野中先生のブログには、立教新座中学高校の校長先生のメッセージも紹介されていた。そのなかで渡辺憲司校長は「大学に行く意味」について語られている。
大学に行くのは何のためか。
「学ぶため」とよく言うが、学ぶのは一生必要で、大学だけのことではない。
「友人を得るため」と言う人もいるが、大学に行かなくても社会人になってしまう方が友人は得やすい。
「楽しむため」に行くなんてやつは、ふざけるなと叱り、こう述べられる。
~ 大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。 ~
高校まで学校や保護者のもとで時間を管理されていた若者たちは、大学に入ってはじめて時間の自由を手に入れるという。
~ 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。
「今日ひとりで海を見てきたよ。」
そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。 ~
なるほどなあと思いながら、今の自分に自由がどの程度あるか考えてみた。
学生時代と今とでは、どちらが自由か。
たしかに、学生時代は夕方まで寝ている日もあった。
脳裏に波の音が聞こえてもいないのに海に行ってしまったこともある。
自由といえば自由であった。
ただし、その自由とは、強く求めたすえに手に入れた類のものではないせいか、よく言えば自由の享受、はたから見ればたんに惰性で過ごしているだけの学生にすぎなかった。
ていうか、自分の意識としても怠惰だった。
大学生になったばかりのとき、実家を離れた開放感にめくるめく喜びを感じたのもつかのま、その後はただのんべんだらりと過ごしてしまった。
それに比べて今はどうか。
渡辺先生がおっしゃるように、海に行く自由はないのだろうか。
そんなことはないかな。
ちゃんと休暇願を出して、授業の振り替えをして、合奏はわたなべ先生にお願いしてというようにだんどりすれば、海に行ける。
そこまでして海に行く必然性がないので行かないけど、それは学生時代も同じだった。
どうしても行かねばならないとき、せっぱつまったとき、行こうと思えば行けるしお金もあるから、ひょっとしたら今は、学生時代より自由なのではないか。
もっと言うと、「脳裏に波の音が聞こえた時」「途中下車して海に行ける」ことが、そんなにありがたい自由とは思えないのだ。
そんな程度の自由をありがたがるのは、尾崎豊が「卒業」で歌ったレベルの自由と同じではないか。
そういうのが自由ならニートの方がより自由ではないか。
「今日ひとりで海を見てきたよ」と妻や子供の前で言えないかなあ。
なんかしょっちゅう言ってるような気がするなあ。
「今日ひとりで『ツーリスト』観てきたよ」
「どうだった」
「なんか、うすかった。テレビのワイドショーレベルかな」
「ふーん。でもおとうさん友達いないよね」
ひとりでふらっと映画に行ける自由があったら十分だし、感想をメールすると返信してくれる友もいる。別に不自由じゃないよね、社会人だけど。
立教中学高校さんは本校に近いせいもあって、職員室で話題にしている先生の声を耳にした。「いいよね」と言っていた。
~ 海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。
いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。
いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。 ~
一読した瞬間、なかなかかっこいいなと思ったけど、二読したあと、しゃらくせえと思った。
そして、そのように思考できる自分を、自分の脳を自由だと思った。
「よくわかんないけどなんかいいよね」で終わる脳より、「よく考えたらこれおかしいよ」と考えられる脳をもっていることは自由だと思った。
自分にとって自由とは何か。
こうやって好き勝手な思いを書いて、全世界に発表してるのに誰にもとがめられないことが一番かもしれない。
今もし避難所暮らしだったらどうだろう。
会社もなければ、学校もない。
家もなくなり家族を失い、自分を束縛するものが何もなくなったとき、それが自由と言えるだろうか。
「ひとりで海みてきたよ」と言う相手がいないのではなく、なんか言いづらいなと思える環境って、ものすごくぜいたくなのではないか。
自由って何。
まず水だ。そして毛布。燃料、家族の安否情報。食料。
これが自由だ。
時間が自由になるかどうかなんて、なんてささいなことなのだろう。
「大学に入ったら自由な時間が手に入るよ」と言ったとき、「先生、じゃ大学にいかなければもっと自由ですよね」ぐらいの返答はしてくる生徒に育てることが自分の仕事だ。いや、うちの子たちは大丈夫かな。