ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

山上憶良の父性愛

2011年02月17日 | 日々のつぶやき
2月15日以降、お釈迦さまの命日だの、西行だの、園長先生だの、
亡くなった方々のことばかり書いてました。

2月15日が誕生日のひともいるでしょう。
今日は、生まれてきたひとたちのために。

山上憶良(やまのうえの おくら)という人は、奈良時代の歌人です。
万葉歌人として有名ですが、万葉集に収められている歌の多くが、
男女の愛に関するものであるのに対し、
億良のものは、子どもを思う歌がほとんどです。
子どもへの愛情というと母親のもの、というイメージが大きいですが、
彼は父性愛にみちみちた歌を多く詠んでいます。

彼は遣唐使の一員として同行し帰国後、
伯耆(現在の鳥取県)や筑前(現在の福岡県)などの地方官を勤めました。

歌のほとんどは、この地方官時代に作られたものだそうです。

以下の歌も筑前の地方官時代のものとか。

【長歌】瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
    いづくより 来(きた)りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて
    安眠(やすい)し寝(な)さぬ
  
   意味:(旅先で出された)瓜を食べれば(瓜が好きだった)子どものことを思い出す、
      栗を食べれば、尚思い出してしまう。いったいどこからやってきたのだろうか、
      子どもたちの面影がまぶたにちらついて、なかなか寝付くこともできない。


【反歌】銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも

   意味:銀も金も宝石も(子どもに比べたら)いったい何の価値があるだろう。
      子ども以上に大切な宝は、ほかにありはしない。



この歌は、わたしが中学校の頃の教科書にたしか載っていました。
その時は、なんだか「子ども可愛さ」があけすけな感じで鼻についたのですが、
今、自分が親になり、小児科医として「親」なった方々と毎日接していると、
この歌のもつ「断固とした親の慈愛」とでもいいますか、
これは父性愛なのでしょうね、ふところの広い愛情を感じます。


こんな歌もあります。
~山上臣憶良が宴より罷るときの歌一首~

  憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 吾(わ)を待つらむそ

  意味:幼い子やその母が、私を今か今かと待っていますので、
    (宴の途中ではありますが)私はここらで中座させていただきます。


これなどは、現代のパパたちにも共感するものがあるんじゃないかしらね。
万葉の昔も、親の思いは今と変わりないんですね。


西行と「ひまわり幼稚園」

2011年02月16日 | 日々のつぶやき
「西行」ついでに・・・。

わたしの子どもたちが通っていた幼稚園は「ひまわり幼稚園」といいました。
園長先生は、すでに当時70歳ぐらいでした。
子どもたちにとっては「おばあちゃん」のような方でした。

太平洋戦争中に神戸から当地へ疎開し、そのままここで暮らすことになったそうですが、
なんでも、宝塚音楽学校に通っていたとか、そこの先生にバレエを習っていたとかで、
ともかくも、田舎の当地で最初にバレエ教室を開いた方だったそうです。
今はその教え子の方々が、市内でバレエ教室を開いています。

ひまわり幼稚園は、各年齢ひとクラス20人いるかいないかの、小さな幼稚園でした。
特徴といえば、毎年クリスマスの頃に行われるバレエ発表会でした。
幼稚園の大きくもないホールで行われるのですが、これがなかなか本格的でした。
衣装などは手作りのものではなく、ちゃんとしたバレエの舞台用のものなのです。
発表会の内容も、園長先生が子ども向けにアレンジはしてあるものの、
「くるみ割り人形」などの本格的なバレエ劇で、
園児たちは、半年ぐらい前から、園長先生の指導のもとに稽古にはいります。

当然、父兄には臨時の出費があり、保護者からは非難もあったようです。
でも、園長先生は、頑として方針を曲げませんでした。
理由は、子どものうちから「本当のもの」に触れさせたい。ということでした。
子どもだから「子どもだましでいい」とはお考えにならない方でした。
そして、その考え通り、わずか半年足らずのバレエの稽古でも、
なかなかどうして、園児たちはそれなりにしっかり踊ることができるようになっていました。

園長先生は、さずがに若い頃からバレエで鍛えていただけあって、
70歳を過ぎたというのに、膝はいつもまっすぐに伸び、
体操などでも、軽々と上体を前屈させて手が床に付くのでした。

では、いつも本格的に金品が入り用な行事ばかりだったかというとそうではなく、
夏休み直前の幼稚園での「お泊まり保育」の翌日には「早朝マラソン大会」というのがあり、
これは、幼稚園の周囲の町内をぐるっとお父さんとともに一周するというもの。
そのマラソン大会のあとに、恒例の「サラダパーティー」というのがあり、
これは、園庭に机と椅子を並べて、マラソンが終わった子どもたちと父兄とで、
朝食を囲むという趣向です。
お父さんと子どもが走っている間、お母さんたちは「サラダパーティー」の準備です。
「サラダパーティー」とはいいますが、メニューの食材は、
キャベツ・レタス・大根・人参・セロリ・ピーマンなどの生野菜を千切りに刻んで、
それに料理用ナチュラルチーズ・シラスなどをたっぷり混ぜ合わせ、
ゆで卵をスライスしたものとプチトマトを、これまたたっぷりちらします。
それに厚切り食パンと牛乳です。これはかなりの栄養です。
野菜嫌いの子どもたちも、これは喜んで食べていたのが印象的でした。
今も、我が家でも時々このメニューを出します。

お月見の時には、やはりお母さんたち総出で上新粉で団子を作りました。

季節ごとの行事は、すべてお金は最小限の手作りでした。

幼稚園ではありましたが、無認可の保育園の役割もしていて、
通園していた子どもたちのほとんどの父兄は共働きでしたから、
夕方遅くまで子どもたちを預かって貰ってました。

子どもたちが帰る時の挨拶には必ず園長先生もいらしていて、
先生は、玄関できちんと正座して「さようなら」とお辞儀をなさるのです。
お着物姿のこともありました。
礼儀作法には厳しい方でした。

ひまわり幼稚園の標語として園長先生がいつもおっしゃっていたのは、
「我慢できない子どもはダメになる」
ということでした。

厳しいですね。
20年近くも前のことですが、当時の父兄たちにも、なんだかなぁ、
という感想を持つ方々が多かったように記憶しています。
父兄や職員の先生方には厳しい方でしたが、子どもたちにはいつも優しかったようです。
うちの子どもたちも、園長先生の印象というと
「やさしいおばあちゃんみたいだった」という記憶です。

でも、園長先生の幼児教育にかける情熱は、ストレートすぎるのか、時代遅れというのか、
次第に園児たちは少なくなり、幼稚園経営もだんだん大変になっていきました。

うちの子どもたちも卒園し、わたしが開業して数年たったころ、
ちょうど今頃の季節、園長先生から一通のお手紙をいただきました。
そこには、もう幼稚園を続ける気力も財力も尽き果ててしまったこと、
これまでの幼児教育に生涯かけて取り組んできた思いなどが綴られていました。
園長先生ご自身も、体調を崩されていました。

そして、最後の方には、西行のあの歌が書かれていました。

それから少しして、3月半ば過ぎ、お彼岸の頃に、お亡くなりになったのです。

告別式は、幼稚園のホールで行われました。
園長先生が情熱をかけた、バレエ発表会を行っていたホールです。
ホールの外まで、大学生や高校生・社会人になった卒園児たちであふれました。

その後のわたし自身の子育ての最中や、外来でお子さんたちと接する時、
ひまわり幼稚園の園長先生が折りに付けおっしゃっていた、さまざまな言葉を思い出します。
わたしも時折、お母さんたちに厳しいことを言ってしまうことがあります。
(あぁ、きっと、今このお母さんは、あの時のひまわり幼稚園の父兄のような気持ちだな)
と感じます。
時代遅れのこと言ってると思われるだろうな・・・。
本当はもっと、言い方を変えなくちゃいけないんだよなぁ・・。
反省は毎日のことですが、なかなか、うまくいきません。

そうは思いつつも、
「あんなこと言われた」という恨みでもいいから、頭の隅に残してもらえたらいい、
いつか、何年もたってから、あそこの女医にあんなこと言われて不愉快だったけど、
今ならわかるかも、って思い出してもらえたらいい、
そんな風にも思います。いえ、決して開き直りじゃなくてね。(^_^;)

わたしのブログタイトル「ひまわりの種」は、「ひまわり幼稚園」からいただいたのです。

2月15日と西行

2011年02月15日 | 日々のつぶやき
 ねがはくは 花の下にて 春死なむ その如月の望月のころ

これは、西行(さいぎょう)法師のあまりにも有名な歌です。
西行は、平安時代末期の歌人で、藤原鎌足の子孫で本名を佐藤義清(のりきよ)といい、
もともとは宮廷の警護をする天皇直属の武士で、平清盛はその当時の同僚だったそうな。
(晩年には源頼朝とも会っているそうです)
この天皇直属の武士というのは、いわゆるエリート集団で、
文武両道・眉目秀麗な武士が集まっていたとか。
ところが、さまざまな理由から、彼は23歳の若さで出家してしまいます。
これが1140年のことです。
出家の理由はさまざまあり、政争にあけくれる現世に嫌気がさしたとか、
やんごとなき身分の方との恋に破れたとか、詳細は不明です。
が、地位も妻子を捨ててというのは、余程のことだったのでしょう。

阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから、西行という名前(法号)になったそうです。
彼は、いわるゆ有名な寺院に腰を落ち着けるのではなく、
特定の宗派に属することなく、山里に庵をむすび、和歌を詠みました。
人の心の迷いや、混沌とした世の中の憂い、
それを自然の移り変わりに重ねて歌にしています。

冒頭の歌は、西行が没する10年以上も前に詠んだものだそうです。
意味は、

 もし願いが叶ううことなら、
 桜の木の下で春に死にたいものだ
 そう、(お釈迦さまが入滅なさったという)二月の満月のころに

という内容です。
如月(きさらぎ)というのは、2月のことですね。
もちろん旧暦の2月ですから、現代でいえば3月下旬でしょうか。
望月(もちづき)とは、満月のことを指します。

2月15日はお釈迦さまの命日なのだそうです。
西行は、ほばこの歌のとおりの2月16日に72歳で亡くなりました。
「漂白の歌人」とも称される西行の歌碑は、全国至る処にあります。


バレンタインデー

2011年02月14日 | 日々のつぶやき
ちょっとした相談に乗ってもらいたいことが持ち上がり、
急きょ、二人の女ともだちと食事がてら会うことに。
仕事上のこともからんでくるので、夫も同行。
バレンタインデーに熟女(?)3人とおぢさんとの会食になりました。

場所は友人が予約してくれたイタリアン風?の居酒屋風?のお店。
イタリアンというよりラテン系のいろいろなお料理が出てきて、
美味でした。
お写真がないのが残念です。

飲みながら食べながらの相談事で、気が大きくなったというか、
「なるようになる」ということに落ち着いた次第。

中年のバレンタインデーなんて、こんなもんです。

あぁ、楽しかった♪

NHKの連続ドラマ「てっぱん」のHPを開くと、
最初のページにお好み焼きのへらを持ったヒロインが出て、

 「かならず腹はへる」
 「かならず朝はくる」

というテロップが出ます。
http://www9.nhk.or.jp/teppan/

これ、妙に納得。結構わたしは元気が出るんだなぁ。



親の覚悟

2011年02月12日 | 日々のつぶやき
知人に、小さい会社の社長さんがいます。
その方は30代で会社を起こし、初めは奥さんと二人でのスタートでしたが、
従業員も7~8人に増え、この不景気の中、まずまずの業績でした。
社長さんの真面目な人柄ゆえのことだと思います。

数年前、都会の大学に行っていた息子さんがお嫁さんを連れて戻りました。
いずれ会社を継ぐまでの修行として、地元の企業に就職も決まり、
若夫婦の間には珠のようなお子さんも授かり、万々歳の日々でした。

ところが、その後まもなく、長年勤めていた主力の従業員が数人、相次いでで辞め、
社長さんは残った見習いの若い社員と奥さんとで頑張っていましたが、
仕事の能率が上がらないのはいかんともしがたく、
息子さんも勤務先に時間の都合をつけてもらって手伝ったりしたものの、
それでもどうにもならず、2年ほど前に、息子さんは修行を中途に就職先を退社し、
実家の会社を当分の間手伝うことになったのです。
小さい子どものいるお嫁さんも、時々手伝っていました。

最近になってその息子さんが、
一旦実家を離れ、やはりもう一度外の会社で修行したいと父親に申し出たのだそうです。
年度末で、会社はとても忙しい時期でした。
息子さんにしても、よくよく考えてのことだったのでしょう。

息子さんの思いは、修行途中で就職先を中途退社したことが心の中で悔いだったのでしょう、
親父さんから教わることはたくさんあるけれども、
このままずるずると実家にいたのでは、どうしたって「あそこの息子」と人は見る、
やはりもう一度この立場をリセットして、自分を知らないところで修行したい、
ということなのだそうです。

社長さんは、困りました。
息子さんの気持ちは、痛いほど分かる。自分はたったひとりで一から始めたのですから。
でも、今、息子さんとお嫁さんがいなくなれば、実質的な業務は社長さんしかできません。
それでは、会社が立ち行かなくなってしまいます。
不景気のはずなのに、求人に応える人はまだ見つからないそうです。

社長さんは、悩んでいます。
小さな会社ではあるけれども、自分のところが業務を縮小すれば、
大きな打撃をこうむる取引先もあります。
義理堅い人ですから、余計に心が痛むのでしょう。
でもこのまま一人で頑張ったら、自分が倒れてしまいます。

我が子を大事に思わない親はいません。
息子の将来を第一に考え、もう一度修行に戻ることに賛成はしたものの、
もし息子さんが実家に戻って来るとしても、それは何年も先のことになるでしょう。
今現在の会社の運営をどうたらいいのかという思いの狭間で、眠れぬ夜が続いているそうです。

この話をきいて、わたしも人ごとではないなぁと思いました。

うちの子どもたちはまだ学生ですが、もしわたしの息子や娘が同じ状況だったら、
その時わたしたちは、どんな風に行動できるか、はたと考えてしまいました。

子どもの人生は、子どものもの。
それは当たり前のことなのだけれど、親はいつまでも、つい舵を取ってしまいたくなる。

わたしなんてまだまだ、「親の覚悟」にも、修行が必要だなぁ・・・・・・。

良薬は口に苦し

2011年02月08日 | 医療
「良薬は口に苦し」

昔から、日本の国で言われていることわざですね。
「苦し」は「くるし」でなく「にがし」と読みます。

小児科外来でよくある問い合わせというか要望のひとつに、
「美味しいおクスリにしてください」
というのがあります。
「いただいたおクスリを、こどもが飲んでくれません」
という訴えとともに、「美味しいお薬」リクエストは、
小児科診療での要望のトップかもしれません。

でも、ぶっちゃけ、この要望には、困ってしまうことがあります。(^^ゞ
なぜなら、クスリは本来、苦いものだからです。

各薬剤メーカーが、それこそ社運を賭ける情熱で、
子ども向けの「ドライシロップ(溶ける粉薬)」や「シロップ(水薬」を開発しています。
わたしが子どもの頃と比べれば、今のクスリははるかに美味しくなってますが、
でも、所詮、クスリはクスリ。
口の中で味わってみれば、やっぱり苦いのです。

今どきの世の中の風潮のせいか、子どもが嫌がることをさせることに、
罪悪感を持つ親御さんが増えているように感じています。
もちろん、「嫌がること」を無理強いしてはいけません。これは大前提です。
でも、その大前提はそれとして、
「やらねばならぬこと」を「させる」毅然とした姿勢も必要と考えています。
そして多くは、親・大人が子どもに対して「させねばならぬこと」は、
おおむね、子どもにとって「嫌なこと」です。
予防接種なんか、その最たるものでしょう。
家の手伝いや宿題だって、そうです。
(これ、わたしにだって、覚えがあります(^_^;) )

たかがクスリ。されどクスリ。

赤ちゃんの時から、美味しくないクスリを飲むことに馴れてしまえば、
つまり、いっとき我慢して、苦いクスリを「ごっくん」することを覚えてしまえば、
その後はなんてことはないんです。

赤ちゃんの頃からのおつきあいのお子さんに、初めて内服薬を処方する時、
できるだけ、飲ませ方のご説明をするように心がけています。
クスリの飲ませ方のプリントを渡して、読んでいただきます。
場合によっては、薬局で処方されたおクスリを持ってもう一度戻っていただき、
外来で実際にお子さんに飲ませてみるという実演をすることもあります。

手前味噌ですけど、赤ちゃんの頃からのお付き合いのわたしの患者さんで、
苦いおクスリだから飲めません、というお子さんは、ほとんどいません。
かなり苦いクスリでも、お母さんたちは頑張って、子どもたちも頑張って、
のんでくれます。
こぼしたり、吐き出したりの多少の失敗はオッケーです。
それで躊躇したり怖がる必要はないんです。
頑張って飲めたら、うんと賞めましょう。
ご褒美に、おいしいものあげたっていいです。ただしひとくち。(^_^)b

「嫌がってる子どもに苦いクスリをのませ」ても、
その後のフォローがちゃんとあれば、つまり、できたことをちゃんと評価してあげれば、
決してそんなことで子どもの心がねじれることはありません。
むしろ、子どもにとっては自信がつくことになると思っています。
ちいちゃいお子さんだって、ちゃんと人格があるんです。
赤ちゃんだって、ほめてもらったことは、きっとわかるはずです。

ちょっとした工夫とかかわり方で、子どもは大きくステップアップします。
お母さんだって、自信がつくと思います。