水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

一分間

2011年03月30日 | 日々のあれこれ

 石井貴士『一分間勉強法』をコンブニで一分間立ち読みして即購入してみた。
 一分間読書は難しそうだが、一分間英単語暗記は使えそうだ。 
 「休み時間や昼休みに譜面を一分間だけ見る」なんてのをシステム化できたら効果があるのではないかと思いついたので、新年度とりいれてみたい。
 人生の方向性が変わった瞬間、ターニングポイントみたいなものはきっと誰もが持っている。
 ただし、それは後になって気づくもので、ちょっとした言葉や、出会いがそれだったりする。 
 60分で人生は変わるとか、6分で変わるとか先日書いたけど、たぶん1分で変わるね。
 卒部生からの色紙を見てたら「オーボエなんてどう?」という先生の一言で人生が変わりました、と書いてくれた子がいた。
 これなんて人生変わるのに10秒かかっていない。
 まさか、やじま君があそこまでハマっていくとは予想してなかったけど。

 今日は久しぶりに課題曲Ⅳを合奏してみた。
 難しい。いい演奏会にしたいという観点ではなく、勝つことを目標に演奏を聴いてみると、別種のやるべきことが山のように立ち現れてくる。
 時間との戦だ。でもやっぱりマーチはきびしいかなあ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終わりが… 

2011年03月29日 | 日々のあれこれ

 午前はこまごまと仕事、午後はふらっとでかけるという日を二日過ごさせてもらった。
 おどろいたのは、電車の混み具合である。 
 JRは普通だが、休日ダイヤの東上線は、さすがにきつい。
 昨日、池袋で「トゥルーグリット」を観て、一息ついた気持ちで電車に乗り、準急にしては混むなあ、本も読めないのはつらいなあ、でも成増以降じわじわとすいてくるだろうと思ったのは甘かった。
 和光市で身動きとれなくなり、北朝霞からしばらくは、久しぶりにモノ扱いされてる気分になった。
 政治家さんも東電のエラいさんも、この状況は知らないだろう。
 今朝の新聞で、原発の現場で働く作業員の方々がとんでもなく過酷な状況で働き続けている記事を読んだ。
 なんとかならないものだろうか。せめて十分な栄養を摂っていただけないものかと思う。
 きっとその一方で、当事者意識の不足している本社の背広組の方が多数おられることは想像に難くない。
 電車だけは、普通に走らせられないものだろうか。
 ネット上には、いろんな意見が書いてあって、東電さんがそのうちの一つでも実際に試してみれば、もう少しましな節電方法があるように思えるのだが。
 素人考えと言うかもしれないが、玄人にまかせておいたら、こんなことになってしまったのも現実だ。
 それに駅の構内が暗いのは、なんか気分が重くなる。
 エスカレーターも動かない。
 非常時は、からだの弱い人間は、人扱いされないということだろうか。
 この暮らしに終わりが見えないことがつらい。

 もちろん、つらいとばかりは言ってられないし、普通の暮らしができる我々は、できるだけ普通にやってかないと。
 そういえば課題曲なんてのもあったなあ。
 新しい企画のオファーもとどいたので、ぜひ実現させていきたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卒部おめでとう

2011年03月26日 | 日々のあれこれ

 25期生卒部演奏会が無事終了した。
 ご来場いただいた保護者のみなさま、ご関係の方々、OBのみんな、ありがとうございました。
 お預けいただいた義捐金68264円は、父母会からいただいた義捐金とあわせて、日本赤十字社に送らせていただきます。

 保護者の方、OBとあわせて200人を超えるお客様にお越しいただけた。
 川越市民会館1300席に600人お越し頂いた状態よりも、かえってびっしり席がうまっている感があり、ありがたかった。
 たとえば、大学に行ってバンドやお芝居をやったとする。
 有名な大学の吹奏楽部に入れば大勢のお客さんの前で演奏できるけど、そうでなければ、どんなジャンルでも200人のお客さんをよぶことは簡単ではない。プロになったりしたらなおさらだ。
 身内というのはありがたいものである。
 だから、大学に行って、そういう苦労をしてみるのもいいんじゃないかな。
 既成のサークルでがんばるのもいい。
 わが部のOBたちの多くは、大学でバンドの中枢となり活躍している。
 今日も、二つの大学の学指揮、部長、副部長が来てくれていた。
 そうでなければ全く別の分野でがんばるのもいい。
 いっそ、新しく自分でサークルを、バンドを、劇団を、勉強会を立ち上げてしまうのもよい。
 そして第一回公演を催して、お客さん3人だけだったなんて経験をするのは、ものすごくいい。
 いっしょに立ち上げたメンバーと途中で仲間割れして、開催も危ぶまれ、でも残ったメンバーで何とかやりきったなんて経験もいい。
 いいなあ、大学生になりたくなってきた。
 卒部していった3年生からもらった色紙に、いい3年間だった、ありがとうございました、とみんな書いてくれてうれしかった。
 でも、この高校でのことを忘れてしまうくらいの新しい生活を、何かにのめりこむ生活をしてほしいと思う。
 こちらから渡したカードには「生きてるだけで儲けもん」というフレーズを書いた。
 「なるほどそういう考え方できるよね」ではなく、本気でそのように考えざるをえなかった事態の中を生きている。
 ほんとにそう思えたなら、これから起きることは、ほとんど全部がラッキーなことなんだろうなと思うのである。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

のりたま

2011年03月25日 | 日々のあれこれ

 昨夜、久しぶりに夜停電したので、ろうそくに灯をつけて、長女としみじみと夕飯。こんな光景は予想もしてなかったねと言いながら、三時間待てば電気がつくのが普通と思っているのは幸せだとも感じる。
 首都機能を低下させないためという理由で23区は停電しないそうだが、停電とか関係なく役所や政治家はほとんど機能してないようだが。
 景気を悪くするのはよくないから、繁華街は停電させなくてもいいけど、中央省庁付近はずっと停電休業にして、みんなで被災地に入っていただき、ボランティアの方々にがんばってもらう前に、全国で一番安定して高いお給料をもらっている方々が身体を動かす姿をみせていただくのが大事なのではないだろうか。
 夕食後、ろうそくの元で思索にふける予定だったが、脳の状態が万全でなかったので、『花のズボラ飯』を読んでたら、のりたまのふりかけがむしょうに食べたくなり、夜次女を迎えにいった折、駅前のスーパーで買ってきて、今日のお弁当にかけて食べた。おいしいねって言うと、おいしいねって言う。こだまでしょうか? 丸美屋です。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

予定

2011年03月24日 | 日々のあれこれ

 中谷彰宏氏『たった60分でその後の人生が変わる本』を読んでたら、「また、そんな本ばかり読んでぇ」と娘から言われた。60分で変わるわけないじゃんのニュアンスだったので、でもな、6分弱で人生が変わった人が何万人もいるよ、人生がなくなった人もな、と話したら納得していた。
 「努力は人をうらぎらない」とか「成功のための48の法則」とか「朝時間で自分を変える」とか、そういう類の本をけっこう読み、よおし毎日○○をやろうと心に決めてみたり、手帳を新しくしてみたりしてきたけど、そういうことがむなしくなる日が突然くるとは思わなかった。
 ま、そんなことばっかり考えていてもしょうがないのだが。
 さしあたって、地震の翌日行く予定だったマキタスポーツのチケットを払い戻しにいこう。手帳の予定欄て、なんなんでしょうね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身内

2011年03月23日 | 日々のあれこれ

 何人かのOBから、演奏会に行っていいのかとの連絡をもらう。
 思い切り身内なんだから、どんどん来て。他にもまわしてと伝える。
 みんな「忙しいとこすいませんでした」などと一言いって電話を切る。
 えらいなあ。みんな大人になっていく。
 OBのみなさん、どんどん来て25期生を祝ってあげてください。
 ただし万が一会場がいっぱいになったら、みんなはチータでおねがいします(笑)。
 今日は、とりあえず演奏曲を全部通してみた。
 曲によってはかなりきびしい。残された時間は少ない。
 やるしかない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時に海を見よ

2011年03月22日 | 日々のあれこれ

 野中先生のブログには、立教新座中学高校の校長先生のメッセージも紹介されていた。そのなかで渡辺憲司校長は「大学に行く意味」について語られている。

 大学に行くのは何のためか。
 「学ぶため」とよく言うが、学ぶのは一生必要で、大学だけのことではない。
 「友人を得るため」と言う人もいるが、大学に行かなくても社会人になってしまう方が友人は得やすい。
 「楽しむため」に行くなんてやつは、ふざけるなと叱り、こう述べられる。

 

 ~ 大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
 言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。 ~

 

 高校まで学校や保護者のもとで時間を管理されていた若者たちは、大学に入ってはじめて時間の自由を手に入れるという。

 

 ~ 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。
 「今日ひとりで海を見てきたよ。」
 そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。 ~

 

 なるほどなあと思いながら、今の自分に自由がどの程度あるか考えてみた。
 学生時代と今とでは、どちらが自由か。
 たしかに、学生時代は夕方まで寝ている日もあった。
 脳裏に波の音が聞こえてもいないのに海に行ってしまったこともある。
 自由といえば自由であった。
 ただし、その自由とは、強く求めたすえに手に入れた類のものではないせいか、よく言えば自由の享受、はたから見ればたんに惰性で過ごしているだけの学生にすぎなかった。
 ていうか、自分の意識としても怠惰だった。
 大学生になったばかりのとき、実家を離れた開放感にめくるめく喜びを感じたのもつかのま、その後はただのんべんだらりと過ごしてしまった。
 それに比べて今はどうか。
 渡辺先生がおっしゃるように、海に行く自由はないのだろうか。
 そんなことはないかな。
 ちゃんと休暇願を出して、授業の振り替えをして、合奏はわたなべ先生にお願いしてというようにだんどりすれば、海に行ける。
 そこまでして海に行く必然性がないので行かないけど、それは学生時代も同じだった。
 どうしても行かねばならないとき、せっぱつまったとき、行こうと思えば行けるしお金もあるから、ひょっとしたら今は、学生時代より自由なのではないか。
 もっと言うと、「脳裏に波の音が聞こえた時」「途中下車して海に行ける」ことが、そんなにありがたい自由とは思えないのだ。
 そんな程度の自由をありがたがるのは、尾崎豊が「卒業」で歌ったレベルの自由と同じではないか。
 そういうのが自由ならニートの方がより自由ではないか。
「今日ひとりで海を見てきたよ」と妻や子供の前で言えないかなあ。
 なんかしょっちゅう言ってるような気がするなあ。

「今日ひとりで『ツーリスト』観てきたよ」
「どうだった」
「なんか、うすかった。テレビのワイドショーレベルかな」
「ふーん。でもおとうさん友達いないよね」

 ひとりでふらっと映画に行ける自由があったら十分だし、感想をメールすると返信してくれる友もいる。別に不自由じゃないよね、社会人だけど。

 立教中学高校さんは本校に近いせいもあって、職員室で話題にしている先生の声を耳にした。「いいよね」と言っていた。

 

 ~ 海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。
 いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。
 いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
 海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。 ~

 

 一読した瞬間、なかなかかっこいいなと思ったけど、二読したあと、しゃらくせえと思った。
 そして、そのように思考できる自分を、自分の脳を自由だと思った。
 「よくわかんないけどなんかいいよね」で終わる脳より、「よく考えたらこれおかしいよ」と考えられる脳をもっていることは自由だと思った。
 自分にとって自由とは何か。
 こうやって好き勝手な思いを書いて、全世界に発表してるのに誰にもとがめられないことが一番かもしれない。
 今もし避難所暮らしだったらどうだろう。
 会社もなければ、学校もない。
 家もなくなり家族を失い、自分を束縛するものが何もなくなったとき、それが自由と言えるだろうか。
 「ひとりで海みてきたよ」と言う相手がいないのではなく、なんか言いづらいなと思える環境って、ものすごくぜいたくなのではないか。
 自由って何。
 まず水だ。そして毛布。燃料、家族の安否情報。食料。
 これが自由だ。
 時間が自由になるかどうかなんて、なんてささいなことなのだろう。
 「大学に入ったら自由な時間が手に入るよ」と言ったとき、「先生、じゃ大学にいかなければもっと自由ですよね」ぐらいの返答はしてくる生徒に育てることが自分の仕事だ。いや、うちの子たちは大丈夫かな。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月21日

2011年03月21日 | 日々のあれこれ

 何でも自粛することが正しいとは思わない。
 自粛といえば昭和天皇が崩御された折の、自粛しておけばいいんでしょ、うかつにやって変なとこから文句言われるのも困るし的な、なんでもかんでもとりあえず自粛の時期の街の様子を思い起こしてしまうから。
 しかし今いろんな行事が取りやめになっているのは、その時とは違って現実的に電気がない、交通機関がないという事情があるのだ。
 さらに、いまだに電気も水もない暮らしを余儀なくされている方々、生死の境で救助を待っている方がいる状況下だから、できることはかぎられるのは当然だろう。
 だからセリーグが予定通りの日程で、しかもナイターで開幕するという報には、ほとんどの人が怒りというよりもあきれたのではないか。
 うちが読売新聞をとっていたら、たぶん購読をやめただろう。
 「開催で元気を与えたい」という理屈自体は成り立ってはいるが、その理屈の運用は時期や空気を選ぶ。
 だいたいそういうのが理由なら、うちの定演みてもらった方が、よほど心温まるものになると思うし。
 校内での発表会を決めたのは、あくまでも自分たちのためだ。
 今までやってきたことが全く形にできないのは悲しい。
 震災被害に対して、埼玉県の一般人ができることは少ない。
 防護服を着て放水ホース持っててと言われたなら、行く覚悟はできないこともないかなと思うけど、現実にはじゃまになるだけだから、それについては祈るしかない。
 あとは給油を我慢して、普通に日常を送り、何か役目ができたとき対処できる程度に健康でいること。
 野中信行先生のブログで紹介されていた、札幌の横藤先生のこんなお言葉がある。札幌市立羊丘小学校卒業式での横藤校長の祝辞の一節であある。

 ~ 私たちは、幸いにも大きな被害に遭うことなく、こうして卒業式を迎えています。そのことに感謝しましょう。心から感謝しましょう。そして、まず私たちが一足先に幸せになりましょう。
 人を本当に幸せにできるのは、自分は幸せだと感じている人だけだからです。だから、笑顔がいっぱいの中学校生活にしましょう。
 でも、笑顔の奥に、今回被災された方たちのことを忘れず、周りの人への優しさや人のために強くなれる心をもっともっと大きく育てていきましょう。 ~ 

 被災地からの映像に、こちらがもうしわけなくなるような笑顔をみせてくれる方を見かけることがある。「いやあ、生きてるだけでありがたいからねえ」と言って。
 本気でそう言えるからこそ、その気持ちが伝わってくるのだろう。
 われわれも理論的には同じようなことを口にできるけど、ほんとに実感できているかといったらあやしい。
 今大事なのは、むやみに自粛したり、必要以上に落ち込んでみたりすることではなく、自分の感覚のなかでせいいっぱい生きて、幸せになって、いつでもお返しできますよという自分になることだろう。それを今度の発表会で形にしたいと思う。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月20日

2011年03月20日 | 日々のあれこれ

 3月に演奏会を行う学校は相当数あるが、取りやめにした、延期にしたなどいくつかの情報が伝わってくる。
 春休み中は部活がいっさい禁止になった学校さんもあれば、ほとんど何の制約もない学校さんもある。だいじょうぶかな。
 どんな形にしろ、演奏会ができるのはありがたいことだ。
 だからこそ、やる以上適当にはやりたくない。
 「できただけで幸せ、演奏の質は二の次でした」になるのだったら無理にやる意味はないから、しっかりさらいなさいと最初の集合で話す。
 でも合奏では、まだまだ譜読みが足りないし、まわりの音も聞けてない部分が多々ある。
 だいたい読めたというぐらいでは、音楽の音にならない。
 無防備にその音符を吹くというだけになってしまう。
 残ってさらってもいいよと言えないのがつらいとこだが、残りわずかな日々、できるだけのことをせねば。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月19日

2011年03月19日 | 日々のあれこれ

 通勤途中、近所のガソリンスタンドを先頭にした列が延々とつながっているのに気づき、それが妙に静かなのはみんなエンジンを切って待っているからだった。
 開くかどうか分からないスタンドに整然と並んでいるのだから、日本人らしいと言えるのかもしれないが、これが日本なのかとも思う。
 みんなが買いだめするから足りなくなるのだという話もあるが、一般人がガソリンを余分に蓄えるのは無理だし、テレビでこれだけ不安をあおられれば仕方ないのではないか。
 たまたま自分は自転車で通える身だからよかったが、いろんな理由でせっぱつまっている方も多いだろう。
 なんとか大臣から買いだめしないでくださいと芝居っ気たぷりで言われたって、悪いのは俺らかという反発心しかわかない。
 たしかにおれらは愚民だ。不安をあおられればすぐに余分にものを買ってしまう。
 被災地の報道を目にしながら、一方で念のためにラーメン買っておこうか考えてしまう。まず自分が大事だから。
 愚民と言われてもしょうがないが、だからこそ我々を導いてくださる方々として、政に携わる方がいらっしゃるのではないか。
 非常時に民を適切に導いてくださると信じるからこそ、平時から言われるままのお金を納めてきたではないか。
 自分たちの無策ぶりを、われわれ愚民の行いに転嫁されているようで、何か納得できない気持ちが残る。
 
 当分の間、部活動は午前中のみと制限があるが、久しぶりに合奏できた。
 3年のソロも決まったのであとは練習してもらうだけだ。
 あったかくなってきたので、川越駅まで足をのばし、久しぶりに書店によれた。
 スーパーであるものを買って、帰りがけは汗ばむくらいだった。
 原発の状況に少し灯りがともったようでもあり、計画停電もない夜、被災地の方々に申し訳ないと思いながらも、おいしくビールをいただき眠りについた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする