ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

お詫び

2013年05月01日 | Weblog
わたしのブログにご訪問下さっている皆さま。

このたび、わたしの手違いで、非公開ご希望のコメントが約半日間、
公開されたままになっておりました。

コメント下さった方、本当に申し訳ございません。

また、個別にご連絡して下さった方々、
ご心配をお掛けして申し訳ございませんでした。

 *公開されていたコメントには個人情報が含まれていました。
  もしご覧になった方々には、大変申し訳ございませんが、
  取り扱いにはくれぐれもご配慮のほど、何とぞお願いいたします。
 
今後はこのようなことのないよう、十分注意いたします。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。
本当に申し訳ございませんでした。






事業仕分けの疑問・学力テスト

2009年11月25日 | Weblog
政権が替わり、事業仕分けの様子が連日のように報道されます。
わたしたちの税金の使い道が、無駄のないように検討されるのは、大いに歓迎すべきところ。
でもさ。
なんか、疑問なんだよね。
一見無駄と思われることでも、
10年・100年先のことを見据えた研究なり仕事は必要でしょう。
なんでもかんでも、「まず削除・削減ありき」でとらえていませんか?

そのひとつが、スーパーコンピューターの開発の縮減と学力テストの大幅縮減。

こんなこと書くと、アンタはイシャだから、勉強ができたから、そう思うんでしょ、
って言われそうだけど、そうじゃない。

競うことは、いけないことですか?

スポーツ少年団は?
サッカーは?
野球は?
中体連は?
インターハイは?
国体は?
箱根駅伝は?
ワールドカップは?
オリンピックは?
さまざまな、コンクールは?

学問や学力は、競ってはいけないのですか?

競うことで、自分の位置がわかり、それを励みにしてさらに上を目指す。
自分のために。

人を見下すのではなく、自分の励みとして、自分の位置を知る、
そのひとつとしての学力テストなのではないですか?

勉強ができることがエライのではなく、自分自身のためのものとしての学力テストなのだ、
と、児童生徒に教育するのが、先生方のお仕事でしょう。

社会に出れば、あらゆる場面で競わなければなりません。
悔しい思いも、情けない思いもします。
そのトレーニングのひとつとしてとらえても、いいじゃないですか。

日本国憲法で謳っている「人は皆平等」という文言、
これは、「みんなが同じ」ということではないはず。
それを、何か勘違いしてませんか?

人はみんな、ひとりひとり、違うのです。違って当たり前なんです。
違うことは、悪いことじゃない。
かけっこが遅いことも、算数ができないことも、人として劣っていることじゃない。

あれは、息子が小学校に入学して初めての運動会の時のことでした。
私に似て運動神経が欠如しているひ等しい息子が、なんと、かけっこで2等賞でした。
「すごいねぇ!! 頑張ったねぇ!!」
親バカですから、心から喜び、息子の健闘を讃えました。
でもね。
よくよくその内容を後で知ると、
あらかじめ行った体力テストで、タイムの速い児童、遅い児童、のグループに分けて、
かけっこのグループを決めていたのです。
これでは、意味がないでしょう。
一等賞もいれば、ビリもいる。
それが、世の中です。
でも、一等賞もビリも、人の価値としての優劣ではないのです。
それを小学校の時に教えずに、見せかけの平等で大事な子ども時代を過ごしたら、
いざ世の中に出て、本当に競わなければならない時に、心が付いて行きますか?

わたしは、可哀想に思いましたが、息子に言いました。
あのね、2等賞は、本当のオマエの実力ではないんだよ。
でも、頑張って走ったのは、偉かったね。

1年生の息子には、はじめピンとこなかったようでしたが、
学年が進むにつれて、母の言ったことを理解していたようです。

スポーツや芸術を競いあうように(正確には、芸術は競い合うものではないと思いますが)、
学力だって、競い合っていいと思います。
そこで、人を見下すことなかれ、と教え続けること、それが一番大切なことだと思う。
わたしがかつてK先生から教わったように・・・。
いい意味での競い合いがなければ、学力の向上も望めないでしょう。
今現在の子ども達の学力が向上しなければ、日本の将来はどうなるのですか。

ここで言う学力とは、判断力や創造力につながる総合的な学力という意味です。
その基礎となるのが、小学校で学ぶ、「読み書きそろばん」なのだと思います。
学力テストは「読み書きそろばん」の力試しではなのいですか?

何度でも言います。
学力を上げるためには、学力テストは必要です。
今現在の自分の位置がわからなければ、その後の方針も立てにくい。
これは、スポーツなら当たり前のことでしょう。
マラソン選手が時々後ろを振り返るのだって、そうでしょう。
国策として子どもの学力を上げることが無駄とは、わたしには思えないのですが。
(都道府県別ランキングとかは、どうかな~、とは思うけど)

マニフェスト

2009年07月27日 | Weblog
このところ、新聞でもTVでも、与党と野党とのマニフェスト合戦の話題でもちきりです。
一般国民のわたしたちから見たら、足の引っ張り合いのようにも見えますが・・・。

次期政権をとるかも知れない野党のマニフェストに、子ども支援が盛り込まれていました。
それはそれで歓迎すべきなんだけど・・・・、
「絵に描いた餅」を見せられているように感じてしまうのは、わたしだけでしょうか?

子どものいる家庭に、子ども一人あたりの育児給付金なるものを補助して下さるそうです。
それは大歓迎ですが、子どものいない家庭にしわよせが及ぶようになったらいけないですね。
高校生も(公立かな?)授業料は無料にする、とか・・・。
でもさ、高校生ぐらいの年齢になれば、勉強したくない子だっている。
高校の授業料を無料にするぐらいなら、保育園の負担をもっと軽くして欲しい。
保育園児を持つ親御さんは年齢も若いですから、お給料だって多くはありません。

子育て支援として金銭的バックアップをはかるのであれば、
0歳児~小学生(できれば中学生)までの年齢層の子ども・家庭に、もっと援助して欲しい。

そして、どこの保育園・保育所でも、お預かりするお子さんの人数に対して、
ギリギリの保育士さんの人数配置なのです。
ひとりでも手のかかるお子さんがクラスにいれば、大変です。
そのための補助要員の保育士さんを増やそうとするには、
そのお子さんが「手がかかる=発達障害」といった「診断書」がないと、
補助要員はつけていただけません。
こうして、書類上の「発達障害児」が増えてしまいます。

発達障害児がいけない、ということではありません。
ただ、なんでもかんでも、ちょっと手がかかると障害児扱いにしないと、
まともに子どもの世話もできない世の中になってしまっている、
そのことが、とても残念に感じるのです。

(発達障害については、本題とずれてしまうので、また別の機会に・・・)

0歳児なら3~5人にひとりの担任、
小学生なら、10~20人にひとりの担任、中学生なら、20~30人にひとりの担任、
で、義務教育の期間は、どのクラスも、担任と副担任がいて、
新米教員は数年間は副担任として現場の勉強をする、
このぐらいの制度改革はできないものなのでしょうかねぇ・・・。

医療の現場はもちろん大変ですが、
実は教育現場はもっと大変なことになっていると感じています。
医師にはまだ、研修医制度があります。
医師免許を取得しても、いきなり新米がひとりで患者さんを受け持つことはありませんが、
教育現場では、新任教師がひとりでいきなりクラス担任とかしてるでしょう?
本当は、学校や幼稚園の先生たちだって、数年間の研修期間は必要だと思います。
ましてやこのご時世、想像もつかないクレームをつける親御さんもいるでしょう。
資格だけで経験のない若い先生方には、あまりにむずかしい試練だと思います。
先生にも「不登校」や「うつ」が増えているらしい。

でも、保育士さんや教員を増やすためには、その報酬も必要なんですね。

それを、どうにかできないものなのでしょうか。

ゆとり教育を見直せといったって、
「ゆとり」の教育システムに対しての報酬が決まっています。
多くの先生方は、ほとんどボランティアで課外の業務をこなしているのではないでしょうか。
その上、生徒や親から罵倒されたのでは、たまりません。
(医師と同じで、なかには困った先生もいらっしゃるかも知れませんが・・・)

今の学校現場の疲弊と崩壊は、そのまんま、近い将来の医療現場と同じです。
いえ、すでに同じになりつつありますね。

保育園・保育所は管轄が文科省ではなく厚労省ですから、事情は少し違いますが、
人数を増やしたくても、報酬の面で増やせないのは同じだと思います。

例えば・・・、
保育園の数を増やす。保育士の人数を増やす。保育料の負担を軽くする。
小学校、中学校のクラスを少人数性にして増やす。
そのための担任教諭も増やす。
栄養士・養護教諭・学校カウンセラー(臨床心理士)も、全ての学校に配置する。
(これらの資格をもった人たちも就職ができます)

インフルエンザ・おたふくかぜ・水痘・肝炎・ヒブ、など、
現在任意で有料のワクチンを、全て無料にする。
全国の中学生までの医療費を、無料(が無理ならせめて1割負担でも)にする。

一家庭あたりいくら、という支援も結構だけど、せめてこっちをどうにかして欲しい。

高校生になる以前の、もっと小さい子どもたちが生活している全ての場面での支援を、
何とかして欲しいものですね。

この国の将来を本当に憂えて何とかしようとするなら、
まずは教育(勉強の教育だけじゃなくて)と健康維持にお金をかけないと・・・。

本当にそういうことに財源を導入するのなら、消費税が多少上がったって、
文句を言うひとは少ないと思うのですが・・・。

市民ミュージカル「人類の破片」

2009年07月20日 | Weblog
昭和20年、全国各地に原爆模擬爆弾が投下されたことを、2年前に書きました。
7月20日は、当市に投弾された模擬爆弾によって亡くなった少年の命日です。
追悼の市民ミュージカルは、今年で5回目になります。

写真は、亡くなった少年が眠っているお寺で保存している、実際の爆弾の破片。
長さは約50センチ、重さは約15キロだそうです。

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      【あらすじ】

場面は昭和20年頃。
兄と弟が紙飛行機で遊んでいます。
弟が、紙飛行機を木にひっかけてしまいました。
兄が、弟を抱きあげて、ひっかかった紙飛行機を取ってやっていました。
あんちゃん、また紙飛行機作ってね。弟が言います。
どこにでもある、兄弟のほのぼのとしたシーンです

場面は変わって、平成21年7月20日。
小学校教師のケイコ先生は、生徒たちを連れて、
近くのお寺に原爆模擬爆弾の破片を見学に出かけます。
太平洋戦争がどういうものだったかを、ヒロシマやナガサキだけではなく、
子どもたちに、身近なこととして知ってもらうためです。
先生と生徒たちは、ドレミの歌をうたいながら出かけました。
ところが生徒たちは、爆弾などには興味がなく、怖がってしまって、
勝手にどこかへ遊びに行ってしまいました。
ひとり残ったケイコ先生は、調子っぱずれのドレミの歌を口ずさみながら、
子どもたちにどう説明したらいいのか、考え込んでしまいました。
(ケイコ先生は音痴という設定です)

一方、場面は昭和20年7月20日に変わります。
タカオ少年が、朝から田圃に出かけ、田の草取りをしています。
その時、少年の耳に、聞き慣れない歌が聞こえてきます。
 ♪ド、はドーナツのド、レ、はレモンのレ・・・♪
「あれ、なんだべ・・・??」
少年は不思議に思いながら、田の草取りを続けていました。
そのうちに、今度は、音程の狂ったドレミの歌が聞こえてきました。
「誰かいるんですか~?」
タカオ少年は尋ねます。

するとその声はケイコ先生にも届き、7月20の同じ日、同じ時間、同じ場所で、
昭和20年と平成21年の時空を超えて、ケイコ先生とタカオ少年が会話します。

 あなたは誰ですか?

 どこから来たのですか?

 どこにいるのですか?

その時、ケイコ先生が自分の携帯の画面を見ると、
なんと、昭和20年7月20日になっているではありませんか!
ケイコ先生は、慌てて、持って来た資料の、当時の新聞を確認します。
昭和20年7月20日、午前8時30分過ぎ、この町に爆弾投下。
そこでケイコ先生は気付きます。
「も、もしかしてあなたは、タカオさんですか?」
声の主はそうだと答えます。
ケイコ先生は、慌てました。
「タカオさん、早く、早く、逃げてください!!」
必死に呼びかけますが、その声はなかなか伝わりません。

その頃、タカオ少年の耳には空襲警報が聞こえていました。
ずいぶん長い空襲警報だなぁ・・・・。
・・・・・と思っていたところに爆音が響き・・・・。

しばらくしてタカオ少年は、自分が死んでしまったことに気付きます。
少年の亡骸を発見したケイコ先生は、
「間に合わなかった・・・、」
・・・と泣き崩れます。
その時、幽体離脱したタカオ少年と出会います。

タカオ少年は、矢継ぎ早にケイコ先生にいろいろ尋ねます。


せんせは、いつの時代のひとですか?

 ・・・・64年後の、平成21年から来ました・・。

平成? 天皇陛下は・・? 64年たった・・・。
せんせ、この戦争は日本が勝ったんでしょう?

 ・・・・ケイコ先生は答えられません。

少年は尋ねます。

せんせ、この大きい爆弾は、何?

 ・・・(ケイコ先生は、言うべきか迷いながら)
 ・・・・せ、世界初の、げ、原爆模擬爆弾、です・・・。

少年はびっくりして、さらに尋ねます。

せんせ、爆弾で死んだのは、オレだけでしょう?
世界初の、・・原爆、って、・・なに?
そのあとに、なにがあるの? 教えて、せんせ・・・。
もうアメリカは、他にこんな爆弾は落としてないよね?

 ・・・・ケイコ先生は、目を真っ赤にして首を振るだけです。

じゃあ、64年後は、平和なんでしょう?
さっき、♪シー は しあわせよう、 ・・て歌ってた・・・。

 ・・・・ケイコ先生は答えられず、両耳を手でおおってしまいました。


タカオ少年は、ケイコ先生の様子に、すべてを悟りました。
そして、ケイコ先生の持っている携帯電話を借ります。
未来は田圃からでも電話できるんだね。
そう言って、届かないはずの電話で、かあちゃん、ねえちゃん、弟たちに、
最期の言葉を、電話で話しかけます。

 かあちゃん、俺です、タカオです。

 かあちゃん、おれ、田の草取り、がんばったんだよ。

 ごめん、田の草、残してしまった、・・ごめん。
 
 かあちゃん、俺、おっきな爆弾受けてしまった・・。

 俺の設計した飛行機にのせてやること、もうできね・・・。

 かあちゃん、兄弟たちに、伝えてください・・。

 あんちゃんは、もう、だめだ・・・。

 弟たち、ねえちゃん、みんな、生きろよ・・・・。


場面は変わって、また平成21年に戻ります。
ケイコ先生は、お寺の境内で気を失って倒れたことになっていました。
携帯の画面が壊れたぐらいで良かったよかったと、校長先生も安心していました。
音感の良くないケイコ先生が、子どもたちの歌の指導を上手にできたことも、
奇跡的だと校長先生はとても喜んでいました。
ケイコ先生は今度、広島にお嫁にいくので、学校を辞めるのです。
子どもたちは、お礼にドレミの歌をうたいました。
そして、先生に感謝のことばを伝えていました。
原爆模擬爆弾のことを教えてもらって、ありがとうございました、と。
そして、タカオ少年のお姉さんからも、学校に感謝のお手紙がきていました。
子どもたちに、少年のことを伝えてくれたことです。

また場面は変わって、お姉さんからの手紙の朗読とともに、
お姉さんの回想シーンになります。
タカオ少年は飛行機が好きで、いつか自分が設計した飛行機に、
ねえちゃんたちを乗せてあげると言っていたのだそうです。
昭和20年7月20日の朝、田圃に出かける少年を最後に見たのはお姉さんでした。
爆音が鳴り響いたあと、お姉さんは胸騒ぎがして必死になって弟を捜しました。
そして、田圃で変わり果てた弟の姿を見つけたのです。
家族の悲しみの中、
(ねえちゃん、生きろよ・・・・)
お姉さんには、弟の声がかすかに聞こえたように感じたのでした。
その後お姉さんは看護婦となり、若くして亡くなった弟の冥福を、
看護の仕事を通して祈り続けてきました。

最後の場面でタカオ少年がふたたび登場します。

 せんせい、きっといつか、せかいじゅうのひとが まあるくなって、

 ドーナッツ、っていうお菓子、たべれるよね

 ♪ドー は ドーナッツ、ソー は あおいそらー

 ♪シー は し・あ・わ・せ・ようー

 みなさん、し・あ・わ・せ・に~


得意だった紙飛行機を手に持って、舞台を一巡します。
実際に舞台を観に来て下さっている、
実在の「タカオ少年のお姉さん」の前にその紙飛行機を捧げ、
最後は破片の上に紙飛行機を置いて、幕になります。

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この日は、まだご存命のお姉様のほかに、
タカオ少年の同級生の方々も多数おいでになっていました。
広島・長崎の方々も毎年いらして下さっているとのことです。

タカオ少年が眠っているお寺の本堂で行われるので、
いわゆる「舞台」とはまた違ったお客さんと出演者との一体感があるようです。

わたしはほんの裏方の手伝いにもならないぐらいの役割ですが、
(しかもドレミの歌の伴奏の出だし間違えるし・・・(T_T) )
タカオ少年や出演者の方々の熱演には、つい涙が出てしまいます。

5年前、たまたま当市に転勤でいらしていた方が、
この事実をもっと広めなければいけないと考えて下さって、
脚本から演出まで手がけてくださり、始まった劇。
今も多くのボランティアの方々の協力で、上演することができています。

人の記憶は、歳月とともに風化されます。
あるものは美化されて残り、あるものは存在さえも無くなってしまうことも・・。
次の世代に語り継がなければならない事実を、わたしたちは忘れないように、
せめて年に数回でも思い出す日は、必要なのだと思います。

 (台詞などは、一部略してあります)

なんか、おかしい

2009年06月28日 | Weblog
 図は、農林水産省で出した各国の食料自給率です。
 先進諸国の中で、日本は圧倒的に低いんですね。

 わたしが子どもの頃、よく言われたこと。

   ごはんは最後のひとつぶまで残さず食べましょう。
   お百姓さんがせっかく手間をかけて作ったのだから。

 あるコンビニでは、売れ残りそうになったお弁当やおにぎりを値下げしてはいけないことになってるのだそうです。
 それを守らずに値下げ販売したコンビニに対して、コンビニ本社から「値下げしてはいけない」という圧力をかけるような方針を、公正取引委員会は「違法」としました。
 では、値下げせずに売れ残ったお弁当類はどうなるかというと、全部、その加盟店コンビニで廃棄するのだそうな。

 ネットでの意見を読んでみると、賛否両論、いろいろです。
 値下げ反対派は、コンビニはスーパーと同じ役割をしなくてもいい、つまり、多少値が高くても、24時間いつでも手に入る、という役割でいいのだ、という意見。
 値下げ賛成派は、食べ物を粗末にするのはよくない、という意見。

 経済学的な側面では、簡単に賛成・反対とはいえない事情もあるようです。

 でもさ。
 なんか、おかしくないですか。
 日本は、食料の半数以上を輸入に頼っているのに、一方では大量に捨てるなんて。

    食べ物を粗末にすると、ばちがあたるよ。

 これも、小さい時に、よく言われたっけなぁ。

ありがとう、谷亮子選手!

2008年08月10日 | Weblog
北京オリンピックが開幕した。

「ママでも金」の期待を背負った谷亮子選手は、残念ながら銅メダルだった。
きっとこのあと、メディア等では賛否両論の報道がされるんだろうなぁ。

でもさ。
冷静に考えたら、すごいことだよね。
彼女は、10代の頃から5大会連続出場で、全てメダルを獲得している。
オリンピックっていったら、本当は、出場するだけでも大したものなんだから。
まして、産後、ですよ。
ふつうなら、現場復帰そのものが、難しいでしょう。
いろんなことを言う人がいると思う。
子持ちなんだから、そこまでしなくても、とかね。

3位決定戦で勝った直後に、観客席のお母さんの姿が映し出された。
あれ? お子さんはどうしてるんだろう? 
日本に置いてきたんじゃないの?
誰が面倒見てるの?
職業柄、ついついそんなことまで気になってしまった。
その後、お子さんが40度の発熱のために帰国を早めたと報道があった。
報道によれば、試合中にお子さんは高熱で入院していたのだそうだ。
心配させないように彼女には入院のことは伝えていなかったそうだが。

そうかぁ・・。連れてきてたんだ。
なら、なおのこと、すごい! と感心してしまった。

準決勝で判定負けしてしまった時の、淡々とした表情。
(悔しかっただろうに)
3位決定戦で一本勝ちした後のインタビューで、
「力は出し切りました。ありがとうございます。」と毅然とした表情できっぱりと言い切り、
でも一瞬見せた笑顔の奥に、彼女の思いの全てが込められていたように思う。

微妙な判定に対する不満を口にするでもなく、悔し涙で表情を崩す訳でもなく、淡々と語る。
その精神力って、すごい! と、心から思う。

ママになっても頑張れば、誰でも「谷亮子」になれる、なんてことは勿論思わない。
彼女はおそらく、特別の能力を持っている。

でも、「ママになっても」自分の柔道を続けてきた谷亮子選手に、心から敬服する。
メダルは銅だけど、どんな金メダルよりも輝いてると思う。

子育てしながら働いているお母さんたち、どう思った?
あの人は特別。自分とは関係ない、って思う?
わたしはそうは思わないよ。
きっと、みんな、気持ちの上では、毎日があの谷亮子選手の試合と同じじゃない?

彼女の試合やインタビューの映像を見ながら、
毎日外来でお会いするお母さんたちの顔が浮かんで、なぜか涙が出てしまった。


チャンピオン

2007年10月30日 | Weblog
子どもの頃からスポーツは苦手だったので、日頃スポーツ番組は殆ど見ない。
オリンピックや甲子園は別だけどね。
それと、野球は楽天とドラゴンズ。
深い意味はないです。新しくできたチームと、昔住んでたところのチームだから。(^_^)

こんなわたしでも、この間の内藤大助選手と亀田大毅選手の試合は、かなり興味を引いた。
といっても、試合中継を観た訳ではなくて、
その後のニュースやブログをネットで見ただけななんだけど。
スポーツ番組を見ない私にも、あの亀田家の言動は時々目にすることがあり、
ナンだ!?この非常識な親子は!?と思ってたから、
まっとうなボクシングファンの方々はさぞや溜飲が下がったことだろう。

でも、私が心打たれたのは、そんなことではなくて、
チャンピオンの内藤大助選手が試合前のインタビューで、
自分はかつていじめられっ子だった、と話していたことだった。
中学時代の内藤選手の写真は、線の細い、淋しそうな表情で写っていた。
生い立ちもなかなか複雑だったようである。
学校の裏に連れていかれて、ぼこぼこに殴られたこともあったらしい。
その時の痛い思いや悔しい思いがバネになっている、
といったようなことをおっしゃっていたように思う。

彼がいじめられっ子だったことは、
ボクシングファンや内藤選手のファンなら誰でも知っていたことなのかも知れないが、
わたしのようにスポーツど素人で、初めてそのことを知った人は、たくさんいるのではないだろうか。

いじめに遭って、もうこの世からいなくなってしまいたいと思っている人は、
きっと今も、たくさんいると思う。
でもね、死んでしまったら、おしまいなんだ。
自分の手で「生きる」ことをやめてしまってはいけない。
どんなにリセットしてしまいたいことがあっても、
キミがいなくなったら涙を流す人は必ずいるということを、知って欲しい。
内藤選手はこれから先、もしかしたら負けることだってあるかも知れない。
世界チャンピオンではなくなる日はくるかも知れないけれど、
彼は自分の人生のチャンピオンなんだと思う。
そして、みんな、ひとりひとりが、一生懸命生きていれば、
その人の人生のチャンピオンなんだと思う。

 いじめはいけない。絶対に。
 でも、いじめは減らない。
 なぜなら、そもそも「闘う」ことは動物の本能だから。
 だから、いじめごときに、負けないで!
 毅然として、心の中でパンチを喰らわしてやればいい。
 それがホンマモンの「宇宙一のパンチや」と思う。

今、いじめに遭って苦しんでいる人達に、少しでも生きる勇気になればいいなぁ、
と心から願いながら、彼の試合やインタビューの動画を観ていた。


同級会

2007年08月12日 | Weblog
11日に、中学校の同級会があった。
ほんとは身辺イロイロあって、同級会で浮かれてる立場ではなかったのだが、
幹事だったので、出席した。

卒業以来久しぶりの人もいて、中には、
えっと・・、どちらさまでしたっけ? なんて人も当然いるのだけど、
話しているうちに、タイムスリップしてしまう。
ほんとはみんな、メタボに注意!の中年のオジサン・オバサンなんだけど、
「全然変わんないね~♪」・・なんて言えちゃう。(^^)
何かで読んだのだが、そういう時は、過去の映像で相手を見ているらしい。

ご来賓で出席していただいた先生方も、矍鑠(かくしゃく)としてお元気だった。
思えば、中学時代の恩師の年齢を、とっくに越えている私たち。
でも、恩師にはまだまだかなわないなぁ、と思う。
コワイだけだと思っていた先生が、以外に優しく話しかけてくれたり・・。
立場上、言わねばならぬことは、きっとたくさんあったに違いない。
今になってみると、あの頃の先生方のお気持ちが、少しはわかるような気がする。

わたしたちの学年は結束が固いらしく、5年毎に学年全体の同級会をやっている。
悲しいことに、訃報もあった。

生きていると、いろんなことがある。
ドラマのような人生を送っている人もいる。

社長さんも、部長さんも、所長さんも、大学教授も、先生も、お母さんも、
同級会では、み~んな、ただの昔の中学生だ。
臆面もなく呼び捨てにできるのも、同級生だからこそ。
肩書きのいらない時間を過ごすのも、中年以降は大事なことだよなぁ。

何人かの同級生から、
ひまわりさんて、昔はもっとオトナシかったよねぇ、
と言われた。
え~、そうかなぁ、アタシは、結構お調子者でさわいでいたけどなぁ、
というのは、自分の記憶。
私の中学校は、小学校から持ち上がりの生徒がほとんどで、
私は中学からの、いわゆる「外部生」のひとりだった。
個性的な同級生が本当に多い学校だったから、たぶん埋もれていたんだろうなぁ。
わたしなりに、うんと気をはっていたのは事実。
(ネコをかぶっていた? ^^;)
それが「オトナシイ」という印象になったんだろうなぁ。

楽しいことはたくさんあったけど、悔しい思いもいっぱいあった。
でも、そのどれもが、大切な宝物だ。
だって、その時間があったから、今のわたしがいる。

自分の知らない自分発見も、同級会の楽しみかも。

(でも、幹事はそろそろ「卒業」したいなぁ・・・)

原爆模擬爆弾

2007年08月06日 | Weblog
8月6日のヒロシマと、9日のナガサキは、誰でも知っている。
でも、「原爆模擬爆弾」というものの存在は、実際に被害にあった地域の、
限られた人しか、知らないのではないだろうか。
実はわたしも、つい最近まで、知らなかった。

原爆模擬爆弾というのは、
米軍による人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練と、
爆発後の放射線から逃げるための急旋回の訓練を目的として、
1945(昭和20)年7月20日から8月14日にかけて、
1都2府15県29市町(現在の自治体数)の44目標に49発が投下されたのだそうだ。
これにより、約420人が死亡、約1200百人が負傷したらしい。
しかも、模擬原爆と判明したのは1991年ことだとか。
勿論、模擬爆弾だから、中身は原爆ではなく普通の爆弾だったそうだが・・。

先月、7月20日に、
ひょんなことから市民ミュージカルの手伝いをする「はめ」になった。
舞台裏で「ドレミの歌」をキーボードで弾けばいい、という内容だったし、
開演は夜だからということで、気軽に引き受けた。
ミュージカルの内容なんて、勿論知らずに。

台本を読んで、びっくりした。
それは、当市に落とされた原爆模擬爆弾で亡くなった少年の追悼と、
その事実を現代の子どもたちに語り継ごうという目的のものだったのだ。
7月20日は、その少年の命日なのだ。
ミュージカルは、その少年のお墓があるお寺の本堂で行われた。
そのお寺には、爆弾の破片が今も保管されている。
ミュージカルは今年で3回目になるのだそうだ。

台本を書いたのは、数年前に当市に勤務していた、ある企業の支店長さん。
きっかけは、飲み会での話題だったそうだ。
支店長さんが、「この街は空襲の被害がないからねぇ。」と言ったところ、
いや実は、これこれこうで、1人亡くなっている、
しかも、肝腎の当市民にも殆ど知られていない、と聞いたことだそうな。

初日の練習が終わって帰宅してから、母に尋ねてみた。
この街でも亡くなった子どもがいたらしいが、知っているか、と。
戦争を体験している母も、知らなかった。
母はその当時、爆弾が落とされた地区から5~6キロぐらい離れた所に住んでいた。
爆音も地響きも、ものすごかった、という。
でも、当時の地元新聞には、爆弾を落とされるも、被害は極めて軽微なり、
としか報道されなかったそうだ。

母いわく、おそらく当時は、不名誉なこととして伏されていたのだろう、
ということだ。
事実、その少年の葬儀は身内だけの密葬だったらしい。

こういったことが、大なり小なり、日本各地であったのだと思う。

原爆が恐ろしいものであることは、日本国民なら誰もが知っている。
でも、果たして、広島県民・長崎県民以外の人達のどれだけが、
「自分に近いこと」として認識しているだろうか。
もしかしたら、「遠く離れたところでの出来事」とつい思ってしまうことはないだろうか。
原爆投下地出身の、さる元大臣までもが、「しようがない」などど発言する始末である。
恥ずかしいことに、私も、わかっているつもりで、わかっていなかったと思う。

争い事をなくすのは、不可能なことだ。
さまざまな人種・宗教の違い・利権のからみはなくならない。
そもそも動物には、闘うという本能がある。
これは人間とて同じこと。
でも、「戦争」をなくすことは、不可能ではない。
武力を用いずに、争えばいいのだ。

そして、そのために大事なことは、教育なのだと思う。

「教育と農業が滅びると国家が滅びる」
と言ったのは、司馬遼太郎さんだったっけ・・・。

雨ニモアテズ(作者不詳)

2007年07月12日 | Weblog
ネットでこんな詩を発見した。
ご存知、宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ」のパロディである。


      雨ニモアテズ

   雨ニモアテズ 
   風ニモアテズ 
   雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ
   ブヨブヨノ体ニ タクサン着コミ
   意欲モナク 
   体力モナク 
   イツモブツブツ 不満ヲイッテイル
   毎日 塾ニ追ワレ 
   テレビニ 吸イツイテ遊バズ
   朝カラ アクビヲシ 
   集会ガアレバ 貧血ヲオコシ
   アラユルコトヲ 
   自分ノタメダケ考エテカエリミズ 
   作業ハグズグズ
   注意散漫スグニアキ 
   ソシテスグ忘レ
   リッパナ家ノ 
   自分ノ部屋ニ閉ジコモッテイテ
   東ニ病人アレバ 
   医者ガ悪イトイイ 
   西ニツカレタ母アレバ 
   養老院ニ行ケトイイ
   南ニ死ニソウナ人アレバ 
   寿命ダトイイ
   北ニケンカヤソショウガアレバ 
   ナガメテカカワラズ
   ヒデリノトキハ 
   冷房ヲツケ 
   勉強勉強トイワレ 
   叱ラレモセズ
   コワイモノモシラズ 
   コンナ現代ツ子ニ 
   ダレガシタ

なんとも、現代の子どもや親・教師・小児科医が抱えている問題を言いえている。
賢治の故郷・盛岡の小児科の先生が学会の際に披露なさったのだそうだ。
作者は不詳であるが、どこかの校長先生らしい。
・・そして、「コンナ現代ッ子ニ」したのは、私たちオトナの責任ななんだなぁ。

ちなみに、本物の「雨ニモマケズ」は、次のような詩である。
片仮名だけだと読みにくい部分を、( )で注釈つけました。

   雨ニモマケズ
   風ニモマケズ
   雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
   丈夫ナカラダヲモチ
   慾ハナク
   決シテ瞋ラズ           (決して怒らず)
   イツモシヅカニワラツテイル    (いつも静かに笑っている)
   一日ニ玄米四合ト
   味噌ト少シノ野菜ヲタベ
   アラユルコトヲ
   ジブンヲカンジョウニ入レズニ   (自分を勘定に入れずに)
   ヨクミキキシワカリ        (良く 見聞きし 分かり)
   ソシテワスレズ          (そして忘れず)
   野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
   小サナ萱ブキ小屋ニイテ
   東ニ病気ノ子供アレバ
   行ツテ看病シテヤリ
   西ニ疲レタ母アレバ
   行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
   南ニ死ニソウナ人アレバ
   行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ (行って 怖がらなくてもいい と言い)
   北ニケンクワヤソシヨウガアレバ  (北に 喧嘩や 訴訟があれば)
   ツマラナイカラヤメロトイヒ    (つまらないから やめろと言い)
   ヒデリノトキハナミダヲナガシ   (日照りのときは 涙を流し)
   サムサノナツハオロオロアルキ   (寒さの 夏は オロオロ歩き)
   ミンナニデクノボートヨバレ    (みんなに でくのぼう と呼ばれ)
   ホメラレモセズ          (褒められもせず)
   クニモサレズ           (苦にも されず)
   サウイウモノニ          (そういう者に)
   ワタシハナリタイ         (わたしは なりたい)


ナゴヤドライブ:1.父は偉かった!

2007年07月08日 | Weblog
ドライブの話を書いていて思い出した。

東北、ことに当地の高校生は、進学先は地元か仙台か東京、とだいたい決まっていた。
わたしもそのつもりで勉強したのだが、受かったのは、名古屋にある大学だった。
(といっても正門が名古屋市にあるというだけで、大学そのものは名古屋市ではない)
初めて行ってまずびっくりしたのが、
「まむしに注意!」という看板があちこちにあることだった。
学生駐車場には時々イタチが出るし、近くの養鶏場から逃げ出したと思われる鶏が道路を横切るし、
まぁ、なんてトコロに来てしまったんだぁ・・・、と、当時は思いましたよ。
で、電話で愚痴ったんですな、親に。
こんなトコロ、ウチよりイナカじゃないか、と。
通っていた予備校が東京だったから、尚更そう感じたのだ。
実際はもちろん、実家のあった村のほうが、はるかにイナカである。

その時の父の言葉を、今も時々思い出す。

 ナゴヤをばがにすんでねぇぞ。
 信長も、秀吉も、家康も、みんなナゴヤでねぇが。
 ついでに歴史の勉強もして来い。

まぁ、正確に言えば、信長・秀吉は尾張、家康は三河なので、
「ナゴヤ」という表現は間違いなんだけど、東北のニンゲンからは、
愛知県地方=ナゴヤ、という捉え方なんですな。

父は、こうも言った。

 休みで帰って来る時は、東京経由でまっすぐ帰るなんて面白くないぞ。
 長野から新潟経由だの、いろんなルートで帰って来い。

これをお読みになってるみなさま。
私は、ひとり娘なんです。 ええ、ほかに兄弟はいません。
ひとり娘にこんなアドバイスをする父親って、なかなかいないんじゃないでしょうか。

という訳で、厳格な父からお墨付きをいただいた「歴史の勉強」で、
私の大学生活はスタートしたのだった。
どんなところに行ったかは、おいおいUPするとしよう。

七夕ドライブ

2007年07月07日 | Weblog
午後から用事で街まで出かけたら、浴衣を着たオネエチャン達がたくさんいた。
そうか。今日は七夕なんだ。

夕食後は、所属するジャズバンドの定期コンサートの打ち合わせで、また外出。
開業前は夫も一緒にやっていたけど、今はわたしだけ参加している。
本番中にお産があったら大変だからねぇ・・・。
妻だけ趣味を続けていることにいつも後ろめたさを感じながら、
でも、やめられないのさ。
 ごめんね、オトウチャン。(^^;

帰り道、途中から夫に電話を入れた。

 今夜はお産ある?
  ・・今のところ、ない。
 じゃあ、ドライブ、いこ。
  ・・わかった。

家の前で夫をひろい、ぷらっとドライブに出かけた。
時間は22時。私たちには、まだまだ宵の口。

ドライブと言っても、所詮、開業産婦人科医と小児科医。
何かあれば30分以内で戻って来れるところまでしか、行けない。
携帯の電源はONのまま。その辺をひと巡りするだけなんだけどさ。
でも、ここはは盆地だから、ちょっと車で20~30分行けば、
小さな街の灯が見渡せることろはいくらでもある。

学生の頃も、いろんなところに行ったっけねぇ、
と、思い出話になる。
昔話ばかりするような年齢になった、ってことなんだなぁ・・・。

途中、大学の寮にいる娘から夫の携帯に電話がはいる。
パソコンの使い方がわからないんだそうだ。
月曜までのレポートもあるし、テストもあるらしい。
頑張れ、ムスメ! 激励して電話を切る。
で、つい、息子はどうしているかふと思い出し、息子の携帯に電話した。
(わたしはハンドルを握っているので、かけたのは夫)
彼の部屋はどうも友人達のたまり場になっているらしく、
電話の向こうからはいつも誰彼の声が聞こえる。
いいなぁ。楽しそうだよなぁ。
テストが終わったあと、夏休みの旅行の計画があるらしい。
行き先も日程もまだ不明なのだそうだ。
口ごもっていたので、親にはあまり言いたくないこともあるんだろう。
でも、まぁ、いいさ。
わたしたちも、通って来た道。
キミ達の行動なんて、手に取るように想像できるのさ。(^^)

 事故にはくれぐれも注意して。
 よそさまには迷惑をかけないように。
 無事で帰ってくれれば、いいよ。

結局、夫婦の七夕ドライブのはずが、子どもの話をしながら帰って来た。
親なんて、こんなものかも知れない。


いのり

2007年04月24日 | Weblog
毎週水曜の午後は休診。
といっても外来が休みなだけで、
午後は市の乳児健診や嘱託をしている保育園の健診に当てている。
今日は、保健センターでポリオワクチン接種のあと、保育園の0歳児クラスの健診、
その後、県の小児科医会の用事で隣町の先生のところに伺い、
さらに今度は私用も兼ねて、20キロぐらい離れた街まで足を延ばした。
盆地を、北に向かい、そこから東へ向かい、そして南へ、というドライブだった。
時間がないので、知る人ぞ知る究極の近道・山道をたどった。

山あいの果樹園では、もう桃の花が咲き始めでいた。
この地では、桃は桜の次に咲く。
そういえば予備校の頃、同じ女子寮の山梨から来てる子2人と、議論になったけ(笑)。
桜と桃は、どっちが先に咲くか、について。
私は桜が先だと主張するんだけど、彼女達は桃が先だと譲らない。
確かに山梨では、桜の前に桃の花が咲くんだそうだ。
だいぶ後で、ハヤシマリコさんのエッセイで、そのことに納得しましたが。

裸木だらけの薄茶色の山々のところどころが、
うっすらと刷毛でひいたような萌葱色になっている。
山すそには、咲きはじめの桃のピンクと、黄色の菜の花。

いつのまにか、春なんだ・・・。

ハンドルを握りながら、次々と目に飛び込んでくる木々の芽吹きの色は、
それぞれが小さなハーモニーを奏でているようにも感じる。
オルゴールのようでもあり、教会の荘厳なパイプオルガンのようでもあり・・・。
新しい命を紡いでいく自然界の営みには、ただ頭を垂れるしかない。

そして、今、この瞬間にも、病と闘っている小さな命のことを思い、
思わず目頭が熱くなってしまった。

 あかちゃん、がんばれ!
 おかあさん、がんばれ!
 おとうさん、がんばれ!

神様、どうか、助けてください。

卒業式

2007年03月01日 | Weblog
娘の高校の卒業式だった。
まだ大学受験真最中の同級生もいる中での、厳粛ながらもほのぼのとした、いい卒業式だった。
式が終わり、クラスに戻り、最後のホームルー厶の後、娘たちはそれぞれ記念撮影に忙しく、
昔ながらの涙・涙の卒業式というよりも、未来に向けて希望に溢れているといった印象であった。
感傷に浸っていたのは、むしろ親達の方だったかも知れない。
息子も進学が決まり、今年は子ども2人が同時に我が家を離れることになる。
子どもたちが産まれた日のことを、今さらながらに思い出す。
日頃、多くのお母さまたちにアドバイスをする立場にいながら、
わたし自身はいつも、不安と期待と畏れの入り交じった中での、子育ての毎日だったように思う。
(これで良かったのだろうか・・・)と自問自答しながら過ごしてきた日々が懐かしい。
もうすぐ、その日常にも、とりあえずの終止符を打つことになる。

まだ子どもたちが小さかった頃、先輩の先生たちがよく口にしていたことを思い出す。
 お父さん、お母さん、とまとわりついている内が、花だよ。
 いつか子どもの方で、親を必要としなくなるんだから。
 今がどんなに楽しいか、後になってわかる日がくるから。

・・・ほんとうに、その通りだ。(^^)

別な意味での「親」の役目は、まだまだ続くけれども、
「口ウルサイお母さん」は、とりあえず今日で終わりにしなくちゃならないんだなぁ。
今日は「保護者の役目」の卒業式でもあるのかも・・・。

子どもたちが産まれてから今までお世話になったたくさんの方々に、
心の中で感謝しながら、学校をあとにした。


明日から仕事

2007年01月03日 | Weblog
暖かい正月休みも、今日で終わり。
結局、この年末年始も、家の片付けその他もろもろ、
「診療」以外のことは、ほとんどできなかった。(しなかった。^^;)
いただいた年賀状、出さなかった方々への返事も、まだだ。
ぼちぼち書いて、許していただこう。

明日からまた仕事だ。
きっと混むだろうなぁ。
この街でもそろそろインフルエンザが出てきたみたいだし。
この季節は特に、いつもドキドキしながらの外来だ。

この日記、今年も文字通り、三日坊主で終わりそうだ。
ま、いっか・・・。