スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(ウエストサイド物語)

2024-03-11 10:21:54 | 日記
3月11日(月)
 ウエストサイド物語を見たのは1962年(昭和37年)頃であった(ウキペディアでその頃の上映と出ている)。私が中学生(何年生だったか、また名古屋には違いないが何処の映画館で見たのかは思い出せない)の時だから約60年前である。この映画には非常に強い印象を受け、これも何時だったか忘れたが大人になってから劇団四季の舞台でもう一度見た。余談だがその時に四季のレベルの高さに吃驚した。ウエストサイド物語(映画)に影響されてこの道に入ったと称するタレントをテレビで見てきたが、まあ疑似的な踊りに辟易していたので所詮日本人のダンスなんてと思っていたのだが、四季の団員の踊りには圧倒された。相当な訓練を受けて、しかもその内の一握りの人しか舞台に立てない、厳しい世界なのだろうと実感させられた。
 話を映画に戻すと、私が映画から受けた強い印象は二つである。一つは、アメリカはなんという暴力的な社会なのだろうかという驚きである。それまでにもアメリカ映画は勿論見た事があるし、暴力的なシーンは付き物であった。小林旭の渡り鳥シリーズなんかでも喧嘩と銃撃戦はメインの見世物であった。しかしそれらは架空の話か、特殊な場面設定の中でのものだった。これに反してウエストサイド物語では、日常生活が暴力によって支配されている様を、描いていた。ジョージ・チャキリス達の不良グループが街を練り歩く様は、不良少年の暴力が蔓延している実態をよく映し出していた。
 そこであれは今のクルド人騒動に似ていると思った次第である。当時の私はプエルトリコ人といっても白人と同じにしか思えなかったが、見た目にも文化的にも相当普通の白人とは違っていたのだろう。要するに60年経って、アメリカの暴力が日本にも出現した、日本もアメリカと同じになって来たと、感慨深いのである。
 二つ目の印象がそういう暴力に違和感を覚えると同時に、チャキリスの踊りに何とも言えぬ開放感を感じて受け入れた事である。自由があるとか、規制に縛られた自分を解き放つとか、そういう肯定感を感じたのである。暴力を嫌う心情と、暴力を発揮して得られる解放感を喜ぶ心とは、矛盾している。この互いに矛盾する二つの印象を、映画から受けたのである。
 映画では最後に暴力は悲劇に繋がる、だからアメリカは暴力を乗り越えるだろうとの暗示を示して終わるが、実際のアメリカは、ウエストサイド物語の話など子供騙しだというくらいに、退廃が進んでいるらしい。SNSでちょっと探せば暴力事件など山ほど当たるし、麻薬の蔓延が凄まじい。ラスベガスの地下には3500人の麻薬中毒者が住んでいるなど、実写のリポートを見ないと信じられなかった。ロサンゼルスなどの一角でゾンビのように蠢く集団の映像も、実に驚くべきものだった。映画はチャキリスが更生してまともなアメリカ人になる事を期待しているように思えたが、麻薬に走る道だって大いにあって、現実のアメリカはそちらに向かったようである。
 60年前にアメリカの街には暴力が侵入し、今は麻薬が溢れている。川口市に60年前のアメリカが出現し、やがて麻薬が蔓延する街にだってなりかねない。そうなったら自由とか解放感などは、とうに消し去られているだろう。私には人間は矛盾した事柄のどちらかしか選べない存在に思える。自由とか解放感は一瞬のもので、治安の良い社会の方がよっぽど幸せだと、考える。







1 コメント

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ウエストサイド物語 (野々花)
2024-03-11 20:29:24
わたしも、映画館とテレビで見ました。
「チンピラじゃん」と思った記憶。
昨今の、岸田の宝クルド人騒動をみて、同じくこの映画を思い出しました。

日本は、できるだけ外国人を入国させないようにして、民族の血統を守るのがよいと思います。
ハーフのビジュアルがもてはやされていますが、わたしは混血児は好きではありません。

政治家はどういうわけか外国人留学生や移民が好きなんですね。
カネと票なんでしょうが。
和田政宗や新藤義孝にはがっかりです。
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