近代社会ゆえに生じる主人公の屈託を描くのが近代小説だという話を授業中にしている。
近代になって個人という概念が生まれたために、人は悩むようになり、その苦悩を描くのが近代小説だ、と。
日本でいえば、前近代、たとえば江戸時代の人は悩まない。
なぜなら、村や世間のなかで、ひとりひとりが決まったとおりに、与えられた宿命をいきていただけだから……
などと話す。
もちろん類型化しているという意識はある。
江戸時代に生きる人たちだって、心にさまざまな屈託を抱いていたにちがいない。
しかも、こうありたいと願ったとき、そうはなれない自分の、なれなさ度合いは、今の比ではない。
だから、気づいてしまったときには、近代人以上にせつない事態に陥る。
武家とはいえ最下層の家に生まれ、貧乏がしみついて育った乙三郎。
縁あって、格上の石川家に婿入りし、年端のいかない妻きぬとの間には、まだ夫婦関係はない。
ある日、急な命令で、流罪となった旗本の護送役を仰せつかる。
事情がよくわからないまま、奥州道を北上し津軽半島の果てまで押送(護送)する旅に出る。
青森に行ったのはいつだったろう。
毎年下北沢のスズナリで観劇する「渡辺源四郎商店」のお芝居がタイミングあわずに行けなくて、でもどうしても見たくなって、青森にある劇団のホームまで行った。余裕で日帰りで行けた。新幹線はおそろしく速い。ゾンビものってこなかったし。
新幹線も高速バスもない江戸時代に、参勤交代などという制度があったのは、とんでもないことだと思う。
蝦夷地へ送られる船に乗せるために向かう、津軽半島は三厩の地までは、およそ一ヶ月の旅。
犯罪人と一ヶ月寝食をともにする仕事というのも、過酷すぎて想像がつかない。
しかも、その流人とは高禄の旗本、つまり護送役の乙三郎よりはるかに格上の侍だ。
そもそも、そのお武家は一体何の罪を犯したのか。
急な出張命令でいぶかしむばかりだが、出立してすぐに、その旗本の青山玄蕃がやらかしたのは不義密通だと知る。
不義密通 … 。なんと、破廉恥な … 。
もしかすると、旅の途中で、そやつを斬ることが真の命令なのかとも、乙三郎は疑う。
寝食を共にしていると、青山玄蕃は「食えない」ヤツだった。
たしかに家の格では、彼がはるかに上の存在だ。
天下の旗本と、一介の与力とが、日常会話をする状況は、ふつうならありえない。
しかし、そんな格の違いを鼻にかけてくるようなたたずまいは、玄蕃にはない。
自分は犯罪人、はるかに年下の乙三郎は押送人という、分はわきまえて接してくる。
むしろ家としての、武士としての格以上に、人間としての格がちがうことを、乙三郎は感じていく。
この者は本当に罪を犯したのか、本当にそうだとしたら、何か事情があったのか。
とはいえ、切腹を拒否して流人になるということ自体は、許されるのか。
旅を続けながら乙三郎の疑問はふくらむばかりだ。
道中で二人は、さまざまな人に出会い、事件にまきこまれるが、そのたびごとに玄蕃がうまく解決していく。
~ ねえ、きぬさん。
僕はこまごまと気に病むたちなのでしょうか。自分ではむしろ呑気者だと思っているのですが。
青山玄蕃なる流人がそう言うのですよ。「石川さん、あんたは気が細かすぎる」と。
さて、どうでしょう。自分のことはわからぬものです。
どれほど目を凝らそうと、世の中にはひとりだけ見えぬ顔がある。自分自身の顔ですね。鏡に映したところで右と左が逆様だから、けっして正体ではない。
どれほど耳を欹てようと、世の中にはひとつだけ聴こえぬ声がある。自分自身の声ですね。それは耳が捉えるのではなく骨に響いて伝わる音だから、実は他人が聴く声とはまるでちがう。
それらと同じ理屈で、どれほど心静かに考えようと、自分の気性などわかるはずはない。だから僕は呑気者ではなくて、もしかしたら苦労性なのかもしれない。
もっとも、それらは何から何まで、青山玄蕃のご高説なのですがね。聞きながら僕が考えこむと、高笑いをして指を向けるのです。
「ほおれみろ、何をそんなに考えこむのだ。しょせん考えてわかる話じゃあるめえ。それに、もっと肝心なことだが、あんたが思うほど他人はあんたを見ちゃいねえ。あんたの話も聞いちゃいねえ。ましてやあんたの気性がどうだなんて、誰も考えちゃいねえよ」
玄蕃の物言いにはいちいち腹が立つのですが、そのときばかりは何やらスッと胸が軽くなったような気がしたものでした。
(浅田次郎『流人道中記』) ~
まじめで一途な若者は、あるべき自分を貫かねばと思いながら、人生経験豊富な玄蕃とのやりとりを通じて、自分の考える「あるべき姿」がほんとうに正しいのかとの考えが浮かぶ。
汚名を雪ごうとせず、家を捨て妻子を捨てても、玄蕃が守らなければならなかったものを知ったとき、「人」として生きようとすることの難しさと、しかし「人」でありたいとの強い思いの前に、自分のかかえていた屈託が別の形になっていくことを感じ始める。
上下二巻の長編。江戸を発ち、粕壁を過ぎて杉戸宿、芦野宿、白川の関を越えて仙台、一ノ関、沼宮内……。
残り頁が少なくなるにつれて、読み終えるのが惜しくなってペースを落とした。
ずっと、この二人のやりとりを読んでいたかった。
近代になって個人という概念が生まれたために、人は悩むようになり、その苦悩を描くのが近代小説だ、と。
日本でいえば、前近代、たとえば江戸時代の人は悩まない。
なぜなら、村や世間のなかで、ひとりひとりが決まったとおりに、与えられた宿命をいきていただけだから……
などと話す。
もちろん類型化しているという意識はある。
江戸時代に生きる人たちだって、心にさまざまな屈託を抱いていたにちがいない。
しかも、こうありたいと願ったとき、そうはなれない自分の、なれなさ度合いは、今の比ではない。
だから、気づいてしまったときには、近代人以上にせつない事態に陥る。
武家とはいえ最下層の家に生まれ、貧乏がしみついて育った乙三郎。
縁あって、格上の石川家に婿入りし、年端のいかない妻きぬとの間には、まだ夫婦関係はない。
ある日、急な命令で、流罪となった旗本の護送役を仰せつかる。
事情がよくわからないまま、奥州道を北上し津軽半島の果てまで押送(護送)する旅に出る。
青森に行ったのはいつだったろう。
毎年下北沢のスズナリで観劇する「渡辺源四郎商店」のお芝居がタイミングあわずに行けなくて、でもどうしても見たくなって、青森にある劇団のホームまで行った。余裕で日帰りで行けた。新幹線はおそろしく速い。ゾンビものってこなかったし。
新幹線も高速バスもない江戸時代に、参勤交代などという制度があったのは、とんでもないことだと思う。
蝦夷地へ送られる船に乗せるために向かう、津軽半島は三厩の地までは、およそ一ヶ月の旅。
犯罪人と一ヶ月寝食をともにする仕事というのも、過酷すぎて想像がつかない。
しかも、その流人とは高禄の旗本、つまり護送役の乙三郎よりはるかに格上の侍だ。
そもそも、そのお武家は一体何の罪を犯したのか。
急な出張命令でいぶかしむばかりだが、出立してすぐに、その旗本の青山玄蕃がやらかしたのは不義密通だと知る。
不義密通 … 。なんと、破廉恥な … 。
もしかすると、旅の途中で、そやつを斬ることが真の命令なのかとも、乙三郎は疑う。
寝食を共にしていると、青山玄蕃は「食えない」ヤツだった。
たしかに家の格では、彼がはるかに上の存在だ。
天下の旗本と、一介の与力とが、日常会話をする状況は、ふつうならありえない。
しかし、そんな格の違いを鼻にかけてくるようなたたずまいは、玄蕃にはない。
自分は犯罪人、はるかに年下の乙三郎は押送人という、分はわきまえて接してくる。
むしろ家としての、武士としての格以上に、人間としての格がちがうことを、乙三郎は感じていく。
この者は本当に罪を犯したのか、本当にそうだとしたら、何か事情があったのか。
とはいえ、切腹を拒否して流人になるということ自体は、許されるのか。
旅を続けながら乙三郎の疑問はふくらむばかりだ。
道中で二人は、さまざまな人に出会い、事件にまきこまれるが、そのたびごとに玄蕃がうまく解決していく。
~ ねえ、きぬさん。
僕はこまごまと気に病むたちなのでしょうか。自分ではむしろ呑気者だと思っているのですが。
青山玄蕃なる流人がそう言うのですよ。「石川さん、あんたは気が細かすぎる」と。
さて、どうでしょう。自分のことはわからぬものです。
どれほど目を凝らそうと、世の中にはひとりだけ見えぬ顔がある。自分自身の顔ですね。鏡に映したところで右と左が逆様だから、けっして正体ではない。
どれほど耳を欹てようと、世の中にはひとつだけ聴こえぬ声がある。自分自身の声ですね。それは耳が捉えるのではなく骨に響いて伝わる音だから、実は他人が聴く声とはまるでちがう。
それらと同じ理屈で、どれほど心静かに考えようと、自分の気性などわかるはずはない。だから僕は呑気者ではなくて、もしかしたら苦労性なのかもしれない。
もっとも、それらは何から何まで、青山玄蕃のご高説なのですがね。聞きながら僕が考えこむと、高笑いをして指を向けるのです。
「ほおれみろ、何をそんなに考えこむのだ。しょせん考えてわかる話じゃあるめえ。それに、もっと肝心なことだが、あんたが思うほど他人はあんたを見ちゃいねえ。あんたの話も聞いちゃいねえ。ましてやあんたの気性がどうだなんて、誰も考えちゃいねえよ」
玄蕃の物言いにはいちいち腹が立つのですが、そのときばかりは何やらスッと胸が軽くなったような気がしたものでした。
(浅田次郎『流人道中記』) ~
まじめで一途な若者は、あるべき自分を貫かねばと思いながら、人生経験豊富な玄蕃とのやりとりを通じて、自分の考える「あるべき姿」がほんとうに正しいのかとの考えが浮かぶ。
汚名を雪ごうとせず、家を捨て妻子を捨てても、玄蕃が守らなければならなかったものを知ったとき、「人」として生きようとすることの難しさと、しかし「人」でありたいとの強い思いの前に、自分のかかえていた屈託が別の形になっていくことを感じ始める。
上下二巻の長編。江戸を発ち、粕壁を過ぎて杉戸宿、芦野宿、白川の関を越えて仙台、一ノ関、沼宮内……。
残り頁が少なくなるにつれて、読み終えるのが惜しくなってペースを落とした。
ずっと、この二人のやりとりを読んでいたかった。