水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

ストーリー・オブ・マイライフ

2020年06月28日 | 学年だよりなど
  3学年だより「ストーリー・オブ・マイライフ」


 現在公開中の『ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語』は、副題のとおり、オルコットの名作『若草物語(原題 Little Women)』が映画化された作品だ。
 19世紀後半、アメリカ北東部に住むマーチ一家の四姉妹が、ときに喧嘩したり反発し合ったりしながらも、お互いを大切に思い合い、女性として成長していく姿が描かれる。
 絶世の美女や悲劇のヒロインが登場するわけでもなく、貴族社会のどろどろした世界を描いたものでもない、田舎の普通の女の子がそれぞれの幸せをつかもうとする姿が、世界中の、おそらく女子たちの共感を生んだ。
 父親は南北戦争に従軍しずっと家をあけたままだが、四姉妹は「人にやさしくし、自分の役割を果たし美しいレディになりなさい」という父の教えを守ろうとしている。
 母親もボランティア精神にあふれ、近所のまずしい家に自分たちの家の食べ物を届けにいったり、戦争で負傷した人たちの支援施設で働いたりする。
 おしとやかで、結婚して暖かい家庭をつくることを夢見る長女のメグ。
 人なつっこく、お金持ちの伯母にかわいがられる末っ子のエイミー。
 繊細でピアノがうまく、しかし病気で早逝する三女のベス。
 作家になる夢を持つ次女ジョーは、「女の幸せは結婚、子どもをもうけ家庭を守るのが女の役割」という当時の考え方に納得がいかなかった。かといって経済的に自立できるほどの仕事が当時あるはずもなく、文章を書くことで身を立てたいと願っていたのだ。


~ ジョー・マーチが走る姿は、本当の幸福を追求する女性のシンボルだ。結婚やロマンスだけではない何かを求め、女性たちの連帯に安らぎを感じ、生きる喜びを体いっぱいに受け止めて、懸命に自分の足で立とうとする。自分たちの物語を、自分たちにしかできない方法で語ろうとする。19世紀でも、現代でもそれは変わらない。名作『若草物語』はガーウィグの手によって、作者だけでなく今を生きる女性たちにとっての“わたしの物語”となった。 (山崎まどか「ジョー・マーチの疾走が示唆しているもの」) ~


 自分の書いた文章が認められて雑誌に載り、ニューヨークでアルバイトをしながら文筆家を目指すジョーだったが、「ベスの具合が悪い、帰ってきてほしい」との手紙がくる。
 物語は、ジョーが自分たちの少女時代を回想する視点で描かれていく。
「中世がなく近代からスタートしたのがアメリカ」と言われる。しかし今考えるような女性の人権は存在しない。人種差別にいたっては、やっと奴隷解放宣言が出たばかりの時代だ。移民がどう扱われていたかも示唆されている。当時のアメリカ人の、ヨーロッパ文化に対する強烈な憧れも描かれる。近代が現代に変わろうとする一時代の空気感が実感として伝わってくる作品だ。まちがいなく世界史の勉強になるだろう。
 何より、エマ・ワトソンさん達のきれいで聞きやすい英語を2時間強リスニングできる。
 受験勉強の一環としても、こんなにコスパのいい作品はなかなかない。ぜひ劇場へどうぞ!
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大合格

2020年06月25日 | 学年だよりなど
  3学年だより「大合格」


 先日、「アメトーークSpecial 勉強大好き芸人」で中田敦彦氏の語りを久しぶりに聞いて、デビューしたばかりのオリエンタルラジオが翔鷺祭に来校したことを思い出した。タカアンドトシ、品川庄司の前座としておまけでついてきて、モチネタは5分しかなかった頃だ。「おまえら、何? いい大学出てるんだって! そっちが明治で、おまえは? 慶應? まじか」と品川さんがイジっていたのは、十数年前になる。
 以前の「アメトーーク」では、「志望校を堂々と宣言せよ」と語っていた。
 まったく手が届かなそうなA校、頑張れば可能性がありそうなB校、今でも受かりそうなC校を受験校として考えていたとする。
 自分が本当に行きたいのがA校なら、堂々と宣言するべきだと言う。
 しかも、「おれはA校しか受けない」と言えと。
 すると、噂が広まる。「あいつ、バカなんじゃないの」「でも、すげぇな」「潔よくない?」
 羨望さえ含む声につつまれ、言った本人は後にひけなくなる。
 みんなに言った以上、やるしかない。
 「夢を大声で宣言すると応援してくれる人が現れる」の原則もある。
 つきあいが悪くなっても、「見守ってやろうぜ」と言ってもらえる。
 藝大に受かった八虎がそうであったように。
 「自分は高2で偏差値35なのですが、早稲田の政経に現役合格できますか?」
 ある高校生の質問に、中田氏はこう答える。


~ キミは早稲田合格を「目標」と考えているかもしれないけど、傍から見ればそれは「夢」の領域だよ。「夢」って非現実的だし、人に話すのが恥ずかしかったりするじゃん。だけど、オレはどんどん公言したほうがいいと思っている。
 堂々と夢を語ると、周りの人間がパワーを与えてくれるか、自分の能力をフルに発揮できるようになるんだね。
 まあ、実際は大風呂敷を広げて引っ込みがつかなくなっているだけかもしれないけど(笑)。ただ、モチベーションが上がったり、プレッシャーが力に変わったりするのは事実だと思う。
 だから、キミがまずやるべきことは、親や友人に「早稲田の政経を目指している」と話すこと。最初はあきられたり、バカにされたりするかもしれないけど、人は無謀なチャレンジをする人間を徐々に応援したくなるもの。キミの周りは一気に盛り上がるはずだよ。
 そんなエキサイティングな1年を過ごして、結果的に「偏差値55の大学に合格」というのでもいいんだ。夢を持たなかったときより、確実にいい未来を引きよせたといえるからね。 (中田敦彦『大合格』KADOKAWA) ~


 そもそも、現時点の自分にあわせて分相応の目標を立てること自体、自分を低く見積もりすぎているのだ。「男子三日会わざれば刮目して見よ!」と言うではないか。経験から言うと、人は変わるときは1日、いや1分で変わることさえある。
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中沢けい「楽隊のうさぎ」(センター2006年)③

2020年06月24日 | 国語のお勉強(小説)
 克久がいちばん間抜けだと感じたのは百合子だった。なにしろ、地区大会を終わって家に戻って最初に言ったのは次の一言だ。
 「やっぱり、強い学校は高い楽器をたくさん持っているのね」
 それを言っては、みもふたもない。言ってはならない真実というものは世の中にはある。それに高価な楽器があれば演奏できるというものでもない。演奏する生徒がいて、初めて高価な楽器がものを言うのだなんてことを、克久は百合子に懇切丁寧に説明する親切心はなかった。
 「小学生とはぜんぜん違う」
 実は百合子も少し興奮気味だったのである。克久には小学校時代は太古の昔、悠久のかなただったが、百合子にはわずか六カ月前にもならない。だいたい、その頃、銀行に申し入れた融資の審査がまだ結論が出ていなかった。伊万里焼の皿の並んだテーブルをはさんで恐竜と宇宙飛行士が会話しているという比喩で良いのかどうか。そのくらい、時の流れの感覚が食い違っていた。これだから中学生は難しい。百合子がうれしい時に使う古典柄の伊万里が照れくさそうに華やいでいた。この皿はうれしい時も出番だが、時には出来合いのロールキャベツを立派に見せるためにお呼びがかかることもあった。
 翌日から一年生は「やる気あるのか」と上級生に言われなくなった。帰宅は毎日九時を過ぎた。


 地区大会を見に行った母親の百合子。
 子どもの時間の進み方に対する驚きは、次の場面の伏線になっています。
 そして、地区大会後、県大会に向けて練習が熱が帯びます。
 中学生で帰宅が毎日九時すぎというのは、ブラック部活と言われてもしょうがないでしょう。
 そして、県大会前日の夜を迎えます。
 ここでは「克久」の成長が、母「百合子」の視点で描かれます。
 ブラックは大変ですが、乗り越えることで成長もします。


 県大会の前日はさすがに七時前に克久も家に帰って来た。「ただいま」と戻った姿を見た百合子はたちまち全てを了解した。了解したから、トンカツなどを揚げたことを後悔した。大会にカツなんて、克久流に言えば「かなりサムイ」しゃれだった。
 「ベンちゃんが今日は早く風呂に入って寝ろってさ」
 「そうなんだ」
 百合子はこんな克久は見たことがなかった。なんでもなく、普通そうにしているけれども、全身に緊張があふれていた。それは風呂場で見せる不機嫌な緊張感とはまるで違った。ここに何か、一つでも余分なものを置いたら、ぷつんと糸が切れる。そういう種類の緊張感だった。
 彼は全身で、いつもの夜と同じように自然にしてほしいと語っている、「明日は大会だから、闘いにカツで、トンカツ」なんて駄ジャレは禁物。
 もっとスマートな応対を要求していたのである。会話だって、音楽の話もダメなら、大会の話題もダメであった。
 そういうことが百合子にも解る顔をしていた。こんなに穏やかな精神統一のできた息子の顔を見るのは初めてだ。一人前の男である。誇りに満ちていた。
 もちろん、彼の築き上げた誇りは輝かしいと同時に危ういものだ。


 息子の変化を瞬時に理解するのは、母親だからでしょう。
 父親は無理です。
 百合子は、息子の変化を見抜いたからこそ、あい変わらずの自分に恥ずかしささえ感じてしまいます。
 大人あるあるですね。
 でも大人は、少年の成長が非常にもろいものであることも分かります。
「全身に緊張があふれていた……一つでも余分なものを置いたら、ぷつんと糸が切れる。そういう種類の緊張感だった」


 「お風呂、どうだった」
 「どうだったって?」
 「だから湯加減は」
 音楽でもなければ、大会の話でもない話題を探そうとすると、何も頭に浮かばない。湯加減と言われたって、家の風呂は温度調整のできるガス湯沸かし器だから、良いも悪いもないのである。
 「今日、いい天気だったでしょ」
 「毎日、暑くてね」
 「……」
 練習も暑くて大変ねと言いかけて百合子は黙った。
 「……」
 克久も何か言いかけたのだが、目をぱちくりさせて、口ヘトンカツを放り込んでしまった。
 「あのね、仕事の帰りに駅のホームからうちの方を見たら、夕陽が斜めに射して、きれいだった」
 「そう。……」
 なんだか、ぎこちない。克久も何か言おうとするのだが、大会に関係のない話というのは探しても見つからない。それでも、その話はしたくなかった。この平穏な気持ちを大事に、そっと、明日の朝までしまっておきたかった。
 C初めて会った恋人同士のような変な緊張感。それにしては、百合子も克久もお互いを知り過ぎていた。百合子は「こいつは生まれる前から知っているのに」とおかしくて仕方がなかった。
 「……」
 改めて話そうとすると、息子と話せる雑談って、あまり無いものだなと百合子は妙に感心した。
 「……」
 克久は克久で、何を言っても、話題が音楽か大会の方向にそれていきそうで閉口だった。


 二人とも、部活動とは関係ない話をしようとし、ゆきづまります。
 生まれる前から知っている息子との会話が妙にぎこちなくなる。

問4 傍線部C「初めて会った恋人同士のような」とあるが、この表現は百合子と克久のどのような状態を言い表したものか。その説明として最も適当なものを選べ。
 ① 自分の好意を相手にきちんと伝えたいと願っているのに、当たり障りのない話題しか投げかけられず、もどかしく思っている。
 ② 互いのことをよくわかり合っているはずなのに、相手を前にしてどのように振る舞えばよいかわからず、とまどっている。
 ③ 本当は心を通い合わせたいと思っているのに、話をしようとすると照れくささからそっけない態度しかとれず、悔やんでいる。
 ④ 相手の自分に対する気配りは感じているのに、恥ずかしくてわざと気付かないふりをしてしまい、きまり悪さを感じている。
 ⑤ なごやかな雰囲気を保ちたいと思って努力しているのに、不器用さから場違いな行動を取ってしまい、笑い出したくなっている。

 ①「自分の好意を相手にきちんと伝えたいと願っている」は、親子としてはやばいですね。
 ③「本当は心を通い合わせたいと思っている」か、克久は微妙ですね。「そっけない態度しかとれず、悔やんでいる」は完全に誤答になりますね。
 ④「恥ずかしくてわざと気付かないふりをしてしまい」はちがいますね。
 ⑤「不器用さから場違いな行動を取ってしまい、笑い出したくなっている」はまったくちがいます。

 「初めて会った恋人のように」はあくまで比喩ですから、恋愛感情があるわけではありません。
 お互いによく知っている、しかしぎこちなくなっている状態なので、正解は②です。


 「これ、うまいね」
 こういうことを言う時の調子は夫の久夫が百合子の機嫌を取るのに似ていた。ぼそっと言ってから、少し遅れてにやりと笑うのだ。
 「西瓜でも切ろうか」
 久夫に似てきたが、よく知っている克久とは別の少年がそこにいるような気もした。
 「……」
 西瓜と言われれば、すぐ、うれしそうにする小さな克久はもうそこにいない。
 「……」
 百合子は西瓜のことを聞こうとして、ちょっとだけ息子に遠慮した。彼は何かを考えていて、ただぼんやりとしていたわけではない。少年の中に育ったプライドはこんなふうに、ある日、女親の目の前に表れるのだった。


Q「百合子は西瓜のことを聞こうとして、ちょっとだけ息子に遠慮した」とあるが、なぜか。50字以内で説明せよ。
A 息子の成長した姿に気づき、今までと同じように接するわけにはいかない時期がきたと悟ったから。

問5 傍線部D「少年の中に育ったプライドはこんなふうに、ある日、女親の目の前に表れるのだった」とあるが、その説明として最も適当なものを選べ。
 ① 充実した練習を通して自ら育(はぐく)んできた克久のプライドは、県大会に向けての克久の意気込みと不安を百合子に感じさせるものであった。/このプライドは張り詰めて折れそうな心を自覚しながら独り大会に備える自立した少年の姿を通して不意に百合子の前にあらわれ、幼いと思っていた息子が知らないうちに夫に似てきたことを百合子に感じさせた。
 ② 仲間たちとの交わりの中で自ら育んできた克久のプライドは、仲間への信頼と自分がかけがえのない存在であるという自覚を百合子に感じさせるものであった。/このプライドは自らの緊張感を百合子に悟らせまいとしている大人びた少年の姿を通して不意に百合子の前にあらわれ、息子の成長に対する喜びを百合子に感じさせた。
 ③ 努力を重ねるなかで自ら育んできた克久のプライドは、克久のおごりと油断を百合子に感じさせるものであった。/このプライドは他人を寄せつけないほどの緊張を全身にみなぎらせている少年の姿を通して不意に百合子の前にあらわれ、大会を前にした息子の気負いをなだめ、落ち着かせなければならないという思いを百合子に感じさせた。
 ④ 吹奏楽部の活動に打ち込むなかで自ら育んできた克久のプライドは、りりしさともろさを百合子に感じさせるものであった。/このプライドは高まった気持ちを静かに内に秘めた少年の姿を通して不意に百合子の前にあらわれ、よく知っている克久の姿とともに、理解しているつもりでいた克久ではない成長した少年の姿も百合子に感じさせた。
 ⑤ 同じ目的を持つ仲間たちとの協力を通して自ら育んできた克久のプライドは、どんなことにも動じない自信と気概を百合子に感じさせるものであった。/このプライドは百合子を遠慮させるほど堂々とした少年の姿を通して不意に百合子の前にあらわれ、克久がこれまでとは別の少年になってしまったという錯覚を百合子に感じさせた。


 県大会前日の場面全体から考えます。
 帰ってきてすぐの百合子の感覚が描かれている部分に「誇り」とありますね。
「誇りに満ちていた。……彼の築き上げた誇りは輝かしいと同時に危ういものだ」
 問5は、それぞれの選択肢が長いですが、核となる部分と本文とを対応させると、明確な差異が見えます。
 ①「意気込みと不安」、②「仲間への信頼と自分がかけがえのない存在であるという自覚」、③「おごりと油断」、⑤「自信と気概」は、「輝かしい誇りとあやうさ」とは対応しません。
 ④「りりしさともろさ」が正解です。
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中沢けい「楽隊のうさぎ」(センター2006年)②

2020年06月22日 | 国語のお勉強(小説)
 ここで一つ記述問題を解いてみましょう。

問「「スゲェナ」有木がつぶやいた隣で克久は掌を握り締めた。」とあるが、このとき克久はどのような状態か。(60字以内)

 一つの場面内では、何らかの事件が起こり、登場人物が何らかの感情を抱いて、何らかの行動をします。
 地区大会当日に何が起こったか。
 問3で確認したように、他校の演奏を聴いておどろき、一年生も態度を改めたという話でしたよね。
 克久は、課題曲「交響的譚詩」を選んだある中学校の演奏を聴きます。
 1996年の一番難しい課題曲で、これを選んだということ自体、上手な中学校であることがわかりますね(わからないか)。
 その演奏は「克久の胸のうさぎが躍り上がるような音を持ってい」ました。
 隣で「スゲェナ」と部長がつぶやく。
 少し先には「負けた」「遠く遠くへ連れ去られた」とも書いてある。
 そして、すぐ後の場面では、どんな演奏であったかが表現されている。


 最初のクラリネットの研ぎ澄ました音は、一本の地平線を見事に引いた。地平線のかなたから進軍してくる騎馬隊がある。木管は風になびく軍旗だ。金管は四肢に充実した筋肉を持つ馬の群れであった。打楽器が全軍を統括し、西へ東へ展開する騎兵をまとめあげていた。


 このような具象的イメージが、克久の胸のなかに生じたのです。
 そして、「うさぎが踊る」。
 「事件:すごい演奏を聴く」→「心情:胸のうさぎが踊る」→「行動:掌を握りしめる」
 の「事件」と「心情」をまとめれば答えになりますね。
 ただし、「うさぎ」は言い換える必要がある。
 どう言い換えればいいでしょうか。
 そのとき、注の情報に気づくことがポイントです。


注6 克久の胸のうさぎ … 克久が、自分の中にいると感じている「うさぎ」のこと。克久は、小学校を卒業して間もなく花の木公園でうさぎを見かけて以来、何度かうさぎを見つけては注意深く見つめていた。吹奏楽部に入った克久は、いつの間にか一羽の「うさぎ」が心に住み着き、耳を澄ましているように感じ始めていた。


 「うさぎ」はどう言い換えればいいですか?
 どのようなことを表しているのですか?
 克久の胸のなかにうさぎが棲み、耳をすましている。いい音楽に触れると踊り出す。
 つまり、克久の音楽を感じる心を、表しているのですね。
 解答例は、こんなかんじです。


答 自分の学校とは全く異質な、精密で力強い他校の演奏を聴き、
  内面の音楽的感性が刺激され、その衝撃に圧倒され力が入っている状態。


 「うさぎ」は、羅生門における「にきび」、「山月記」における「月」と同じはたらきをもっています。
 なんらかの抽象的概念を、具体物におきかえて表現することで、感覚的に理解させようとする表現ですね。
 これを「象徴」といいます。
 小説とは、ある人物に起こった、一回こっきりの特殊な出来事を描きます。
 映画やドラマも同じですね。具体の極致ですね。
 ですから、作品自体が、何らかの象徴にちがいないと思って読んでいきましょう。
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物語

2020年06月22日 | 学年だよりなど
  3学年だより「物語」


 センター試験が終わり、藝大一次試験までのおよそ一ヶ月。
 一次試験のデッサンに合格しなければ、二次の専門(油絵、日本画など)には進めないため、この期間は、ひたすらデッサンを描き続けて、八虎たちは試験にのぞんだ。
 一次試験の合格発表の前日、予備校の大場先生が、生徒たちを集めてこう話す。


~ 「発表は、明日の朝10時。大学の掲示板とネットで公開してるよね。
 結果がどうであれ、連絡ちょうだい! 合格者はそのあと、いつも通り予備校で課題よ。
 結果を求めた人に、結果が全てじゃない、なんていうつもりはないわ。
 だけど、どの大学に行くとかって話じゃない。
 この数ヶ月、君たちは自分の弱さと強さに向き合った。
 そして描き続けた。それは結果ではなく、必ず君たちの財産になるわ」
  (山口つばさ『ブルーピリオド 5』講談社アフタヌーンコミック) ~


 ~ 純朴な若者が、この世の理不尽に出会い、旅に出る。
   賢者の言葉や、仲間の力に支えられながら、自らを成長させ、
   苦難を乗り越えて敵を倒し、宝物を持って帰還する――。 ~

 これが物語の基本構造だ。
 シンプルに「試練→挑戦→成長」とか「苦悩→行動→解決」のようにまとめることもできる。
 古今東西の古典的な作品も、みなさんが親しむゲームの世界も、全てこのパターンがベースになっている。つまりそれは、人間の一生がそのようなパターンに還元できるということだ。
 今みなさんに与えられた試練の第一は、「受験」になるだろう。
 共同体には、少年が青年になるタイミングで通過儀礼(イニシエーション)が用意される。
 一定の年齢になると、村祭りで俵を背負わされたり、肝試しをさせられたりするのがそれだ。
 観光化しているバンジージャンプも、もとはその一つだった。
 近代化した社会では、昔ながらの通過儀礼的行事はなくなりつつあるが、「受験」や「就活」は通過儀礼としての役割を果たしていると言えるだろう。
 共同体が与える、乗り越えるべき「試練」。自分の好きなことをやっていいと言われながら、並々ならぬ努力を積み重ねなければ、それが手に入らないのは「理不尽」だ。
 善良で純朴な若者、つまりみなさんが、この世の理不尽に出会ったときに、どうするか。
 見なかったふりをするのも自由、逃げるのも自由。
 立ち向かった場合、結果として何が得られるのか。
 もちろん、合格という喜び、楽しい学生生活、学歴といったものを獲得することはできる。
 しかし、一番大事なのは、挑戦したという体験だ。
 逃げずに立ち向かったならば、宝物を持ち帰ることができる。
 それは、自分が主人公の「物語」だ。
 大人になったとき、逃げなかった自分の「物語」が、自分を支えてくれる。
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中沢けい「楽隊のうさぎ」(センター2006年)①

2020年06月20日 | 国語のお勉強(小説)
 評論文では意味段落ごとに解いていくように、小説は場面ごとに解いていきます。
 場面とは何か。
 何らかの出来事が生成する状況が描かれたひとまとまりのことです。シーンとも言いますね。
 a時間とb空間、そしてc登場人物で規定されます。

 第一場面を見てみましょう。


譜面をパートごとに練習して、セクションごとに音として仕上げていくのは、山から石を切り出す作業だが、そのごろごろした石がようやくしっかりとした石組みになろうとしていた。森勉が細やかに出す指示は、石と石の接続面をぴったりと合わしていく仕事だった。
 この日、何度目かで「くじゃく」をさらっていた時、克久はばらばらだった音が、一つの音楽にまとまる瞬間を味わった。スラブ風の曲だが、枯れ草の匂いがしたのである。斜めに射す入り陽の光が見えた。それは見たことがないほど広大な広がりを持っていた。いわく言い難い哀しみが、絡み合う音の底から湧き上がっていた。悔しいとか憎らしいとか、そういういらいらするような感情は一つもなくて、大きな哀しみの中に自分がいるように感じた。つまり音が音楽になろうとしていた。地区大会前日だった。


 地区大会の前日の場面ですね。場所は音楽室でしょう。
 その日、主人公の克久は「音が音楽になろうとす」る瞬間を体験します。

問2 傍線部A「音が音楽になろうとしていた」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを選べ。
 ① 指揮者の指示のもとで各パートの音が融(と)け合い、具象化した感覚や純化した感情を克久に感じさせ始めたこと。
 ② 指揮者に導かれて克久たちの演奏が洗練され、楽曲が本来もっている以上の魅力を克久に感じさせ始めたこと。
 ③ 練習によって克久たちの演奏が上達し、楽曲を譜面通りに奏でられるようになったと克久に感じさせ始めたこと。
 ④ 各パートの発する複雑な音が練習の積み重ねにより調和し、圧倒するような迫力を克久に感じさせ始めたこと。
 ⑤ 各パートで磨いてきた音が個性を保ちつつ精妙に組み合わさり、うねるような躍動感を克久に感じさせ始めたこと。


 「音が音楽になる」とは、どういうことでしょうか。
 選択肢を見ると、
 「②演奏が洗練され、楽曲が本来もっている以上の魅力を克久に感じさせ始めた」
 「④練習の積み重ねにより調和し、圧倒するような迫力を克久に感じさせ始めた」
「⑤音が個性を保ちつつ精妙に組み合わさり、うねるような躍動感」
 などとありますが、どれも正解のように見えませんか。
 実際に、このような意味合いで「音が音楽になる」と言われることはよくあります。
 「③楽曲を譜面通りに奏でられるようになった」の意味ではあまり用いられないでしょうか。
 「譜面通りに吹くだけじゃ、音楽にならないんだよ!」と怒られることさえありますから。
 傍線部と選択肢を見るだけでは、この問題は解けません。
 場面全体をふまえましょう。
 さらに傍線部の「つまり」にも注意しましょう。
 「つまり」は言い換えですから、「つまり」の前後は「=(イコール)」の関係です。

 克久はばらばらだった音が、一つの音楽にまとまる瞬間を味わった。
    ∥
 枯れ草の匂いがしたのである。入り陽の光が見えた。
 大きな哀しみの中に自分がいるように感じた。
    ∥
 つまり「音が音楽になろうとしていた」

 演奏から、具体的イメージがわき、感情がわきあがってきます。
 それを、選択肢①では「具象化した感覚や純化した感情」と言い換えています。
 ①が正解です。
 「各パートの音が融け合い」も、本文の「ばらばらだった音が、一つの音楽にまとまる」と対応してます。

 問2を間違えた人は、
 1 場面で解くという意識が欠けている
 2「具象化」が何のことかわからなかい
 3「つまり」をチェックしていない
が、原因のはずです。123のような状態の人を専門用語で「テキトーに解く人」とよんでいます。


問3 傍線部B「怒られるたびに内心で『ちゃんとやってるじゃないか』とむくれていた気持ちがすっかり消えた」とあるが、それはなぜか。その理由として最も適当なものを選べ。
 ① 日々の練習をきちんと積み重ねているつもりでいた一年生だったが、地区大会で他校の優れた演奏を聴いて、めざすべき演奏のレベルが理解できたと同時に、まだその域に達していないと自覚したから。
 ② 地区大会での他校の演奏を聴いて自信を失いかけた一年生だったが、演奏を的確に批評するOBたちが自分たちの演奏を音に厚みがあると評価したので、あらためて先輩たちへの信頼を深めたから。
 ③ それまでばらばらだった自分たちの演奏が音楽としてまとまる瞬間を地区大会で初めて経験した一年生は、音と音楽との違いに目覚めると同時に、自分たちに求められている演奏の質の高さも実感したから。
 ④ 地区大会で他校のすばらしい演奏を聴いて刺激を受けた一年生は、これからの練習を積み重ねていくことで、音楽的にさらに向上していこうという目標を改めて確認し合ったから。
 ⑤ 自分たちとしては十分に練習をしてきたつもりでいた一年生だったが、地区大会での他校の堂々とした演奏を聴き、自信をもって演奏できるほどの練習はしてこなかったと気づいたから。

 これを解くためにも、場面を把握する必要があります。
 問6で問題にもなっていますが、お話は時系列どおりには進んでいません。
 第一場面も含めて整理すると、

 a 地区大会前日    克久の「音→音楽」体験
 b 地区大会翌日以降  克久含む一年生……先輩の言うことを聞くようになる
 c 地区大会当日    他の中学校の演奏を聴く
              →(克久の)「胸のうさぎ」が躍り上がる音
              →部員達……「負けた」
              →一年生たち……自分たちの未熟さを思い知る
 d 地区大会の夜    克久と百合子(母)のやりとり
 e 地区大会翌日以降  一年生……先輩に叱られなくなる

 時の流れは、a→cd→beですね。
 b(結果)の理由は、cd(原因)にあるはずです。

 正解は、①「地区大会で他校の優れた演奏を聴いて、めざすべき演奏のレベルが理解できたと同時に、まだその域に達していないと自覚したから」しかありません。

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ブルーピリオド(2)

2020年06月19日 | 学年だよりなど
  3学年だより「ブルーピリオド(2)」


 八虎は、東京藝術大学を目指すことにした。
 一般的な美大の学費を聞いて耳を疑い、それならば国立の「藝大」しかないと八虎は考えた。藝大の油絵一本で受験しようと。
 その難しさを少しでも知っている人間であれば、できない考え方だろう。
 美術や音楽を志したなら、あわよくば芸大に入れればいいとは誰もが思うだろうが、大変な難関
であることを誰もが知っている。
1学年の定員は、美術学部、音楽学部あわせて約500人弱(ちなみに東大は約3000人)。
 スポーツでいえば、例えばサッカーとかバスケットとかで、全国の高校3年生のうち最も上手な数人のみが入学できるレベルと言えば、イメージがわくだろうか。インターハイに「出た」レベルでは話にならない。
 美術学部の場合、絵画科(油絵・日本画)、彫刻科、デザイン科などに分かれ、科によっては現役生が一人も通らない年もあるという。
 油絵科の倍率は毎年20倍を越える。
 知らないがゆえの「怖い物知らず」だといえよう。
 いくら頭がよくて才能があっても、高校2年で目覚めて芸大に入れるものだろうか。
 しかし考えてみると、本校でも高校で初めて手にした楽器で芸大ではないものの音大に入り、プロになった先輩はいる。芸大の美術学部に受かった先輩もいるし、映画監督になった先輩もいる。
 『ブルーピリオド』の作者、山口つばささん自身が芸大出身の漫画家さんだから、いろいろな実例を目にしているのだろう。
 高校2年で目覚めて芸大を目指すことに比べるなら、偏差値40台から難関大学への挑戦など、ふつうに何でもないことだ。
 難関大、たとえば東大であっても二次試験では半分ちょっととれればいいのだ。
 早稲田や慶応ならたった3科目で合格最低点をとればいい。
 芸大の二次試験とはちがい、どんな問題が出るのかは、ほぼ事前に知らされている。
 芸術分野にはおそらく必要な、人並み外れた才能のようなものは関係ない。
 八虎は、お小遣いをはたいて、美大を目指す予備校に通い始める。
 そこで課される課題は、想像を絶するものだった。
 眠る時間を削り、試験前はストレスからのじんましんに悩まされながらも、充実した日々を過ごしていく。
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部活再開

2020年06月18日 | 日々のあれこれ
 県立さんより少しだけ早く分散登校がおわり、今日から全員で授業。
 部活動も再開したが、授業とともにしばらくは短縮版.がつづく。
 まずミーティングをして、今後の活動のあり方を確認する。
 練習の前に歯磨き、手洗いをする、間隔をとって練習する、練習で出る「水」の処理に責任をもつ、など。
 約1時間の練習時間は、のんびり楽器を組み立てていると終わってしまうので、いろんなことを集中してやろうとの話。
 まずは1年生勧誘をみんなでがんばろう。
 8月に合同発表会が催されることになったので、3年は希望制にはするけど出場しよう。
 和国さんが演奏会に誘ってくれるなら出よう。男祭りどうしようかね、とか。
 そして見事な動画をつくってくれたあべ君への称賛。
 ひさしぶりに全員の顔をみて、気持ちが高ぶった。
 夜の街に繰り出す幾ばくかの大人たちのせいで、全国数十万人の高校生が部活できないのは理不尽だよねなどとも言ってしまったりもする。
 文化祭がないのはいかんともしがたいが、「いろんな曲を吹ける本番がほしいです」という意見は、たしかにそうだし実現したいと思う。文化祭がないなら、毎週文化祭気分になればいいだけだ。
 ミーティングのあと、パートに分かれて楽器の確認、そうじ、個人で音出し。
 なにはともあれ、みんな元気でよかった。この場にいれてよかった。
 この期間に2㎏ほどつけてしまった脂肪も減らしていこう。
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ブルーピリオド

2020年06月16日 | 学年だよりなど
  3学年だより「ブルーピリオド」

 矢口八(や)虎(とら)は頭がいい。
勉強もできるし、他人の気持ちもよく読み取る。
基本的にやさしいので、いつも他人の気持ちを慮って、暮らしている。
つるんでいる不良仲間たちは、そんな八虎をいいヤツだと思っている。
だから、八虎が美大を目指して勉強すると決めたとき、それは一緒に遊べなくなることを意味するが、仲間は八虎をなじらなかった。
むしろ、自分のやりたいことをやっと見つけたんだと安心したくらいだった。
きっかけはちょっとしたことだった。
仲間と遊び歩く渋谷の街。明け方、街が青一色に見える。
 美術の時間にそれを描いてみる。よく知らなかったクラスメイトにほめられ、泣きそうになるほどうれしくなる。
美術室に、八虎をひきつけた大判の絵があった。
「先輩が書いたんですか……?」
 美大を目指しているという3年の小柄な女子の先輩の作品だった。
 渋谷の街が青かったという話をしてみる。
「あなたにとって青なら、それは青なんだよ。りんごも、うさぎも、青くていいんだよ」
 先生に勧められて、スケッチをしはじめてみると、まったく経験したことのない感覚が全身を包むのを感じる。これが「自由になる」というものだろうか……。
 何のために大学に行くのか、考えてもわからなかった問いに、一つの答えがうかんできた。


~「食べていける保証がないなら、美大にいくメリットってなんですか?」
「そうねえ…、なら、どうして普通の大学なら食べていける保証があるんでしょうか?
 趣味で描くノビノビしてて良い作品はたくさんあります。
 だけどね、好きなことは趣味でいい、これは大人の発想だと思いますよ」
「…えっ」
「好きなことに人生の一番大きなウェイトを置くのって、普通のことじゃないでしょうか?」
「正直今、揺らいでて、でも確信が持てなくて。美大って、俺入れると思います…?」
「わかりません! でも好きなことをする努力家はね、最強なんですよ!」(山口つばさ『ブルーピリオド 1』講談社アフタヌーンコミック) ~
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ストーリー・オブ・マイライフ

2020年06月15日 | 演奏会・映画など
 文学史に残る名作、オルコット『若草物語』。
 国語の先生として当然読んで……ということはなく、『若草物語』を新たな視点で映画化したと言われても、もとを知らない。
 でも、その「新しさ」の一部は、たぶんだけど分かったような気がした。
 そして、原作がなぜ名作と言われるのかについては、思い知らされた。
 戦場の父親から届いた手紙を読む母親の周りに、四姉妹が猫の子のように重なり合って聞いている、わりと前半のシーンではやくも決壊していた。
 19世紀後半、アメリカの田舎を舞台に、四人姉妹の生き方が描かれる。
 結婚こそが女の幸せと考える保守的な、しかし当時としては常識的な長女のメグ。
 人なつっこく、お金持ちの伯母にかわいがられる末っ子のエイミー。
 繊細でピアノがうまく、しかし病気で早逝する三女のベス。
 作家になることを夢見、幼なじみからの求婚にも応じず自分の信念を貫こうとする、次女ジョー。
 主にジョーの視点で物語が描かれ、ジョーが創り出していくプロセス自体もメタの物語になっている。
 すぐれた文学作品は(また大きめ!)、人が描かれている(あたりまえじゃない?)。
 人が描かれているとは、そこに物語があるということだ。
 登場する四姉妹にはもちろんのこと、やさしく見守る母にも、南北戦争に従軍する父親にも、メリルストリープ演ずる伯母にも、幼なじみのローリーにも、みな物語がある。
 そのどれにも優劣はもちろんないし、どの物語もあまったるいものではない。
 むしろ、つらい経験、悲しみや怒り、思い通りにならないことが多い。
 それでも、性格も考え方もまったくちがう四姉妹が、時にけんかしながら支え合って生きていく様子と、それを見守っている人たちの姿を見ながら、それぞれの物語の中では誰もがみな主人公(さだまさしか!)であることが伝わってくる。
 いつしか観ている自分も、自分を主人公とするこの毎日が何か愛おしいもののように感じていた。
 映画史に残る名作「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」の誕生だ。
 ぜひ劇場へ、どうぞ!
 (関係者の方ですか? いっさい関係しておりません)
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