東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

前嶋信次,「雲南の塩井と西南夷」,1931

2009-05-15 22:20:17 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
杉田英明 編,『〈華麗島〉台湾からの眺望 前嶋信次著作集3』,平凡社東洋文庫,2000 収録。
著者28歳、台湾時代の研究論文。

1941年満鉄東亜経済調査局にスカウトされる前は、本書に収録されているような、シナ文化、台湾関係の随筆・研究が多い。
満鉄東亜経済調査局時代(38歳から)にはいり、イスラム・アラブ関係が増える。そして、戦後になると(43歳以後)、大部分がイスラム・アラブ・中東それにアラビアン・ナイト関係の著作や研究になる。

本書に杉田英明による著作目録が載っているが、死去する1982年78歳まで、あるゆる媒体にイスラム・アラブ関係の著作を発表している。
『史学雑誌』『史学』『日本オリエント学会月報』などの学術誌の論文。
『世界歴史事典』『新潮世界文学事典』などの事典項目執筆。
世界探検紀行全集(河出書房)、世界ノンフィクション全集、世界文化地理大系その他、あらゆるシリーズの解説執筆。
文部省検定教科書、学習研究社など児童向けのシリーズ監修、こども向けの本の監修などなど。
一般の新聞・雑誌にも随筆を多数寄稿している。

つまり、イスラムとアラブと中東といえば、この人、という存在。
その間、慶応大学教授であり、アラビアンナイト原典完訳をめざしていたわけである。

まとまった一冊の著作は意外と少ないのですね。
『アラビア史』(修道社)、『玄奘三蔵 史実西遊記』(岩波新書)、『アラビアの医術』(中公新書)、『イスラム世界』(河出書房「世界の歴史8」)、『アラビアンナイトの世界』(講談社現代新書)、『東西文化交流の諸相』(4分冊で誠文堂新光社)、『イスラムの蔭に』(河出、「生活の世界歴史7」)、『イスラムの時代』(講談社「世界の歴史10)、『アラビア学への途 わが人生のシルクロード』(NHKブックス)ぐらい。
見たことないが『シルクロードの秘密国 ブハラ』(芙蓉書房)、『草原に輝く星』(NHKブックス・ジュニア)。
シリーズ物の一冊が多い。

それでこの「雲南の塩井と西南夷」であるが、完全に学術論文、漢文史料とヨーロッパの学者の研究からの文献研究。
雲南の塩田地帯をめぐる中国と吐蕃・南紹等の諸勢力の政治外交関係を辿り、塩井を担っていた〈モソ族〉に関する民族学的成果を紹介したもの。

といっても難しすぎる。通典(つてん)や唐書南蛮伝などが原文で(訓点付きだが)引用されていて読めない。
ようするに、吐蕃と唐の二大勢力の間にあり、塩田という資源があったことにより、双方に敵対したり服属したり、独立したり両属していたようだ。

と、ながながと書いてきたが、何をいいたいかというと、たぶんこんな論文は日本軍の参謀たちは知らなかっただろうな、ということ。
これを書いた前嶋信次本人もまさかこの地が日本軍対国民党軍の戦場になるとは予想しなかっただろう。
こういう一見浮世離れした研究も戦略や戦闘の際に参考になる場合もあるのだ。
だからこそ満鉄東亜経済調査局も彼をスカウトしたわけだろうが、ほとんど軍部には利用されなかっただろう。

本書には戦後に書かれたサツマイモの伝播に関する随筆、媽祖祭の思い出など軽い作品も収録。

あと、ちょっと前にこのブログで、wikipediaに鄭芝龍がクリスチャンだという記載があるが、根拠が不明だと書いた。本書収録の「鄭芝龍招安の事情について」(1964年発表の論文)によれば、10個の文献を挙げて疑う根拠のないものだ、としているので疑いのないものだろう。
この鄭芝龍に関することがらにしても、この論文は戦後の著作であるが、1940年代の戦場を知るのに有益な情報だったはず。

丸山静雄,『インパール作戦従軍記』,岩波新書,1984

2009-05-15 22:13:18 | 20世紀;日本からの人々
著者は1944年7月20日から退却行を開始する。すでに7月3日に作戦中止命令が大本営からだされ、7月10日から撤退を開始していたのだが、連絡がとどかなかったようだ。

チャモール→シボン鉄橋→モレー→カボウ谷地(チンドウィン河西岸)→クンタン→モレーへ引き返す→モレー渡河点→ヘシン渡河点→ヤナン渡河点→シッタン(チンドウィン河の渡河点)
と、著者は一命をとりとめる。
この部分を読んだかぎりでは、とても記録をつける余裕もなく、ほとんど記憶で書いているようだ。
退却した兵士も同様であって、後世の記録にはほとんど残っていない。一番難局を体験した記録は残らないのである。ともかく、前線にいた兵士の大部分は死亡したようだ。正確な死者数は不明だが、そのうちの大部分はマラリヤや赤痢、栄養失調などの病死である。

悪名高い牟田口中将第十五軍司令官の無謀な作戦といわれる。が、この段階の補給・兵站・航空戦力を考えると、誰がやっても同じような結果であったろう。かといって、兵隊を遊ばせておくわけにもいかず、ようするに、これだけ根性を出しましたという言い訳にするための作戦であったようだ。

特定の個人が無能だったとか、作戦計画がまずかった、といっても始まらない。ようするに、兵器と糧食と移動手段が優れているほうが勝つのである。それでも英印軍の損耗も死者一万五千、傷者二万五千であるそうだから、ようするに、こういうところで雨季に戦闘をやれば、これぐらいの死傷者が出るということなのだろう。
幸か不幸か作戦地域は、ほとんど住民がいない森林地帯であった。だから、略奪も強姦もおこらず、食料の自活もできず、兵士はどんどん衰弱して死んでいったのである。

こうした日本軍のありさまを見て、ビルマ軍将軍アウンサンは1945年3月27日(「盤作戦」イラワジ会戦のあと)、日本軍の指揮系統を離れる。
つまり、牟田口司令官らの作戦がビルマ独立に貢献したともいえるわけだな。

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順序が前後したが、著者が取材した経緯について。
このインパール作戦では、各新聞社は各作戦部隊に割り当てられていた。

弓兵団(第三十三師団)は毎日新聞
祭兵団(第十五師団)は読売新聞
烈兵団(第三十一師団)は同盟通信

朝日新聞は第十八師団のフーコン作戦を割り当てられていて身動きがとれず、インパール作戦の割り当てはなかった。そこで、大阪本社・社会部の著者が、朝日だけ除外されるのは納得できない、と取材を申し込んだ。
しかし、現地ではじゃまもの扱いされ、取材や記事通信はほとんどできなかったようだ。(つまり、著者はウソ記事を配信しなかったわけで、そのことが、戦後にこのような著作を書く自信につながっているのだろう。他の作戦では、けっこうウソ記事も配信したと述べている。)

1944年3月にラングーン到着、その後本書のインパール作戦終了後、メイミョウで休息し、断作戦を取材するが、記事はほとんど発信せず。
仏印にいってからの「明号作戦」に関しても、もはや記事を載せる余裕が本土の本社にない状況になっていた。

ともかく、40年以上たってから、他の資料や著作を参考したうえでの著作であるから、当時の1944年の記録ではない。

たとえば、p53-64 に書かれているような、ナガ族(タイ語族を話す民族)についても、1944年当時に見聞したこともあるだろうが、その後の知識も加えられているだろう。当時の記者がこのような観察をしたのは貴重だが、本書の内容が実際の当時の観察だったかどうかは疑問。

というわけで、誰が書いても正確な記録とはならなかったろう。
ただ、全体としてインパール作戦とその前後を知ることができるコンパクトな内容である。