ふぇみにすとの雑感

日々の雑感、テレビ、社会、フェミニズムについてなど。モンタナ発信。

日本のマンガやアニメのほうが身近だというアメリカ人

2009-02-21 00:54:44 | マンガ・アニメ
日本のャsュラーカルチャーの授業を担当しているが、この授業は本当にいろいろ勉強になる。
基本的に、アメリカで出版されている日本の現代ャsュラーカルチャーについての論文の類いが玉石混淆、というか、「玉」がやたらと少ない、という現状があり、いちおう大学授業なのでアカデミックな論文を課題にしようと思っても、中身を読むことで勉強になるとか、鋭い視点だと感銘を受けるようなものが、まだまだ少ない。その反面、昨今のアメリカ人大学生にも日本のマンガやアニメオタクがけっこういて、大学生のほうがよほど知識があったりとか、あるいはマンガやアニメもそのへんのアカデミック論文などよりよほど深く読めてしまったりとかする。そういうわけで、私も「教える」というより、「勉強させてもらっている」モードにはいりがちな授業だ。

そんなこんなで、結局授業はアカデミック論文も読ませるが、それについては批判が主になってしまったりして、、それより、生のマンガやアニメ、音楽などの題材をもってきて、それを学生たちと分析したり、議論したほうが全然面白かったりするのだった。

それはさておき、マンガ、アニメと最近扱ってきたのだが、アメリカ人の学生たちに、アメリカのコミックやアニメと、日本のアニメはどう違うのか、という質問を授業中してみたりすると、けっこうな人数が、「日本のマンガやアニメのほうが、自分と関連づけられて、身近に感じる。面白い」というのだ。興味深い現象だなあと思った。普通、例えばソープオペラだとかの類いの研究だと、自国あるいは近隣の「文化が近い」といわれているところでつくられた作品のほうがウケやすい、といわれていたりする。(例えばラテンアメリカ諸国でのメキシコのソープオペラ人気とか。)一昔前には、アメリカのドラマ「ダラス」はなぜ日本で失敗したか、議論があったりもした。しかし、今の日本のマンガやアニメに対しては、アメリカのものより、「身近に感じる」アメリカ人大学生がかなりいるという事態になっているようだ。

アメリカのマンガが、例えば「スーパーマン」などのように、スーパーヒーローものとか、ジェンダー的にも昔ながらの強い男イメージが強調されていたりとか、自分の現実とほど遠く感じるような内容ということもあるのだろう。そして、アメリカのテレビアニメというと、土曜の朝に放映されている子どもむけのアニメ、という印象らしい。大学生にはウケないのもわかる。それに加え、今の大学生は、日本のゲームで育ってきた世代でもある。ャPモンにファイナルファンタジーの世界にどっぷりはまって育ってきた学生たち。もはや、日本のマンガやアニメにより親近感を感じてしまい、自分の日々の状況に近い、と思うのも、わからないことではない。

それでも、アニメというのはストーリーも追いやすく、日本のゲーム世界に慣れているアメリカ人にはわかりやすいと思うが、マンガを読むにはある程度のリテラシーがいると思う。私が日本で育つ中で、無意識のうちに学んできたマンガ特有の表現(顔に汗が描いてあったら、焦っているとか、冷や汗の表現だとか、怒っていることを表現する記号のようなものとか)は、ある程度年齢がいってからマンガを読むようになった今のアメリカ人大学生層にとって、学ばねばならない類いものなのだろう。コマのすすみ方、描き方一つとっても、イレギュラー要素も多いし、アメリカンコミックとはかなり違っている。「どうやってマンガが読めるようになったのか」と聞いてみたら、何冊も読むうちに自然に読み方をおぼえていった、という答えが返ってきた。そういうものなのか。。今の子ども世代になると、物心ついたころから日本のマンガが読める状況にあるだろうから、今の大学生よりもっと自然に、無意識のうちにマンガの読み方を体得するようになっているのかもしれない。

マンガ隆盛の陰で、苦しい状況なのがアメリカンコミックである。まあ、日本のャsュラーカルチャーの授業を履修する層が、アメリカンコミックより日本マンガを好む層が多い、というのもあるのだろうが、、なんだか、一部の変わったオタク層にしかウケなくなったアメリカンコミック、、というような言われようをしていて(トレッキー、と似たような言われようだが、スタートレックよりなおさら人気が落ちている、というような印象の語り)、辛いものを感じた。これがアメリカ研究の授業にいくと違うのか、それとも一般的な思われ方なのだろうか。

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4 コメント

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Unknown (shisokan)
2009-02-21 02:42:17
アメリカでは「手塚治がいたから今の漫画がある」という「手塚治史観」とでも言うような史観がどれくらい溢れているのでしょうか。日本の新聞でも漫画と言えば手塚治と書いているものもありますね。

以下の記事を見ても分かりますが、「手塚治中心史観」とでもいうようなことは、日本の漫画研究者が批判しています。以下の柱F健太郎さんの記事を講義でも指摘したらどうでしょうか。

たけくまメモ : アカデミズムとマンガ
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/05/post_b3eb.html
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Unknown (ともみ)
2009-02-21 02:58:15
私自身が手塚治虫ファンで、『火の鳥』を宿題の読み物にしてしまったりしていることもあり、ちょっとそういう手塚中心史観的な印象を与えている面もあるかもしれません。。。反省事項か。

アメリカのジャーナリストで、早くから日本のマンガについて本を出版していたFrederik Schodtが、手塚中心史観の人なので、彼の文献をアサインすると、そういう方向に流れがちではあるかも、、

それと、日本政府や大学組織などが「日本のマンガ、アニメ」をグローバルマーケットに"high culture"的に売ろうとするとき、手塚などを押し出す傾向もあるかもしれない?

しかしながら、アメリカ人の学生たちにとっては、手塚マンガも最近こそだいぶ末ェ出そろってきたとはいえ、手にはいる、読み慣れている日本のマンガはむしろ最新のものだったりします。だから、学生たちの経験という意味からいえば、手塚中心史観のみならず、マンガの歴史、一昔前のマンガについては、興味がいきづらい状況という面もあるように思えます。それでも、相当気合いがはいったファン層は、手塚や「花の24年組」などの言葉も知っていたりするのだけれど。。今後、最新ものだけでなく、昔のマンガの末o版が増えてくるようになると、日本で流通しているマンガ史観的なものが勢力をもってくることも考えられるかなと思います。
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Unknown (shisokan)
2009-02-21 07:12:17
「それと、日本政府や大学組織などが「日本のマンガ、アニメ」をグローバルマーケットに"high culture"的に売ろうとするとき、手塚などを押し出す傾向もあるかもしれない?」

サントリー学件ワの受賞作品でも問題になったので、日本政府が押す漫画はそうなる可能性はかなりあると思います。大学組織の問題でもサントリー学件ワの受賞作品は九州大学の大学院の博士論文ですが、それがどうしようもないと問題になったので、「手塚中心史観」はかなり根深いのだと思います。

毎日新聞の一面の余禄だったと思いますが、「電車の中で日本人は漫画を読むが外国人から見たら変な文化だ。なぜ日本人は電車の中で漫画を読むのか」というようなことに余禄の筆者が「それは日本には手塚治がいたからだ」「あなたの国には手塚治がいないからだ」というようなことを書いていました。はっきりと記憶しているわけではないので、正確ではないですが。そんなに前のことではないと思います。少なくとも『テヅカ・イズ・デッド』が刊行された後のことだと思います。

他にも手塚治の番組をNHKがしてたりしますが、「手塚治中心史観」を批判した大手の報道機関があるのかは分かりません。ウェブにも強い分野と弱い分野があると思うのですが、漫画に関しては、大手新聞などに比べるとウェブ上の文章のほうが遥かに専門的なことを書いていると思います。漫画の専門家や研究者の複数の人がウェブ上に書いていたり、新聞記者よりは明らかに漫画に詳しい人がウェブ上に書いていますね。
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Unknown (ともみ)
2009-02-21 11:22:54
アメリカの少なくとも現在の大学生マンガファンを考えると、手塚中心史観より、むしろ最近のマンガ中心史観的なもののほうが強いかなと思います。たとえSchodtなどの批評家が手塚中心史観を提唱したところで、そういった本よりも、どんどん出ているマンガ本およびアニメのほうが全然、一般読者レベルでは影響があるのではないかと。そして、手塚マンガの末ナが、ようやく最近になって出そろってきたという事情もあるかと思います。批評家がなにをいこうが、実際の手塚マンガが手に入らない状況だったので、バイブル化させようとしたところで、難しかったのではないかと。今はだいぶ増えつつありますが、ここまで出そろいはじめたのは、この3≠S年のことではないかと思います。
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