水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

よいお年を

2010年12月30日 | おすすめの本・CD

 最近読んだ本から。

 ~ 「昔、私のオバァさんが言ったヨ … 死にたい死にたい思テ死ぬほ人 … かわいそウ人。生きたい生きたい思テ死ぬの人 … 幸セ人 … ワカる?」
 人生に絶望しながら死んでいくのと、愛する人に思いを残しながら死んでいくのとどっちが幸せか。
 二ヶ月前の自分なら、人生に絶望しきって死ぬ方が未練を残しながら死ぬよりずっと楽でいいなどとうそぶいていただろう。
 いまなら生きるチャンスが与えられようものなら毎日を全力で生き、その上でアカネのために死ねと言われれば喜んで自分の命を差し出すだろう。
 人を愛するということはその人のために生きることであり、同時に死ねることだ。 
 それをアカネが教えてくれた。
 気づくのが遅すぎた。いや、遅くはない。少なくともそのことを死ぬ前に知ることができただけで、自分の人生には意味があったとヤスオは思えた。(齋藤智裕『KAGEROU』) ~

 なるほど。この世に未練を残して死んでいくのは、ほんとはかわいそうなことではないのだ。
 映画「ショーシャンクの空に」の、「とどのつまり人生は二つ、必死に死ぬか、必死に生きるか」というセリフにも通ずる境地。
 定演の脚本できましたと言って、この本をもってこられたら、けっこう直しは入れると思うけど、決してつまんなくはない。
 終わりの方のページに誤植があり刷り直す時間もなくシールを貼ったと聞いた箇所は発見した。ほんとにシール貼ってあった。
 それをとりあげて、またいろいろ悪口言う人がいたけど、ちゃんと読み進めてきたらあっておかしくない誤植で、むしろもとのままの方がいいと思ったくらいだ。
 次の作品もちょっと読んでみたい。ていうか、すでに3つくらい書き終わってないとプロとは言えない。
 これで2000万円って嘘でしょって思う人がいて、実際に自分もチャレンジしようかなと思う人も0.何%かはいて、ほんとにこのレベルの小説なら書いてしまえる人はいると思う。
 プロの作家になれるかどうかは、それを大量に書けるかどうかが第一で、水嶋くんも、来年三つも四つも書けたら、レベルは変わらなくたって、文句言われなくなるはずだ。


 ~ 私は批評活動とは、民主主義を成り立たせる根源だと考えています。 … 自由な批評ができない社会というのは不自由な社会です。(齋藤孝『人を動かす文章術』) ~

 このあと、「幸い日本は自由な社会です」と続くのだが、ほんとかなとちょっと思った。けっして自由がないと言いたいのではない。
 自分から自由を捨てようとしている人が多いのではないかなと思って。
 たくさんの人がいれば、いろんな意見があって当然だと思うし、それが認められるのが民主主義だということだ。
 民主主義という概念そのものが絶対善だとは思わないが、自由な批評はしたい。
 ここ数年をふりかえってみると、誰かが「なんとか!」というと、みんなが「そのとおりだ!」と言う世の中になってるんじゃないかなと感じる。
 メディアが「小沢さんが悪い」というと、みんなが「そうだ!」といい、「菅政権はだめだ!」と言うと、一晩で支持率が下がる。
 流行った音楽は嵐とAKBばっかり、みたいな。
 でも、ここ数年には限らないかな。


~ 結局、人づきあいって何なの? ということの根本は
 「自分は信頼できる人だということを相手に理解してもらうこと」
 に尽きると思います。(勝間和代『人生を10倍自由にするインターディペンデントな生き方実践ガイド』)

 この言葉のあと、信頼を得るための具体論が述べられてて、「小さな約束を守り続けること」という項目がある。
 新年からの部活で大事にしていきたい言葉だ。
 人に信頼される人になること、すること、これこそ学校の、部活の目標と言えるんじゃないかな。
 信頼できる人の物差しというのが自分の中にあって、それはいざという時に逃げる人か逃げない人かという基準だ。
 この人は信頼できそうだと思ってて、何かの拍子にちょっと逃げるそぶりを見てしまった時、小さくがっかりした経験がある。
 その逆もあるし。
 逃げることが立ち向かうことにつながることも現実にはあるけど(禅問答みたくなってきた)、やはり極力逃げない自分ではいたいと思う。


 みなさま、今年も駄文のおつきあいいただきありがとうございました。
 時折いただいたコメントもうれしゅうございました。
 来年もよろしければ、ご笑覧ください。
 よいお年を。

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カウントベイシーオーケストラ

2010年12月29日 | 演奏会・映画など
 年賀状を大方しあげ、今年一年のごほうびにブルーノートトーキョーでのカウントベイシーオーケストラに聞きに行く。
 なんだろ、一流のエンターテナー達の紡ぎ出す空気なのかな。もう好きにしてくださいと言いたくなる陶酔感。若い人には費用はかかるけど、演目を見極めてジャズクラブに行ったら、勝負デートとしてこれほど力を発揮するものはないのではないか。こんどは誰か誘ってくれないかな。すぐにおちる自信ある。
 でも現場に来てみてよかった。やはりDVDでの伝わり方とはちがう。ズージャとかけっこは黒人にはかないません。体感できたこのテイストを、「ウイークエンドインニューヨーク」や定演の曲に盛り込んでいこう。
 帰りがけ、ロビーでメンバーの方々が見送りしてくれる。林家しん平師匠みたいなサックスの方が間近だとすごい巨体だった。ピアノの方に接近できたので「グッジョブ」って言おうと思ったけど、グッジョブじゃ弱いかな「ファンタスティック!」って言おうかと考え直したが、生涯使ったことのない単語をいきなり使ってかんではいけないと思い、「おつかれさまでした!」と心をこめて声をかけたらにこっと微笑んでもらえた。ワールドカップに駒野選手に声をかけたパラグアイの選手のように気持ちは伝わったはずだ。
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部活終了

2010年12月28日 | 日々のあれこれ
 全国大会のDVDを鑑賞してから大掃除。ひさしぶりの楽器庫大掃除で、お宝も見つかったようだ。最後の集合のとき、2年N君に「休みの間にすべきことは何だ」と訪ねると「宿題」と答えるので「他には」とさらに聞くと考え込んで何も言えない。宿題は最低限の勉強だから、そのうえに自分の勉強やらないと受験生になれないよ、と話す。とくに2年はうかうかしてるとすぐに3年になってしまい、急にあわてはじめて部活と両立できないんじゃないかと思いはじめてしまう部員が毎年でる。いまのうちから先々を見据えて、両方やりきるんだという覚悟を決めなさい、覚悟って自分で決めるしかないんだよ、と話す。言いながら「自分は覚悟できてるかな、どっかで逃げてないかな」という念がおこってきたが、隠しきる。無事年内の部活は終了した。
 昼過ぎに郷里の弟からいつ帰省するかとメールが来たので、これから出張で羽田に向かうと返信しようとして、なんかかこよくね? と思った。決して羽田から飛び立つのではなく、修学旅行の集合場所を確認しにいくのだ。新河岸から電車に乗ったら有楽町線が来たので、そのまま延々有楽町まで行くことにし、安心して爆睡したら身体のふしぶしがいたくなるくらい寝られ、合宿疲労はすっかりとれた。浜松町からモノレールはたまにしか乗らないせいか外の気色が楽しい。JALのロビーで旅行会社の方と待ち合わせして、月の塔付近から出発ロビーの導線を確認する。久しぶりの羽田空港は、少しきれいになっている。年末にしてはえらく人が少なかった。
 ANAの方に移動。ANA側の集合場所が心配だったのだが、当初と考えていたのとは別の場所で実に適当なスペースがあってよかった。増築されたビルもオープンになっていて、人も多い。これが今のJALとANAの現実なのかなと思ってしまったが、適当だっただろうか。
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冬期合宿

2010年12月26日 | 日々のあれこれ
 昨日合宿入りし、今日の午後は校内アンサンブル発表会。
 今年もたくさんの保護者の方におこしいただけた。
 ありがとうございました。
 曲のできぐあいはチームによっていろいろで、それはここ二三日がんばってどうこうなるものではない。
 でもなんとか音楽にしようという気持ちは伝わる演奏だったのではないか。
 そして、アンコンに出場した2チームは、クオリティをさらにあげた上で、のびのび演奏してくれたので圧巻だった。
 客観的には東上線のやっと各駅停車かなという演奏でも、なぜか心をうつものもある。
 土台をつくり、できることからやっていかねばと思う。
 保護者の方をお見送りした後、合奏。
 夕食後、さらに少し合奏し、その後は恒例の球技大会。
 さすが元運動部という動きを見せる部員もいれば、文化部と出会えてよかったねと言ってあげたい子も多い。
 年内の練習も、あと明日と明後日の二日になった
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新幹線

2010年12月24日 | 日々のあれこれ
 新宿に出かけた帰りは、新宿三丁目から副都心線に乗ってしまうことが多い。新宿・池袋という2大ターミナル駅の雑踏をさけることができるので。
 駅の雑踏はたぶん嫌いではないのだが、どうも年々人々の歩くスピードが遅くなっているような気がするのは自分だけだろうか。なんかペースがつかめないから。
 「ばかもの」の夜の帰り、池袋を過ぎてから電車が何回か停止信号で停まった。「前を走ってる電車が遅れております。この先も徐行運転、停止があるかもしれません。お急ぎのところおそれいります。」という放送が入った。
 その時「たいした本数走ってないんだから、さくさく行こうぜ」と思ってしまった。東上線より新幹線の方が本数走っているんじゃねえの的な。
 時速300㎞で走る電車をつくることは、多くの国で可能になったが、その電車を4分おきに運行させられるのは日本だけだ。
 東海度新幹線の本数の多い時間帯は、ずっと前の方に、一本前ののぞみの姿が見える状態になるという。それが300㎞近いスピードで走っている。
 もちろん、車間距離がつまってくればATM(なんかちがう?)とかが働くだろうから、手動で調整しなければならない東上線の方が逆にそれが難しいのかもしれないとも思う。
 で、ふと東上線と東海道新幹線のちがいなのかなと思った。
 たとえば栄高校さんとうちとでは。
 勉強でいえば、開成高校さんとうちとでは。
 どちらを運転する人も、車間をとりながら普通に運転しているのだが、そのスピードは全然ちがう。車内の感覚は、新幹線車内の方が意外とそのスピードを意識しないかもしれない。
 でも、単位時間で進んでいる距離は圧倒的に異なる。
 それが「あたりまえがちがう」ということなのかなと思う。
 今日のバンドレッスンでも、譜面をもらってからどう過ごしてきたかの根本が問題だというお話をいただき、まったくその通りだと思った。
 毎日見ている身からすると、「この子はこんなにがんばっている」とか「このへんでかんべんしないとな」という線をひいてしまうこともあって、もちろんそうう目も必要なのだろうが、外部には通用しない面は、はっきりそう指導しないといけないのかなと思う。
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ばかもの

2010年12月23日 | 演奏会・映画など

 昨日、東京吹奏楽団の演奏会に行かせてもらおうかと思ったが、荻窪19:00にはちょっと間に合わないかなと思い、新宿で「ばかもの」を鑑賞した。
 絲山秋子さんの原作はすごいおもしろかった記憶があるので。
 帰りの電車で読んでた日垣隆氏の一節はタイムリーなお言葉だ。

 ~ 恋愛時にはドーパミンという神経伝達物質が深く関与しており、もともとドーパミンは執拗さや中毒や依存の活性因子なのである。したがって「恋愛中毒」や「恋愛依存」という表現は同義反復とならざるを得ない。恋愛は中毒そのものなのである。中毒でない恋愛はない。だからと言って恋愛を悪とは決めつけられない。(日垣隆『こう考えれば、うまくいく。』) ~。

 恋愛状態とは、特定の対象者に、この人がいないと自分の存在そのものの意味まであやしくなってくると思ってしまう状態だから、まさしく中毒そのものだ。
 そういう状態の自分が他人からどう見られているか、などという客観的な目はもてなくなるのも含めて、まさしく依存「症」といえる。
 「症」なので治癒されることもあり、ていうか恋愛はふつうは治療しなくても時の流れとともに自然治癒するのが普通で、その後どうなるかについては、さだまさし「恋愛症候群」にあるとおり、なんでもなくなるか、一段高い愛のレベルに進むかという方向性の二つ。
 結婚相手としてこの人は自分にふさわしいだろうか、という問いを行う状態に入ると、もはや恋愛とはいえない。
 一方的な恋愛状態は、その対象者がまったく相手にしてくれない場合とか、相手がいなくなってしまう場合に、危険な禁断症状を呈することになる。
 「ばかもの」の主人公ヒデくんは、学生時代に年上の額子と知り合い、肉体関係を結んだあとは二人の世界にのめりこむようになる。
 しかし、ある日突然結婚を理由に額子は去っていく。
 依存の対象を失ったヒデくんは、だんだんと酒におぼれるようになり、依存症となっていく。
 友人と喫茶店で話すときに、コーヒーではなくビール瓶がおいてあるのは自然なのだが、それが依存状態だとすると、ちょっと気をつけないかなと思った。お正月も朝から飲むのはやめようっと。
 ヒデくんの友人の女子大生を中村ゆりさんという女優さんが魅力的に演じている。
 ヒデくんの在籍する大学に似合わない明晰な頭脳をもち、株の売買でお金を貯めて大学を中退していくのだが、新興宗教の世界に入っていき、最後はその教壇内のリンチにあい短い生涯を閉じる。
 ヒデくんが額子とわかれた後に知り合った女性は中学校の先生。ヒデくんとの結婚を夢見ながら、酒におぼれていくヒデくんをなんとか自分のもとにとどめておこうとする。
 アル中とよばれるような人を見かけたなら、ふつうは眉をひそめ、なるべく関わらないようにするのが一般的な態度だろう。
 でも、ふと思うのは、何にも依存しなくて生きている人っているかな。
 その対象が仕事だったり、世間から価値を認められているものであったりすれば、誰も文句を言わないだけで、依存していることは同じだとはいえないか。
 依存の内容に、酒、ギャンブル、お金、宗教、恋愛、仕事、部活、政治、思想、家族、子供、結婚、社会的地位といろいろあるだけなのではないだろうか。
 むしろ依存できるものがあれば幸せという言い方もできるとさえ思う。
 映画は「ノルウェイの森」よりも、ずっと素敵な作品でした。R15が適当と思います。

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ふがいない僕は空を見た

2010年12月20日 | おすすめの本・CD

 本校は早々と終業式が行われ、1・2年生はあとは部活。三年はセンター演習が年末まで行われる。
 こんどの日曜に実施するアンサンブル発表に向けての中間発表をしてもらったが、なかなかきびしい状況だ。
 明日から、合奏曲、アンサンブルともにがっつりつめていかねば。
 
 年末なので、今年読んだ本をふりかえってベスト10を発表させていただきます。
 読んだ時期順です。最近読んだばかりの『ふがいない~』は、とんでもなくインパクトあったが、完全なR18なので、詳しく紹介するかどうか迷っているところ。では。
  伊吹有喜『49日のレシピ』
  百田尚樹『影法師』
  村上春樹『1Q84book3』
  誉田哲也『武士道エイティーン』
  原田マハ『キネマの神様』
  貴志祐介『悪の教典』
  宮部みゆき『木暮写真館』
  盛田隆二『二人静』
  本多孝好『at HOME』
  窪美澄『ふがいない僕は空を見た』

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12月19日

2010年12月19日 | 日々のあれこれ
 自主練日だが、けっこうなメンバーがアンサンブルの練習に来ていた。
 明日配布する漢文プリントを印刷し、庄和高校さんに向けて学校を出る。
 参加する先生方の都合にあわせて、今日は庄和高校さんに場所をかえての指揮法レッスン日。
 先生におねがいし、通常のレッスンではなく、「シャンソン」の振り方をご教示いただいた。
 こまった時は専門家に習う。
 すべての物事に通じる原則で、理論的にも経済的にもそれがもっとも効率がいい。
 何より心の支えになる。
 なんとか光が見いだせたので、それ形にしていくことと、指揮をみてもらえる状態をつくることを平行してやっていこうと心に決める。
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パケホーダイダブル

2010年12月18日 | 日々のあれこれ

 1・2年の講習は昨日でうちあげて、今日は朝から練習。 
 学校説明会の準備をして「16世紀のシャンソン」の練習。
 楽譜通りの音符をならすのはそんなに苦労しないが、その後の音楽作りが大変だ、だからこそやろう、というコンセプトではじめた曲だが、楽譜通りに音符がならばない。
 ますます、やりがいがあると思う。
 午後はアンサンブルの練習。
 こちらは個別相談で、しゃべくり大会。
 川東に入りたい、でも成績がもう一つなので … という方も見えられたので、つい勉強のやり方などを熱弁してしまう。
 前回よりは早めに終了し、職員室にもどると、「携帯の使用料金が2万数千円になっている、iモードを何に使ったのか」という叱責のメールが家からとどいている。
 いや、iモードって使うとお金かかるんだっけ? と返信すると、あたりまえだ、いますぐパケホーダイに変更しなさいとの指令がくだった。
 携帯を契約したときは、iモードなんてメールしか使わないのでと言ったので、なんちゃらホーダイの契約ではなかったのだ。
 先月、iモードというのを用いると、ネットにつながることを発見した。
 携帯で部誌を読むこともできるのだ。みなさんはご存じだろうか。
 映画の時間もスポーツの結果も出勤表も海老蔵さんニュースもケータイで見られるのだ。しかし、それで一気に万の請求をするのは、どこかおかしいのではないだろうか。パケットなどという単位が大体うさんくさい。
 指令にしたがってdocomoのセンターに電話すると、簡単に契約を変更してくれる。
 しかも、先月分からそれを適用してもいいというので、それをお願いし、いったん請求された額はもどってくることになった。
 むこうにもやましいところがあるのは見え見えだ。

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田舎の紳士服店のモデルの妻

2010年12月17日 | おすすめの本・CD

 今年度の全国体力テストでは、小中学生、男女ともに福井県が全国一位だったという。
 それをささえる生活習慣の面では、①テレビを見る時間が短い、②朝食を毎日食べる子が多い、③地域の運動に関する行事に参加する割合が高いなどが特徴的であったと報告されている。
 地元民なら①の理由はすぐに思い浮かぶ。
 福井は放映される民放局が少ないからだ。
 今でこそケーブルテレビでいろんなチャンネルを見られるようになったが、ちゃんとしたチャンネルは今もたしか福井テレビ、福井放送の2局だけのはずだ。
 昔はほんとに2つしか入らなかったから、「金八先生」も、「ザベスト10」も視聴できなかった。
 大学で金沢に住んでからTBS系の番組もふつうに観られるようになり、就職してからはすべての民放を見られるよろこびに、毎日夜更かししてた。
 朝食を食べる習慣。なんやかんや言っても、福井のコシヒカリはおいしいからね。③も、遊ぶところと言えば「芝政」と「恐竜博物館」ぐらいしかないから、地域の運動会が住民の一大イベントとなる。
 福井出身の作家、宮下奈都さんの新作『田舎の紳士服店のモデルの妻』は、東京で知り合って結婚した若い夫婦の話で、夫が身体を病み、郷里に帰るところから始まる。

 ~ 「そうだった、そうだった」
 達郎がうれしそうに言う。
「ここの運動会は昔っからお祭りだったなあ」
 そうして、通りすがりの顔見知りと挨拶を交わして歩く。小学校区の運動会だから、もともとこの地区出身の達郎には昔なじみが多いようだった。
「帰ってきてたんけ」
「ほな飲もっさ」
「今日何出るんや」
 昔の同級生だろうか、幾人もの男たちから声をかけられる。 ~

 笑っている夫を見て、梨々子はほっとする。
 その一方で、自分の人生はどうなるのかとの思いが心をよぎるのを打ち消すことはできない。
 東京の郊外に生まれ育ち、大手の企業に就職して、達郎と知り合った。
 そのとき、会社で一番輝いていた達郎とつきあうところまでこぎつけ、2年後「北陸で一番目立たない県の県庁所在地」にある、達郎の実家にあいさつに出向いた。
 そのときは、まさか自分はここで暮らすことになろうとは思ってもいなかった。
 田舎に引っ越した年、2年後、4年後と、2年おきに家族の様子を描いた、五つの連作短編集だが、梨々子がどんなふうに変化していくか。
 自分の居場所はここなのか、自分の人生はこれなのか、という思いを持ち続け、一方で娑婆の様々な現実を生きていくうちに、腹がすわってくる梨々子の人生が見えてくる。
 そういえば、「こっちの子は、勉強も体力も全国のトップクラスらしいから」「あらいいじゃない、塾とか行かせなくてもお勉強できるようになるなら」と、東京の母と梨々子が会話するシーンがあって、やはり福井が舞台なんだと思った。

 宮下奈都さんの『スコーレ№4』という作品にこんなシーンがある。

 ~ 真由は渡り廊下の隣の花壇のところでグラウンドを眺めている。近づくと、興奮気味に目を大きく開いて振り向き、大げさに手招きをする。鞄を持っていないほうの私の腕をつかむ。かすかにライムのコロンが香る。あの人、と真由が小さく指した先にはサッカー部の一団がいる。
「グラウンドのほう向いてる、今ボール蹴ろうとした人」
 体操服の、似たような男子が何人もグラウンドの縁にいる。グラウンドのほうを向いている人とこちらを向いている人は入り交じってしじゅう動いており、白いボールが彼らの中を飛び交って、まぶしい。どれが誰だか見分けがつかない。
「ほら、今、歩いていって、きゃっ、こっち向いたっ」
 真由はどんっと私の背中に体当たりするようにぶつかる。きっと恥ずかしさのあまり身を隠したつもりなのだ。私はぶつかられた拍子によろめいて前に押し出される。顔を上げたとき、ちょうど笛が鳴り、一団がグラウンドの中程へ走って出ていくところだった。
 風が止まった。野球部の掛け声が消えた。どうしてだろう、と私は思っている。どうしてわかったんだろう。真由が指した相手がどの子だったのか。「今、歩いていって、こっち向いた」のは、他の子とは見間違えようのない子だった。たとえば目立つとか、たとえばかっこいいとか、たとえばドリブルがうまいとか、そういうことじゃない。ただ、彼がわかった。私はびっくりした。あれが真由の中原くんか。
 黙って立っているしかなかった。声の出し方を思い出せなかったから。私の背中につかまっていた真由が横にまわり込んできて、背伸びをし、グラウンドの中程を見やりながら弾んだ声で言った。
「ね、見えた? 中原くん、かっこいいでしょ」
「見えなかった」
 私は自転車置き場のほうへ歩き出した。 ~

 恋に落ちる瞬間を描いたシーンとして、あまりに上手だと思い、その年東高に入試問題でも使わせてもらった。
 今回も上手だなあと感じるシーンがたくさんあったけど、最後らへんのここがいい。

 ~ 何年前になるだろう、何の前触れもなく多幸感に包まれたときのことがよみがえった。幼かった潤の手を引いて横断歩道を渡ろうとしていたとき、お腹の中で歩人が動いた。ふと目を上げると、道を走っていた車が横断歩道の両脇で静かに停まるところだった。春の日射しがさあっと道を照らした。やがて歩行者信号が変わり、その光の中へと潤と梨々子は踏み出した。緩やかな炭酸が足の裏から弾け出し、あたたかな太陽の粒子が潤と梨々子に注いでいた。圧倒的なしあわせを感じて涙が出そうだった。あの満ち足りた瞬間。不意に今自分はしあわせなのだと気づく、他に何もいらないと思える充実感。あれが、来る。今から来るのがわかる。じわじわとお腹から波がやってきている。私は何者でもなかったし、今でも何者でもない。何者かにならなくちゃいけないなんて、嘘だ。 ~

 「本の雑誌」に、この作品は「何者でもなくなる話」だと書いてあったが、まさにそのとおりだ。
 田舎暮らしを余儀なくされず、都会のまんなかで華やかに生きてように見える人も、最先端の分野で働いている人でも、お金持ちでも地位のある人でも、「これが自分?」という思いを持ち続ける人はいる。
 何者かになろうとして、何者かでありたいと思って、悪あがきをし続ける人もいる。「あがく」のはいいことだけど。
 だからといって、努力したその分だけ見返りがあるのが人生では全くない。
 「努力は裏切らない」と説くのはビジネス書だとしたら、そうじゃない人生もある、むしろそれが普通、と教えてくれるのが小説だ。
 誰も彼も、別に何者でもないし、何者でなくてもいい。
 何者かをめざし続けるのももちろんいい。
 「それが自分」と納得することが一番大事なのだろう。ただ、その境地に達するには、紆余曲折がいるのもまた事実だ。

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