山クジラの田舎暮らし

岩手県北の田舎に生息する「山クジラ」です。定年後の田舎暮らしや趣味の山行きのことなど、発信していきます。

『親鸞』下=五木寛之著

2013-05-31 07:11:24 | 読書

 『親鸞』の下巻を読んだ。時は平安末期から鎌倉幕府の成立の頃、京の都には餓死者があふれるという末法の世にあって、南都北嶺の仏教のあり方に飽き足らない法然らが、「念仏を唱えれば誰でも極楽往生ができる」ということその影響を庶民の中に広げる。後に親鸞となる範宴が法然に傾倒しその門下に入る。そして善信と名前を変え、法然の真の考えを理解し独自の説法を行っていく。

 しかし、古い体制の中にある叡山や興福寺などの旧仏教勢力から圧力が強まり、法然の教団自身のもっている弱点もあって、時の支配者である後鳥羽上皇から念仏の停止、そして法然も善信も追放流罪になる。善信の配流先は越後、すなわち妻の故郷である。その出発に先立って、善真を親鸞とあらためる。「念仏往生の教えは、遠く大乗の道に進んだ天竺の世親菩薩と、浄土の思想を極めた曇鸞大師の願につきる」と法然はその法名のもとを話すのだが、残念ながら私には何のことかよくわからい。親鸞は、越後から東日本のでの布教をすすめていく。その出発点となる越後への上陸の場面でこの小説は終わっている。

 私は、科学的社会主義の世界観を持ちその基礎は唯物論であるから、念仏を唱えれば救われるという説には賛成できないが、当時の救われようのない民衆にとって、法然や親鸞の出現はまさに救いであったろうと思う。この流れが、後に「一向一揆」などの形で、領主に対する民衆の反撃となって表れてくるのだから。歴史の根底に、歴史を動かすものは民衆であったことがあり、それは現代社会にも共通した問題だと思った。


シャクナゲの花可憐

2013-05-31 07:02:36 | 自然

 わが家のささやかな花畑にシャクナゲが花を咲かせている。植えたのは義妹で、「黄色だと思って買ったがピンクの花が咲いた」と言っていた。色はどうでも良いのだが、シャクナゲと言えばやはり山で見たい。山形の朝日岳に登った時も、白山シャクナゲが咲いていたのを思い出す。5月に奈良を旅した時も、明日香村の岡寺でシャクナゲが見事に咲いていた。

 ところで、関東、北信越まで梅雨入りしたそうだ。これからうっとうしい日々が続く。同時に、梅雨の時期に降る雨は、われわれ農家にとっては欠かせないものであって、うっとおしいとばかりもいっていられない。梅雨時期には、オホーツク海高気圧が発達し、三陸沿岸に東風をふかせ、海霧を伴ってヤマセとして吹き付ける。これが夏中続けば不作となる。昔はケガチと呼ばれた状況になってしまう。夏の好天を祈るばかりである。


けーの汁

2013-05-30 07:06:26 | グルメ

 「新いわて」の次回投稿に「けーの汁」を上げようかと思って試作してみた。インターネットで検索すると青森に「けの汁」というものがあって、小正月の定番料理となっている。地元の皆さんに聞くと、やはりそうで小正月に作るほか、ご祝儀や、不祝儀の際など人がたくさん集まる時にも作ったらしい。語源は「粥の汁」らしく、お粥と一緒に食べるおかず兼の汁ものであったという。

 ニンジン、ゴボウ、ダイコンなどの根菜。それにゼンマイ、シミドウフ、エンドウマメを戻して入れる。出汁はコンブでとり、味付けは味噌(この場合は地味噌と呼ばれる豆味噌が良い)で。少し料理酒(日本酒)などを入れるとこくが増す。

 そういうわけで、「けーの汁」は2014年1月分にとっておいて、今の季節に旬を迎えるアスパラを使ったものを何か考えて投稿しようと思っている。


『親鸞』上=五木寛之著

2013-05-29 07:07:03 | 読書

 五木寛之著の『親鸞』上巻を大野図書館から借りだして読んだ。

 親鸞が坊さんである位は知っているが、さてどんなことをした人だったか?良くわからないのでYAHOO百科で調べた。浄土真宗の開祖で「自ら信じ、人に教えて信じさせる」~「自力本願」の人だったかな?という感じだが、まあ小説『親鸞』を読めば少しはわかるのだろうかと思っている。

 『親鸞』上は、下級貴族日野有範の子で忠範といった。9才の時に慈円の寺坊で出家し、青年時代を比叡山の横川常行堂の堂僧として不断念仏を行う下級僧であった。この時代の、思い悩む親鸞の姿を書き込んでいる。平安末期、武士の台頭の中で京の都は悲惨な状況下にあるなかで、人として僧としていかに生きるか。その苦悩をしっかり見つめている作品だと思う。

 私は、10代の終わりに「科学的社会主義」に出会い、基本的に「唯物論」の立場から物事を考えるようになったが、わが国の歴史を考えるとき仏教の存在を考えざるをえない。聖徳太子の時代に渡来した仏教は、やがて権力の側に立つようになって、それに飽き足らない人たちが「聖」として巷に住み人々を救おうとした。法然しかり、親鸞もその一人だったのだろうと思う。現代の仏教もお葬式を仕切るのが役割のようになっている気がするのだが、ある意味で資本主義日本の終焉の時期を迎えつつある昨今。仏教はいったいどんな役割を果たすのだろうかと、ちょっと考えてしまった。

 いずれにしてもあと2巻(中、下)を急いで読まないとならない。


天然ものの「シドケ」

2013-05-28 07:06:31 | 地域

 いよいよ参院選が近づいてきたので、連れ合い様とともに町内を歩いて支持を訴えている時、訪問先で「シドケもってけ」と声がかかり、見事な天然ものの「シドケ」を沢山いただいた。今年は、久慈市の「べっぴんの湯」に行った時、山根地区で栽培されたらしいものを1束400円で購入してきて食べた(男の料理で紹介)が、やはり味は天然ものにはかなわない。

 私は、この地域の生まれでないのでシドケがどこに生えるかも知らないし、キノコも採れない。だいたい山菜のシーズンは田植えの準備などで心身ともに疲労状態であり、時間もないので仕方がないと思う。こうした天然ものの山菜を味わえるのも豊かな自然があってのことだとつくずく感謝する。