水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

選択(3)

2016年10月28日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「選択(3)」

 

 『行列のできる法律相談所』に出演していたムロツヨシ氏が、役者として本当に「食える」ようになったのは、2013年の朝ドラ『ごちそうさん』以降だと話していた。
 今や映画でもテレビでも、しょっちゅう見かける。みなさんには、それほど馴染みがないかもしれないが、NHKの「LIFE」や、「勇者ヨシヒコ」のメレブ役と言えば顔がうかぶだろうか。
 朝ドラで一気に俳優として名が知れるようになったのは36歳。
 東京理科大を一ヶ月で中退して役者を志して以来、実に18年間の下積み生活を送った。
 ムロ氏が夢をあきらめなかったのは、アルバイトで知り合った人の言葉だったという。
 大学をやめて劇団の養成所に入り、魚市場でアルバイトをはじめた。
 あるお総菜屋さんに配達に行ったとき、「おまえ、腹減ってるだろ」と店主から声をかけられる。
 やせこけて青白い顔をしている若き日のムロを、見るに見かねて声をかけたと、後に店主は語っている。「これでも食え」とアジの天ぷらとおこわのパックを渡される。
 それから配達にいくたびに、店主は何かを食べさせてくれるようになった。
 役者を目指しているんですとムロが告げたとき、店主は険しい顔つきになってこう言う。
「甘えたたことを言ってるんじゃないぞ。そんなものになれるわけがない、やめておけ」
 そうして、配達にたびに食事をさせてもらいながら、「役者はやめろ、堅い仕事に就け」というお説教もルーティンになった。
 ムロは感謝しながらも、いつか見返してやる、名の売れた俳優になってやると思うようになる。
 このおやじさんへの「なにくそ!」という思いが、その後の十数年間にわたり、ムロのエネルギーになったという。
 今はお総菜屋さんをたたんだ店主が、インタビューを受けていた。朝ドラを見たとき、すぐにムロであると気づいたという。「たいしたもんだ、ほんとに役者になれて」と涙ぐんでいた。
 もちろん、ムロ氏のようにメジャーになれる人は、ほんの一握りだ。
 アルバイトをしながら芝居をし、月収は手取り10万、もう少しシフトを入れたいが、すると稽古の時間が足りなくなる … みたいな暮らしをいつまで続くのかと葛藤しながら生きる。
 小さな劇団の公演に足を運ぶと、それなりに働き盛りの年齢の方も舞台に立っている。
 何年も下積みをした結果、あきらめて他の正業に就く、故郷に帰るといった選択をする場合が、現実としてはほとんだ。
 そうして途中で夢をあきらめたなら、彼らの人生は失敗だろうか。
 「あきらめる」ではなく「夢と自分との折り合いの付け方」と言った方がいいかもしれないが、それにはいくつかのパターンが考えられる。
  a 最初から夢を追わない
  b ちょっとやってみてから諦める
  c 期限を決めてやってみる
  d とにかくやるだけやってみる
  e 何があっても諦めずに追い求め続ける

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新テスト(2)

2016年10月22日 | 大学入試

 

 大分前の記事だが、新共通テストの最終報告案をまとめた専門家会議の座長を務められた方のインタビューがリンクされていたのを読んだ。
 最初から最後まで、どの言葉をとりあげても反論したい(笑)お言葉ばかりだった。
 たとえば、こんな一節。


 ~ 「採点の公平性が保たれるのか」という指摘がありますが、そもそも大学入試を受けるまでの段階で公平なのか考えてほしいと思います。家庭の所得格差が学歴格差の要因になっている。トップレベルの大学の入学者には高所得層の家庭の子どもが多いという状況もあります。そうした中で、新テストの記述式問題の採点部分だけを取り出して公平性を問うのは違和感を覚えます。機会均等の面から入学者選抜や評価に関する公平性をとらえる必要があります。 ~


 大丈夫でしょうか? このおじいさん。
 そもそも今の教育は不公平なものなのだから、大学入試の公平性が保たれなくてもかまわない、と。
 本気か?
 「家庭の所得格差が学歴格差の要因になっている」面があることは、誰もがわかっている。
 お金がないから教育が受けられない状況をつくらないにしようとするのが近代国家の使命だ。
 貧しくても、学問を積むことで人生を変えれる(変えられるだっけ?)世の中を、みんなでつくろうとしてきたはずだ。なんか大きな話になってしまったけど。
 でも日本もそういう国を目指してきて、ボロい着物きてても、青っぱな垂らしてても、試験で点数さえとれれば東大に入れる社会を作ったのだ。
 たしかに、現状は変化している。だからといって「高所得者層の家庭の子どもが多い」のだから、採点の不公平性もしょうがないと言うのはおかしい。そもそも全く次元のちがう話だ。
 慶應義塾の塾長まで務められた方が、なにゆえこの程度の粗雑な思考力しか持ち合わせていらっしゃらないのうだろう。
 むしろ、大学入試をめぐる環境の公平性が揺らいでいるからこそ、試験の採点ぐらい公平にしてあげるべきでしょ。貧しくでも、見た目が暗くても、自己主張ができないタイプでも、勉強して点数とれたら大学に入れる試験を大人が作ろうとしなかったら、若者たちはますます努力に意味を見いださなくなる。

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新テスト

2016年10月20日 | 大学入試

 

 ~ 現行の大学入試センター試験に代えて2020年度に始める新テストについて、文部科学省はセンター試験と同じ1月に実施し、新たに導入する記述式問題の採点を受験生が出願した各大学に依頼する方針を固めた。マークシート式の採点は従来通り大学入試センターが担う。文科省は11月4日にある国立大学協会の総会で説明する方向で調整している。(「毎日新聞」10月18日)~


 「男祭り」関係者の飲み会の場には、高度な音楽的研鑽を積んだ方々ばかりいらっしゃって、ときどき話題についていけなくなりそうになる。でも随分人間的に成長した自分は「それって、どういうものですか?」と素直に訊けるようになり、そういう場で仕入れるものの大きさと言ったら、ちょっと比較対象がみつからない。
 習いにいったり、本を読んだりして得られるものとは別種のものだ。そうか、吹奏楽部顧問になっている本校OBも今度誘ってあげよう。あのメンツの濃さに耐えうるメンタルで来てもらわないといけないが。
 「吹奏楽部顧問基礎」という科目が仮にあって、センター試験が実施されたなら、今だったら少しは点数とれるだろう。楽典ばかりだときびしいけど、演奏会のMCの技や保護者懇親会を盛り上げる方法とかも出題されたら、そこそこいけるはずだ。
 国語だったら、満点の自信はないけど、まあまあとれるかな。なんなら選択肢のダメだししてあげたい。
 どんな分野でも、センター試験一科目分に匹敵するくらいの勉強を積んだなら、基礎的なことは大体理解できたというレベルになるのではないだろうか。
 逆にいうと、その程度の知識はインプットしないと、何事も脳内でひとつのイメージにならない。
 センター試験にかわる共通試験が模索されている理由の一つに、今の試験に対する「知識偏重の一点刻み」という批判がある。
 でも、どうだろう。「偏重」というほどの膨大な情報量はあるだろうか。
 英語が一番わかりやすいけもしれないけど、「グローバル化社会に対応する人間づくり」とか言うんだったら、高校生全員がもっと点数をとれるようにした方がいい。センターレベルの読み書きがほどほどのまま、「話す・聴く」力をつけさせようと言ったところで限界がある。
 かりにも大学で専門的な学問に触れようという思いをもつ高校生に、センター試験程度の基礎知識を課すことがなぜだめなのだろう。
 部分的に記述にして、それに伴う採点業務やら、自己採点ができなくなることを思えば、今のままの方がベストとは言わないが、十分役割は果たすのでないか。
 大学の先生方がいやいや行う記述答案の採点が、機械で行うそれよりも公平で正確な結果になることは、現場の一教員としてはなかなか想定しにくい。
 また、いま記述問題の例としてあげられている問題をみるかぎり、こんなのマーク式でつくれんじゃん、とも思う。
  … という一高校教員の懸念が世の中に影響を及ぼすことはないとは思うが、この先きっと大学側の異論がいくつか出ることになると思うので、それを待ってみたい。

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選択(2)

2016年10月18日 | 学年だよりなど

 

  学年だより 選択(2)


 大学生の就職活動がリアルに描かれている映画『何者』を観ながら、みなさんが一年後に迎える大学入試と重なる話が実に多いと感じた。


 ~ 就活がつらいものだと言われる理由は、ふたつあるように思う。ひとつはもちろん、試験に落ち続けること。単純に、誰かから拒絶される体験を何度も繰り返すというのは、つらい。そしてもうひとつは、そんなにたいしたものではない自分を、たいしたもののように話し続けなくてはならないことだ。 (朝井リョウ『何者』新潮文庫) ~


 来年の今頃、AOや推薦入試の受験に向けて、志望理由書、自己推薦書を書いている人もいることだろう。そして、ふと立ち止まる。自分は「何者」なのだろうと。しかし、与えられた行数を埋めなければならないので、懸命に自分のしてきたことをふりかえり、ちょっとしたことを、大きな経験をしたかのように書いていかなければならない(コツは来年教えます)。
 もうひとつは、「自分のやりたいこと」なるものが、現実の社会を前にしたときに、その存在があまりに脆いことがあからさまになることだ。
 こんな仕事につきたい、こんな業界に入りたい、この会社に入りたい … という思いは学生それぞれにある。
 しかし現実には、エントリーシートを書いて、筆記試験を受けて、面接の連絡をもらって、という一連の流れのなかで、たまたま内定をもらった会社に就職することになる。
 自分の希望がどうあれ、内定をもらえないことには、その会社ではたらくことはできない。
 希望にこだわって就活していると、面接にさえ進めないという事態も普通にある。
 文系の人は、高校2年の現時点で漠然と希望している職種や企業がかりにあったとしても、四年後、五年後にその望みがかなう例は、ほとんどないのが現実だと思っていた方がよい。
 希望に近づきたいという思いがあるなら、結局いつも話している身も蓋もない話になるが、少しでも入るのが難しい大学に入った方がいい。
 そしてそれ以上に大事なのが、就職活動に臨むまでに、何をしてすごしたかだ。
 『何者』の登場人物たちが通う大学は、都内の有名私立大学がモデルになっている。作者朝井リョウ氏の母校早稲田大学のイメージもあるし、キャンパスの設定で最も近いのは青山学院大学だろうか。ともに「入るのが難しい大学」ではあるが、その肩書きで内定がもらえるほど甘くないことは映画(小説)からもわかるし、それが現実だ。
 どんな人間なのか、何をしてきたか――大学に入って2年や3年で、実質的な何かを生み出せるものではないが、何ごとかをなそうとして生活していたかどうかが、その人の人間性に表れる。
 だからこそ、職業よりも自分にあった大学、学部・学科選びの方が大切なのだ。

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選択

2016年10月18日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「選択」


~ 男は人生に疲れていた。
 人生にみじめさを感じていた。
 今日という日が自分の誕生日であることを
 この世の中のだれも知らないという
 むなしさを味わっていた。

 そして、この誕生日に
 バースデーケーキのひとつも買えず、
 満足な食事にもありつけない、
 自分の人生を悲観していた。

 あと数分で自分の誕生日が
 すぎようとしたとき、男は考えた。
「せめて、ロウソクに火を灯し、
 自分の誕生日を祝ってやろう」

 男は、白いお皿の上に
 ロウソクを自分の年の数だけ並べていった。
 その後、男は疲れと空腹の中、
 深い眠りに落ち、不思議な夢を見た。
 男の前にロウソクに火をつけてくれる人が
 次々と現れて、男に話しかける夢だ。

 誕生日、おめでとう。
 私も何も買えない貧乏暮らしです。
 でも、このノートに書いた詩と曲で、
 世界一のバンドになってみせます
 ――ポール・マッカートニー

  お誕生日、おめでとう。
 私も生活保護を受け、苦しい毎日です。
 でも、この「ハリー・ポッター」という
 小説で、必ずベストセラー作家になります
 ――J・K・ローリング

 お誕生日、おめでとう。
 私も今はポケットにわずか37ドルしか
 入っていないわ。
 でも大丈夫。
 私は世界ナンバーワンのシンガーになるから
 ――マドンナ

 誕生日、おめでとう。
 俺も生活費がなく、大事なペットも
 手放したよ。
 俺もひとりばっちさ。
 でもきっと自分の映画で
 ハリウッドスターになってやるさ
 ――シルベスター・スタローン

 男は目を覚ますと、心に誓った。

「私の人生に必要なものは、
 お金ではなく夢なんだ。
 私は本当になりたい自分になろう」と。

 ロウソクの代わりに
 男のハートに情熱の炎が灯されていた。

「Happy Birthday!」

 あなたはひとりではない。
 あなたの人生は祝福されている。

(是久昌信『夢をかなえた38人の物語。断言する。情熱で人生は変えられる。』中経の文庫) ~


 現状でベストな選択をしても、それに伴う努力を怠った場合、期待された成果は生まれない。
 確信のない選択であっても、成功するまでやり続けたなら、それは正しい選択だったことになる。
 16番考えてみましたか?

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永い言い訳

2016年10月16日 | 演奏会・映画など

 

 人生って「言い訳」の積み重ねなんじゃないの。
「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と中学生に質問されて、答えられなかった評論家がいたというオバカな話が前にあった。
「うっせ、がきはだまって勉強しろ!」が正解なのだと自分的には思う。
「なぜ生きなければならないのか」は上記の問以上に難しいかもしれない。
 理由はいらない。理由はいらないんだけど、人はあれこれ言いたがる生き物であり、むしろその性質ゆえに人であるとも言えるので、あれこれ考えてしまうのだ。
 無理矢理考え出した理由を「言い訳」という。
 人は「言い訳」を積み重ねながら生きる。それが人生の本質だ。
 としたら、別にかっこつけなくていいし、筋が通ってなくてもいいし、人にとやかく言われないように気をつける必要もない … 。
 
 こんなふうに哲学的になってしまうほど、ずしっときた。
 そして作品として、これほど傷のない映画は今まで観たことがない。
 西川監督の師匠の是枝監督の、日本映画史に残る「海街diary」にしても、ここはどうだろうと思える箇所があった(当社比)。
 「永い言い訳」は風景の描写からストーリーの構成にいたるまで、一つとして破綻がない。それでいてオリジナリティーにもあふれているという神がかり的作品だ。
 素人がこんなに言葉をつくしても引かれるだけか。
 本木さんがかっこいい。シブがき隊時代などとは比べもののにならないくらい。やっぱり年とっても大丈夫だ。ふふっ。
 是枝組らしく、子役のお芝居がまたすごい。
 今年、これを観ないのは損ではないでしょうか。

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学校説明会

2016年10月15日 | 日々のあれこれ

 

 二回目の学校説明会、からの個別相談会。
 たくさんの中学生が保護者の方とともに来校してくださるのを見て、そのことだけでもこの生徒さんは恵まれたお子さんなのだと思う。
 仕事が忙しくて一緒に行けないという親御さんだっているだろうし、そもそも私立なんか行けっこないだろという方もある。お金は出すけど勝手にしなさいというご家庭もあるかもしれない。
 だいたい自分のころ、説明会なんてなかった。ま、成績の輪切りで行く高校が決まってて選びようのない田舎の、しかも何十年も前の話と比べてもしょうがないことではあるが。
 高校に行かせてもらえることに感謝の思いはあったと思う。だからといって、その気持ちに見合う努力をしたとは口が裂けても言えないけど、幼いころから大工の父の現場に出入りし、「身体が資本」の生活であることは実感していたから、お金はどこからかわいてくるものではないことは感じていた。いや、からだを動かして、お金を稼いで、その結果として家族がおまんま食っていくという感覚が普通だったからだろう。
 自分は口先で稼ぐ人間になってしまったが、忘れてはいけないと思う。

 ~ 「どんな子であれ、親がすべきは一つよ。人生は生きる価値があるってことを、自分の人生をもって教えるだけ」 (森絵都『みかづき』集英社) ~

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中学校訪問

2016年10月14日 | 日々のあれこれ

 

 来年度入試に向けての動きが一気に加速する秋。
 担当する中学校に、資料の配付やご挨拶に回る。営業ですね。
 何年同じところを回るので、少し雰囲気が変わったなとか、この学校はいつも合唱が上手だなとか(合唱コンクールの季節でもある)、よく挨拶してくれるなとか、変化を感じるときもある。
 十数年前に、学校での業者テスト廃禁止、偏差値による指導をひかえるという指導が入って以降、中学校の先生方もいろいろと苦労されていたようだが、このごろは「偏差値を口にできない」的な風潮はなくなってきているようだ。
 進路指導のイニシアチブが塾一辺倒になったことへの反省もあるだろうし、実態とかけ離れた理想論にだけ従っているのでは結局生徒たちに負担をしいるだけと気づいた関係者も多いからだろう。
 今年感じた一番の変化はそれだ。
 偏差値の問題は、通知表の評価の問題とも関わる。
 中学校の学校での成績は、内申点という形で合否判定の重要な資料となるが、学校によってかなり大きな差があると感じられるこの数字が、県立高校の入試では比重が大きすぎないかと思うことはある。
 「絶対評価」は、その理念に従って正しく評価されるのならば、相対評価よりも正しくその人物を反映するものだろう。
 ただ、設けられている評価の観点が、主観が入らざるをえないものである以上、みんなが納得する形にするのは難しい。もし自分がいま中学生だったら、「意欲・関心」の点を上手にとりにいく自信はあるが、やりすぎて自己嫌悪に陥ることもあるかもしれない。
 アピールの得意不得意はある。そこで評価されるのが社会だと言ってしまうのは簡単だが、入試に大きく影響させるのは酷だ。就活ならしかたないが。
 という自分のような考え方は、たぶん世の中的にはマイノリティになりつつあるのかもしれない。
 大学入試でさえ、学問する基礎力より、人間性を重視するという流れなのだから。
 自己アピールが苦手な「まじめ」な子は、ぜひ本校にきてほしいものだ。
 
 
 ~ 「今、私、すっごいジェネレーションギャップを感じました。やっぱ、上田さんて世代がちがいますよね」
 四つしかちがわない阿里の言葉に一郎はきょとんとした。
「なんで」
「私が中三のときでしたけど、それまで相対評価だった内申書の評点が、絶対評価に変わったんですよ。例のあの文科省が唱えている『生きる力』とかなんとかの延長線上なんですど」
「へえ」
「へえってのんきに言いますけど、絶対評価って、早い話が、主観ですよね。入試の選抜資料になる内申点だから、極端な話、担任に嫌われたら高校受験で不利に働く怖さもあるんです。それって、ものすっごいストレスなわけですよ」
「なるほど」
「あれからいやあムードが広がって、いい子を演じなきゃってプレッシャーがかかってきたっていうのかな。みんなの輪から外れちゃいけない、空気を読まなきゃいけない、みたいな流れが加速したのも … 」  (森絵都『みかづき』集英社) ~

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「こころ」の受身

2016年10月13日 | 国語のお勉強(小説)

 

 漱石「こころ」の教科書に載っている部分は、「私(先生)」の遺書である。
 晩年(といっても、三十代の終わりだけど)出会った若者に、自分が学生の頃にこんな過ちを犯した、その罪の意識をずっと持ち続けていると延々書き綴っている。
 その文章は、受身表現の連続だ。
 友人のKが「私」にお嬢さんへの恋心を打ち明けた場面。
 そのときの驚きを、「私」はこう書く。


~ 私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。

  すぐしまったと思いました。先を越されたなと思いました。

  私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念にたえずかき乱されていましたから、

  私の頭は悔恨に揺られてぐらぐらしました。

  そのうち私の頭はだんだんこの静かさにかき乱されるようになってきました。

  私は永久彼に祟られたのではなかろうかという気さえしました。 ~


 仮に「道ならぬ恋」におちたとしよう。
 主語は自分でもあなたでも彼女でもいい。川谷さんでも橋之助さんでもいい。
 それを非難されて、涙ながらにこう語ったとする。


  彼女の魅力に心を奪われてしまったのです。
  彼の魔法棒のために心がかためられてしまいました。
  もちろん悔恨に揺られてぐらぐらしました。
  ある意味、彼女に祟られたようなものなのです …


 一瞬、そっか、それじゃしょうがないかな、悪いのは君じゃなく彼女の魅力なのかもしれないね … って思いかけるかもしれないけど、ちょっと待てい!、自分のせいやないかい! と言わざるを得なくなる。
 受身表現とは、かくも巧妙に自分の責任性を減じさせるはたらきをもつ。
 と考えると、「こころ」の「私(先生)」は、罪の意識を持ち続けていると言いながら、それがどこまで本当のものなのかという問題が生まれる。
 Kの自殺を、「私に裏切られて落ち込んだから」と短絡的に読む生徒さんはさすがに少ないが、「私」については慎重にならないといけないだろう。

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森絵都『みかづき』

2016年10月12日 | おすすめの本・CD

 

 宇佐美寛先生の『論理的思考』(メヂカルフレンド社)には、論理的に読み書きできるようになるために読むべき本のリストがついている。
 千葉大学教育学部でご教鞭をとっていらっしゃったとき、学生に渡して「今期中にこの中から20冊読め」「買うお金がないとか言うなら酒やたばこをやめなさい、それが学生だ」と、指導されていたものだ。150冊ぐらいあったかな。
 若いころ、このリストはほぼ網羅した。amazonがない時代なので、見つからない本は神保町を探しまわった。懐かしいなぁ … 。
 宇佐美先生が今大学で教えられているなら、間違いなくこの『みかづき』はリストに入れられることだろう。
 宇佐美先生のような影響力はもたない自分だが、このブログを読んで「それなら」と思ってくださる方がもしいれば、ぜひともお薦めする。とくに教員志望の方には「must」だと主張したい。

 時は昭和36年。大島吾郎は小学校の用務員として働いていた。あるとき、勉強がわからないと愚痴る児童の面倒をみているうちに、放課後の用務員室は毎日そんな子が集まるようになる。吾朗には教える才能があった。「教える」というより、わかるようにさしむけると言った方がいいかもしれない。
 「消しゴムを使っちゃだめだよ」というような細かい指導の描写を読むと、わかってるなあ、森絵都さんと思ってしまう。

 そんな勉強部屋に、どうみても優等生の女の子が混じっていた。吾朗は不思議だった。実はその子は、母親から偵察しておいでという命を受けていたのだ。
 おっと、こんな調子で書いていくと試験の印刷ができなくなる。
 それで、その母親の千秋にスカウトされて学校をやめて一緒に塾を始める。そこからの数十年が描かれた作品だ。
 今でこそ、塾業界は教育界で確固たる地位を築いているが、当時は日陰の存在だった。今思えばそうだったと思う。
 しかし、高度成長期を経て、「受験戦争」とまでよばれる時代が生まれ、一産業として瞬くまに巨大産業になっていく。「たかが塾」「しょせん塾」ではなく、塾が受験のイニシアチブをとる時代になっているが、たしかにそれはここ十数年の話だ。

 塾産業の黎明期から今にいたる歴史は、なんかおれの人生と重なるんだなあと思いながら読みつづけた。昭和から平成への日本の教育史を展望する本としても、これほどいきいきとそれを読み取れる本は今までなかった。
 塾同士のせめぎあい、講師の引き抜き合戦といった企業としての争い、文部省の方針の展開に翻弄されたり、塾が子供の時間を奪っていると言われなき批判をされたりした様子、 20年前の「業者テスト問題」も生々しく扱われていた。
 悔しい思いを重ねながら苦難を乗り越えていく吾朗夫妻のがんばりは、私立高校に30年身を奉じている自分にも実感として伝わってくることが多く、涙を禁じ得なかった。
 もちろん、家族のなかにもいろいろある。吾朗の女性問題、考え方の違いから袂を分かつことになる夫婦、子ども達から孫達へと受けつがれていく物語。小説読んだああああ~っという久しぶりの感覚だった。

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