | Weblog
8月6日のヒロシマと、9日のナガサキは、誰でも知っている。
でも、「原爆模擬爆弾」というものの存在は、実際に被害にあった地域の、
限られた人しか、知らないのではないだろうか。
実はわたしも、つい最近まで、知らなかった。

原爆模擬爆弾というのは、
米軍による人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練と、
爆発後の放射線から逃げるための急旋回の訓練を目的として、
1945(昭和20)年7月20日から8月14日にかけて、
1都2府15県29市町(現在の自治体数)の44目標に49発が投下されたのだそうだ。
これにより、約420人が死亡、約1200百人が負傷したらしい。
しかも、模擬原爆と判明したのは1991年ことだとか。
勿論、模擬爆弾だから、中身は原爆ではなく普通の爆弾だったそうだが・・。

先月、7月20日に、
ひょんなことから市民ミュージカルの手伝いをする「はめ」になった。
舞台裏で「ドレミの歌」をキーボードで弾けばいい、という内容だったし、
開演は夜だからということで、気軽に引き受けた。
ミュージカルの内容なんて、勿論知らずに。

台本を読んで、びっくりした。
それは、当市に落とされた原爆模擬爆弾で亡くなった少年の追悼と、
その事実を現代の子どもたちに語り継ごうという目的のものだったのだ。
7月20日は、その少年の命日なのだ。
ミュージカルは、その少年のお墓があるお寺の本堂で行われた。
そのお寺には、爆弾の破片が今も保管されている。
ミュージカルは今年で3回目になるのだそうだ。

台本を書いたのは、数年前に当市に勤務していた、ある企業の支店長さん。
きっかけは、飲み会での話題だったそうだ。
支店長さんが、「この街は空襲の被害がないからねぇ。」と言ったところ、
いや実は、これこれこうで、1人亡くなっている、
しかも、肝腎の当市民にも殆ど知られていない、と聞いたことだそうな。

初日の練習が終わって帰宅してから、母に尋ねてみた。
この街でも亡くなった子どもがいたらしいが、知っているか、と。
戦争を体験している母も、知らなかった。
母はその当時、爆弾が落とされた地区から5~6キロぐらい離れた所に住んでいた。
爆音も地響きも、ものすごかった、という。
でも、当時の地元新聞には、爆弾を落とされるも、被害は極めて軽微なり、
としか報道されなかったそうだ。

母いわく、おそらく当時は、不名誉なこととして伏されていたのだろう、
ということだ。
事実、その少年の葬儀は身内だけの密葬だったらしい。

こういったことが、大なり小なり、日本各地であったのだと思う。

原爆が恐ろしいものであることは、日本国民なら誰もが知っている。
でも、果たして、広島県民・長崎県民以外の人達のどれだけが、
「自分に近いこと」として認識しているだろうか。
もしかしたら、「遠く離れたところでの出来事」とつい思ってしまうことはないだろうか。
原爆投下地出身の、さる元大臣までもが、「しようがない」などど発言する始末である。
恥ずかしいことに、私も、わかっているつもりで、わかっていなかったと思う。

争い事をなくすのは、不可能なことだ。
さまざまな人種・宗教の違い・利権のからみはなくならない。
そもそも動物には、闘うという本能がある。
これは人間とて同じこと。
でも、「戦争」をなくすことは、不可能ではない。
武力を用いずに、争えばいいのだ。

そして、そのために大事なことは、教育なのだと思う。

「教育と農業が滅びると国家が滅びる」
と言ったのは、司馬遼太郎さんだったっけ・・・。