東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

朱牟田夏雄 訳・注,「スコット ジャワ滞留記」

2006-06-13 23:45:19 | 翻訳史料をよむ
朱牟田夏雄(しゅむた・なつお)訳・注,越智武臣(おち・たけおみ)解題・注「スコット ジャワ滞在記」,『大航海時代叢書 第Ⅱ期 17 イギリスの航海と殖民1』,岩波書店,1983.所収.

原典のタイトルページの翻訳は以下のとおり

東インドに居住する、ジャワ人らのみならずシナ人をも含めて、住民らの、狡智、風習、常套手段、宗教、儀礼等に関する正確なる記録

合わせて、わがイングランド人およびオランダ人によるこれら住民との取引の実態、ならびに、一六〇二〔1603〕年二月二〇日より一六〇五年一〇月六日に至る間に、東インドのバンタンにおいてイングランド人の体験せし事ども

大ジャワ島の簡潔なる記述を加う

二年半にわたり同島ならびに近隣の各地に居住せし エドマンド・スコット著

ロンドン 一六〇六年

引用終わり
というように、タイトルのまんま、1603年から翌々年まで2年半、バンテンに滞在した東インド会社商館員の記録。
東インド会社としては、最初の東インド派遣隊であるランカスター船隊の記録も同書に収録されている。そのランカスター主船団が帰ったあとの留守隊のバンテンでの騒動の記録である。
すでに、スペイン・ポルトガル勢は、この地に100年あまり前から来航しているし、オランダ勢も1597年から船隊を送っている。
遅れをとったイングランド勢は、武力も情報力も格段に劣っていて、商品取引もままならないイナカ者である。

まず、現地でイングランド人商館員がどんどん病気になり死んでいく。このスコットも最初はナンバー3であったのが、上役が死んでゆき、最高責任者になる。
そんななかで、融通のきかない摂政、港湾長官(シャーバンダル)、提督(傭兵隊長)、シナ人の商人たち、ジャワ人(と、スコットは書いているが、本当にジャワ人だったのか?)、オランダ人との間でトラブルの連続である。
頻発する火事(スコットは放火だと書いているが、本当か?)、盗難、殺傷沙汰、商品にカビがはえ変色し、気のやすまるひまがない。
肝心のスパイスはなかなか手にはいらない。
前渡し金、貸し金のトラブル、裁判沙汰が続出する。
こうした中で商館に閉じこもり、商品を守って被害妄想にとりつかれるようすを描いたのが、この記録である。

であるからして、バンテンのようす、シナ人やジャワ人の習慣といっても、こすっからく、嘘つきで、凶暴で、怠惰なイメージしかない。
風習や風俗を描いた同時代の宣教師などの滞在記と比べ、観察力が格段に低い。
むしろこの記録からわかるのは、当時のイングランド人の心情であり、ヒガミと妬みにさいなまれ、異郷の病気におびえる姿である。
「大ジャワ島の簡潔なる記述」なんていっても、バンテンの商館のまわりだけしか見ていないのである。内陸はもちろん、他の北海岸の港もまだよくしらないのである。

航海のほうも、ものすごい人員の損耗率である。行きで三分の一、帰りで三分の一が死ぬのが平均、ひどい場合は全船団の生き残りが一桁なんて場合もある。
スコットの場合も、せっかく迎えの船団が到着したとおもったら、その乗組員の大半が壊血病で動けない状態だったのである。
これでは、武力でジャワ人やシナ人をけちらすわけにはいかない。(同様にオランダ人も人員の損耗、病人が多かった。もっとも、そのわりには酔っぱらってケンカなどよくやっているのだが……。)

矢野暢編,『東南アジア学への招待』上下,日本放送出版協会、1983

2006-06-13 00:24:04 | 多様性 ?
1975年放送のNHK教育テレビ『市民大学講座』4回分の座談会をもとにしたのが矢野暢(やの・とおる)編,『東南アジア学への招待』,日本放送出版協会, 1977.
それを大幅に改訂して上下2冊にしたもの。

最初の構想としては、当時の東南アジアにおける反日運動に対し、直接的な対処ではなく、まず、東南アジアのことを理解しようではないか、という発想でつくられた番組のようだ。
番組でテーマとしたのは、
自然と農耕、王朝と民族、社会と慣習、近代化への道。
以上の内容は上巻に収められている。

おもしろいのは下巻のほう。
当時の東南アジア観、関心の方向がわかる。
「東南アジアへの視座」石井米雄、岩田慶治、梅棹忠夫、と矢野暢の座談会。
地味な意見を述べる石井米雄や岩田慶治にたいし、梅棹忠夫がすきかってなことをしゃべりまくる。
「私は愛する東南アジアのために、こんな比較をもち出すのはいやなんですけど、たとえばタンザニアにおけるダル・エス・サラーム、ケニアにおけるナイロビとか、そんなもんやろか。そこまでぼくは、東南アジアを落としたくないんや(笑)」
これは、バンコクだけが巨大化し、地方とまったく共通の基盤、価値がないメトロポリスができていくことへの憂慮なのだが、(アフリカのファンは怒るだろうが)よくわかる。

「インドネシアの多元性にぼくはむしろ期待している。
「それからもう一つ、フィリピンだってまだいけるかもしれん。フィリピンはつまり、ミニ帝国になったことがない。(中略)インドネシア,マレーシア,フィリピン シンガポールはちょっとちがうけど この三つは可能性があるんだ。そういう経験をもっとらん。これは同時にいまの政府当局者にとってはいやなことかもしれないけれども、解体の可能性がある。同時にそれはある意味で、現代封建制を形成する可能性がある。」

これはつまり、中部タイやビルマ平原、ソンコイ・デルタ(北部ベトナム)、ジャワのような強い国家ではない、独立した地方権力が生きのびることへの淡い期待である。
また、インドやシナのような人口の多い、ぎしぎしした社会ではなく、風通しのよい、分散型の社会への期待でもある。
しかし、やはり、むずかしいですね。

「まだいける」とか「そこまで落としたくない」というのは、東南アジアらしさを残したままで、ある程度の政治的統合と安定した社会を残すということなのだが……。
この当時は、ベトナム戦争が終結した直後で、まだカンボジアの内乱が外の世界にとどいていない時代である。
そんななかで、なんとか戦争や飢餓を避け、一極集中の都市ばかりでなく東南アジア全体が安定した世界をみんな望んでいたのだが。

本書の中で、現在からみて意外なのは、環境汚染や森林の枯渇がぜんぜん問題になっていないことだ。
また、タイやマレーシアがこれほど経済発展するとは誰も予想していなかったようなのだ。観光やリゾート開発も問題にされていない。
また、ベトナム戦争の終結とともにアメリカの東南アジア研究が下火になった時期である。アメリカ流の戦争のための研究ではなく、おれたち日本人の独自の視点があるはずだ、と模索していた時代である。(であるから、全体として、研究方法がどうの、学術用語がどうの、研究者の視点がどうの、というテレビ座談会らしからぬかたい話題も多い。)

追記
このあと、土屋健治らを含む座談会も収録。ナショナリズム、近代化の問題を語りあう。複雑すぎるので、今は省略。