ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

季節の便り

2010年02月16日 | 日々のつぶやき
わたしの住んでるところはまだまだ寒いのだけれど、
暦の上ではもう春。
ということで、テンプレートも替えました。
ちょっと和風で・・。

学生の頃、最初に住んでいたアパートは、
小高い丘のふもとの山道を大学まで歩いて15分ぐらいのところにありました。
裏道なので、帰りが暗くなった時には歩いて帰宅する気にはなれませんでしたが・・。
途中、梅の林(個人の畑?)があって、そこは日当たりが良く、
1月中旬~2月頃にはもう白い花が咲いて、小春日和の晴れた日には、
上品な薫りが鼻孔をくすぐるのでした。

この時期、実家の父からの季節の便り代わりの電話ではいつも雪の話題。
こっちは、もう梅の花が咲いたんだよ。
という私の近況報告を、父はさも嬉しそうに聴いていたっけ。
今だったら、携帯の画像を送信するところでしょうかね。

あの頃、電話ばかりではなく、たまには手紙も書きなさいと両親に言われましたが、
当然のこと、わたしは生返事でした。

うちの子どもたちも、いまどきの若者よろしく、ろくに便りもよこしません。
手紙などは、年賀状以外(それもほんの数枚)書いたことがないんじゃないかな。
(親の教育も至りませんでした。ははは・・・)
いずれ社会人になったら、失敗しながら苦労して覚えるしかないのでしょう。

若者はこんなものだと思いつつ、
当時、わたしの両親もわたしの便りを待っていたんだなぁ、ということを、
同じ立場になってみてしみじみ感じています。

世代は繰り返す、ってか・・・?(^_^;)


正しいお金の使い方

2010年02月14日 | 家族
家計のやりくりをする時は、まず食費・光熱費・住居費など最優先するものがあって、
子どもがいれば教育費、家族の医療費と続き、その上で余裕があれば、衣類やら趣味などにまわす、
というのが、どこのご家庭でも当たり前のことでしょう。

たとえば、今度子どもが高校に進学するとします。
入学金や制服代や教科書代がかかります。
マンションのローンはまだ残ってるし、暮れのボーナスはわずかでした。
わたし(お母さん)も入学式に着ていくスーツ欲しいんだけど、
この間お父さんの背広新調しちゃったし、今回は古いので我慢するかな・・・、
ってことも、よくあるでしょう。
(我が家はほとんどがこの逆だけど・・^_^;)

つまりですね。
収入が変わらない、あるいは減っているなら、支出だってそれに合わせる、
ってのは、至極当然の、誰でもフツーに考えることなんです。

それがどうよ。
国にお金がないのに、新政権はマニフェストを守るべく、
おかしなことばっかり。
もちろん、言った以上は守っていただきたいとは思いますが、
そのひとつが高速道路無料化。
これ、本当に大多数の国民が望んでいると思ってるのでしょうか?
土日1000円にした結果招いた大渋滞、どう考えますか?
そりゃあ、高速道路が一律1000円は、魅力ですよ。
なら、自家用車だけではなく、荷物を運ぶトラックも同じく1000円にすべきでしょう。
無料化のそもそもの目的は、物流の安定とコストダウンをはかり、
地方格差をなくすことなのだそうですから。

でもさ。
国にお金がないのに、本当に大丈夫なの?
無料化にするとして、その財源は?
道路のメンテナンスは?
お金がかけられなくなって、道路が傷むなんてことは、ないの?

高速道路を無料化にするぐらいなら、新幹線代や飛行機代を安くしてよ。
1000円じゃなくていいから、せめて今の半額。
その方が、地方格差はなくなるんじゃない?

財源は決まってるんだから。
それ、わたしたちの税金なんだから。
税金を払える国民の数(つまり人口ね)は、減ってるんだから。
収入が限られてるなら、その中から何を優先してお金を使うか、っていうのは、
国の予算も家計費も、考え方は同じじゃないの?

これって、乱暴な考え方かしらん?

要するに、優先順位があるでしょ、ってことが言いたい。
その優先順位は、「高速道路」じゃなくて、将来を担う「子ども」でしょ、ってこと。
だから「子ども手当」を困ってない家庭にも均等にばらまくんじゃなくて、
本当に困っていてお金を必要とするところに、正しく遣って欲しい。
前にも書いたけど、
全ての予防接種を無料化して定期接種にして欲しい。
給食費も無料にして欲しい。
保育料を安くして欲しい。
保育園も増やして欲しい。

収入のまだ少ない若い世代の親たちが、安心して子育てができる環境ができれば、
子ども産もうと思う親御さんも増えるんじゃないですかね。
それが少子化対策じゃないですか?
そうすれば世の中の景気だってもっと良くなるはず、とわたしは思いますがね。

永田町のセンセイ方のお給料は毎月約230万円ぐらいだそうな。
その上、新幹線代や飛行機代も支給されるし。
もちろんそれは必要経費なのでしょうけど。
でも、一律この金額って、どうなのかな。
一般国民の金銭感覚では計りかねます。
これも、わたしたちの税金ですよね。
ついでに言わしてもらえば、これこそ「事業仕分け」したらいかが?

「センセイ」と呼ばれる職業

2010年02月13日 | 家族
医師になりたての頃、研修先の大学の教授からいわれました。

「君たちは、今日から医師として研修がはじまります。
 患者さんたちからは、センセイ、センセイ、と言われます。
 しかし、勘違いしてはいけません。
 この大学病院の中で白衣を着ているからセンセイと呼んでいただけるだけで、
 患者さんたちが君たちを信頼してセンセイと言っている訳ではありません。
 医師免許があるというだけで、まだ何もできない君たちにとって、
 これから出会う患者さんこそが先生といえます。
 患者さんを診察することで教えられ、本物の医師になるのです。
 ゆめゆめ、そのことを忘れないように。
 センセイという言葉に決して天狗にはならないように。」
 
あれから20ウン年。
エラそうにしているつもりではなくても、そういう印象を与えてしまったなぁ、
と反省することもしばしば。
とはいえ、ある時には毅然として振る舞わねばならないこともあります。
親子が友だちのようになってしまってはいけない(とわたしは思っている)のと同じで、
ほどよい距離を保ちつつ、的確な助言ができればいいのかな、というのが、
ようやくつかんだわたしのスタイルです。
だから、言わねばならないと思うことは、やはりお伝えするようにはするつもり。
(できるだけ、エラソウじゃなくね・・・)

いや、今日はこんなことを書こうと思ったんじゃなかった。

「センセイ」と呼ばれる職業のことでした。

 学校・幼稚園・保育園の先生、
 小説家、
 習い事などの先生、
 議員さん、

・・・などでしょうか。

医師の過重労働やストレスは最近たびたび耳にしますが、
もちろんそれも、その通りなのですが、
「センセイ」という職業で今いちばん大変なのって、学校関連の先生かも・・。
昨日、ある患者さんのことで、ある学校の先生から相談を受けました。
直接診察をしている訳ではないので、一般的なことしか言えませんでしたが、
聞けばきくほど、担任や養護の先生のご苦労ぶりがしのばれる内容でした。
わたしたち医師は、どんなに手の掛かる患者さんでも、
その患者さんとは一対一で向き合う時間をとることができます。
でも、教育関係の先生方はそうもできない現状があります。
30人前後の生徒に対しても、同時に同じように目配りをしなければなりません。
相手にするのは生徒だけではなく、その家族もです。
何か事がが起これば非難の的になることもあるでしょう。
よほどの使命感がなければ、続けられない職業かもしれません。

さて、「センセイ」の代表格である議員さん、
特に永田町のセンセイ方の使命感のほどは、いかほどなのでしょうねぇ・・・。

「末は博士か大臣か」
これって、かつては利発な子どもへの期待を込めての言葉だったはず。

別の友人の教師からきいたホントの話。
受け持ちの子どもからこんな質問されたそうです。(^_^;)
「ねぇ、センセ、大臣て悪いことする人?」

医者の不養生

2010年02月08日 | 医療
昨日は市の休日当番でした。
患者さんは120人ぐらいですから、小児科の休日当番としては、まぁまぁの人数です。
昼食を食べる時間もありました。
ただ、中身が濃かった。
というのも、最近またちょこちょこ出ているインフルエンザのほかに、
赤ちゃんがかかると呼吸困難がひどくなるRSウイルス感染の疑いのお子さんとか、
下痢嘔吐の患者さんが殆どでした。
なので、点滴や吸入などの処置が多かったので、内容としては結構忙しい一日でした。
開業当初からいるベテラン看護師さん3人と連携を取りながら、
新しい看護師さん2人も、一生懸命頑張ってくれました。
休日当番の受付は夕方5時までですが、当然5時には終わりません。
全て終了したのは6時半近くでした。
(でもこれは休日当番にしてはかなり早い終了です)
その後わたしは、夜7時からの市の夜間診療所の当番だったので、
急いで夕食を流し込み、急いで出かけました。
予想通り、すでに10人ぐらいの患者さんが待っていました。
夜11時までで約30人ちょっとの患者さんを診察しました。
こちらも同じく、高熱か、咳がひどいか、下痢嘔吐、のお子さんばかりでした。

普通は、同じ日に休日当番と夜間救急の当番をすることはありません。
今月のわたしの夜間救急の当番は、本当は11日の祝日だったのですが、
その日は都合が悪かったのです。
そういうときは、休日と休日で誰かに交換をお願いするのですが、
今月はこの日以外の休日は全部都合が悪く、仕方なく7日に交換していただいたのです。
ま、どうせ休日がつぶれるなら、昼も夜もいっぺんに終わったほうがいいかも、
なんてことも考えたので・・。
それに、勤務医の頃はこんなこと日常茶飯事だったしね。

考えなしだったかなぁ、とは思うものの、
わたしの年齢でも当直やってる勤務医の先生方がいらっしゃることを思えば、
なんの、これしき、です。

でも、やっぱり、さすがに疲れました。
今日、月曜日の外来も張り切ってスタートしたはよかったけど、
夕方になるにつれて、カルテを書きながら、なんか目まいがするし、
鼻がつまって頭が重い感じがするし、人の声が遠くで聞こえる感じだし。
そういえば、数日前から、時々くしゃみと鼻水が出てたなぁ・・・。
花粉はまだ飛んでないはずなんだけど・・。

アレルギー性鼻炎はもともとあるんだけど、副鼻腔炎になっちゃったかなぁ・・、
そういえばちょっと吐き気も・・・。もしかしてまたメニエール?
それとも患者さんの下痢嘔吐がうつった?
(いや、でもそれはこの間治ったばかりだし、胃腸はなんともないし・・)
いろんな診断名がアタマをよぎりますが、結局そのまま。(^_^;)

んで、さっさと寝ればいいものを、夜更かししてブログ書いてるし。(^^ゞ
だめだ、こりゃ。

さて、明日も頑張らなくちゃ!

2010年02月06日 | 日々のつぶやき
           雪

     太郎を眠らせ,太郎の屋根に雪ふりつむ。
     次郎を眠らせ,次郎の屋根に雪ふりつむ


これは、三好達治の「雪」という題の詩です。
「測量船」という詩集のなかのひとつです。
たしか、中学校の国語の教科書に載っていました。

わたしはまだ子どもだったので、ヘンな詩だなぁ、というのが最初に読んだ印象でした。
が、なぜか、とても惹かれました。
たった二行なのに、ふるさとの、しんしんとふりつもる雪と、
すやすやと寝息をたてて眠る家々の子どもたちの情景が浮かびました。
寝ている子どもたちは、小さかった自分やふるさとの同級生を想像した記憶があります。
わたしは中学校から親元を離れていたので、余計にその情景が浮かんだのかも知れません。

地元に戻ってきて勤務した大学病院は、この街の盆地の南端の丘の上にあります。
病院の上の階の窓から北側を眺めると、はるか遠くに、実家の村のある山々が見えます。
当直の時には、子どもたちを実家に預けていました。
真夜中、救急外来で起こされたあとなど、すぐに眠れないことがあります。
子どもたちはもう寝たかなぁ、なんて思いながら、
晴れた夜空の北の方角を眺めていたこともありました。
冬、雪が積もって晴れた夜には、山の稜線がくっきりと見えることがあるのです。
そんな時、思い出すのが、この詩でした。
(もっとも、この詩では雪は「降っている」ので、晴れた夜空ではないですが・・)

そのふるさとも、今はダムの底。
子どもたちも、大きくなりました。

この詩の解釈として、
「太郎」「次郎」を眠らせるのは誰か、とか、
「太郎」と「次郎」はどんな子どもか、兄弟か、とか、
「太郎」「次郎」の家はどんな場所か、
などの課題を考えさせる授業を今の学校はしているのだそうです。

「太郎」「次郎」を眠らせるのは「お母さん」という答えもアリ、なのだとか・・・。
文法的には「雪」だと思うんだけど・・・。
でも、詩なのだから、解釈は自由でいいのかな。

わたしの頃にはどのように教わったのか、残念ながら記憶にありません。

 しんしんと音もなく降り積もる雪。
 山も畑も家々の屋根もすっぽり白く雪にくるまれています。
 遊び疲れた子どもたちは、ほほをまっかにして、すやすや寝息をたてています。
 ときおり、お母さんがふとんをかけ直してあげます。
 雪はやまずに降り続いています。
 あしあともなにもかも、消えてしまうぐらいに。
 しずかにしずかに過ぎていく、ふるさとの情景です。

これは、わたしの解釈。

昨日から降り出した雪、特に日本海側では、20数年ぶりの大雪なのだそうです。
当地でも数年ぶりに積もりました。

きっと今頃、あちこちで「太郎」くんや「次郎」くんが眠っています。

 





人間万事塞翁が馬

2010年02月05日 | 医療
「人間万事塞翁が馬」という故事があります。

  中国の北部に、高値で売れる名馬を産出する地方がありました。
  そこで名馬を育てていたある老人のところから、一匹の馬が逃げてしまいました。
  村の人々は、口々になぐさめました。
  「良い馬だったのに、残念でしたね。」
  老人は言いました。
  「これが悪いことかどうかは、わからないよ。」
  それからしばらくすると、逃げた馬が、立派な名馬を数頭連れて戻って来ました。
  村の人々は、こぞって祝福しました。
  でも老人は言いました。
  「これが良いことなのかどうかは、わからないよ。」
  その後、老人の息子がその名馬に乗っていて落馬し、大怪我を負いました。
  村の人々は、またしてもなぐさめました。
  でも、老人は言いました。
  「これが悪いことなのかは、わからないよ。」
  その後、その地方で戦争が起こりました。
  村の多くの若者は戦争に行き、命を落とした者もいました。
  でも、老人の息子は、怪我をしていたおかげで戦争に行くことはなく、
  命を落とすこともありませんでした。

ざっとこんな内容だったでしょうか。
ちなみに、「人間~」とは「ニンゲン」ではなく「ジンカン」と読むのだそうで、
「世間」という意味なのだそうです。


当院も、開業して15年を過ぎました。
分娩を扱う産婦人科と小児科・内科なので、スタッフ人数も総勢40名ぐらいです。
今までにも、さまざまな事情で辞める人も何人かいましたが、
お世話になってる税理士さんや労務士さんのお話では、
うちはスタッフの出入り(辞める人)は少ない方なのだそうです。
それでも、今年(今年度)は、なぜか辞める看護師さんが相次ぎました。

勤務医の頃には想像もつかなかったことですが、
スタッフから「辞めたい」と相談を受けることぐらい、心が痛むことはありません。
(もちろん、患者さんの相談事以外で、です)
結婚退職ならめでたいことですが、ほとんどはそうではなく、「家庭の事情」とやらです。

「辞めたいのですが・・・」と相談を受けた時に真っ先にアタマに浮かぶのは、

  うちでの待遇が不満だったのかな・・・、
  スタッフ同士の人間関係かな・・・、
  わたし達に何か問題があったのかな・・・、

こんなことが、次々と浮かび、悶々とした日々を過ごします。

数年前に、わたしの外来に欠員が出て(この時は転居によるものでした)、
かわりに勤務するようになった看護師さんがいます。
彼女は若いながらも根性があって、愛嬌も良く、ずっと長くいてもらえたら、と思っていました。
が、夏に相次いで産科病棟の二人の看護師が辞めたあとしばらくして、
小児科外来の彼女も辞めたいと言ってきました。
理由はやはり家庭の事情と、別な分野の看護の勉強をしたいから、とのことでした。
それはそれで、彼女の将来を考えれば応援すべきことです。

小児科外来(母もいるので、正確には内科小児科外来ですが)には、看護師が4人います。
医師ふたりなので、忙しい時期は、この人数でもてんてこ舞いのこともあります。
できれば12月いっぱいで辞めたいというところを、
一番忙しい時期だからせめて3月頃まで、と無理にお願いして、急遽募集を出しました。
10月になって、ひとり看護師さんが決まりました。
とても気配りのできる、優しそうな方です。もちろん仕事もできます。
でも、その方も、家庭の事情で、12月で辞めてしまいました。

また募集をしました。
今度は二人の応募がありました。
一人だけでも良かったのですが、今後のことなどいろいろ考えて、二人に来てもらうことにしました。
2月1日から早速勤務していただけるとのこと。
3月まで無理にお願いしてた看護師さんは、1月いっぱいで辞めることになりました。

今年度、当院で相次いだスタッフの出入りに関して言えば、
「辞めたい」と告げられた時は、とても残念でした。
でも、わたしの外来の彼女が辞めたいと言わなければ、新しい看護師さんは来ませんでした。
3ヶ月という短期間ではあったけれど、その方が加わって5人になったたからこそ、
10月~12月の患者さんとワクチン接種で混雑する外来を、どうにかこなすことができたのです。
今までの4人だけであれば、とてもとても、無理だったように思います。
そして、その新しい方が短期間で辞めたいと言わなければ、
さらに新しく二人の看護師さんは来ませんでした。
新しい二人も、とてもいい方々です。
うまくやっていけそうです。

3月になると、産科病棟の看護師さんと助産師さんの二人が、出産のために育児休暇に入ります。
昨年9月に出産していま育児休暇中の助産師さんが5月の連休明けに復帰してくれるまで、
病棟はかなり、大変になります。
この時期を、どう乗り越えるか・・・。
仲間を思いやる心というものが、こういう時に見え隠れします。
スタッフも含め、わたしたち全員の正念場だとも思います。
患者さんや妊婦さん達に迷惑をかける訳にはいきません。

振り返れば、夫もわたしも、「家庭の事情」で母校の大学病院を辞め、わたしの地元に帰ってきました。
その後やはり「家庭の事情」で開業することになり、勤務医をやめました。

人はそれぞれ、さまざまな事情をかかえて生きています。

いろんな出来事に直面した時に、それをどのようにとらえ、どのようにな対応をするかで、
その人柄が出てしまうように思います。

人生の選択をする時も、同じなのだと思います。