ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

あっぱれ!いわき市長!!(学校給食に関する風評被害についての市長メッセージ)

2011年04月29日 | 東日本大震災
事の詳細は後にして、まずは市長メッセージの全文を下記に掲載する。
 (読みやすくするために、行は変えてあります。)

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   【学校給食に関する風評被害についての市長メッセージ】

 この度の原子力発電所事故発生以来、本市は様々な風評被害を受けており、
 特に「農林水産物」については、
「福島産」あるいは「いわき産」と表示されただけで受け取りを拒否されたり、
 消費者に敬遠されるような事態が報道されております。
 このような風評を払拭するため、市としても市内及び東京都内等において、
「いわき産」農産物の安全性を訴える「がんばっぺいわきキャンペーン」を展開し、
 多くの消費者の皆様に御理解をいただくとともに、
「風評に負けずに頑張ってください」との激励のお言葉を頂戴しております。
 また、福島県においても同様の取り組みを実施しているところです。
 そのような中、去る4月26日、中部地方の某大学教授が自身のホームページに、
「いわき市が学校給食に使用する食材(牛乳や野菜)が放射性物質に汚染されていて危険だ」
「風評被害を払拭するために、学校給食に福島産の牛乳と食材を使用する」
「市長は、嫌がる子どもに食べることを強制している」
 といった誤認に基づく文章を掲載しました。
 もとより学校給食は安全・安心な食を提供することが大前提であり、
 あたかもいわき市が子どもたちに危険なものを提供しているかの如き事実に基づかない論評は、
 本市の名誉を著しく損なうものであり、
 また、多くの市民の皆様が食の安全に敏感になっていることを併せ考えれば、
 極めて遺憾であり、某教授には直ちに抗議を申し入れたところです。
 市民の皆様には、このような言説に惑わされることなく、
 冷静な対応をされるようお願いいたします。
 これからも、安全・安心な学校給食の提供に万全を期して参ります。

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中部地方の某大学教授は、震災後の原発事故による放射線被曝に関して、
さまざまな意見を自身のブログに書いてきた。
中には、なるほどその通りだと思う意見もあるが、
放射線被曝に関するコメントは、かなりでたらめだった。
彼の記事が一連の風評被害をさらに煽った形になったのは、間違いないと思っている。
医師専用の掲示板などを見ると、医師の中にも彼の意見をそのまま信用する人もいるらしく、
このままでは本当にまずいことになると、気が気ではなかった。

問題の4月26日の記事は、原文は残念ながら書き換えられている。
本当のタイトルは、いわき市長宛に書かれたものだった。
内容は、市長のメッセージの中に、某教授の文章が引用されている。
魚拓もあるようだが、不愉快になるのでここには載せない。

彼のブログは、読者もおそらく何十万人もいる。
教授というの肩書きからも、固有名詞を用いた文章を公表するのなら、
もっと慎重にすべきだったと思う。

わたしもこれまで2回、質問と抗議のメールを直接送ったことがある。
「福島が汚染されているのは事実で、県民はそれを認めないといけない」
といった内容の返信をいただいた。
話にならないと思いその後は黙っていたが、さすがに26日の文には腹が立った。

いわき市として抗議したことは、当然だと思う。
市民のどれだけがこのメッセージを信用するかどうかは、もう個人の問題かもしれない。
でも、同じ県民として、福島市民のわたしは、ぶれないでいたいと思っている。








種まきウサギ

2011年04月21日 | 日々のつぶやき
日曜日、郡山市で県小児科医会の常任理事会があった。
いつもは新幹線ででかけるのだが、今回は高速道路を使った。

快晴の空には残雪の吾妻連峰が横たわる。
今年も、吾妻小富士に種まきウサギが顔を出した。
ずっと前から、慣れ親しんだ風景だ。
空も、山々も、何にも変わらない。

(これはサービスエリアから携帯で撮影したもの)


この地では毎年、このウサギの残雪が見える頃に、稲などの種を蒔くという。
「種まきウサギ」として市民に親しまれている。

そういえば今年の我が家の年賀状は、このウサギの写真を使ったんだっけ。
(この写真じゃないです、もちろん)

卯年の今年、変わらず姿を見せてくれたのに、肝腎の種を蒔けない農家がある。

ウサギもさぞくやしかろう。



天からの贈り物

2011年04月16日 | 日々のつぶやき
当市の盆地のはずれにある花見山公園に行って来た。
もう何年ぶりになるだろう。

花木農家の方の持山ひとつぶん、まるまる、桜だのレンギョウだのが咲き乱れる。
かれこれ20年ぐらい前からだと思うが、その農家の方のご厚意で、
無料で花の山を見学することができる。

ここは、写真家の故・秋山庄太郎氏をして桃源郷と言わしめた。
この数年来は、それこそ県外各地から観光バスを連ねて訪れる観光客でごったがえし、
福島市民はなかなか近づくのもためらわれたぐらいだった。

今年は、原発事故のあおりを食って、観光バスは一台もない。見事なほど。
皮肉なことだ。

公園から眺める福島盆地。中央の小高い山は「信夫山」。
かつて、福島盆地が湿地帯だったころ、この山はそこに浮かぶ島のようだったとか。
その島を「福の島」といい、「福島」の地名となったという。


百花繚乱。


秋山庄太郎風に・・。(いや、これはおこがましいか・・)
  

足下にはスミレが、一生懸命咲いていた。
だいじょうぶ、あなたもとても綺麗だよ。
     

こんな感じも。


見上げる空は、何事もなかったかのよう。
 

おまけ。
めし、くれ~。
    



放射線学入門~福島原発事故を受けて~

2011年04月14日 | 東日本大震災
産業医科大学医学部放射線衛生学講座のHPに、
「一般向け緊急被曝ガイド」として公開されている。
http://www.uoeh-u.ac.jp/kouza/hosyaeis/hibakuguide.pdf

当市の医師会MLで、ある先生がご紹介して下さった。
イラスト入りで、わかりやすく説明されている。
どうしてみんな、「本当の専門家」の意見は信用しないのだろう?






1960年代の日本の放射線レベルは今より高かった

2011年04月13日 | 東日本大震災

先月、日本赤十字長崎原爆病院の先生の講演が当市であった。
そこで出されたのが、1960年代、まだ東西の冷戦時代、
アメリカ・旧ソ連・中国などがさかんに核実験を行っていた時の放射線レベル。
その頃の日本国内での放射線レベルは、今よりもずっと高かったというのだ。
測定データで見る過去の出来事 (ようこそ「日本環境放射能と放射線」へ より)

4月14日号の「週間新潮」にも、同じことが書いてあった。
やっと、まともな記事にめぐりあった気持ちだ。

そういえばわたしが子どもの頃、雨が降ってきても外で遊んでいると、
「放射能が降って来るんだから、早く中に入りなさい!」と叱られた記憶がある。

でも、わたしは今、元気だ。

この時期の放射線被曝が原因と思われる「がん」を発症した人は、
わたしの同級生も同年代のひとたちにも、わたしの知る限り、まだいない。
今後はどうなるかわからないけれど、少なくとも10代、20代までは無事だった。
なら、これから先、もしもわたしが「がん」を発症するとしたら、
それはもっと別の要素が原因なのだと思う。

がんの発症には、生活習慣や喫煙の影響の方がはるかに高いとされている。

いたずらに数値だけを列記して不安を煽るのではなく、
(もちろん、そういった情報も大切ではあるが)
もっと比較対象できる情報も、同時に提示して欲しいと思う。

福島原発事故は、今や福島県だけの問題ではなく、
日本全体、いや、世界的にも大きな関心事になってしまった。
福島原発じゃなく、「フクシマ」となってしまった・・・。

くやしいけど、それが現実だ。

「フクシマ」は、まだ世界の誰もが経験していない事態だ。
「ヒロシマ」や「ナガサキ」や「チェルノブイリ」のデータで憶測するしかない。
だからみんな、疑心暗鬼になる。

こうなったらあと30年、現役で小児科医を続けてやろうじゃないか。
そして、今の赤ちゃんたちの元気な30年後を、証明してやろうじゃないか。

今、不安を煽っている人たち、福島県民を差別している人たちに、
ほ~れ、見ろ!! 大丈夫だったじゃないか!! と言ってやりたい。

ほんとうに、そう言ってやりたい。





レベル7!?

2011年04月12日 | 東日本大震災
福島原発事故が、「レベル7」と発表された。
あの、チェルノブイリと同じレベルだ。

なぜ、今になって?

国内メディアの論評は、それ、見たことか、というものがほとんど。
どうも日本のメディアは感情的な印象がある。

逆に、IAEAは冷静だ。
「福島原発事故、チェルノブイリとは非常に異なる」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110413-00000868-reu-int

ところが、こんどは、IAEAは原子力推進の姿勢だから、
信用ならんという意見をネットに寄せる人もいる。
震災当時、レベル5と発表したのに対し、IAEAはもっと深刻だという認識だった。
そういう意見は信用していたくせに、福島原発に少しでも擁護的な論調があると、
必ずそれは「うそだ」という意見がでる。

もう、うんざりだ。

ここまできたら、わたしたちは腹をくくって、現実を受け入れ、
ともかくここで頑張るしかない。




避難してきた方々の現実

2011年04月11日 | 東日本大震災
先週あたりから、受診する方々の住所も、避難所から個別の住まいに変更した人たちが増えてきた。
といっても、まだ一部と思われるが。

まもなく小学校の入学式というお子さんが再診した。
カルテの避難所の近くの学校かなと思い、○○小学校なの? と聞くと、
避難所の学区の小学校ではなく、ここから20キロぐらい南の市の小学校だ。
その家族はその市にアパートを借りたとのこと。
まだ地理もわからないし、病院もわからないので、今回は当院を再診したのだそうだ。

どうしてまた、そんな遠くに? と尋ねると、

市の担当の方から紹介してもらった不動産屋を数件当たってみたが、
どこもすでに一杯、しかも、避難者は数ヶ月で出ていく可能性もあるので、貸せない、
とも言われたそうな。
それで仕方なく、あちこち探して、やっとその市のアパートを見つけたんだそうな。

 そんなのって、アリか?

わたしも看護師も、ごめんね、と謝った。

またある兄弟は、やはりカルテの住所とその学区ではない小学校に転校する。
どうしてかと聞いたら、これまた、ホントなの? と言いたくなる状況。

その家族は、近くの高校に避難していた。
転校手続きも、近くの小学校にとった。
数日前、その避難所から15キロほど離れた温泉地に避難するよう言われ、移動した。
その温泉地の学区の小学校に行けるのかと思ったが、
もう学校の変更はできないと言われた。
15キロも離れた温泉地から、最初の避難所の学区の小学校に通ってくれと。

どうにか掛け合って、やっと、転校先の小学校に少しは近いところを見つけてもらったそうだ。
それでも、小学生がひとりで通学はできない距離だ。

そのご家族には、持病のあるお祖父ちゃんがいるそうな。
病院に通う都合もあるし、ガソリンはどうにかなるにしても、毎日送迎は無理だ。
しかも親御さんは、被災した地区の教師だそうな。
自宅は避難勧告区域なので避難してきたが、勤務先の学校は避難勧告区域ではない。
だから、授業をしに行かねばならない。
ここから毎日通勤するのだそうだ。山を越えて、50キロぐらい。
子どもの学校の送迎と、親の通院と、自分の通勤と、
とにかくやるしかないです、と言う。

 こんなのって、アリか!?

詳しく訊けば、避難先のことは県の担当。
公立小中学校のことは、その地区と当市の教育委員会の管轄。

行政同士の連携が、バラバラだ。

あめつゆしのげることができるんで、贅沢は言えない。

避難してきた方々は、みんな、そう思ってる。

 でも、こんなの、アリか!?




サクラサク

2011年04月10日 | 東日本大震災
庭の枝垂れ桜が咲いた。
   

朝から抜けるような青空だった。
いつもなら、絶好の洗濯日より。でも、誰も外に洗濯物を干さない。(こわくて干せない)
例年なら、お花見気分だ。でも、誰もお花見のことは話題に出さない。(出せない)

この枝垂れ桜は、三春町の天然記念物の紅枝垂れ桜から、実生で育ったものだそうだ。
実生(みしょう)とは、接木や挿し木ではなく、実から育てたもののことだ。
だからこの桜は、その桜の子どもという訳だ。
親である天然記念物の桜は滝桜とも言われ、樹齢は1000年以上らしい。
源平の時代も戦国時代も江戸時代も明治維新も、みんな知っている。
もちろん、太平洋戦争も。
1000年に一度と話題になった「貞観地震」も体験してるかも知れない。

その桜の種が芽を出して、うちの庭に咲いていることが、なんだか感慨深い。
 
全国的に自粛ムードだけれど、花ぐらい愛でてもいいじゃないか。

被災地のことを「ソンナノ、カンケェネェ(古いですね(^^ゞ)」
とは思って欲しくはないけれど、せめて、いつも通りのことをいつも通りに暮らして欲しい。
そんな風にも、思ったりする。

・・・と考えるのは、わたしも直接の被災者じゃないからかな・・・。

今日、引っ越してきたおばちゃんちに洗濯物を届けに行ったら、
雨合羽とか長靴を買い込んでいた。
そのうち一時帰宅ができるかも知れないから、その準備なのだそうだ。
現地に行ったらこれ(雨合羽)を来て、
あとは全部、下着まで全部、脱いで着替えて来るのだそうだ。

原発からの「サクラサク」、いちにちも早く届いて欲しい。



再出発のゴールは?

2011年04月08日 | 東日本大震災

わたしの父の実家は、浪江町にある。
親戚もみんな、被災した。
幸いにも命は無事だったが、家が全壊または半壊、強制避難区域で立ち入れないのは、みんな同じだ。

夫は開業する前に、富岡町の病院に勤務していた。
そこの病院(今は産科はないのだが)は被災をまぬがれたらしいが、院長先生ご家族や、
一緒に働いた看護師さんたちはどこにいるのか、消息はわからない。
無事であることを祈るばかりだ。

今日、以前にこのブログで書いた浪江町の遠縁の家族が、福島市に住まいが見つかったので、越してきた。
といっても、持っているのは車と簡単な着替えと、自分のからだだけ。
とりあえずの家電やら家具を大急ぎでそろえ、暮らしの形だけはどうにかなった。
おばちゃんがこっちで暮らしてた頃の小学校の同級生たちも来て、手伝ってくれた。
手伝ってくれたみんなで、夕食をとった。お茶で乾杯した。

遠縁のおばちゃんたち夫婦は、もう70歳ぐらいだ。
でも腰がすごく曲がっている。ずっと百姓仕事をしてきた。
40歳の息子は、隣県にたまたま仕事がみつかり、1週間後にはこちらを発つ。

先の見えない再出発。
原発の問題が解決しないかぎり、何もわからない。見通しを立てようがない。

いつも読んでいる精神科の女性の先生が書いているブログがある。
そこに、今日はこんなことが書いてあった。


    ・・・・・前略・・・・・・・・

  避難勧告の出た地域に住むために避難させられてい人たちが
  テレビに出る。
  テレビもテレビだと思う。
  生まれ育った土地を離れることになって、かわいそう。
  あるいは「残念です。つらいです」という報道ばかりしている。
  けど、自分たちが引き受けていた運命なんじゃない? と思う。
  拉致されたんじゃなくて、自分たちで選んで決めたことでしょう、と言いたい。
  生まれ育った土地のレベルの話ではなく、ちいさな日本がなくなるレベルである。
  世界地図を見ると、日本の小ささに驚きません?

    ・・・・・後略・・・・・・・


けど、自分たちが引き受けていた運命なんじゃない? と思う。
 拉致されたんじゃなくて、自分たちで選んで決めたことでしょう、と言いたい


この表現は、ちょっとひどくないかな・・・?
この方のブログはいつも共感して読んでいただけに、たいそうな衝撃だった。
福島県ということだけでなく、日本という国全体という意味なのかも知れないにしても。

たしかに、原発と福島県は共存の姿勢でこれまでやってきた。
けど、それは、50年も前の為政者が決めたことだ。
できてしまった公共性のある国策にもかかわる施設に対して、県民がどれだけ異を唱えられる?
真正面から国と東京電力に対抗した前知事は、ありもしない汚職でその座を降ろされた。

このように言われるのは、
広島や長崎に原爆を落とされたのは、日本が真珠湾攻撃をして太平洋戦争のきっかけを作ったからだ、
と言ってるのと、同じだ。 でも日本人の殆どはこんなことは思わない。

当事者でなければわからないことは、いっぱいある。
こんな風に思っている人たちもいるのだろうな、というのはわかるけれど、
人の心を扱う精神科医の言葉というのが、残念だ・・・。

いや、精神科医でさえ、遠く離れていればこのように考えてしまう、ということなんだろうな・・・。

ましてや、一般の方々は・・・、ということになるのかな・・・。

ヒトの認識など、所詮、この程度、ということなのかもしれない。

 


赤ちゃんたち

2011年04月08日 | 医療
毎日のように、震災で亡くなった方々の報道がある。
昨日の地震でも、数名の方がお亡くなりになった。

毎日のように、うちでは、赤ちゃんが産まれる。
産まれた命に向き合う瞬間は、いつも厳粛な気持ちになる。

医師の仕事が、命の終末に深くかかわっていくのだということは、
山村で開業していた母の姿から身にしみていたつもりだ。
勤務医の頃も、病院のどこかの病棟では、おそらく毎日のように、最期を迎えた方々がいた。

  誕生と、終末。

医師になってからずっと、このふたつの事実を、心のどこかでは、いつも意識していた。

でも、産まれた赤ちゃんをみるたび、ご家族におめでとうと伝えるたび、
今回ほど、多くの亡くなった方々のことを思い起こすことは、これまでなかった。

 キミたち、これから先のこと、頼むよ。
 わたしたちも、がんばる。

赤ちゃんのちいさな手をにぎりながら、心の中で、そう語りかける。

この子たちに、負の遺産を残しちゃいけない。









また地震だ!!

2011年04月08日 | 東日本大震災
7日の夜11時半過ぎ、またぐらっときた。
3月11日から今まで、余震は何度となくあったが、今度のは大きい。

初代コロよりもさらにめったに吠えない二代目コロも、めずらしく吠えた。

食器類は幸い大丈夫だったが、せっかく並べ直したCD類が、またぐちゃめちゃに散らばった。
いや、CDなんでどうでもいい。

夫はクリニックを見に行った。
入院中のお母さんも赤ちゃんたちも無事だ。夜勤の助産師や看護師たちも。
棚は倒れなかったが、カルテ類はかなり散らばっていたそうだ。
いや、カルテ類だって、どうでもいい。片付ければ済む。

福島原発は、大丈夫か

23時45分現在、事故の報告はないそうだ。ほっとする。(でも、本当か?)

今回の地震は震源地が宮城県沖とのこと。
気仙沼の後輩にメールする。

  だいじょうぶか

   こっちはだいじょうぶ。そっちは

  こっちも大丈夫。こんなことで、負けてたまるか

今回はメールもすぐに通じた。
当地は、停電もない。

今日(7日)外来に来たお母さんは、大丈夫だろうか。
避難してきている方々は、大丈夫だろうか。
3.11の記憶の揺り戻しはこないか・・・・。

心配だ。


飯舘村のこと

2011年04月07日 | 東日本大震災
原発事故のおかげで、今や世界中で「フクシマ」の名前を知らない人はいない。
こんなことで有名にはなりたくなかった。
とりわけ最近は、飯舘村が有名になってしまった感がある。
(メディアでは「イイタテ」と言ってるが、地元では「イイダテ」と発音している)

飯舘村は、福島県の東より、阿武隈高地という高原の、まん中より少し北側に位置する。
この村の名前を知らなかった人も、「ダッシュ村」ならご存知であろう。
そう、飯舘村には、あの「ダッシュ村」があったのだ。

  ダッシュ村の場所は下のコメントの通りわたしの大きな勘違いで、正確には浪江町。
   関係者の方々、申し訳ございません。


わたしは、ジャニーズのお兄ちゃんたちは、スマップと昔のジャニーズの方々以外は、
誰が誰だかほとんど区別がつかないのだが、おかげで「TOKIO」はわかるようになった。

飯舘村は高原なので稲作にはあまり適しないのだが、酪農に力を入れていて、
「飯舘牛」というブランドがある。
さらに、飯舘村で産まれた子牛たちが三重県や兵庫県に売られ、そこで育って、
「松阪牛」や「神戸牛」といったブランド牛になるのだそうだ。

大学勤務の頃、南相馬市の市立病院に出張があると、わくわくした。
なんたって、大好きな高原ドライブができるのだ。
たま~に、飯舘村のコープに立ち寄って、福島市内よりは少し安く買える飯舘牛を買って帰った。
(たま~に、ですよ、たま~に。)

阿武隈高地は、学生の頃によくぷらっと出かけた愛知県の山奥、奥三河の山々を思い出させる。
というより、たぶんわたしは、奥三河が阿武隈高地に似ているので、出かけたくなったのだと思う。
今は新城(しんしろ)市に合併された作手(つくで)村とか、茶臼山高原を通って、
長野県の飯田市に抜け、そこから中央道の長い長い恵那山トンネルを通って、
愛知県の自分のアパートに帰ってくる、というのがおきまりのコースだった。

長野の方からコメントいただいたり、恵那市のお母さまからマスクを送っていただいたりしたので、
学生の頃の懐かしい記憶がよみがえった。
ドライブのほとんどは、たったひとりだったけれど、わたしにはそれがしあわせな時間だった。

こちらの大学勤務も、そりゃあ、大学病院だからもちろん忙殺される毎日だったが、
大学だからこその地域関連病院への出張の行き帰りは、それなりに楽しむことができたのだ。
ろくでもないわたしの、たったひとつ、自慢できることは、
「ちいさなことでも、しあわせな気持ちになれる」ことかも知れない。

でも、今回ばかりは、しあわせな気持ちになることに、うしろめたさがある。
飯舘村のニュースを聞くと、あの懐かしい風景が目に浮かぶ。
一瞬、なつかしさに気持ちがなごむ。
でも。
今、その村のひとたちは、先の見通しがないまま、これからの生活をどうしたらいいのか、
それさえも、選ぶことができないでいる。
なつかしい思いは、どうしようもない憤りに変わる。
役場の方に尋ねたところ、まだ150人ぐらいの乳幼児たちがいるのだそうだ。

先日送られてきた手作りマスクは、飯舘村のお子さんたちに送った。

「センセイの顔、みたかったぁ・・・」

2011年04月07日 | 東日本大震災
そう言って診察室に入ってきたお母さんがいた。

震災の日以来、ちょっとでも地震がくると震えて動けなくなって、
家の2階にもひとりで上がれず、トイレにもひとりで行けず、
ご主人に付いてきてと頼んだら一笑に付され、6歳の長女に付いてきてもらってるという。

いつも明るいお母さんだ。
もちろん、お子さんの世話だってしっかりやっている。

 わたし、もともと、怖がりなんです・・・。

そうお母さんは言う。

 地震の時からずっと、センセイの顔みたくて、センセイに会いたかったんだけど、
 こわくて、外にも出られなかったんです・・。
 今も、ちょっとでも揺れると、怖くて怖くて・・・。

そうかぁ、怖かったよねぇ、ほんとに・・・。

わたしも介助の看護師も、大きく頷く。

診察の目的は、1歳の長男の湿疹。お姉ちゃんも付いて来てた。
地震のあとから、だんだん湿疹がひどくなって治らないとのことだった。

3月11日から今日までのことを、たくさんたくさん、お母さんは話した。

 わたし、心配なことや気になることがあると、誰かに言わずにはいられないんです。
 言わないでいると、余計におかしくなってしまって・・・。
 ・・きょうは、ここに来れてよかったです。

いつもの笑顔になって、お母さんは帰った。

話をきくのも、大事な診察だ。

こんなすっぴんのおばさんの顔でよければ、いつでも見に来ていいよ。





赤ちゃん用の手作りマスク

2011年04月06日 | 東日本大震災
おととい、中くらいの段ボール箱がクリニックに届いた。
差出人は知らない方。

開けてみたら、2つの紙袋にそれぞれサイズの違うガーゼのマスクがびっしり。

外来小児科学学会というのがあるのだが、そこで知り合いになった小児科の先生を通して、
その先生のいらっしゃる街のお母さま方有志の、手作りのマスクだった。
差出人は、そのお母さまの(多分代表の方の)お名前だった。

 

写真の上は、普通の大人用マスク。
下の向かって右側が赤ちゃん用。 左側が少し大きい乳幼児用。
たしかに、マスクって、子供用はあるけど、ほとんどは幼児向けで、赤ちゃん用のはない。
赤ちゃんの場合は窒息の危険性もあるし、市販するには無理があるのかも知れない。
どうしても小さい赤ちゃん~乳児に必要なら、手作りするしかない。

その先生の知り合いのお母さまたちが、福島の子どもたちのために何かしてあげたい、
なら、売ってない赤ちゃん用のマスクを作ろう、
ということで、お母さま方が集まって手作りして、送って下さったのだそうだ。
心のこもったお手紙も添えてあった。涙が出た。

   

ひとつひとつ袋に入れてあって、それぞれに、ちゃんとこんなコメントが入っている。

放射線の影響は、強制避難区域ではない地域では、心配のないレベルだという。
今や、さまざまな「専門家」の方々がメディアを通していろんなコメントを下さる。
不安を煽るようなものもあれば、安心できる(おそらくは信頼できる)ものもある。
ある「専門家」は、外出の際にはマスクや濡れたタオルなどで口を覆って、とおっしゃる。
またある「専門家」は、この程度の放射線ならマスクなどは無意味とおっしゃる。
何を、どの程度信用するかは、ここまでくると、個人で判断するしかない。

でも、でも・・・。
将来ある子どものためなら、どんな予防でもしておきたいというのが、親心というもの。
無意味だろうが、ナンだろうが。
福島市の街中も、歩いている方々は、みんなマスクをしている。

だけど、小さい赤ちゃんたちには、マスクがない。
手作りキットやら、レシピはあるだろうが、今、この地の親たちに、そんな余裕はないだろう。
食料や水やらの調達でアタマはいっぱいだ。
ちょっと外出する時だけでも、マスクができれば、ママたちも少しは安心できる。

新聞やTVに載るような支援ではなくても、こんなさりげない心遣いは、本当にうれしい。
わたしたちはひとりじゃないんだな、頑張らなくちゃ、って思える。

恵那市のお母さま方、本当にありがとう

  (勝手ながら、ブログでご紹介させていただきました。)



4月1日

2011年04月01日 | 家族
地元の総合病院で看護師として勤務する娘の、今日は初出勤だ。
最初ぐらいは弁当を作ってあげようと思っていたのに寝坊した。
だめな母をよそに、娘はちゃんと起きて自分で弁当を作り、
緊張した面持ちで出かけた。

・・ムスメ、ちゃんとやっていけるだろうか。
こんな非常事態の時だから、皆の足手まといにならねばいいが・・・。

子どもがいくつになっても、親は親バカだ。

そんな心配をしていた昼過ぎ、娘から夫の携帯にメールが来た。

 あたし、彼氏ができましたぁ!

夫はびっくりした。
彼氏って、誰だ とすぐに返信するも、その後は応答なし。

夜、ただいまぁ、と元気に娘が帰宅した。
オマエが聞いてよ、彼氏のこと、・・と夫はさかんにわたしをせっつく。
かなり動揺している。

オトウサン、こんなことでうろたえてどうする
そういうわたしも、初出勤の初対面であろうに、まずは仕事だろうに、
カレシがどうのと浮ついているようでは先が思いやられると、ため息が・・。

ちょっとちょっと、こんな時期にいくら何でも不謹慎だし、
メールの送信相手間違えなんじゃないの?

わたしがそう聞くと、娘はニンマリしてひと言。

 今日は何月何日?

・・????

あ、そうか、エイプリルフールかぁ・・・・

3週間ぶりに、家族で笑った。
こんな時にユーモアを届けてくれた娘に感謝。
でも笑ったあとに、笑いあえる家族がいることに、心が少し痛んだ。

3月11日からの出来事が、全部エイプリルフールだったらいいのに。