永源遙氏逝去。
馬場も鶴田も木村もすでにいない。今頃あの世で久闊を叙しているに違いない。
愛すべき「田舎プロレス」の担い手だった。
プロレスは筋書きのあるドラマだ。筋書きが存在することを八百長と非難するむきもあるが、筋書きがあるからこそ、それを推理する楽しみがあり、同時に逸脱をとらえた時に高揚感を得られる。
どう見ても暗黙の了解を越えた技を受けて怒りを隠せない選手の顔や、「やべ、切りすぎたか」と不安げなブラックキャットの顔(ややマニアックですね)に気づくとドキドキする。
お芝居でも、同じ脚本で一ヶ月続く公演では、一日として同じものはない。同じ演目の舞台を複数回観に行くと、いかに芝居が成長するものか、よくわかる。
一定の枠組みがあるからこそ、演者達は安心して逸脱することもできるのだ。
筋書きを分かりやすく示し、予定調和をいかに楽しく見せるかという意味で「田舎のプロレス」という言葉を用いるなら、永源さんは田舎プロレスの名手だった。何かのきっかけでたまたま始まったのだろうが、いつしか完成した「つばとばし」の様式美は、六方を踏む海老蔵と遜色なない。客は「成田屋!」と声を掛ける代わりに新聞紙を広げた。
興業の最初から最後まで「都会プロレス」では。見ている方がつかれてしまう。
だから自民党の議員さんが野党さんを揶揄するつもりでこの言葉を用いたなら、言葉の使い方がおかしいだろう。プロレスを知らないからだ。
「俺と勝負するか」と馳浩氏が怒ったという報道もあったが、本気で言ったのなら、プロレス者としてはまだまだだ。
秀逸な日本文化論として谷崎潤一郎『陰影礼賛』と並び称されるべき村松友視『私、プロレスの味方です』を、もう一度読み返して、レスリングからプロレスに転じた時の気持ちを思い出してほしい。
「田舎プロレス」を「茶番」の意味で用いたなら、プロレスに対しては理解不足としか言えないが、野党のパフォーマンスを評する言葉としては的確だった。
野党の方々は逆に、真の田舎プロレスはどうあるべきかを、昔の試合のビデオを見て研究してみたらどうだろう。
いろんな意味で、プロレス的なものに対する教養が失われている … て、すごいお年寄りぽい書き方になってしまった。