水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

教員免許更新制度

2009年09月30日 | 日々のあれこれ
 教員免許更新制度は、「定期的に最新の知識技術を身に付ける」ことが主眼とされている。
 で、どのように実施されるかといえば、基本的には大学での集中講義で、更新に必要な講習を受けるという形をとる。
 つまり大学の先生のお話をうかがうわけだが、それによって「最新の知識技術」を教えていただけるとはとうてい思えないのだ。
 大学の先生は、10年どころか、いったん教授になってしまえば何の審査もなく過ごしていけるのだ。
 若い時に研究したネタを、何年も更新せずそのまま講義し続けて定年を迎える先生は、文系学部にはたくさんいらっしゃる。
 教育学部で講義をされる先生は、2、3年に一回は2週間でもいいから教育実習を経験され、それをご自分の研究にいかされたらいかがかと思う。
 教育の最前線に立っているのは、現場の教員だ。
 大学の授業で身につけた知識技術が、直接現場の指導に役立ったという経験をもつ教師はきわめて少ない。
 もちろん、だから教育学部での授業は意味がないとは言わない。
 若いうちに、浮世離れした教育論をたたかわせることも、肥やしになると思うから。
 教員になるために大学で何を学ぶか。
 わが身をふりかえってみれば、学生寮ですごした怠惰な暮らし、でも本は読んだこと、町にくりだして子どもだましではあるが、呑む、打つの経験、アルバイト、ひっくるめていえば、少しでも娑婆にふれることができたことだ。
 それとて、世間の側は、まあ学生さん相手だからと、ずいぶん手加減してくれた。
 もし、寮と大学の行き来だけで学生生活をおくり、まじめに大学での学問だけをやっていたなら、それは打たれ弱くなっただろう。
 実際、そんなふうにまじめにお勉強だけして教師になってしまう人が、今はたくさんいるようだ。
 それで海千山千の子どもたちをいきなり前にしたら、学級崩壊して当然だ。
 よほどの天才をのぞき、どの新卒教師の学級も崩壊する。
 で、そこから立ち直るのに必要なのが、他の先生の助けを借りる、本を読む、研究会にでかける、いざとなったら逃げる、時には立ち向かう、肚をくくる、といった力であり、これは倚子に座って講義を聴いていたのでは身につけにくい。
 てっとりばやいのは、TOSS(教育技術法則化運動)の門をたたくことだ。
 民主党が、教員免許更新制を廃止するというのは正しいと思う。
 いっぽう教員免許を取得するのに大学に6年通わないといけなくするというのは、教育学部か院でよけいに2年勉強させようとするのだったら、あんまり意味はない。
 2年間現場で修行してから免許を渡すという方が、実際的であろう。
 いっそ、自動車免許の更新のように、違反の有無によって更新の講習を変えたらどうだろう。
 体罰やセクハラで懲戒を受けた先生は、戸塚ヨットスクールレベルの講習をみっちり受けてもらう。
 とくに問題のなかった先生は、30分ビデオ観ておわり。
 試験問題にミスがあった、会議をむだに長引かせた、部活の試合で過去三年間一勝もしてない、生徒の質問に答えられなかった、親とのトラブルがあった … などで、6点引かれたら免停みたくすれば。
 すると、くりだすギャグがつまんなかったとか、保護者との懇親会で唄いすぎ、なども査定されることになると、けっこうあぶなくなってくるな。
 
 
  

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部内恋愛

2009年09月25日 | 日々のあれこれ
 バスで部員諸君を送っていくと、南古谷の交差点で楽しげに会話しながら駅に向かっていく、たぶん東邦音大の学生さんたち。
 男女交えて仲睦まじく見えて、ほほえましい。
 ふと、うしろの座席をうかがうと、これまた楽しげなのだが、オール男子である。
 いや、けっして自分がさびしいとかいうのではなく、共学だったら、こうやって居残り練習して駅に向かう夜のバスなんて、けっこううきうきするんじゃないかと思う。
 一方で、ほんとに共学校だったら、きっと部内の人間関係がかなり微妙なものになることもありえ、共学の先生方はそのあたりはどのように指導されているのだろうかと思いをはせたのである。
 部内恋愛は禁止と明確にうたっている学校さんもある。
 部員もそれを納得しているだろうが、しかし時に人は恋に落ちる(また書いたな)。
 異性が視界に入っていれば、人としてそれは当然だ。
 どうするんだろ。
 もし恋に落ちてしまった同士が、おたがいの気持ちに気づき、打ち明け、その関係を大事にしたいと思ったなら、部内恋愛禁止の足かせは、二人の思いをより強固なものにしていくものとして働くにちがいない。
 なんか、いいなあ、そう考えると。
 うちも部内恋愛禁止の方針を打ち立ててみようかな。
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オールドフレンズ

2009年09月23日 | おすすめの本・CD
 戦国時代、武将の娘と、一下級武士との恋は、道ならぬ恋であった。
 今は、身分ちがいの恋を「道ならぬ」と形容はしないのが建前だが、現実にはそれに近いことはいくらでもあり、ある財閥の跡取り息子が、たまたま知り合って恋に落ちた娘と結婚しようとしたら許してもらえなかったというような事例は、ドラマや小説の中だけの話ではない。
 道ならぬ恋と言えば、一般には不倫であったり、近親間のそれであったりするのだが、小説や映画で繰り返しテーマになり、またみんなが喜んで味わうのは、そこに共通して人の心をうつものがあるからだろう。
 普通の恋が、紆余曲折を経て成就していくプロセスは、わが身のことなら文句なくすばらしいことだし、自分と利害関係のない他人のそれを観たり聞いたりするのは、ほほえましく、そして祝福してあげたくなる。
 道ならぬ恋はどうか。
 わが身のことなら、純粋にその成就を望むわけにはいかない。
 たしかな恋愛感情だと意識せざるを得なくなる段階でなんとか食い止めようとするのが、一般的常識人の対応であろう。
 それでも人の心とはいかんともしがたく、恋愛感情は脳の誤解にほかならぬものであることは、茂木健一郎先生の言をまたずとも漠然と皆が(一定の年齢以上の人なら)自覚していながら、時に人は恋に落ちる。
 そして、「道ならぬ」要素こそが、実は人を恋に向かわせる重要なアイテムであることもうすうす気づいている。
  … なんて、何を述べているのだろう。
 決してこんな一般論を書きたかったわけではなく、まして何らかの言い訳ではないですから。
 浅倉拓弥『オールドフレンズ』(宝島社)を読んで、同性に恋をすることも、「道ならぬ恋」の一つとして、そのせつなさが迫ってきたからだ。
 荒んだ母子家庭で男勝りに育った「まこと」と、教師を両親にもち何不自由なく育ったお嬢さんの「はるか」とが出会ったのは小学校3年のとき。
 母親の逮捕をきっかけに、はるかの母はまことを家にひきとる。
 はるかに思いをよせるまこと、幼なじみの哲平はまことを追い求め、はるかは哲平を好きになるという三角関係を三人がだんだんと意識していく過程が、大人になった二人の視点から語られていく。
 語っているはるかは、母を喪い、それがきっかけで認知症になった父を介護しながら幼稚園に勤めているが、教え子の父親と不倫の関係を結んでしまう。
 3人の関係に堪えられずに、高校1年ではるかの家を飛び出したまことは、忌み嫌っていた自分の母と同じように男を渡り歩く暮らしを送ることになる。
 そんな二人が再び出会い、ほんとうに大切な人は身近にいるのかもしれない(去年の定演の二部みたいだ)と気づいていく愛と再生の物語。
 『四日間の奇蹟』に勝るとも劣らぬ名作だった。
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自由に生きる

2009年09月22日 | 演奏会・映画など
「姫、お願いがあります。自由に … 、生きてください」
 死を覚悟して出陣するとき、又兵衛(草なぎくん)が廉姫(新垣結衣)に言うことばだ。
「あたしも、お願いがある。生きて帰れ」と言うがっきぃのセリフは泣けた。
「自由」という言葉は、たぶん戦国時代にはない。
 かりにあったとしても、この時代の一人の武士が口にすることはないだろうし、ここで草なぎくんが口にしたような近代的な意味での「自由」は、福沢諭吉以降の使用法だ。
 なんて、国語の先生ぽいこと言ってみたりして。
 そういう違和感さえ気にしなければ、『BALLAD 名もなき恋のうた』は、『ALWAYS 三丁目の夕日』と同じくらい泣ける作品だった。
「姫、自由に生きてくだされ」
「自由? 自由とはなんじゃ」
「自らのお気持ちのままに生きるということです」
「わが心のままに … 。なら、言う。又兵衛、必ず生きて帰れ。それが廉の願いじゃ」
 ぐらいのセリフにしてくれれば、違和感なく泣けたなあ。
 ほかにも、もう少しうまくセリフをつくればと思えるところがあったけど、そんなことをしてたら、一本が4時間、5時間になってしまう。
 ここが映画の難しいところだ。
 映画にはかぎらないか。
 演奏会も、やりたいこと、やりたい曲を全部やってたら、4時間、5時間になってしまう(完成度は別にして)かもしれない。
 何をけずったかが大事で、けずったものの大きさも、たぶん観ている人には伝わる。
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2009年09月21日 | 日々のあれこれ
 もう今は減ったと思うけど、文章を書く力をつけるために「天声人語」を勉強しようという国語の先生はたくさんいた。
 書き写したり、要約したりせよというわけだ。
 中学3年のときに、書いた記憶がある。
 天声人語ではなく、なんだったっけなあ、福井新聞のコラム。
 たしか写すのが課題で、しばらくやっているうちにつまんなくなって、途中からは同じ長さのをそっくり文体で自分で書いて出していたら、先生によろこんでもらえた。

 就職後、作文や小論文の力をつけるために、新聞のコラム、社説を勉強しようという本をいくつか読んだ。
 たぶん、けっこうそういう話はあったのだろう。
 何人かの生徒さんから、要約したものを添削してほしいと請われ、内心めんどうくさいなあと思いながら、つきあっていた記憶がある。
 そして、なんでこんなにつまんないことをやるのだろうと、じわじわ思うようになった。

 今は、新聞のコラムや社説を読んだり、写したり、まとめたりしても、国語の力はつかないと、ほぼ断定できる。
 いや、主語と述語がねじれてない文章を書く練習にはなるかな。
 これだって、完全にできる人は少ないのだから。
 国語力の育成に役立たない理由は、漠然としか言えないが、「志」の低さがその根本にあると思うのだ。
 文章というのは、誰かに何かを伝えたい、伝えねばならない、伝えずにはいられないという思いで書くものだ。
 おれの存在を無にしてほしくないという切実な思いがそこにはあるはずで、へたくそな文でも、その思いの切実なものは読ませる力を持つ。
 切実さの足りない文章は、いくら流麗な文体でつづられていても、それがどうしたの? という思いを抱かせる。

 先日の天声人語で、呑んだあとのラーメンは旨い、という記事があった。
 呑めば呑むほど肝臓にいい薬ができるといい、ただし財布が許せばだが、と結んであったと記憶する。
 一面は、日本航空があぶない的な記事だった。
 日本を代表する航空会社の危機を報じる下で、「呑んだあとのラーメンは旨い」のギャップはどうなのだろう。
 別の欄でそういう話題を書いてもいいが、大朝日新聞の第一面にしては、あまりにも世の中の空気を読めてないのではないかと感じたのは、私だけだろうか。
 風刺の効いた一文できりっとまとめられているわけでもないのだ。
 財布の心配がなければ、いくらでも呑みたいと書くだけ。
 書いてらっしゃる論説委員の方は、少なく見積もっても年収1500万を下ることはないはずで(もっと上かな?)、リストラ、派遣切りの当事者から見たら、朝日の社員さんなんて、無尽蔵の財布をもってる方に見えると思う。

 夕刊の「素粒子」。
 ここの品性の低さも、前の法務大臣死神説のときに世間に知れ渡った。
 新大臣が各省庁であいさつした話題を受けて、「初日の新大臣ら、霞ヶ関のよどんだ流れに、意識改革求める」と書いた。
 で、「官僚に限らず、誰にも一つや二つはある固定観念という名の『心のダム』。その『放流』を政権交代は迫っているのかも」と続きを読んで、自分が書いたわけでもないのに赤面するのを感じた。
 なるほど、「よどんだ」と言ったから、「心のダム」とたとえて、「放流」ね。
 さらに言う。
「もちろん、ダムの決壊による大混乱は願い下げ。変化による痛みから生活を守る『堤防』も忘れないで。」
 堪忍して … 。

  
 
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東北線の旅

2009年09月20日 | 日々のあれこれ
 東関東大会一般の部のメニューを見てたら、どうしても聞きたくなったので、旅に出てきた。
 幸い、わたなべ先生が練習をみてくれる日だったし、会場の結城市は大宮から1時間もかからずに行ける場所であった。
 茨城県にこんな簡単に行けるとは。
 大宮からラビットに乗って、小山へ。
 途中、蓮田、白岡、久喜と通り過ぎていく駅を見て、車で行くのとはちがい、なんて近いのかと思う。
 アンコンで久喜に行くときはいつも、遠いよな、生徒はよく通うものだと思っていたが、電車に乗ればすぐではないか。
 あわら湯の町から田原町に行くよりよほど早い。
 小山で降りて、水戸線に乗り換えるとき、ホームにいた中学生の会話に、U字工事の香りを少しだけ聴いた。
 さて、西関東でもそうだったが、大人の方の熱い演奏が続く。
 もっとも感動したのは、古河シティウインドオーケストラの演奏。
 課題曲1番をコンクールではじめて聴いた。
 CDや講習会で何度も聴いてきたが、本番の演奏として聴くのははじめてだった。
 これほど演奏されない課題曲ってあるだろうか。
 しかし、それは曲がつまんないから演奏されないのではなく、あまりに完成度が高すぎるゆえにみな敬遠した曲でもある。
 できることなら1をやりたい、でもメンバーの人数と技量とをかんがみて、涙をのんでマーチにしたというバンドはたくさんあるのではないか。
 上手な人が1パート1人で担当し、アンサンブルが成り立った時には、すばらしい演奏になるけど、不用意な音がちょっとでも交じると崩壊していく曲なのである。
 それを、古河ウィンドさんは、あれだけの大人数で一糸乱れぬアンサンブルを聴かせてくれた。
 来た甲斐があった。
 全国代表の座こそは、常連の団体さんにゆずったが、今シーズンを通しての心の金賞ゴールド第1位である。

 
 
 
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アウェイな感じ

2009年09月18日 | 日々のあれこれ
 たとえば夏期講習で、教えてない学年の知ってる子がだれもいないクラスに行き、それも担当するのは二日間だけだったりすると、アウェイ感を強く感じるまま授業し続けることになる。
 しかも少人数のクラスで、教室に入っていくと、みんな後ろの方に座っていたりする。
 この子ら、やる気あんのかな? とつい思ってしまうものだ。
 大学の講義の多くは、こんな状態だろう。
 昔、大学入試がまだ熱い時代、予備校の有名講師の授業は、早朝の門が開くのを待ち、走って前の席をとりにいく受験生がいた。
 講師が入室する前には、飲み物やお菓子といったお供え物が、前の机の上にたくさん置かれる。
 もちろんそれは人気のある講師にかぎられ、人気のない講師の教室は後ろの方の席からうまっていく。
 教師の研究会も同じだ。
 官が主催する研究会は、後ろからうまっていく。
 何年も行ってないけど、向山洋一先生率いるTOSSの勉強会は、一番前の席からうまっていく。前の席に座りたいが為に、一日でもはやく申し込みをしようとする先生も多い。
 年次研修や免許更新のための講義とは真逆である。
 厚生労働大臣になられた長妻氏の、職員との対面のあいさつの場面をテレビでみたとき、アウェイ感のただよう教室の空気を思い出した。
 大臣のことばへのノーリアクションぶり、というか負のパワーたちこめる大部屋。
 あの部屋に入った瞬間に、自分へのアゲンストの突風を感じたことだろう。
 がんばってほしいなあ。
 いっぽう舛添さんが去っていくときの、花束をもって拍手で見送られる映像。
 舛添さんが、結局だれのために働いていたのかがよくわかる瞬間だった。

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新政権

2009年09月16日 | 日々のあれこれ
 「今回の選挙の勝利者は民主党ではなく、国民のみなさまです。」という鳩山首相のあいさつは、なんかオバマ大統領ぽくないでしょうか。
 いまネットで読んだのだが、どんなイントネーションで語られたのだろう。
 文章で見ても、誰かが書いたのを読んだものか、ご自分で考えられたものなのかわかってしまうのが、おそろしいところだ。
 「みなさまがたのお気持ちをいかにしっかりと政策の中に打ち出していけるか否かは、国民のみなさんにかかっていると言っていいと思います。」という言葉もなかなか言えない。
 来年、丸山真男「であることとすること」とを勉強するときに、ネタにしたい。
 民主党といえば、田中美絵子氏である。
 第二の故郷石川県の議員さんだから、これまで週刊誌の記事はきちっとチェックしてきた。もちろん興味本位ではなく。
 インタビューで「厳しい経済状況の中で、生きるためにいろいろなことをやった」と語ったという。
 めちゃめちゃ苦労人やないか。
 謝る必要などまったくない。むしろこちらが感謝である。
 二世議員より、よほど人情の機微はわかるはずだ。
 私が鳩山氏だったら、入閣させていた。
 ぜひこれからもがんばってほしい。
 
 

 
 
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助動詞

2009年09月15日 | 国語のお勉強(古文)
 昨日の研究授業の教材は「かぐや姫の嘆き」。次の部分である。

 かぐや姫泣く泣く言ふ、「先々も申さむと思ひしかども、必ず心惑はしたまはむものぞと思ひて、今まで過ごしはべりつるなり。さのみやはとて、うち出ではべりぬるぞ。おのが身はこの国の人にもあらず。月の都の人なり。それを、昔の契りありけるによりなむ、この世界にはまうで来たり ける。今は帰るべきになりに ければ、この月の十五日に、かのもとの国より、迎へに人々まうで来むず。さらず まかりぬ べければ、おぼし嘆かむが悲しきことを、この春より思ひ嘆きはべるなり。」と言ひて、いみじく泣くを …

Q1「先々も申さむと思ひしかども」とあるが、何を「申さむ」と思っていたのか。2点述べよ。
A1 ①自分は月の都の人であるということ。
   ②八月十五日には月に帰らなければならないこと。

Q2 言いたくても言えなかったのはなぜか。抜き出せ。
A2 必ず心惑はしたまはむものぞと思ひて

 という発問で大体の意味を理解させていこう、それから助動詞「つ・ぬ」の説明に入ろうと考えていたが、直前にひらめいた発問があった。

Q3 なかなか言えなかった自分を責める気持ちはどの単語に表れていると思うか。

 いやあ、これを思いついたとき、やっぱおれって授業のセンスすごすぎると興奮した。
 で、さっそく試してみたのだが、生徒諸君はポカンとすることになった。
 放課後の研究会でも、「私もわからなかった」「唐突だった」との意見をいただき、そうですね(勉強不足の人にはわかんないよな)と頭を垂れたのだった。

 直後の別のクラスでは修正を加える。
「Q3 なかなか言えなかった自分を責める気持ちはどの単語に表れていると思うか。」と板書。
 ヒントをあげます。
 ○○君、休み時間に友達とじゃれていて、ガラスを割りました。
 さあ、担任の先生に報告してください。言ってごらん。
 「○○先生、ガラス割っちゃいました … 」
 そうだよね、そう言うよね。ガラスを割ってもうしわけないという気持ちはどの単語に表れる? そうですね、「ちゃい」なんだよ。
 これをつけずに「ガラスを割りました!」っていうと、「ふざけんな!」と怒られるでしょ。
 「ちゃい」をつけると、「しょうがないなあ、けがは?」って言ってもらえるんだよ。
 さて、かぐや姫のことば「今まで過ごしはべりつるなり」のうち、「ちゃい」にあたるのはどれですか?

 こうして、みごと「つる」が「てしまう」にあたるのだと説明できたのであった。

 古典では、助動詞の意味や活用を憶えることは必須課題である。
 でも、だからといって活用表をやみくもに憶えさせるのは、どうなのだろうという思いがあって、暗記するまで放課後補習をするぞ的な指導はしたことがない。
 なにより自分が、助動詞の活用をちゃんと言い切れるのか、何形接続とかすらすらでてくるのかと言われたら心許ないのである。
 丸暗記はできてないが、だいぶ本質をわかってきたので、細かいニュアンスも読めるようになってきた。
 たとえば「けり」という助動詞を、文法のテキストには「過去」「詠嘆」の意味があると説明する。
 しかしこれも、その本質は「来(き)あり」で、過去のある時点に起こったことが現在まで続いていて、その事実に今気づいたというのがおおもとの意味である。
 たまたま文脈に応じて、過去や詠嘆という訳し方をするとうまくいくので、そういうことになっているが、実際には過去や詠嘆ではうまく訳しきれない例はいくらでもある。
 「どの助動詞も意味は一つだよ」「何形接続なんておぼえなくていいよ」と、どちらかというと先生方を挑発するかのような言葉も、昨日はちりばめてみた。
 問題提起としては、受け止めていただけたようだ。
 
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西関東大会

2009年09月13日 | 日々のあれこれ
 高校B部門の西関東大会。
 今年は所沢ミューズが会場ということで、西部地区を代表する名門男子高にぜひ役員をおねがいしたいとお声がかかり、まあそこまで言うならお手伝いしましょうということでというのは冗談だが、そのように声をかけていただけるのはありがたいことだ。
 そうやって働けるだけでありがたいし、西関東に進んでくる団体さんの演奏や立ち居振る舞いに接することが出来る。
 うちのように吹奏楽歴の短い子たちにとっては、非常にいい経験になったはずだ。
 会場整理係としてほぼすべての演奏を聴くことができたが、やはり埼玉代表の演奏はすばらしい。
 もうしわけないが、あと数校の枠が埼玉に割り振られてもおかしくないとは思うものの、こうやって埼玉の演奏に触れて、他県の方もおいつけおいこせでがんばってほしい(て、べつに吹連のえらい人ではないのだが)。
 生徒は高校の終了とともに仕事はおわり。
 先生方は一般がおわるまでいてください、19:00過ぎますというお話に、「よろこんで!(まじすか?)」と言って大人の演奏を聴かせてもらったが、すさまじかった。
 かけているものがちがう。
 いや、犠牲にしているものがちがうと言っていいのかな。
 考えてみると、一般部門に出てくる人たちは、普段ふつうに仕事をして、その残りの時間で練習をするわけだ。
 高校生だって、勉強もやってますと言うかもしれないが、仕事は「宿題やってません、明日だします」じゃすまないから。
 コンクールが近づけば、土日のほとんどは練習だろうし、練習場所一つとっても、高校生のようなわけにはいかない。
 たとえば本校音楽室レベルの場所を毎日使おうとと思ったら、団費をいくら集めても足りないだろう。
 練習会場変更ですとか、今週は打楽器の都合がつきませんとかの日もあるだろう。
 本番が近いのに誰さんがきてません、なんでこねえんだよ、仕事大変なんだって、こっちだって無理やり都合つけてんだよ、来ないやつにソロやらすなよ、○○なんで来ないの? なんかお子さんが熱出しちゃったそうですよ、あっ先生今日はちょっとメンバー欠けてるんですがよろしくおねがい … 、はいすいません、でも今日合奏みていただかないと … 
 的なやりとりは日常のことだろう。
 何年にもわたり犠牲にしてきたものの大きさ。
 犠牲とは神への捧げものである。
 音楽の神ミューズが、一般バンドのみなさんに下賜くださった慈しみに、今日は触れさせていただくことができ、幸甚この上ない。
 それにしても音楽とは業が深いものである。
 
 
 
 
 
 
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