ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

虹の橋

2007年11月09日 | 家族
コロがお世話になった動物病院のスタッフの方から 、
「虹の橋」というお話を教えていただいた。
原作者不詳のまま、世界中の沢山の動物のサイトに伝わっている詩なのだそうだ。
原文は英語だが、古いインディアンの伝承にもとづいているらしい。
以下は無断転載大歓迎のサイトから・・・。

  _________________________________

    【第一部  虹の橋】

  天国の、ほんの少し手前に「虹の橋」と呼ばれるところがあります。
  この地上にいる誰かと愛し合っていた動物は、死ぬとそこへ行くのです。
  そこには草地や丘があり、彼らはみんなで走り回って遊ぶのです。
  食べ物も水もたっぷりあって、お日さまはふりそそぎ、
  みんな暖かくて幸せなのです。

  病気だった子も年老いていた子も、みんな元気を取り戻し、
  傷ついていたり不自由なからだになっていた子も、
  元のからだを取り戻すのです。
  ・・・まるで過ぎた日の夢のように。

  みんな幸せで満ち足りているけれど、ひとつだけ不満があるのです。
  それは自分にとっての特別な誰かさん、残してきてしまった誰かさんが
  ここにいない寂しさのこと・・・。

  動物たちは、みんな一緒に走り回って遊んでいます。
  でも、ある日・・その中の1匹が突然立ち止まり、遠くを見つめます。
  その瞳はきらきら輝き、からだは喜びに震えはじめます。

  突然その子はみんなから離れ、緑の草の上を走りはじめます。
  速く、それは速く、飛ぶように。
  あなたを見つけたのです。
  あなたとあなたの友は、再会の喜びに固く抱きあいます。
  そしてもう二度と離れたりはしないのです。

  幸福のキスがあなたの顔に降りそそぎ、
  あなたの両手は愛する友を優しく愛撫します。
  そしてあなたは、信頼にあふれる友の瞳をもう一度のぞき込むのです。
  あなたの人生から長い間失われていたけれど、
  その心からは一日も消えたことのなかったその瞳を。

  それからあなたたちは、一緒に「虹の橋」を渡っていくのです・・・。


    【第二部  虹の橋にて】

  けれど、動物たちの中には、様子の違う子もいます。
  打ちのめされ、飢え、苦しみ、
  誰にも愛されることのなかった子たちです。
  仲間たちが1匹また1匹と、それぞれの特別な誰かさんと再会し、
  橋を渡っていくのを、うらやましげに眺めているのです。
  この子たちには、特別な誰かさんなどいないのです。
  地上にある間、そんな人は現れなかったのです。

  でもある日、彼らが遊んでいると、橋へと続く道の傍らに、
  誰かが立っているのに気づきます。
  その人は、そこに繰り広げられる再会を、
  うらやましげに眺めているのです。
  生きている間、彼は動物と暮らしたことがありませんでした。
  そして彼は、打ちのめされ、飢え、苦しみ、
  誰にも愛されなかったのです。

  ぽつんとたたずむ彼に、愛されたことのない動物が近づいていきます。
  どうして彼はひとりぼっちなんだろうと、不思議に思って。

  そうして、愛されたことのない者同士が近づくと、
  そこに奇跡が生まれるのです。
  そう、彼らは一緒になるべくして生まれたのでした。
  地上では巡りあうことができなかった、
  特別な誰かさんと、その愛する友として。

  今ついに、この「虹の橋」のたもとで、ふたつの魂は出会い、
  苦痛も悲しみも消えて、友は一緒になるのです。

  彼らは共に「虹の橋」を渡って行き、二度と別れることはないのです。

  ______________________________

コロも待っててくれるかな・・。
そして・・・、
ニンゲンの【虹の橋】も、きっとあるように思う・・・。


さようなら、コロ

2007年11月08日 | 家族
 先日、飼っていた愛犬が死んだ。
 柴の雌で、名前はコロ。
 名前とおりの、ころころ太った犬だった。

 コロが我が家に来たのは13年前の夏だった。
 丁度父が亡くなって1ヶ月してからのこと。近所のペットショップで一目ぼれした母と夫が買って来たのだ。母にしてみれば、父がいなくなった淋しさもあったのだと思う。そんなに仲のいい夫婦ではなかったように見えたが、夫婦というものはわからないと、このときに思ったものだ。

 亡くなった父は獣医だったが、いわゆる動物病院の獣医ではなくて、県の家畜保健衛生所に勤務していた。そのせいなのか、父の性格や世代のせいなのかどうかはわからないが、犬猫を「愛玩動物」として飼うことが父は嫌いだった。
 実家がダムで水没するまで、家にはいつも犬や猫がいたが、服を着せたり、リボンをつけたり、家の中に入れたりするのは、我が家ではご法度だった。地面で生活するのが本来の姿である動物にとって、それは迷惑きわまりないことのだ、というのが父の持論だった。だから、わたしが子どもの頃は、猫を抱いて寝たり、犬を家に上げたりすると、ひどく叱られたものだ。
 常に動物達とは一線を引いた飼い方をしていた父であったが、代々我が家で飼っていた犬や猫たちは父を一番信頼していたようだから、やはり本質的には動物が好きだったのだと思う。

 我が家はずっとそのような飼い方だったので、初めは当然のようにコロは家の南側の軒下においた犬小屋で生活した。
 夏は日差しが直接当たり、毎年ひどい湿疹で悩まされた。
 湿疹の出来方はまるでアトピーのようだったが、犬にもアトピー性皮膚炎ってあるのだろうか? などどと思いつつも、獣医さんに診ていただこうとはあまり考えないでしまった。

 めったに吠えない犬だったが、隣の家の猫が庭に侵入してくるとけたたましく吠えた。
 そのくせ、スズメが自分のエサをついばんでいても知らんぷりをしていたっけ。
 犬のくせに、水が苦手だった。
 散歩で河原に行っても、水際にはなかなか近寄ろうとはしなかった。
 山村の実家で飼っていた柴犬はどの子もみんな、河原に行くと喜んで水遊びをした記憶があるのだけれど、コロは都会の犬なのかなぁ、なんて、勝手に考えていた。
 だから、雨と雷も嫌いだった。
 大雨が降る夜や、雷が鳴るともう大騒ぎで、しきりに「中にいれて~!」と、縁側からリビングのガラス戸を前脚でドンドン叩く。根負けしたわたしたちは、仕方なく家の中に入れてしまう。
 結局、こんなことを繰り返しているうちに、いつのまにかコロは座敷犬になってしまった。

 室内で飼うようになって、いつでも一緒に生活してみると、犬のくせに、わたしたちの会話は何でもわかっているように思える。こうなるともう、ただの犬ではなくて大事な家族そのものだった。もっと早く家の中に入れてあげれば良かったとさえ思った。
 毎年夏に悩まされた湿疹も出なくなった。
 わたしはアレルギーの専門医でもあるので、アトピー性皮膚炎や気管支喘息のお子さんの保護者の方には、「毛のあるペットは室内では飼わないようにね」なんて外来では言ってきた。それなのに、自分の飼い犬を室内で飼って、その犬の湿疹が良くなったのだから、笑えない話だ。エライ先生が聞いたらヒンシュクものだろうなぁと思いつつ、こういう共存の仕方もありかなぁ、なんて勝手に都合のいい理由をつけていた。
 
 コロは争い事も嫌いだった。
 家族の誰かが口論をしていると(それは大抵はワタシなんだけど・・・)、困ったようにそわそわして、しっぽをたらしてわたしの手をぺろぺろ舐めたり、「もう、やめて!」というかのように「ワン!」と吠えたりした。
 子どもが叱られたりすると、その子どものところにすり寄って行った。
 飼い犬というのは、その家の主(あるじ)が誰かわかっているというのは本当のようで、コロも夫が大好きだった。
 夫が帰宅する時間になると、リビングのドアのあたりをうろうろ動きまわるのだそうだ。夫とわたしが一緒に帰宅して、最初にリビングに入るのがわたしだったりすると、
 「あれぇ?、ちぇっ、おかあさんかぁ・・・ おとうさんは?」なんて表情になる。
 夫が夜、お産でクリニックに行ってしまうと、しばらくの間、リビングのドアの前にお座りをして待っている。その後ろ姿はとてもいじらしく、思わず抱きしめたくなるのだ。
 コロはピアノの音も好きだった。それも、モーツァルトやショパン。
 ベートーヴェンやジャズは嫌いだった。それとトランペットの音も。
 でも、CDやテレビから流れる音楽には無関心だった。不思議なことに「ナマ音」にだけ反応するのだ。
 夫がトランペットをとり出すと、やめてくれぇ・・ という表情でそばを離れる。
 わたしがピアノの練習を始めると、大好きな夫のそばにいても、ピアノの下にやってきて寝そべる。
 でも、嫌いな曲や下手くそだと、またしっぽを垂らしてどこかに行ってしまう。
 だから、上手く弾けているかどうかは、コロの態度でわかったようなものだ。
 
 コロは、家族の中心というのでもないのだけれど、いないと「家族」じゃないみたいな、そんな存在だったのだと思う。

 おはよう、コロ。
 行ってくるね、コロ。
 ただいま、コロ。
 おやすみ、コロ。

 この13年、毎日こんな言葉をかけていた相手がいなくなってしまったという生活は、想像していたよりもずっとずっと、切なく、さびしい。
 所詮犬なのだからいつかは・・・、と思っていたはずなのに、「ペットロス」など他人事だと思っていたのに・・・。

 もしかしたら・・・、と今になって考えることがある。
 亡くなった父は、家畜行政に関わる仕事をしていた。
 酪農家の家畜に伝染病が発生すれば、その家畜は殺さなければならない。
 怪我をした競走馬などの多くも、そういう運命なのだそうだ。 
 父の仕事には、そういったことも含まれていた。
 家畜を処分する指示を出してきた日の父は、いつもよりお酒をたくさん飲んだ。
 牛も馬も、最期を悟ると涙を流すんだぞ・・・、と父が言っていたことを思い出す。
 もしかすると父は、動物たちとはいつか必ず別れが来ることを思い、いつも一線を引いていたのかもしれない。

 コロは、もう少しわたしたちが健康を考えていれば、あと数年は生きたかも知れない。13歳といえば犬としては長生きだとは思うけれども、日頃ニンゲンを診る仕事をしている私たちにとって、動物の健康なんて二の次、という傲慢さがあったように思う。

 いよいよコロの具合が悪くなってからお世話になった獣医さんも、スタッフの方々も、とても親切にして下さった。コロのからだは相当弱っていたのだけれど、そんなになるまでほっといた飼い主を責めることなく診て下さった。
 恥ずかしいけれど、「医療の原点」ということにあらためて気付かされたようにも思う。

 死ぬ前日には自分で立つこともできなくなり、それでも頭を持ち上げて起き上がろうとするのが、見ていて可哀想だった。
 今夜はそばについていてやろうと思い、ソファで寝る準備をしようと自分の部屋に着替えにいっているわずかの間に、コロは息を引き取った。ついさっきまで意識があったのに。
 そばにいなくてごめんね、コロ・・・。
 まだ温かいコロに声をかけながら、動物は自分の死に目を人に見せないというから、もしかしたらわたしがそばを離れるのを待って、命を終えたのだろうか・・・。そんなふうにも思った。

 コロが我が家に来た時はまだ小学生と幼稚園だった子どもたちも、大学生になって家を離れている。コロが生きた13年間は、わたしたちの子育て真っ最中の13年間でもあった。
 泣いたり笑ったりの日々のなかに、いつもコロがいた。

 コロ、たくさんの楽しい時間を、ありがとう。
 さようなら、コロ。