ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

希望

2013年03月11日 | 東日本大震災
「あの日」がめぐってきた。
3回忌を迎える方々もいらっしゃる。

今年も、静かに祈りたい。

庭の梅のつぼみがふくらんできた。
ろうそくの炎の形に似ている。

こうやって、毎年春は必ず訪れてくる。

いつだって、希望を捨てないでいたい。


        

言霊の幸う国

2013年03月10日 | 東日本大震災
のっけから漫画の話で恐縮だが、
購読しているレディースコミックに、山岸凉子氏の「言霊」という漫画が短期連載されていた、
山岸凉子といえば、バレエ漫画「アラベスク」や聖徳太子を描いた「日出処の天子」など、
若い頃、いずれも連載の漫画誌を毎号楽しみに読んだものだ。
今回の短期連載も、バレリーナを夢見る少女が主人公。

 主人公が通っているバレエスクールには、ちょっと意地悪なライバルの少女がいる。
 主人公の少女はテクニックも表現力もあるのだけれど、本番に弱い。
 そこがライバルにかなわないので、いつも悔しい思いをしていた。
 彼女は次第に、ライバルの失敗を願うようになり、そういう自分の心を恐ろしくも感じてしまう。
 ライバルの少女と親しい、国際コンクールレベルの男の子にもほのかな恋心も抱き、
 それもライバルの少女への嫉妬心を募らせ、苦しい日々を過ごす。
 でも、主人公もその男の子と親しくなるきっかけができ、その彼の励ましで、彼女は自分を取り戻す。
 コンクールの時に、出番前に緊張しているライバルの少女に、「頑張って!」と思わず声をかける。
 いままでその子の失敗を願っていた自分が、「頑張って」と思わず声をかけた、
 その瞬間に、自分の心も何かから解き放たれたように軽くなり、本番では大成功。
 晴れて主人公が優勝した。

・・・というストーリー。

主人公の少女は、それまで自分の失敗はライバルのせい、あの子がいなくなればいい、
といったマイナスの思いを心にためこんでいた。
でも実は、自分の失敗はそのマイナスの思いのためだった、
自分の思い(言葉)が自分の失敗を招いていたのだ、ということに気付く、
という設定になっている。
言葉に宿る力というのは、人をいかようにも操ってしまうことがある、ということかな。

だから「言霊」というタイトルなんだ、と読んだあとにわかった。

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さて、前置きが長くなった。

何が本当のことなのかがわからない、という質問をこれまでたくさん受けてきた。
最初の頃は、ひとつひとつを説明していたのだけれど、
これだけではだめだ、と感じることが多かった。
具体的なことばかりではなくて、もっと哲学的(という表現もへんなのだが)に伝える必要もあると思った。
悲しいことに哲学者でもなんでもない凡人のわたしは語彙も乏しく、こんなことしか言えなかった。

 ここで暮らしているわたしたちが、聞いて不快・不安になる情報は、
 あれ? なにかおかしいんじゃないか? そう思って下さい。
 そして、ほかの情報もいろいろ調べて、冷静に判断するのがいいと思います。

先日、ネコさんのブログのコメントに、糸井重里氏の言葉が紹介されていた。
そうそう、こういうことだよ、とわたしも思ったので、ここにも紹介する。

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ほぼ日刊イトイ新聞ー「しがらみ」を「科学」してみた
http://www.1101.com/shigarami/2012-03-21.html

以下は、このシリーズの「震災リテラシ-」の中の言葉。
長くなるが、糸井氏の言葉を抜粋する。

   やはり「戦う」にはテクニックも必要で、
   闇雲に体当たりすればいいというわけじゃない。
   ときには、逃げることだって必要です。

   ぼくは、自分が参考にする意見としては
   「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。
   「より脅かしてないほう」を選びます。
   「より正義を語らないほう」を選びます。
   「より失礼でないほう」を選びます。
   そして
   「よりユーモアのあるほう」を選びます。
    ・・・
   つまり、人の選択肢を狭めようとしていたり、
   考えることをやめさせようという
   意図のある言葉には、
   「あ、気をつけよう」と思うようにしていて。
   ・・・
   たとえば「スキャンダラス」というのは、
   「最近、鼻血が出るのは放射能の影響だ」
   みたいな、
   「大変だぞ!」と思わせて
   人を動かそうとする発言のことです。

   でも、少し調べれば
   それが「嘘、あるいは嘘の可能性が高い」と
   すぐにわかるんです。
   ・・・
   だから、あまりにスキャンダラスだなと
   感じた場合は、
   「本当なのかもしれないけど、
   ちょっと落ち着こう」
   と、思うようにしているんです。
   ・・・
   「より脅かしてないほう」というのも、同じ。

   「こうしないと、大変なことになる!」
   と、ぼくらを脅してくる言葉とは一線を置く。
   ・・・
   また「正義」の名のもとに
   ひとつの選択肢を
   選ばせようとする言いかたも、違うと思う。

   選択肢というのは、たくさんあるわけだし、
   だから
   「より正義を語らないほう」を選ぶんです。
   ・・・
   つまり、人の選択肢を狭めようとしていたり、
   考えることをやめさせようという
   意図のある言葉には、
  「あ、気をつけよう」と思うようにしていて。

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日本語は美しくも複雑で、漢字と平仮名と片仮名で成り立つ。

  「福島」「ふくしま」「フクシマ」

どれもイメージが異なる。
どの表記をどのような時に誰を相手に用いるかは、その使い手の心ひとつによる。
たかがブログのコメントでさえも、優しさが伝わったり悪意を感じたりする。
そこに表情や口調が加われば、さらに「言葉」の持つ力は大きくなる。
そこが「言霊」といわれる所以でもあろう。

いつも負のイメージの言葉ばかり心に浮かべ口に出していれば、
その人の心も体にも、それは「負」がかかるのではないか。
そしてそれは、その人にかかわる人たちへも伝わってしまう。
不安などのストレスが活性酸素を増やし遺伝子を傷つけることもあるという、
これは、何度も書くけれども、医学・科学的にも証明されていることだ。

人の不幸を願ってはいけないのだ。

もっとも、「福島の人達を助けてあげます」と信念を持って活動なさっておられる方々は、
それがここで暮らすわたしたちにどれだけの負荷を与えているかということに、
気付いていない。
(もしわかっていてやっている人がいるとしたら、それは人ではない)

このことについても、同じブログのコメントで紹介されてたので、ここにも紹介。

放射能被害の発生を声高に訴えてきたオオカミ少年は、悲劇を望むようになる - 開米 瑞浩
http://blogos.com/article/57796/?axis=g:0

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表題は、「ことだまの さきわうくに」と読む。
古代の日本では、言葉には呪術的な力があり、言葉にしたことは現実になる、と考えられてきたそうな。
現代においては科学的ではないけれども、心の在り方には言葉の影響は大きい。
一度口をついて出た言葉は、もうその人だけのものではない。
時々遭遇してしまう品性のないコメントなどは、その人の内性を表しているともいえる。
せめて自分は、人を不快にさせたり悲しませる言葉を口にしたくはないと思う。

 ・・・と思いつつ、前の記事の「奴ら」は品性がないかも。反省。



3月になった

2013年03月01日 | 東日本大震災
3月になった。
まもなく「あの日」を迎える。

先月末に、ある小学校の依頼で放射線の話をした。
先生方全員と、PTA役員の保護者の方々が対象だった。
内容は、放射線の基本的な知識と、
県内の被ばく検査データの結果とその解釈について。
もちろん、甲状腺エコーの話もした。

終わってから、保護者の役員のお母さまが言った。

 今まで、こういう話をきちんと聴いたことがありませんでした。
 不安になる話ばかりで、まだそういう親(不安な)はたくさんいます。
 保護者全員にこの話を聴いて欲しいと思いました。

そのお母さまの言葉は素直にありがたかった。
と同時に、一昨年の秋から市内で開催している放射線の講演会のアナウンスは、
まだまだ行き渡っていなかったのだな、ということが残念でもあった。
そのお母さまは、事故後、不安になるような内容の講演を最初に聴いてしまい、
その後は、講演会のたぐいには近寄らなかったのだそうだ。
このような内容のお話は、他の講演会でも寄せられた。

昨年末の乳幼児健診では、
いまだに、県内産のものは一切口にせず、
子どもも外遊びは県外に出かけている、というお母さまに出会った。
その方の住まいは市内でも線量の低いところにもかかわらず。
歯磨きさえもペットボトルの水を使っているのだそうだ。

2年近くたった今でも、たまにこのような方に出会うことがある。
アナウンスが行き渡っていないというよりも、
すでに「聞く耳」を持たない、と表現した方がいいのかも知れない。

正しい情報を得る前に、誤った情報を「真実」としてインプットしてしまった脳味噌には、
今や何をどう説明しても、伝わらないようである。
得たいの知れない新興宗教と同じだ。
しかもインプットされたそれらの情報は、あちこちはまっとうなこともあるから始末が悪い。
でも、聞く耳を持てなくなってしまった方々を責めることはできない。

一昨年、事故のあとに書いたブログに、
 
 わたしたちは、誰にこぶしを振り下ろせばいいい?

と書いた。
あの頃は、誰かを責めるとか責任取れとか、そんなことよりも、
目の前にいる子ども達とその親御さんへの思いでいっぱいだった。

今、わたしがこぶしを振り下ろしたいのは、東電でも国でも県でもない。
人の不安につけ込んで、誤った情報解釈を未だに平然と正義漢ぶって垂れ流している奴らだ。