我が部では、もう一年以上前に定期演奏会でお芝居にして上演した「ビリギャル」だが、映画化された作品もいい出来映えだ。有村架純ちゃんは、昨年ギャルに扮した現部長かずあき君に匹敵するかわいさだった。
さやか(架純ちゃん)が通う高校の担任の西村先生は、あまりにも上手で、本気で憎たらしく思ったお客さんが多いと思う。自分もそうだけど。
でもね、あれくらい憎らしい先生がいた学校にいたことも、さやかちゃんが慶應に受かった大きな要因の一つだと思う。
「おまえみたいなクズに慶應なんか受かるわけないだろ」と言ってしまうのは、さすがに教員としてはまずい。
でも、現実はそうだから。
高2年で偏差値30からスタートして、さやかちゃんと同じくらいの勉強量を費やした高校生が、慶應に受かる可能性は極めて低い。
いや、慶應ってほんとに難しいのです。教える側としては慶應小論より東大国語の方がよほどだんどりしやすい。
坪田先生という類い希な指導者と、さやかちゃんというキャラとの出会いが生んだ一つの奇跡である。
映画を見る側にとって、さやかちゃんの通っていた学校や担任は「悪者」に見えると思うけど、学校がほどよい進学校だったら、奇跡は起こらなかったはずだ。
努力すれば誰でも慶應に入れるわけではない。
正しい(量と質の)努力をした者が運が良ければ慶應に入れる。
努力した結果、かりに願いが叶わなくても、その経験自体は体に残る。
こういう映画を見たり本を読んだりすると、もともと頭がよかったんじゃないかとか、塾代を出せるから出来たことだとか、素直に受け取らない人はいる。
そういうタイプの人は、たぶんちょっとしたチャレンジさえ出来ない人なんだろう。
だから体に経験が蓄積されず、理屈をこねる頭だけ「発達」してしまうのだ。かわいそうだけど。
「諭吉君(福澤諭吉)てさ、生きるために勉強した方がいいって、言ってるんだよね。あたし、勉強してみて、少しましな人間になったかも」
終わりの方でさやかちゃんが坪田先生に語る場面がある。
なんて、本質をついた言葉なのだろう。
難しい大学に入るためとか、就職を有利にするためとか、手段としてしか勉強をとらえられない人は、やはりさみしいと思う。
お金が儲かるとか、モテモテになるとか、二重まぶたになるとか、目に見えて何かが変わるわけじゃない。
でも勉強すると、少し「ましな」人間になれる。これが一番大事なんじゃないかな。