水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

永源遙氏を悼む

2016年11月29日 | 日々のあれこれ

 

 永源遙氏逝去。
 馬場も鶴田も木村もすでにいない。今頃あの世で久闊を叙しているに違いない。
 愛すべき「田舎プロレス」の担い手だった。

 プロレスは筋書きのあるドラマだ。筋書きが存在することを八百長と非難するむきもあるが、筋書きがあるからこそ、それを推理する楽しみがあり、同時に逸脱をとらえた時に高揚感を得られる。
 どう見ても暗黙の了解を越えた技を受けて怒りを隠せない選手の顔や、「やべ、切りすぎたか」と不安げなブラックキャットの顔(ややマニアックですね)に気づくとドキドキする。
 お芝居でも、同じ脚本で一ヶ月続く公演では、一日として同じものはない。同じ演目の舞台を複数回観に行くと、いかに芝居が成長するものか、よくわかる。
 一定の枠組みがあるからこそ、演者達は安心して逸脱することもできるのだ。
 
 筋書きを分かりやすく示し、予定調和をいかに楽しく見せるかという意味で「田舎のプロレス」という言葉を用いるなら、永源さんは田舎プロレスの名手だった。何かのきっかけでたまたま始まったのだろうが、いつしか完成した「つばとばし」の様式美は、六方を踏む海老蔵と遜色なない。客は「成田屋!」と声を掛ける代わりに新聞紙を広げた。
 興業の最初から最後まで「都会プロレス」では。見ている方がつかれてしまう。

 だから自民党の議員さんが野党さんを揶揄するつもりでこの言葉を用いたなら、言葉の使い方がおかしいだろう。プロレスを知らないからだ。
 「俺と勝負するか」と馳浩氏が怒ったという報道もあったが、本気で言ったのなら、プロレス者としてはまだまだだ。
 秀逸な日本文化論として谷崎潤一郎『陰影礼賛』と並び称されるべき村松友視『私、プロレスの味方です』を、もう一度読み返して、レスリングからプロレスに転じた時の気持ちを思い出してほしい。

 「田舎プロレス」を「茶番」の意味で用いたなら、プロレスに対しては理解不足としか言えないが、野党のパフォーマンスを評する言葉としては的確だった。
 野党の方々は逆に、真の田舎プロレスはどうあるべきかを、昔の試合のビデオを見て研究してみたらどうだろう。
 いろんな意味で、プロレス的なものに対する教養が失われている … て、すごいお年寄りぽい書き方になってしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運を強くする(2)

2016年11月28日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「運を強くする(2)」


 だから、自分がうまくいかなかった時「運が悪かった」と嘆くのは、二重の意味で間違っていることになる。
 うまくいかなかったのは、努力が足りなかったのである。
 努力が足りなかっただけでなく、意識的または無意識的にその事実に目をつぶり、自分の責任を回避しようとしていることでもある。
 「だめだった! 力が足りなかった!」と素直に負けを認める人は、次に進める。
 「こんなに頑張ったのに … 、 天は自分に味方しなかった」と嘆く人は、一瞬悲劇のヒーロー気分にひたれるかもしれないが、前に進むことはできない。
 自分の失敗の原因を自分以外に求めるのは一般に「卑怯」と言う。残念ながら、そういう人は周囲も相手しなくなってしまう。「不運」と思っているのは、実は本人だけであることも多いものだ。


 ~ 受験は完全実力の世界です。最近は本当に入りやすくなっているので、運がよくて受かることはあります。直前でおさらいした部分が出題されて、それで受かったということはありえますからね。しかし、運が悪くて落ちるなどということは、絶対と言ってよいくらいありえません。
 落ちた生徒は、すべて実力不足が原因です。ただただ準備が足りなくて落ちたのに泣きじゃくるような生徒を見ていると、かわいそうだとは思いますが、「そういうことではないんだけどなあ」と冷めた思いになってしまうのも事実です。
 しかし、それ以上に嫌いなのは、たかが(あえてこういう表現をします)東大に受かったぐらいで泣いて喜び、大騒ぎをする生徒です。その気持ちがまったくわからないとは言いませんが、東大合格なんて単に人生のワンステップを突破しただけで、実際は何も始まっていません。
 実際、真のトップ層で泣いて喜んだという生徒を見たことがありません。みんなさらっと受かって、すぐ次のステージに向けて走り始めます。だから、僕はあらかじめ授業でこう伝えておくんです。
「受かっても落ちても、くれぐれも大騒ぎしないでください。日本にカースト制はありません。だから、身分のせいで不合格にされることはありません。また、書類審査もないんですから、容姿も考慮されません。僕でも大丈夫でした(笑)。本当に平等です。公平なんです。君たちの書いた答案用紙だけで評価してもらえます。落ちるのは単なる実力不足。もし落ちたら『実力不足でした』とペコリと頭を下げてください」と。
 不運だなんて思っていたら成長は不可能です。 (林修『林修の仕事原論 壁を破る37の方法』青春出版社)
 ~


 かりに不運に見える事態がおこっても、そのなかでさえ十分に力を発揮できるような準備をすることが第一だ。本当にがんばっていれば、自分の力を発揮するためには、周囲の人の協力が必要なことにも気づけるようになる。
 人は本当に腹をくくったなら、礼儀正しくなれるのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

急ピッチ

2016年11月27日 | 日々のあれこれ

 

 試験作りにため登校すると、日曜の今日もグランドでの作業が行われている。昨日、一昨日と一気に敷いたアスファルトを徹底的に均している作業のようだ。
 ほんとうにありがたい。グランドに土を入れて、固めて、人工芝を貼り付けるのに、そんな何ヶ月もかかるのかなと最初に疑った自分がはずかしい。
 ショベルカーやローラーが初めて入るのをみた日、昔からハードは変わらないものだと思ったのだが、見た目は昔ながらの重機でありながら、機能はハイテクになっていることを聞いて驚いた。測量器が数カ所に置かれていて、実測されたデータが常時送られ、そのモニターを見ながら重機を操っているという。すごくね? だから作業員の方はけっこうなスピードで車を走らせ、躊躇無くポイントに向かい、均したり、削ったりできるのだ。
 アスファルトが敷き終わり、芝の大きなロールが何本も搬入された昨日は、さすがに高揚感がただよった。図書館ができ、合宿所ができ、野球場ができ、グランドが変わる。平行して新しい黒土を入れて整備しているソフトボール場は、普通にオリンピックができるようになる。なんなら、一部の試合に本当に貸し出せばいいのに。送迎の車が足りないなら、自分も動かせるバスでお手伝いさせてもらってもいい。
 何十年も勤めさせていただいているうち、学校の周りも随分変わった。だから続いているわけで、これは環境の「動的平衡」を表すのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三日合わざれば

2016年11月26日 | 日々のあれこれ

 

 最後の学校説明会からの個別相談会。
 どの私立高校さんも、新年度どれくらいの数の新入生を迎えることができるのか、追い込みの時期になるだろうか。中学三年生は、もともとの目標と現状の成績を現実的に考え合わせて判断をしなければならない時期だろう。
 なので、少しでも受験者、入学者を増やしたいわれわれ、納得できる範囲内で受験校を決めたい受験生、少しでも安心を得たい親御さんとの三者三様の綱引きのなかで進められる相談になった。
 とはいえ、実際に入試までは、県立高校ならまだ三ヶ月、私立高校でも二ヶ月はあるのだ。いままで本気で勉強した経験がない男子なら、まだ伸びしろはかなりある。
 もちろん、「正しいやり方」で「やるべきこと」をやるという条件だけは必要だが。
 自分でそれを判断できるかどうか、またはそれを教えられる人が周囲に存在するかどうか、ポイントとなるのだろう。
 「男子三日合わざれば刮目して見よ」
 どういう形で本校を受験するにせよ(しないにせよ)、中三のこれからの二三ヶ月は、その後の人生への影響はかなり大きいと思う。
 前も書いたけど、国語ができなくて困っている人は、県立の過去問、北辰の過去問の合計10題以上を、この一週間でやり直せば、来週の試験に絶対効果があらわれるはずだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運を強くする

2016年11月24日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「運を強くする」


 「8球団からドラフト1位指名される」という夢をかなえるために、大谷選手が書き出したのは、①「体づくり」、②「コントロール」、③「キレ」、④「メンタル」、⑤「スピード160㎞」、⑥「人間性」、⑦「運」、⑧「変化球」の8要素だった。
 ①~⑤は、小学生でも考えつくだろう。
 ⑥「人間性」も、高校生ならば、実践できるかどうは別にして、書くことはできる。
 大谷選手のすごいところは、⑦「運」と書くことだ。
 そして⑦「運」を高めるために以下の8項目を立てている。


  1「あいさつ」 2「ゴミ拾い」 3「部屋そうじ」 4「道具を大切に使う」
  5「審判さんへの態度」 6「プラス思考」 7「応援される人間になる」 8「本を読む」


 そもそも「運のいい人」とは、どういう人を言うのだろう。
 成功者と呼ばれる方々は、ほとんど「自分は運がよかった」という。
 ビジネスで成功した方の運のよさとは、はたから見るとこんな感じだろうか。
 たまたま知人の紹介でビッグチャンスを得た、たまたま流行に乗れた、たまたまいい商品を開発できた、たまたまいい値段で売れた … 。
 「たまたまチャンスを与えられて、そのチャンスをものにすることできた人」というのが、わかりやすいイメージかもしれない。
 ただし「たまたま」とは言っても、その仕事に「もともと」関わっていたことは間違いない。
 宝くじを買わない人は、いくら運のいい人でも当選できないのだ。
 大前提として、その仕事をしていなければならない。
 そしてチャンスに巡り会ったとき、それをものにする力をもっていないといけない。
 「たまたま」のチャンスはどうつかむか。たえずアンテナをはっておくこと、同時に他人から声をかけてもらえるような人間でいるということになるだろう。
 そういう状態を冷静に考えてみたならば、「運のよさ」のすべては、自分でなんとかできるということになる。自分自身の努力で運はいくらでも引き寄せられるのだ。
 「こんなことを成し遂げたい」と思ったならば、1そのことをはじめ、2やりつづけ、3レベルを高め、4やっていることを世に知らしめ、5好かれる人間でいる。
 その結果として成功した場合に限って、「運がいい」と世間は評価してくれる。
 こと受験勉強にかぎっても、成功する子は、運を高める高校生活を送っていたと思う。
 数多くのみなさんの先輩方を思いうかべると、ほぼ確信をもってそう言える。
 勉強をがんばるのは前提として、そのうえで「あいさつができる」「片付けができる」「遅刻をしない」は必要条件ではないだろうか。
 そして5「審判さんへの態度」だ。入試会場で、守衛の方や試験監督の先生にあいさつできる子は、なぜかうまくいく。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブリヂストン吹奏楽団久留米

2016年11月22日 | 演奏会・映画など

 

  ブリヂストン吹奏楽団久留米の結成60周年記念コンサート。
 東京芸術劇場でのこの会は、ツテがないとチケットを手に入れられないが、星野高校なかじま先生という強力なツテのおかげで、本校部員11名とともに聴きに行くことができた。
 オープニングはトランペットパートによる「東京オリンピックファンファーレ」。スクリーンに映しだされた団の紹介に続いての一部クラシックステージは、1曲目にモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。オーケストラとはまた違った実にふくよかな音色でゆったり演奏される。続いて「ローマの祭り」全曲。一転してパワフルな演奏となり、終わったときは、もうあとはアンコールして終わりでいいんじゃないかと感じるぐらい中身が濃い。
 二部はマーチング。クイーンのメドレーで、高校時代に慣れ親しんだ曲ばかりだが、いまの高校生たちは知ってるのだろうか。知らなくてもいいか。ディープパープルメドレーが、あんなに人気があるのだから、クイーンも楽しむだろう。ステージで吹きまくり、軽快に動く姿を見ながら、身近な存在で言うと、慶應志木さんや日大豊山さんが同じ方向性だなと思って、最初から感じていた違和感の中身がわかった。
 ステージ場に男性しかいないのだ。なかじま先生に確認したら、団員は男ばかりだという。女性のプレーヤーが一人もいないバンドを、男子校以外で見ることはない。まして大人のバンドで。そうだったのか。
 そして、彼らの男らしさは、二部から三部への舞台転換でもまざまざと見せつけられる。
 ステージドリルが終わる。山台でボックスにセットされていた打楽器群が軽々とはけていくと同時に、新たな山台が組まれ始め、イスと譜面台が再びセットされる。いつのまにかドラムスが2セット最上段に乗っている … 。 幕間にひな壇までセットし直す演奏会は初めて見たし、それが数分で完了し、そのあと着替えとチューニングもして普通に三部がはじまるのに驚く。
 本校も一部から二部への転換では着替えや化粧で時間を押してしまうが、まだまだだ。
 三部は楽しいポップスステージ。「ブラジル」ではサンバダンサーが出てきて踊る、「アランフェス」のフリューゲルソロはとろけそう。「日本の唱歌メドレー」は、まったく予想していないアレンジながら、それでいてコードネームがはっきりわかるような色合いあざやかな演奏。
 最後のジャズは指揮の富田先生もドラムにまわってツインドラムでのパワフルな演奏。ここまでくると、ひょっとして「ローマの祭り」はウォーミングアップだったのかと思えるほど、みなさん吹きまくっている。
 「男祭り」のお手本がここにあるのではないか。聞きしに勝るとは、まさにこのことだった。
 アンコールの「東京オリンピックマーチ」は、なるほどこうしてオープニングとあわせたのかと納得する。
 どんだけ営業にまわっているのだろうと思うしかない司会の方も含め、吹奏楽という形態における一つの頂点を堪能できてよかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マンダラチャート

2016年11月21日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「マンダラチャート」

 

 日本ハムの大谷翔平選手は、幼い頃から、将来はプロ野球選手になって活躍したいという夢をもっていた。花巻東高校の1年生の時、佐々木監督の指導のもとで、その夢を視覚化する。
 漠然とした「夢」を、まず「8球団からドラフト1位で指名される」と具体化した。
 次に、その夢を実現するために必要と思われる要素を考えてみる。
 高一の大谷少年は、①「体づくり」、②「コントロール」、③「キレ」、④「メンタル」、⑤「スピ
ード160㎞」、⑥「人間性」、⑦「運」、⑧「変化球」の8つを書き上げた。


  頭の中に3×3の九つのマスを書いてみてほしい(実際に描いてみるとなおいい)。
  中心のマスに「ドラ1 8球団」と書く。
 その周りを取り囲む8つのマスに、上記の8要素を書き入れていく。
  夢を中心とする計9マスの外側に、さらに3×3のマスを放射状に書く。
  それぞれの中心に、①「体づくり」、②「コントロール」… とおいていく。
  各要素を高めていくための具体的な項目を、取り囲む8マスに書き入れていく。
  「夢」を現実に変えていくための道筋が、8要素、64項目という具体的な形で視覚的に明らかになった。
 このように具体化することで、たんなる夢が目標にかわる。

 私たちは、将来の幸せを夢見て目標を立てる。ただしそれが、行動につながるような項目として具体化されているだろうか。
 「素敵な人生を送る」「いい大学に受かる」「英語をなんとかする」「インハイに出る」「ベスト4に入る」「11秒台で走る」 … 。
 そのままでは、夢物語におわってしまうのだ。
   「夢は紙に書いて貼っておくと、いつか叶う」とよく言われる。しかし、書いて貼っておく「だけ」で叶えた人はいない。
 その目標を達成するための行動が積み重ねがあったのだ。「9×9」の目標達成用紙は、「マンダラチャート」と呼ばれるものだ。この方法が唯一のものというのではない。目標に向かって進んでいくための具体的項目を書き出し、視覚化して、具体的な行動にうつしていくことが大切だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復習は次の予習

2016年11月19日 | 学年だよりなど

 

   学年だより「復習は次の予習」


 勉強に対する取り組み方は、部活に対する取り組み方にも共通しているし、仕事をするようになればきっと同じ姿勢で取り組むものであり、極端に言えば人生への取り組み方と重なると言えるのかもしれない。
 逆に言うと人生に対する姿勢を変えたければ、今自分がやろうとしていることへの姿勢を変えることが、それを可能にするということになる。
 日々の暮らしのなかには、非日常的な出来事がある。意図的に用意したものもあれば、意図せずして起こるものもある。それらの経験を糧として蓄積するためには、やりっぱなし、経験しっぱなしにするのではなく、すぐにその「復習」をしなければならない。
 勉強への取り組み方と全く同じだ。


 ~ 成績が伸びない生徒は、模擬テストの前には、必死で勉強します。
 ところが、模擬テストの後は、まったく復習をしません。
 次の模擬テストの勉強に取り掛かってしまっているのです。
 そのため、せっかく受けた模擬テストでの自分の弱点補強ができません。
 模擬テストは、力試しではなく、補強すべき弱点の洗い出しが目的です。
 伸びる生徒は、模擬テストが終わると、成績が返ってくるより前に、復習を始めます。
 その日のうちに、できなかったことを、できるように調べます。
                     (中谷彰宏「復習が次の予習」私塾界9月号) ~


 もちろん、同じ問題をただ解き直すことが復習ではない。
 出来なかった問題の解き方を理解して、もう一度解いてみる。時間をおいてもう一度解き直さないといけない問題かどうかをチェックする。
 チェックの入った問題を、しばらくしてから解き直し、それで終わりにしていいか、さらに残しておくべき問題かを再チェックする。


 ~ 間違った模試の受け方は、
 模試をうけてA判定をもらえたことに満足し、油断して復習をしないこと。
 成績表や順位表を机の前に並べて何度眺めたところで、
 余計な自信と自尊心がつくだけで、学力的には成長はしません。
 模試はやりっぱなしに決してしないこと。
 正しい模試の受け方は、
 模試をうけて出た判定をもとに自分の位置を把握し、
 自分の弱点と原因を分析して、本番までの学習計画を立て直すとともに、
 復習を通じて知識の抽出作業を行い、できなかった問題をできるようすること。
                      (「木村美紀が明かす家庭教育の秘策」より) ~

 

 やりっぱなしになっているものを整理し直す時間が、「今の」みなさんにはある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世界の片隅で

2016年11月18日 | 演奏会・映画など

 

 映画でも舞台でもドラマでも、「この人じゃなきゃ」と言われるような役に出会えた役者さんは幸せだ。
 寅さんと渥美清、肝っ玉母さんと京塚昌子(例が古いか … )ほど一体化したものでなくても、最近ならなんだろう、あ、水谷豊の右京とかかな(自分の中では未だに北野広大だが)。
 最近観た映画だったら、カウカウ商会のウシジマ社長は山田孝之以外には考えられない感じにはまっていた。
 テレビドラマでシリーズ物になる作品は、内容以上に、役のキャラと役者さんとのマッチングが大事なのではないだろうか。そんな仕事に出会えた役者さんは、経済的にも幸せだろう。そしてそんな目にあえるのは、ほんの0、何%の方にちがいない。

 かりに「あまちゃん」のseason2ができるとしたら、天野アキは能年玲奈以外には考えられない。無理すれば、他の役はなんとかなるかもしれない。でもアキは能年玲奈しかいなくて、それほどの役(なんていうのだろう「天職」みたいなイメージの言葉はあるのかな)に出会ってしまうと、かえって他の作品で苦労することもある。
 「あまちゃん」後の、「ホットロード」も「海月姫」も、健闘していたが、どうしてもアキちゃんが他の役もやっていると見えてしまった。

 やっと本題に入れる。
 映画「この世界の片隅で」で、「のん」こと能年玲奈ちゃんが声を入れた、主人公のすず役は、もう他は考えられない一体化をしていた。
 原作は、こうの史代の漫画作品。広島に生まれ、太平洋戦争の末期に、軍港の町であった呉に嫁いでいき、終戦を迎える一女性の人生を描いている。

 歴史がどうなるのかは、われわれは知っている。それは教科書を読むような知り方だ。当時を生きた普通の人が、実際にどんな暮らしをしていたか、何を思い、何を感じていたかに触れることはできない。
 「知り方」をもたらす教科書的な何かには、すでにいろんな思想がまとわりついていることがほとんどだ。
 自分的には、一般人の素の話として今も記憶に残るのは、小学校の頃通っていた珠算塾のあだち先生の話だ。福井大空襲のとき、逃げようとしたら家の周りはすでに火につつまれていて、諦めかけたとき白い服を着た三人のおじさんが走って行くの見えて、あれについていけば逃げられると思って飛び出した … みたいな話。
 実家の父親も戦時中の話をよくしたが、どうも面白おかしくしようとする傾向があった。それは今も変わらない(か、もしくは程度をましている)。

 普通の日本人にとって戦争ってどんなものだったのかを、ここまでまっすぐに、色をつけずに教えてくれる作品は、今まで生きてきて接したものの中では一番だ。
 歴史を知っている私たちは、「アンネの日記」を読むような切迫感で物語の進行を見守り、そんななかで健気に生きるすずの笑顔に涙することになる。たくさんの大切な物を失ってなお前を見ようとするすずの希望に心が洗われる。
 今年観たアニメの三作品、「君の名は」「聲の形」そして「この世界の片隅で」が、生涯でのベスト3であることは間違いない。
 「すず」役の「のん」さんは、彼女以外には考えられない役に人生で二つもめぐり会えた希有な女優さんだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体内時計

2016年11月16日 | 日々のあれこれ

 

 「一年一年がだんだん速く感じるようになるのは、分母が大きくなってくるからだよ」
 数年前、義父にそう教えてもらい、やけに納得した記憶がある。
 つまり、こういうことだ。三歳の子が新たに迎える一年は、それまでの人生の三分の一にあたる。しかし四十歳の場合、新しい一年といっても、それまでの人生の四十分の一でしかない。個人にとって一年の重みは、年齢によってそんなにも変わるのだと。
 今年もすでに11月の半ばをすぎた。つい先日まで暑さに文句を言っていた気がするが、今や朝晩の寒さがこたえる。すぐに年末、そして新しい年を迎える。また一つ齢を重ね、人生の終わりに近づく――。
 私たちは時間の長さをどのように体感するのか。時計が見られないときに、今何分経った、何時間経ったという感覚を得る「体内時計」はどのように作動しているのか。
 生物学者の福岡伸一先生によると、分子レベルで見た場合、タンパク質の分解と合成のサイクルにコントロールされているという。タンパク質の新陳代謝速度が、体内時計の秒針である。
 それは、私たちの体内時計は、年齢とともに遅くなるということも表す。完全に解明されてはいないが、細胞分裂のタイミングや分化などの時間経過は、すべてタンパク質の分解合成サイクルに規定されている。
 年とともに、そのサイクルは遅くなる、つまり新陳代謝が遅くなる。結果として体内時計の針の進み方もだんだん遅れてくると。
 二十歳の子が一ヶ月かかって行う新陳代謝を、五十歳のおっさんは半年かけてする。体感としては、一年かけてもなしえない気がするが。おっさんの身体にある時計が、自分の代謝スピードに基づく感覚で、そろそろ半年経ったかな、それくらい代謝したかなと感じているとき、実は世の中はすでに一年が経過しているのである。
 つまり、歳をとると一年一年がだんだん速く過ぎていくように感じるのは、分母が大きくなるのではなく、「時間の経過に、自分の生命の回転がついていけていない」(福岡伸一『動的平衡』木楽舎)からだ。最新の生物学の研究はそんなことも教えてくれる。
 義父が世を去ってまもなく三年になる。存命だったら、聞きかじったこの話をしていたかもしれない。もう三年も経つのか。寂しさのタンパク質も、加齢とともに代謝が遅くなっているのだろうか。

 

 天声人語みたくなった …

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする