東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

染田秀藤 訳,セプールベダ,『征服戦争は是か非か』,岩波書店,1992

2009-05-03 19:03:15 | 翻訳史料をよむ
ラス・カサス関係続き

いわゆるバヤドリード論争、新世界における対インディオ戦争と征服は是か非かをめぐる代表的な著作。征服戦争を是とみる側の代表人物セプールベダの見解をしめす。
「アポロギア」(1550)と「第ニのデモクラテス もしくはインディオに対する戦争の正当原因についての対話」(未公刊、アポロギアの前の作品)の2編の翻訳である。
ふたつとも原文はラテン語、本書はスペイン語版から訳し、ラテン語版を参照する。
「アポロギア」は、「第二のデモクラテス」の刊行許可がおりないことへの抗議文。「第二のデモクラテス」の趣旨が簡潔に述べられている。

ということで征服戦争賛成派の論じるところを読んでみよう。

ところが、論敵であるはずのラス・カサスやフランシスコ・デ・ビトリアの名はまったく出てこない。ラス・カサスをほのめかす部分も一か所もない。そんなどこの馬の骨かわからん修道士など眼中にないかのように、優雅な対話が続く。
うーむ。論戦をするときの手法の一種といえようか。当の論敵など存在しないかのように、相手にする価値がないかのようにふるまう。なかなか賢いやつだなあ。でも、よい子はマネをしないように。

わたしは本文だけ読んでもわからなかったが、解説・翻訳の染田秀藤によれば、「第二のデモクラテス」の対話の相手・レオポルドというのは、当時のルター派に染まりかけた勢力を想定しているそうだ。
つまり、ルター派を論破するような体裁の著作であるが、実質はラス・カサスら新世界のインディオ擁護派への攻撃なのである。
そして、読者に対しては、あのインディオ擁護派というものは、恐ろしい異端のルター派と相通じるものであるのだよ、とほのめかしているのである。

「第二のデモクラテス」を読んでいくと、実に余裕しゃくしゃくと、古代の哲人やアウグスティヌス、トマス・アクィナスなどを引用し、一見論理的に対話が続く。
インディアスにおける征服など、まったく当然であり、わざわざ論じるまでもないじゃありませんか。しかし、あえて論証せよと申されるならば、これこれの聖人の著作があり、すでに論証済みなのですよ。と、対話が続く。

とまあ、実に論理的、冷静であるのだが、解説の染田秀藤によれば、実はそれほど余裕があったわけではないようだ。
このセプルーベダという人物は、ローマ滞在中に神聖ローマ帝国カール五世の軍による「ローマ劫掠」の遭遇し、ローマ脱出。その後、戦乱がおさまった教皇庁に仕えた。のち、スペイン宮廷に仕える。
つまり、戦乱の中、教皇庁を危機を体験し、さらにスペイン宮廷に仕えて、財政危機のスペインのまっただなかで人生を送った人物である。

そのなかで、キリスト教会の危機を実感し、スペイン国王とスペイン国こそがキリスト教世界を守る勢力だと確信する。となると、インディオ擁護派の宣教師や修道士どもは、スペイン国家の安定をゆさぶる異端の輩ということになり、論破せざるをえない仇敵なのである。

ここに、スペイン国家をキリスト教世界の代表とみる、後のナショナリズムに通じる思想がめばえる、というのが解説・染田秀藤の分析である。
たしかに、このセプールベダの論調、ことば使いには、ナショナリストに通じるものがある。

さらに、わたしが気がつかなかった鋭い指摘がある。

この「第二のデモクラテス」は、インディオの残虐性、不信仰、無知を当然の前提とし、〈自然法〉に背くものと断定している。
そして、議論の焦点は、スペイン人による征服戦争が是であり、戦争にともなう殺戮はやむをえない、いや、むしろ当然のことだ、という方向ですすむ。

しかし、解説・染田秀藤の指摘なのだが、このセプールベダがさらに当然の前提としているのは、戦争においてスペイン側が勝つということなのだ。
つまり、負けることを予想していない。

ああ!そうか!

ヨーロッパの中での戦乱、教皇庁の内部での意見の不一致、宮廷の財政難、いろいろ問題はあるが、新世界のインディオ征服戦争は、スペイン人が間違いなく勝利すると確信しているのだ。
この根拠のない自信が、スペインを黄金時代から停滞の時代に導く一因であったのかもしれない。


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