ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

浜通りの親戚の避難先が判明

2011年03月24日 | 東日本大震災
3月15日
連絡がつかなかった浜通りの親戚の避難先がわかりました。
ガソリンがやや心配だったけれど、夕方、外来が終わってから、迎えに行きました。
場所は、川俣(かわまた)町ということろ。
福島市からは約20キロほど離れた街です。

避難先は、川俣町内の、ある小学校でした。
すでに成人している息子との親子3人で避難していました。
その親戚一家は、我が家との血縁は遠いのですが、
母とそのおばちゃんは、子どもの頃に姉妹のように育った関係でしたので、
いつも母のことを「姉ちゃん」と呼んでいました。
毎年、季節になると、浜でとれるホッキ貝などを送ってもらったりしてました。

その小学校では、地区ごとに、教室や体育館などに振り分けられていました。
親戚一家は、体育館にいました。
おばちゃん、うちに行こう、と勧めるも、ここにみんなといる、と。
ご主人も、長期戦になるから、当分ここにいるから、いい、と。
すぐそばで寝ていたお婆ちゃん(80歳は越えているでしょうか)も、
この人たちを自分はとても頼りにしているので、どうか、連れていかないで下さい、と。

母はそのようになることを予測していたらしく、
○○子(おばちゃんのこと)は多分来ないと言うと思うから、念のために持って行け、
と言われ、準備してきた毛布やら着替えやらリンゴ・お茶などを渡し、
仕方なくまた一人で帰ってきました。

避難所は、高齢の方々がとても多く、皆疲れていました。
おばちゃんたちの家は半壊状態ですが、
当然のことながら、家ごと津波にさらわれた方々、
身内の行方がわからない方々もおられたようです。

帰り道、涙が出て止まりませんでした。
あそこにいた方々は、これから先、いつまで避難所にいられるのだろう。
おじさんの言うとおり、確かに長期戦になる。
その長期戦とは、壊れた建物の瓦礫を片付け、新しくするとか、
道路を復旧させるまでとか、そういうたぐいのものではないのです。
原発事故が今後どうなるのか、先の見通しがまったくありません。
果たして、人が住める街に戻るのか、どうなのか・・・。

医者のくせに、せっかく避難所まで行ったのに、
何の医療品も持たずに出かけたことも、悔やまれてなりませんでした。


気仙沼の後輩の消息確認

2011年03月24日 | 東日本大震災
3月15日
毎日のように、TVからは被災地の映像が流れます。
大学の部活の後輩が、気仙沼市で開業していました。
壊滅状態になっている気仙沼市の映像が、You Tubeでも流れています。
学生名簿で住所を確認し、地図を見ると、ちょうど壊滅状態の街のまん中あたりです。
母校の先輩・後輩・同級生たちも皆、心配していました。
無事に逃げてくれてればいいが、と。

学生の頃からマメなことではひけをとらない同級生が、グーグルで検索し、
たまたま、消息がわかりました。
後輩一家は、高台に避難して無事でした!
クリニックは津波でやられたそうですが、
生きていれば、何とかなります。
本当に良かった!

ついでに、大船渡の同級生も無事だったそうな。

この災害で無念にも命を落とした方々のためにも、
わたしたちはこれから先、自分たちの住む街を立て直していかなくちゃなりません。

ついに3号機までが爆発!!

2011年03月24日 | 東日本大震災
3月14日午前11時1分、
ついに、3号機までが水素爆発してしまいました。

東電の発表も、NHKの解説委員の説明も、なんだかありきたり。
ひと言ひと言が、どうも他人事のようにきこえてしまうのは、わたしだけ?
アンタたち、福島県民や日本国民をナメとるンかい!!??

と言いたい。

でも、ここ福島市はまだ大丈夫、何とかなる、
浜通りからの避難の方々を快く受け入れて、できる限りのお世話をしよう、
そしてこの原発騒動がいずれ収まったら、
みんな地元に戻れて、街の復興にも着手できるだろう、
なんてこの時はまだ、わたしも(おそらく被災地以外の県民も)考えていたのです。


福島第一原発・3号機

2011年03月24日 | 東日本大震災
3月13日
この日になって、今度は福島第一原発3号基に水素爆発の危険性が出てきたとのこと。
3号基は使用済み核燃料と報道してるけど、これってプルサーマルのこと?
だとすれば、プルトニウムが入ってるということ?
プルトニウムの半減期は、2万4千年だそうな。

これが万が一爆破したら、いったいどうなるの!?

福島県での行方不明者は、1000人以上とのこと。
原発で避難した人たちは、何も持たずに移動してきた人もいるらしい。
壊れた家の片付けもできず、行方不明の家族を捜す間もなく、
とにかく避難せよ、と・・・・。

これからますます、避難者が増えそうです。

放射線も気になるところ・・・。

いったいどうなるんだろう・・・。

地震翌日、福島原発が!

2011年03月24日 | 東日本大震災
地震翌日の土曜日。
ちらばったカルテやら本などをスタッフみんなと片付けながら、
一応外来はあけておきました。
来院したのは、たった3名でしたが・・・。

浜通りから転院してきた産後3日の赤ちゃんとお母さんは、
幸いにも、元気です。

停電は昼頃に回復したものの、断水はいつまで続くのか、
福島原発は大丈夫なのか、
そんな不安をかかえたまま、ガソリンスタンドはすでに長蛇の列、
コンビニやスーパーはしまっているか、
開いていても、食料などは殆ど売り切れ状態で、
売っているのは煙草やら酒類ばかり。

浜通りの親戚とはまだ連絡がつかず、
どうも、街ごと流された地域もあるらしいなど、憶測ばかりが広まります。

電気が復旧したおかげで目にするTVの被災地の画像は、
本当にこれが現実なのかと、にわかには信じられないもの。

気仙沼にいる大学の後輩はどうしているか、
そういえば、大船渡には同級生もいるはず、大丈夫だろうか、
宮城県の岩沼には、うちのクリニックに勤務していた看護師一家がいるはず、
彼ら、彼女らは大丈夫か、仙台の先生方はご無事か・・・、

そんな心配が、次々と脳裏にうかび、
我が家の片付けも手につけられない心境のまま、
またいちにちが過ぎました。

相変わらず、余震も頻繁です。

その上、こんな時になんということか、
昨日断水にそなえて風呂の水くみをしていてうっかり濡れてしまった携帯が、
まったく機能しなくなってしまいました。

なんという間の悪さ・・・。

そして、福島第一原発の1号機がついに爆発した!!
あぁ・・・、不安は現実のものとなってしまいました。
福島第一原発の周囲20キロ以内の住民は避難勧告とのこと。
東京電力や政府の発表は、いまいち奥歯にモノが挟まったよう。

大丈夫か!? 福島県!!!



3月11日午後2時46分!

2011年03月19日 | 東日本大震災
その日、午後の外来が始まって少しして、
白衣のポケットに入れていた携帯のブザーが突然鳴りました。
その時診察していたのは、たまたま大人のアトピー性皮膚炎の女性でした。

携帯のブザー音がなんなのか、ピンとこないわたしに、患者さんの女性が言いました。
「それ、地震ですよ。地震が来るんです。」

へえ、今の携帯って、便利なんだ。
機種を変えたばかりだったので、そんな呑気なことを考えた瞬間、ぐらっときたのです。

かなり、大きい。

また、ぐらっと来る。さらに大きい。
いつまでも続きます。

パーティションの隣で内科外来をしている母は、咄嗟に外の中庭に逃げました。
その直後、母の診察机に向かって、スチールの本棚が倒れました。
間一髪でした。

その日の午後のわたしの外来には、
産科を退院後1週間~10日の発育測定も兼ねた健診の予約の赤ちゃんが数名います。
みんな、来院していました。
お母さん達は赤ちゃんをぎゅっと抱っこしたまま、処置室のベッドの脇にうずくまりました。

わたしは、中庭と診察室の間のサッシ戸につかまりまがら、
うちのクリニックは大丈夫、倒れないから大丈夫、と声をかけるしかありませんでした。

揺れは、なかなかおさまりません。

診察が終わった患者さんたちも、帰るに帰れないでいました。

ようやく大きな揺れがおさまり、小一時間たって余震もやや収まったものの、
すでに停電していて、もはや診療を続けられる状態ではありませんでした。
残っていた患者さんや健診の赤ちゃんたちを大急ぎで診察し、
気をつけて帰るように見送りました。
まさか同時期に宮城沖・茨城沖でも同様の地震が発生していて、
その時間帯に、福島県浜通り・宮城・三陸沿岸には大津波が押し寄せていたことなど、
知るよしもありませんでした。停電でVも観ることができなかったので。

ただ、福島原発は大丈夫か、それが気がかりではありました。

停電になってしまったので、だんだんクリニック内も寒くなってきました。
余震も頻繁に起こります。
母親学級やミーティングなどをする広めの部屋にマットを敷き、
入院中の産婦さん8名と、地震発生1時間前に緊急帝王切開を終えたばかりの産婦さん1名を移動させ、
看護師・助産師・受付・中材・厨房スタッフなど10名ほども一緒に泊まり込み、
石油ストーブとアロマキャンドルで一夜を明かしました。

その夜、ラジオのニュースで、太平洋沿岸が大変なことになっていることを知りました。

自宅は屋根瓦が落ち、割れた食器や本やCDが散乱していましたが、
こんなものは被害のうちには入らない。

浜通りに住む親戚や、福島原発・女川原発は大丈夫なのか、
再び心配になりました。

それでもまだ、この状態を私たちは楽観していたと思います。

大変なことになってしまった!!

2011年03月05日 | 医療
つい最近、肺炎球菌ワクチンとヒブ(髄膜炎菌)ワクチン接種後に、
4人の乳児が死亡したとのこと。
お亡くなりになったお子さん方のご冥福を、心よりお祈りいたします。

今日3月5日から、因果関係など詳細が解明されるまでの当面の間、
それぞれのワクチンの接種を見合わせるとのことです。
国や厚労省というお役所の立場とすれば、これは仕方ない対応なのでしょう。

・・が、
かつてのMMR(麻しん・風しん・おたふくかぜの混合)ワクチンや、
最近の日本脳炎ワクチンの二の舞にならなければいいが・・・、
と危惧しています。

肺炎球菌ワクチンもヒブワクチンも、一部の途上国をのぞいた世界各国で、
もう10年以上も前から「定期接種」としてすすめられているワクチンです。
先進国の中では一番遅くに、ようやく日本でも導入され、
高価なワクチンながらも、だいぶ普及してきたところでした。
最近になってやっと、公費補助の制度もできつつありました。

そこへ持ってきての、この出来事です。
全国の小児科医たちも、当惑しています。

乳児が肺炎球菌や髄膜炎菌に感染し髄膜炎を発症すれば、
命を落とすか、助かっても殆どに後遺症が残ってしまいます。
これは、麻しんなどにも起こりえます。(麻しんはウイルスですが)
わたしも、そういったお子さんたちを何人か診てきました。
また、年長児でも、治りにくい中耳炎の原因菌として、
肺炎球菌や髄膜炎菌はたびたび検出されます。
最近ではこれらの耐性菌(抗生物質が効きにくい)も問題になっています。

髄膜炎を発症して亡くなった、あるいは後遺症を残してしまった、
というお子さんたちの親御さんの思いはどれほどのものか、
それは、わたしにとっても今でも、
「あの時のあの患者さん」として記憶に残っています。
そういう時、医師も悔しく情けなく、気持ちの置き場がありません。

一方、ワクチン接種後にお子さんを亡くした親御さんの思いも、
想像するに余りあります。
今までわたし自身には、ワクチン接種後の重篤な副作用の経験はないのですが、
もし、接種したお子さんたちがそのような状況になったら・・・。

どちらの立場になっても、せつない。辛い。悔しい。

今日から親御さんたちにどのようにご説明すればいいのか・・・、
わたしたちも、混乱しています。

ワクチンの目的は、ただひとつ。
子どもたちの健康と未来です。
国や医師の利益ではなく。