逮捕・起訴された先生に無罪の判決が下されました。
あぁ、よかった! とほっとする反面、あの逮捕劇から今日までの2年6ヶ月間は、いったいどんな意味があったのだろうと、あらためて考えてしまいます。
この裁判で得をしたのは、いったい誰だったのでしょう・・・。
強いて言えば、産科医療のみならず、救急を扱う外科系の医療や、小児医療などの現状が、比較的真実に近い形で報道されるようになった、そのことは収穫があったかもしれません。
でも、医療者側と患者側のどうにも埋まらない溝というか、対立の構図というか、一生懸命やっていても、本当は自分たちは信頼されてないんじゃないか、といった疑心暗鬼になってしまう感覚が、からだに張り付いてとれない、そんな気持ちなのです。
本当は、医師も看護師も、患者さんを助けることなんて、できないんです。
「助かるような」最善の方法を考え、それを呈示し、患者さんに受け入れていただくよう説明することしか、できないのです。
その結果が不本意であっても、それはもう、神の領域でしかありません・・・。
医療行為とは、必要悪なのだと思う、ということを、以前もこの日記に書きました。
ある患者さんの症状に対して、ある医療行為を行った場合と、行わなかった場合とを天秤にかけ、予測される不都合なことが少ないほうを選ぶ、それが医療行為なのだと思います。
例えば盲腸の手術。
やらなければ腹膜炎になって、場合によっては命にかかわることもあります。。
盲腸の手術なんて簡単なものというイメージがあるかも知れませんが、どんなに小さな手術でも、乱暴な表現をすれば、合法的に身体に傷をつける行為なのですよね。
秋葉原の事件などとはまったく違います。(当然ですが)
例えば予防接種。
こんな表現をしたら、なんて恐ろしい、と思う方が多いかも知れませんが、これも、合法的に身体に「感染症」の状態を作る訳です。もちろん、発症しない程度に。
どんなクスリでも食べ物でも、身体に合わない人が、ある一定の割合でいますから、どんなに安全に開発されている予防接種にだって、本当はリスクがあるのです。最小限に抑えられてはいるけれど。
それでも予防接種を勧めるのは、実際に感染し発症した場合の方が、症状も重いし、予測される合併症や後遺症だって怖いからなのです。
私の外来にも、予防接種に訪れるお子さんは毎日います。
さりげに接種してるように見えると思いますが、今、ワクチン接種したこの子が、このあと、なにごとも起きませんように、と思わずに接種しないお子さんは、ひとりもいません。
「越後屋、おぬしもワルよのぅ・・」
「いえいえ、お代官様ほどでは・・・」
といったイメージの医師も、たしかに、中にはいたかもしれません。
医療過誤で患者側が泣き寝入りをすることも、かつてはきっと多かったのでしょう。
私たち医師にも、反省すべきことは、あるのだとも思います。
そのひとつが、説明の足りなさと、何か起きた場合の対応(態度といってもいいかもしれません)なのだと思います。
でも、日本の医療制度では、例えば小児科を例にとると、1日に患者さんを最低でも平均70名以上診察しなければ、実際には医院も病院も経営が成り立たないのが、現実なのです。
医学的な内容を、リスクも含めて患者さんに理解していただけるように、なおかつ、不安を与えないように丁寧に説明するには、本当なら一人に20~30分以上は説明の時間が必要です。
でも、これをやっていたら、70人の患者さんなら、23時間~35時間もかかってしまいます。いや、だからといって、説明不足を医療制度のせいにばかりしてはいけないのですが・・。
・・・だんだん話がそれてしまいました。
う~ん・・・、今の医療の現状を、どんなふうに説明しても、わかってもらえないんじゃないかな・・・、所詮、アンタら医者は、エラソウに言い訳してるだけでしょ、って思われてるんじゃないかな・・・、なんだか、そんな風にばかり、考えてしまいます。
医師=強者=悪
患者=弱者=善
というイメージで見られているように思えるのです。
誰かのせいにはしたくないけれど、やっぱりメディアの影響も大きいと思う。
人の生き死にを、人がコントロールすることなんて、本当はできません。
医療ドラマは所詮虚構でしかないんです。
今回の判決に話を戻せば、ご遺族が納得がいかないのは、仕方のないことだと思います。
でも、「真実は期待したこととは違う」という事実も、いつかは受け入れて欲しいと願っています。
いや、受け入れることは到底できないかな・・・。
誰かを恨まざるを得ない、そういう気持ちのまま生きていくのは、辛いことですね・・・。
控訴はして欲しくないけれど、納得できるまで問い詰めなければ、ご遺族の気持ちも前には進めないのかもしれません。
あらためて、お亡くなりになった妊婦さんのご冥福をお祈りいたします。
そして、残された二人のお子さん、特に、自分の誕生日がお母さんの命日になったお子さんが、「わたしは産まれてきてよかった」と思って育っていけますことを、強く強く、心から願っています。
あぁ、よかった! とほっとする反面、あの逮捕劇から今日までの2年6ヶ月間は、いったいどんな意味があったのだろうと、あらためて考えてしまいます。
この裁判で得をしたのは、いったい誰だったのでしょう・・・。
強いて言えば、産科医療のみならず、救急を扱う外科系の医療や、小児医療などの現状が、比較的真実に近い形で報道されるようになった、そのことは収穫があったかもしれません。
でも、医療者側と患者側のどうにも埋まらない溝というか、対立の構図というか、一生懸命やっていても、本当は自分たちは信頼されてないんじゃないか、といった疑心暗鬼になってしまう感覚が、からだに張り付いてとれない、そんな気持ちなのです。
本当は、医師も看護師も、患者さんを助けることなんて、できないんです。
「助かるような」最善の方法を考え、それを呈示し、患者さんに受け入れていただくよう説明することしか、できないのです。
その結果が不本意であっても、それはもう、神の領域でしかありません・・・。
医療行為とは、必要悪なのだと思う、ということを、以前もこの日記に書きました。
ある患者さんの症状に対して、ある医療行為を行った場合と、行わなかった場合とを天秤にかけ、予測される不都合なことが少ないほうを選ぶ、それが医療行為なのだと思います。
例えば盲腸の手術。
やらなければ腹膜炎になって、場合によっては命にかかわることもあります。。
盲腸の手術なんて簡単なものというイメージがあるかも知れませんが、どんなに小さな手術でも、乱暴な表現をすれば、合法的に身体に傷をつける行為なのですよね。
秋葉原の事件などとはまったく違います。(当然ですが)
例えば予防接種。
こんな表現をしたら、なんて恐ろしい、と思う方が多いかも知れませんが、これも、合法的に身体に「感染症」の状態を作る訳です。もちろん、発症しない程度に。
どんなクスリでも食べ物でも、身体に合わない人が、ある一定の割合でいますから、どんなに安全に開発されている予防接種にだって、本当はリスクがあるのです。最小限に抑えられてはいるけれど。
それでも予防接種を勧めるのは、実際に感染し発症した場合の方が、症状も重いし、予測される合併症や後遺症だって怖いからなのです。
私の外来にも、予防接種に訪れるお子さんは毎日います。
さりげに接種してるように見えると思いますが、今、ワクチン接種したこの子が、このあと、なにごとも起きませんように、と思わずに接種しないお子さんは、ひとりもいません。
「越後屋、おぬしもワルよのぅ・・」
「いえいえ、お代官様ほどでは・・・」
といったイメージの医師も、たしかに、中にはいたかもしれません。
医療過誤で患者側が泣き寝入りをすることも、かつてはきっと多かったのでしょう。
私たち医師にも、反省すべきことは、あるのだとも思います。
そのひとつが、説明の足りなさと、何か起きた場合の対応(態度といってもいいかもしれません)なのだと思います。
でも、日本の医療制度では、例えば小児科を例にとると、1日に患者さんを最低でも平均70名以上診察しなければ、実際には医院も病院も経営が成り立たないのが、現実なのです。
医学的な内容を、リスクも含めて患者さんに理解していただけるように、なおかつ、不安を与えないように丁寧に説明するには、本当なら一人に20~30分以上は説明の時間が必要です。
でも、これをやっていたら、70人の患者さんなら、23時間~35時間もかかってしまいます。いや、だからといって、説明不足を医療制度のせいにばかりしてはいけないのですが・・。
・・・だんだん話がそれてしまいました。
う~ん・・・、今の医療の現状を、どんなふうに説明しても、わかってもらえないんじゃないかな・・・、所詮、アンタら医者は、エラソウに言い訳してるだけでしょ、って思われてるんじゃないかな・・・、なんだか、そんな風にばかり、考えてしまいます。
医師=強者=悪
患者=弱者=善
というイメージで見られているように思えるのです。
誰かのせいにはしたくないけれど、やっぱりメディアの影響も大きいと思う。
人の生き死にを、人がコントロールすることなんて、本当はできません。
医療ドラマは所詮虚構でしかないんです。
今回の判決に話を戻せば、ご遺族が納得がいかないのは、仕方のないことだと思います。
でも、「真実は期待したこととは違う」という事実も、いつかは受け入れて欲しいと願っています。
いや、受け入れることは到底できないかな・・・。
誰かを恨まざるを得ない、そういう気持ちのまま生きていくのは、辛いことですね・・・。
控訴はして欲しくないけれど、納得できるまで問い詰めなければ、ご遺族の気持ちも前には進めないのかもしれません。
あらためて、お亡くなりになった妊婦さんのご冥福をお祈りいたします。
そして、残された二人のお子さん、特に、自分の誕生日がお母さんの命日になったお子さんが、「わたしは産まれてきてよかった」と思って育っていけますことを、強く強く、心から願っています。