ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

水道水について心配しておられる妊娠・授乳中女性へのご案内

2011年03月24日 | 東日本大震災

上記題名の通知が、日本産婦人科学会より出されました。
http://www.jsog.or.jp/news/pdf/announce_20110324.pdf

PCで開けないかたもいらっしゃるかもしれませんので、全文を載せます。
尚、読みやすくするために、段落を変えてあります。(赤い文字は私が強調)

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【水道水について心配しておられる妊娠・授乳中女性へのご案内】
                               平成23 年3 月24 日
                               日本産科婦人科学会

平成23 年3 月23 日(水曜日)東京都の金町浄水場の水道水に
1kg(1.0 リットルあるいは1000 ミリリットルに同じ)当たり210 ベクレルの放射性物質が
含まれていると発表されました。
以下に、1kg 当たり200 ベクレル前後の放射性物質を含む水道水(軽度汚染水道水と表現します)を
長期にわたって飲んだ場合の健康への影響について学会の見解を示します。

1. 軽度汚染水道水を妊娠期間中(最終月経開始日より分娩まで)
 毎日(計280日間)1.0 リットル(1,000 ミリリットル)飲むと仮定した場合、
 妊娠女性がその間に軽度汚染水道水から受ける総被曝量は
 1,232 マイクロシーベルト(1.232 ミリシーベルト)と計算されます。

  おおよその母体被曝量は以下のように算出されます。
  総被曝量(マイクロシーベルト)=(摂取ベクレル総量)×2.2÷100
  例えば、
   500 ベクレル/kg の水を1 日1.0 リットルずつ365 日飲むと
   500×365×2.2÷100=4,015 マイクロシーベルト(約4.0 ミリシーベルト)
  となります。

2. お腹の中の赤ちゃん(胎児)に悪影響が出るのは、
 
赤ちゃんの被曝量が50,000 マイクロシーベルト(50 ミリシーベルト)以上の場合と考えられています。
 なお、日本産科婦人科学会では放射線被曝安全限界については米国産婦人科学会の
 推奨に基づいて50 ミリシーベルトとしてきております。

 一方、これら問題に関する国際委員会の勧告、
 ICRP (International Commission on Radiological Protection) 84 等に基づいて
 安全限界を100,000 マイクロシーベルト(100 ミリシーベルト)とする意見もあります。
 この違いは他の多くの安全性指標と同様、安全域をどこまで見込むかという
 考え方の違いによるものです。
 なお、
赤ちゃん(胎児)の被曝量は、母体の被曝量に比べて少ないとされています。
 胎児が100,000~500,000 マイクロシーベルト(100~500 ミリシーベルト)の被曝を受けても、
 胎児の形態異常は増加しないとの研究報告もあり、
 ICRP84 は「100 ミリシーベルト未満の胎児被曝量は妊娠継続をあきらめる理由とはならない」と
 勧告しています。

3. 母乳中に分泌される(出てくる)放射能活性を持ったヨウ素は母体が摂取した量の4 分の1 程度
 と推測されますが、確定的なことはわかっていません。

4. これらを総合すると、
 
現時点では妊娠中・授乳中女性が軽度汚染水道水を連日飲んでも
 
母体ならびに赤ちゃん(胎児)に健康被害は起こらないと推定されます。
 また、
授乳を持続しても乳幼児に健康被害は起こらないと推定されます。

5. しかし、胎児・乳幼児は成人に比べ被曝の影響を受けやすいとされており、被曝は少ないほど安心です。
 したがって、軽度汚染水道水以外の飲み水を利用できる場合には、それらを飲用することをお勧めします。

6. 妊娠中女性は脱水(体の中の水分が不足すること)には特に注意する必要があります。
 したがって、のどがかわいた場合は決してがまんせず、水分を取る必要があります。
 のどがかわいた場合には、スポーツドリンク、ミネラルウォーター、ジュース、牛乳、などがお勧めです。

7. 今後も水道水の放射性物質汚染(ベクレル値)には注意して下さい。
 今回お示しした式を使用して、野菜などからの被曝も計算できます。
   野菜何グラム当たりのベクレルかに注意が必要です。
   1.0 キログラムは1,000 グラムと同じです。


放射線報道に慌てないで下さい

2011年03月24日 | 東日本大震災

福島第一原発事故は、回復のきざしがあるのかないのか、
政府・東電の発表は、まだ予断を許さないとのこと。
発表される放射線濃度は、日ごとに少なくなってはいるようですが・・・。

でも、ここにきて、やはりというか、風評被害が目立ってきました。

野菜農家も、酪農家も、大打撃です。
東京都の水道まで、検出されたという報道で、日本中がおかしくなっています。

先日、福島県立医大やいわき市、福島市などで、
長崎大学医学部教授 山下俊一 先生の講演がありました。
山下先生は、チェルノブイリで被災した子ども達を20年間診療した経験を持つ方です。
http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/interna_heal_j/chernobyl-2.html
県立医大での講演内容を、聴いた先生方からMLで知らせていただいたので、ここにも書いておきます。


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 一言で言えば、乱暴な言い方ですが山下先生の講演内容は
  「自分がチェルノブイリを20年以上調査をしている経験から言うと、
  今回の事例は避難距離をとっていれば問題ない。私が言うのだから信じて下さい。」
 という内容でした。
 口調は非常にソフトで科学者の牧師さんに放射線被曝について話を聞いたような感じでした。
 会場内すべて聞き入っていました。

 以下箇条書きに書きます。

 1.日本の国は原発立国なのでそれなりのリスクはある。当然東京でも今回の影響は測定される。
   関東圏の人が長崎まで来るような事例があるが、原発に対するリスクコミュニケーションの不足による。

 2.原発で現在作業をしている方々はまさに決死隊であるが、避難地域圏外の人々が逃げ出してしまうのは、
   正しい情報の伝達と理解がされていないからである。

 3.現在の避難距離には論理的裏付けがある。

 4.1年間の自然被爆量は2.4mSev/yearであるが、
   現在の医大保育園のすぎのこ園の園児の測定では2.0mSev/yearであった。

 5.チェルノブイリ原発事故で最初にその異変に気付いたのは、
   数千キロ離れたスウェーデンの原子力発電所であった。今回の事例は全く違う。

 6.広島、長崎の原爆投下後、草木も生えず、復興に何十年も掛かると思われていたが、
   実際は半年後から復興が開始された。
   今後、原発の状況が終息した時点で、あらためて被爆状況を測定し、復興が開始されるだろう。
   国が主導し勧められるべきである。

 7.食品は当然サーベイは必要であるが、避難勧告圏外に関しては摂取しても問題ない。

 8.福島の人々には現状を正確に捉え、
   将来的にも正確に把握しここから全世界に情報を発信して行かなければならない。
   長崎大学は大学をあげて協力を惜しまない。

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つまりは、現段階では、慌てることはなく、いつも通りの生活をしていればよい、
ということのようです。
もちろん、乳幼児に対しての予防対策は必要ですが。


2011年03月24日 | 東日本大震災

3月20日
買い出しの帰り、ふと見ると北東の空に小さな虹が出ていました。
雨が降った訳でもなかったはずなのに。

いつもなら交通量の多い国道ですが、ガソリン不足と放射線の風評で道路はがらがら。
車を寄せて、携帯で撮影しました。

 この日は、開いているドコモショップで、壊れた携帯をみてもたっらところ。
 なんのことはない、壊れたかもとフォーマカードを取り出したりしていじったせいで、
 フォーマカードが裏返しに入ってたらしい。

直った(というべきか?)ばかりの携帯での初撮影。

この青空のずっと向こうには、空腹と寒さをこらえて頑張っている被災者の方々がいます。
こんな澄んだ空に、放射線が飛んでいるなんて・・・。

今、わたしにできることは、なんだろう。
毎日毎日、同じことを考えています。

 がんばれ 福島

 がんばれ 宮城

 がんばれ 岩手

 がんばれ 茨城

 がんばれ 東北

 がんばれ みんな

 がんばれ ニッポン

 


東京都消防庁の会見

2011年03月24日 | 東日本大震災

3月19日
福島第一原発3号機への放水のため、自衛隊のほかに東京都消防庁も出動。
大変な覚悟で任務を遂行して下さいました。

隊長ほか2名の方々の記者会見を聴きながら、涙がこぼれました。
涙ながらに隊員のことを気遣う言葉には、
本当にこの国を守ろうという使命感が溢れていました。

「信じて待っています。」

「日本の救世主になって下さい。」

メールを返すご家族の不安と心配は、いかばかりだったでしょうか。

消防庁の方々の会見での説明は、これまでの東電や官房長官の会見のどれよりもわかりやすく、
わたしたちの心に響きました。
会見終了後、TVに向かって思わず拍手しました。

自衛隊の方々・消防庁・各自治体の消防隊員・警察官・東電の作業員の方々、
ほんとうに、ほんとうに、ありがとう!!

これから先、仮に福島県全体に避難命令が出ても、
わたしたちも、最後の自分の患者さんたちをしかるべき医療機関に紹介するまで、
逃げずに頑張ります。

ほんとうに、ありがとう。
わたしたちも、あなた方から勇気を貰いました。


そして、1週間が過ぎた

2011年03月24日 | 東日本大震災
3月18日
地震から1週間。
原発の3号機は、まだ温度が下がりません。
核燃料は露出したまま、放射線漏れはまだ続いています。
自衛隊・消防庁・警察の方々・東電作業員の方々が、必死に頑張って下さっています。
わたしたちは、祈るしかありません。
どうか、ご無事で・・・。

地元の県立医大小児科を中心に、MLを活用しながら、被災した子ども達や、
被災してなくても医薬品不足で治療困難になることが予測される子ども達のために、
今、着々と活動しています。

わたしのクリニックにも連絡が来ました。
福島市及び伊達市では、紙おむつやミルクは不足が深刻になってきたそう。
わずかでもいいので、何とか都合つけられないか、とのこと。
うちのクリニックも紙おむつやミルクはぎりぎりではあるのだけれど、
ちょうどいくつか手にはいりました。
幸いにも、当院では母乳支援をしているので、ミルクの消費はあまりありません。
福島市・伊達市の災害救援窓口に、粉ミルク・紙おむつを届けてきました。

ただ、各市の救援物資受付窓口も、物資は届くものの、人手不足でなかなか配るのが困難な様子でした。
ボランティアの腕章をつけた高校生が結構いました。

頑張れ、日本の若者たち!!

娘が帰ってきた!

2011年03月24日 | 東日本大震災
3月16日

先週東京の看護大学を卒業した娘が、やっと帰ってきました。
無事国家試験に受かっていれば、4月から地元の病院に勤務する予定です。

娘の引越は、地震翌日の12日に予定していました。
わたしも行くはずでしたが、なにせ新幹線も不通だし、今はここを動く訳にはいきません。
状況が落ち着くまで引越を延期するかどうかも迷いましたが、
荷物だけは引き取ってもらえるとのことだったので、予定通り決行。
住まいも引き払うことになっていたので、その日娘は友だちのアパートに泊めてもらい、
翌13日は、息子の住む名古屋へとりあえず身を寄せることに。

この時もまだわたしたちは、原発問題も、なんとかなると思っていました。

でも、発表される状況は、一向に進展なし。
それどころか、悪化しているとしか思えない報道。

いっそのこと、こっちでの就職はチャラにして、名古屋のどこかに勤務するか?
「親」の気持ちがチラリと頭をかすめます。

毎日電話で連絡を取り合ってましたが、さすがに、娘も息子も声に元気がありませんでした。

それしにても、名古屋から福島まで帰って来る交通手段がありません。
東北新幹線は那須塩原までは復旧しましたが、そこまで迎えに行けるだけのガソリンがありません。
息子の車で、ふたりで新潟経由で戻るという選択枝もありますが、
途中経路の長野でも大きな地震がありました。 道路事情が心配です。
息子も、4月から始まる病院実習の打ち合わせ?とかで、
23日にはどうしても登校しなければならないのだとか。
こっちに帰ってきたところで、今度は名古屋まで帰るガソリンがありません。

あれこれ悩んでいたら、セントレア(中部国際空港)と福島空港との臨時便があるそうな。
子どもたちに調べさせたら、ちょうど16日の便が手に入るらしい。
息子も実家を心配して、自分の切符も予約しようとしたら、空港の方に言われたそうな。

 福島に行く人はほとんどいないので(そりゃ、そうだろう)ガラガラですが、
 福島→名古屋は、キャンセル待ちが200人ぐらいいますよ、

わたしたちも、無理して帰ってくるなと息子には言い、娘だけ帰ることになりました。

さて、福島空港から当地までは、約70キロあります。
ここまで迎えに行くガソリンもぎりぎりなので困っていましたが、
郡山市までシャトルバスがあり、郡山市から福島市までの臨時のバスもあるとのこと。
ところが、郡山市から福島市行きのバスは長蛇の列で、娘は乗れず、
次のバスは2時間以上後らしい。

郡山市までならガソリンもどうにか間に合いそうなので、迎えに行って来ました。

娘から聞いた、福島上空にさしかかった時の、隣の乗客たちの会話:

 ーあれ、山の上になんか白っぽいのが舞ってるるけど、放射能?

 ーちがうダロ、あれはスギ花粉じゃねぇの?

東京での揺れもかなりのものだったらしい。
震源地が宮城沖と報道で聞いて、東京でこれなら、うちは相当な被害だと思ったそうです。
自宅には電話もつながらないし、本当に心配だった、泣きそうだった・・、
11日から今日までのことを、娘は車の中でずっとしゃべっていました。

娘がこれから勤務する予定の病院にも、避難している方々が多く搬送されています。
こんな時期に新人で勤務するムスメ、きっと例年の新人よりもずっと大変だ・・。
でもそれは黙っていました。

頑張れ、ムスメ。

浜通りの親戚の避難先が判明

2011年03月24日 | 東日本大震災
3月15日
連絡がつかなかった浜通りの親戚の避難先がわかりました。
ガソリンがやや心配だったけれど、夕方、外来が終わってから、迎えに行きました。
場所は、川俣(かわまた)町ということろ。
福島市からは約20キロほど離れた街です。

避難先は、川俣町内の、ある小学校でした。
すでに成人している息子との親子3人で避難していました。
その親戚一家は、我が家との血縁は遠いのですが、
母とそのおばちゃんは、子どもの頃に姉妹のように育った関係でしたので、
いつも母のことを「姉ちゃん」と呼んでいました。
毎年、季節になると、浜でとれるホッキ貝などを送ってもらったりしてました。

その小学校では、地区ごとに、教室や体育館などに振り分けられていました。
親戚一家は、体育館にいました。
おばちゃん、うちに行こう、と勧めるも、ここにみんなといる、と。
ご主人も、長期戦になるから、当分ここにいるから、いい、と。
すぐそばで寝ていたお婆ちゃん(80歳は越えているでしょうか)も、
この人たちを自分はとても頼りにしているので、どうか、連れていかないで下さい、と。

母はそのようになることを予測していたらしく、
○○子(おばちゃんのこと)は多分来ないと言うと思うから、念のために持って行け、
と言われ、準備してきた毛布やら着替えやらリンゴ・お茶などを渡し、
仕方なくまた一人で帰ってきました。

避難所は、高齢の方々がとても多く、皆疲れていました。
おばちゃんたちの家は半壊状態ですが、
当然のことながら、家ごと津波にさらわれた方々、
身内の行方がわからない方々もおられたようです。

帰り道、涙が出て止まりませんでした。
あそこにいた方々は、これから先、いつまで避難所にいられるのだろう。
おじさんの言うとおり、確かに長期戦になる。
その長期戦とは、壊れた建物の瓦礫を片付け、新しくするとか、
道路を復旧させるまでとか、そういうたぐいのものではないのです。
原発事故が今後どうなるのか、先の見通しがまったくありません。
果たして、人が住める街に戻るのか、どうなのか・・・。

医者のくせに、せっかく避難所まで行ったのに、
何の医療品も持たずに出かけたことも、悔やまれてなりませんでした。


気仙沼の後輩の消息確認

2011年03月24日 | 東日本大震災
3月15日
毎日のように、TVからは被災地の映像が流れます。
大学の部活の後輩が、気仙沼市で開業していました。
壊滅状態になっている気仙沼市の映像が、You Tubeでも流れています。
学生名簿で住所を確認し、地図を見ると、ちょうど壊滅状態の街のまん中あたりです。
母校の先輩・後輩・同級生たちも皆、心配していました。
無事に逃げてくれてればいいが、と。

学生の頃からマメなことではひけをとらない同級生が、グーグルで検索し、
たまたま、消息がわかりました。
後輩一家は、高台に避難して無事でした!
クリニックは津波でやられたそうですが、
生きていれば、何とかなります。
本当に良かった!

ついでに、大船渡の同級生も無事だったそうな。

この災害で無念にも命を落とした方々のためにも、
わたしたちはこれから先、自分たちの住む街を立て直していかなくちゃなりません。

ついに3号機までが爆発!!

2011年03月24日 | 東日本大震災
3月14日午前11時1分、
ついに、3号機までが水素爆発してしまいました。

東電の発表も、NHKの解説委員の説明も、なんだかありきたり。
ひと言ひと言が、どうも他人事のようにきこえてしまうのは、わたしだけ?
アンタたち、福島県民や日本国民をナメとるンかい!!??

と言いたい。

でも、ここ福島市はまだ大丈夫、何とかなる、
浜通りからの避難の方々を快く受け入れて、できる限りのお世話をしよう、
そしてこの原発騒動がいずれ収まったら、
みんな地元に戻れて、街の復興にも着手できるだろう、
なんてこの時はまだ、わたしも(おそらく被災地以外の県民も)考えていたのです。


福島第一原発・3号機

2011年03月24日 | 東日本大震災
3月13日
この日になって、今度は福島第一原発3号基に水素爆発の危険性が出てきたとのこと。
3号基は使用済み核燃料と報道してるけど、これってプルサーマルのこと?
だとすれば、プルトニウムが入ってるということ?
プルトニウムの半減期は、2万4千年だそうな。

これが万が一爆破したら、いったいどうなるの!?

福島県での行方不明者は、1000人以上とのこと。
原発で避難した人たちは、何も持たずに移動してきた人もいるらしい。
壊れた家の片付けもできず、行方不明の家族を捜す間もなく、
とにかく避難せよ、と・・・・。

これからますます、避難者が増えそうです。

放射線も気になるところ・・・。

いったいどうなるんだろう・・・。

地震翌日、福島原発が!

2011年03月24日 | 東日本大震災
地震翌日の土曜日。
ちらばったカルテやら本などをスタッフみんなと片付けながら、
一応外来はあけておきました。
来院したのは、たった3名でしたが・・・。

浜通りから転院してきた産後3日の赤ちゃんとお母さんは、
幸いにも、元気です。

停電は昼頃に回復したものの、断水はいつまで続くのか、
福島原発は大丈夫なのか、
そんな不安をかかえたまま、ガソリンスタンドはすでに長蛇の列、
コンビニやスーパーはしまっているか、
開いていても、食料などは殆ど売り切れ状態で、
売っているのは煙草やら酒類ばかり。

浜通りの親戚とはまだ連絡がつかず、
どうも、街ごと流された地域もあるらしいなど、憶測ばかりが広まります。

電気が復旧したおかげで目にするTVの被災地の画像は、
本当にこれが現実なのかと、にわかには信じられないもの。

気仙沼にいる大学の後輩はどうしているか、
そういえば、大船渡には同級生もいるはず、大丈夫だろうか、
宮城県の岩沼には、うちのクリニックに勤務していた看護師一家がいるはず、
彼ら、彼女らは大丈夫か、仙台の先生方はご無事か・・・、

そんな心配が、次々と脳裏にうかび、
我が家の片付けも手につけられない心境のまま、
またいちにちが過ぎました。

相変わらず、余震も頻繁です。

その上、こんな時になんということか、
昨日断水にそなえて風呂の水くみをしていてうっかり濡れてしまった携帯が、
まったく機能しなくなってしまいました。

なんという間の悪さ・・・。

そして、福島第一原発の1号機がついに爆発した!!
あぁ・・・、不安は現実のものとなってしまいました。
福島第一原発の周囲20キロ以内の住民は避難勧告とのこと。
東京電力や政府の発表は、いまいち奥歯にモノが挟まったよう。

大丈夫か!? 福島県!!!