これも5月1日の写真。
ふるさとがあった場所には、行こうと思えばいつでも行ける。
でも、なんていうのかな・・・、
ダム湖を見ると切なくなるので、(よいしょ!)って心のなかで思わないと行けない。
この日、学校健診のあと、何も予定がなかったので、上流まで足を伸ばした。
せっかくここまで来たのだもの、やっぱり、行ってみたくなったので。
これは「茂庭の湯」の近辺から撮影。
写真ではわからないけれど、雪解け水と木の芽の緑がまぶしかった。
いよいよダムサイトへ。
ここが中茂庭の集落。人口もかつての半分ぐらいになったのかな。
中学校の赤い屋根が見える。
屋根の向こう(集落の向かって右手奥)の杉林には白鳥(しらとり)神社というのがあって、
ここのお祭りもなかなか面白い。飯阪のけんか祭りに似てる。(毎年7月第二土日)
ダム湖の少し奥。
このあたりに、実家のあった梨平(なしだいら)集落が沈んでいる。
下流の方角は空が晴れているのに、上流は曇っていて、なんか物寂しい。
見えてきた。梨平神社だ。ここは桜が満開だ。
向こうに見える山は桂山(かつらやま)という。
梨平神社というのは、ダムができてから新しくこの場所に移転された。
この場所はかつて、伊逹藩の家老だった茂庭公の先祖のお屋敷?があったところ。
地元のひとたちは「館の山」と呼んでいた。
もともとは梨平神社というのはなくて、水没する地域の神社を3つ集めて、ここに作った訳だ。
毎年5月の第3日曜(だったかな?)に祭礼が行われる。
梨平神社のふもとの、梨平公園。一応キャンプ場にもなっているらしい。
夏はそこそこ人出があるようだ。でもこの日は人っ子1人いなくて、これまた物寂しい。
公園内には桜の苗木も植えられているが、ここでお花見ができるようになるには、あと何年かな。
公園入り口には、わたしが通った小学校の校門の石柱が移転されている。
当時の校長先生の計らいで、ここに残していただけることになった。
これはその記念碑。
最近になって中学校の恩師に聞いたことなのだけれど、
学校をなくすことを、書類上では「廃校」というのだそうだ。
でも、当時は「閉校」という言葉でニュースにもなったし、「閉校式」も行われた。
好き好んで学校がなくなる訳じゃない、移転する訳じゃない、
そういう地元のひとたちへ配慮して、廃校という表現にしなかったのだそうだ。
当時のメディアや教育委員会の方々に感謝です。
おまけ:
これは摺上川下流の滝野(たきの)にあるキャンプ場近くの滝。滑滝(なめだき)という。
あ、下流とわたしは書いたけど、街中の人たちから見たら上流なのかな。
でもわたしにとっては、ここのキャンプ場は、あくまでも「下流」なの。うふふ。
夏場はここも結構にぎわう。このあたりはもう新緑。
もっと下流の、ここは板橋(いたばし)というところ。
緑のグラデーション、実際はもっと鮮やかだった。(やっぱり電線がじゃま!)
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この摺上川ダム建設の話が最初に持ち上がったのは、昭和45~46年?頃。
年齢がばれるが、わたしが中学1年の時だった。
建設場所も二転三転し、住民の反対運動もあったりして、やっと今の建設場所に決まり、
それからも、補償や移転先の交渉に何年もかかった。
最後の世帯が移転したのは平成4年。
建設の話から実に20年以上もたっていた。
住み慣れたふるさとがなくなるという不安と憤りと、
ここでこのまま暮らしていたらとうてい手にすることのない大金が入るという期待とが、
ダム建設の話から移転するまでの長い年月の間に、人々の心も暮らしも変えてしまった側面がある。
まだ入るかどうかもわからない補償金は、とりわけ人の心を変えた。
つい気が大きくなって分不相応な借金を抱えてしまったり。
補償金の分配で親子兄弟が断絶したり。
慣れない土地で商売始めて失敗したり。
なかには自殺した人もいた。
もちろん、みんながみんな、そうではない。
ほとんどの人たちは、移転先での新たな生活をそれなりにつつましく営んでいる。
だけど、「お金が人を変えてしまう」というのは、ほんとうだと思う。
湖底に沈んだふるさとの風景や、そこで暮らしていた頃のことや、村のひとたちの顔を思い出すたびに、
いつもせつない気持ちになった。
ふるさとがなくなってしまったということだけではなくて、
そこで暮らしていた人たちのコミュニティがくずれてしまったというか・・・、
う~ん・・・。
どう表現していいのかわからない。
自分の意に沿わない形でふるさとを離れるということは、そう簡単なことではないのだ。
その複雑な思い・・・、喪失感とでもいうのかな・・・、それは、何年たっても、消えることはない。
水没・移転してから約20年以上が過ぎた。
このダム建設は、本当に必要だったのかな、って、ずっと思ってきた。
でも、最近になってひとつだけ、よかったと思うことがある。
それは、ここの放射線量が米沢なみに低かったこと。
だから震災事故当時から、福島市の水道水は大丈夫だった。
物事は、なにが良かったのか悪かったのか、後になってみないとわからないんだな・・・。
そんなこんなを思いながら帰ってきた。
春を追いかけての記事なのに、湿っぽくなってしまったけど、
桃も桜も新緑もキレイで、いっぱい深呼吸して、(心の)老廃物もぜ~んぶ吐き出して、
とうぶんはこの平穏な気持ちが保てるかな。
*:一部記載表現を変えました(5月7日)