水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

意志力

2013年01月31日 | 学年だよりなど

 学年だより「意志力」

 今年のセンター試験は、全体的に昨年より難化し、平均点がかなり下がっている。
 おそらく来年は易しくなり、みなさんが受験する再来年は、ほどよく難しい試験になるだろう。
 そして、それは、きちんと勉強した人ほど結果が出やすいという望ましい試験になるはずだ。
 あと二年弱。二年後どうなりたいのか、どんな自分でありたいのか。
 将来へ向けての明確なビジョンをもち、計画的に取り組んで行ければそれにこしたことはない。
 しかし、それはわれわれ凡人にはなかなか難しいことでもある。
 じゃ、どうすればいいのか。
 自分は二年後のセンターに向けてどういう計画を立てて勉強していけばいいのか  。
 実は、そんなことを考える必要はまったくないのだ。
 もう計画は出来上がっている。それに従って取り組んでいけば、自然に結果は出るようになっている。つまり、毎日の授業内容をきちんと身につけ、定期試験でそれを確認していけばいいだけのことだ。ことセンターに関してはそれがすべてと言っていい。
 今までの試験をふりかえってみよう。中間試験や期末試験の点数が、大体80点平均ぐらいという人は、センターで8割とれる。60点平均だった人は、センターで6割になる。
 だから東大に行きたい人は定期考査で9割を目指すべきだし、埼大を目指す人は7割は必ずとっておかないといけない。
 やるべきことに愚直に取り組みさえすれば、受験勉強に関しては必ず結果がついてくる。
 実際、みなさんの先輩はそうだったから。
 そのためには、授業の予習復習は、かりに短時間であっても必要だ。
 部活の練習がきつくても、大会や行事で帰宅がおそくなってに、毎日必ず机に向かうという一点だけはゆるがせにしてはならない。
 勉強の中身や時間以上に「毎日やる」ことが重要なのは、それが人間の意志を鍛えることになるからだ。
 人間の意志の力は、筋肉のように鍛えられることが、最近の研究であきらかになっている。


 ~ 体のどの部分であれ、筋肉はエクササイズによって鍛えることが可能です  バーベルを持ち上げて上腕二頭筋を鍛えたり、携帯メールの達人になって親指を鍛えたり。
 自己コントロールも筋肉ならば鍛えることが可能なはずです。体のエクササイズと同じで、自己コントロール筋を使うと疲労するかもしれませんが、トレーニングを重ねることで強化されるにちがいありません。 (ケリー・マクゴニガル『スタンフォードの自分を変える教室』大和書房) ~
 ~

 このような考えに基づいて行われたさまざまな実験で、脳には「自己コントロール筋」のようなものが存在することが明らかになった。
 それは、使わなれければ、使わない筋肉が衰えていくようにどんどん衰えていく。
 一方日々の過ごし方によっては、どんどん鍛えられていき、意志力全般が強くなっていくという。

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渡辺源四郎商店

2013年01月28日 | 演奏会・映画など

  畑澤聖悟。高校演劇界ではその名としれた渡辺源四郎商店の主宰だ(最近知ったけど)。
 どの世界にもすごい先生はいる。吹奏楽の世界にも、全国に名をとどろかす先生がいるけど、演劇界のこの方もそういう存在なのだろう。
 高校の美術教師であり、勤務校の演劇部を全国大会に出場させ、自らも劇団を主宰して全国をとびまわっているスーパー教師。教師であることは属性の一部にすぎないのかとも思ったが、お話をうかがい、学校で全校生徒を相手にとりくんでいるワークショップの話を聞いて、教師であることも大切な本質であることと感じた。教員というお仕事もかなり好きな方なんじゃないだろうか。
 その畑澤先生自身が演じる「みなぎる血潮はらっせらー」を富士見キララで観劇、さらに翌日ワークショップを体験した。
 いい経験だった。以前部員みんなで体験した音楽座さんのワークショップが、身体性を高めることに重点があったのに対し、今回習ったのはコミュニケーション能力の感度を高めるものが多かったように感じる。
 それはつまり役者と役者のやりとり、気配り、息の合わせ方といった、学校演劇で必要な基本がベースにあるからだろう。
 いくつかのエクササイズは、すぐにでも取り入れてみようと思った。
 実際に台詞を読み合わせするレッスンは、畑澤先生の書かれた「修学旅行」というお芝居の一節。
 これも、あとで調べたら、高校演劇の歴史に刻まれる作品のようだ。
 この脚本を書かれたのが、ちょうど湾岸戦争の時期で、登場人物には、イラク、アメリカ、日本といった国のありようが投影されているという。○○役は周囲に顔色をうかがう日本、○○役は正義をふりかざすアメリカ、○○役は異次元の存在イラク、のように。
 脚本を書く人ってそんなことを考えてるんだと思った。
 「みなぎる血潮はらっせらー」も、主人公がリンゴレッドを名乗るレンジャーのひとりで、秋田から攻めてきたナマハゲブルーやハタハタイエローから青森を守る戦いをしているうちはただ笑ってみてたけど、首都レンジャーの攻撃で、青森中にコンビニができ、スカイツリーやフジテレビが出来、県民がみんなそこに行ってしまうあたりで、その象徴性に笑えなくなり、リンゴレッドの家族が東京へ旅立っていく後半は、胸がしめつけられる切なさがあった。
 レンジャーの一人が実は宇宙人だった、ぐらいの設定でよろこんでいるのとは格がちがう。
 ここまでの才能を見せつけられると嫉妬心などおこりようもないが、アラフィフの高校教員という共通点があるのはたしか、ひそかにライバルと思い、自分も精進していこうと元気が出た二日間だった。

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役割

2013年01月26日 | 学年だよりなど

 1学年だより「役割」

 イチロー選手や松坂大輔選手のように、小学生の頃からメジャーリーグで活躍することを夢見て、夢の実現に向けて努力を重ね、その結果として大輪の花をさかせることのできた人がいる。
 いろんな分野で、そういう例をあげることはできる。
 そして多くの人が「夢は叶う」と口にするし、そういう本もたくさん出版されている。
 日本語を正確に用いるならば、「夢は叶う場合もある」「夢によっては叶う場合もある」というのが現実を表していると言えるだろう。
 叶うかどうかは、「夢」の内容による。
 イチロー選手のようになりたい、長友選手や香川選手のようになりたい、もしくは山中教授のようにノーベル賞をとりたいと思っても、現実的には難しいだろう。
 もちろん、理論的には不可能ではない。
 これから急に才能が開花するかもしれない。
 しかし、現実をみつめたならば、みなさんにはMLBやプレミアで活躍する人生は与えられていなかったから、この学校で高校生活を過ごしていると考えた方が生産的だ。
 それは決して、みんなに才能がないことを表さない。
 別の場所で、別の分野で才能を開花させてほしいという指令が、天から下されているのだ。
 今の時点では、それが何かをわからない人が多いと思う。
 三砂ちづる先生(津田塾大学教授)はこういうお話を紹介している。


 ~ ある村に伝説があった。
 ある年、ある日、ある時間にこのような風貌の旅の男が村の端を通るであろう、という。その男こそ観音であり、村に残り、村を救ってくれるであろう、というのである。
 村人たちは、その日を心待ちにしていた。
 その日、その時間がやってくると、伝説どおりの格好をした旅の男がやってきた。
 村人たちは「お待ちしていました、あなたこそ観音です。どうぞこの村を救ってください」と言う。
 実はその旅の男は、観音でもなんでもなくて、本当にただの旅人だったのだが、「あなたたちがそんなに言われるなら、わたしは、きっとそうなのでしょう」と言って、旅をやめ、その村に残り、その村のために尽くした、その男の働きは、村にとってとても役に立った、という。
 その男はもちろん、もともと観音であったわけではない。しかし役割を受け入れることにより、観音ならずとも有為な人間として生を終えたのである。
 役割を受け入れる、とはそのようなものだと思う。自分には到底そのような力はないと思っても、期待されることによって、役割を全うできる人間になっていく。 (内田樹・三砂ちづる『身体知-身体が教えてくれること』木星叢書) ~


 他人から何らかの役割を求められたとき、それが才能の開花場所であることが多々ある。

 

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早期退職

2013年01月25日 | 日々のあれこれ

 埼玉県の公立の先生方で、年度末を待たずに退職する先生がおよそ100人ぐらいいらっしゃるという。
 条例の改正により、一月いっぱいで退職するほうが多くの退職金を支給されるからだという。
 なんということか。
 100人て。
 今年度で退職される方は県で何千人いらっしゃるのだろう。
 そのうち、わずか100人しかこういう辞め方をされないなんて。

 キャリア教育の充実。今後これに文科省が取り組んでいくという報道が先日あった。
 高校で週に一回の「キャリア教育」の時間を設け、将来像についてしっかり考えさせる。安易にフリーターの道を選ばないような人生設計をさせるのが目標の教育だという。
 総合学習の一環と考えればいいだろうか。
 英語やコンピューターを身につけさせようとするのも同じで、産業社会のなかで有意に生きていける人材育成を、より徹底せよということだ。
 これがお上の指導であり、今の社会の要請であると解すべきだろう。
 
 われわれはこんなことも教える。
「勉強して大学に行こう、就活して正社員になろう。フリーターのままだと生涯賃金は正社員の三分の一にしかならない。
 かりに高校三年生のときに、○○時間勉強して難関大学に入り、その結果一流企業の正社員になれたとする。
 生涯賃金から換算すると、今受験勉強するのは、時給数千円のアルバイトするのと同じことになるよ。
 勉強するのは人生の得だよ。」

 産業社会に需要に基づき、それに見合った人材を養成し供給することのは、近代教育システムの根本原理でもある。
 当然、市場の原理、経済の原理が第一にはたらくことになる。
 世の中にはさまざまな仕事があるから、きっと自分にあった仕事がみつかる、といって無謀な夢を撤回させるのも、キャリア教育の一つの真実だといえる。
 学校教育は市場原理で行ってはいけないとする意見もあるが、文科省はそうではない。
 今のお上の指導にしたがって生徒づくりをするなら、経済原理を第一に考える生徒は、正しい成長をしていることになる。
 まして教える側が、身を以てそういう生き方を示すことは、お手本にこそなれ、批判されるべきことではないはずだ。
 「そんなつもりで教えているわけではない」と言う先生もいらっしゃるかもしれない。
 個人の考えはどうあれ、実際にやっていることそうなのだという意識は必要だろう。
 もしくは余計なことを考えずにやるべきことをきちんとやるか。

 経済原理に従って、より自分に有利な人生を選択すること、選択できることは、私たち自身がそういう社会を作ろうとしてきた結果手に入れたものだ。
 公にものを教える立場であれば、コスパの計算をきちっとして、自分が得する生き方を選ぶべきだ。
 「自分のやりたいこと」「自分のためになること」「自分の願い」「自分の利益」 … 。
 これほど不可侵なものはない。
 「公務員のモラル」とか「教師の矜恃」とか、なんかよくわかんない価値を持ち出して、早期退職の先生を非難する人がいたなら聞いてみたいが、前近代社会にもどりたいのだろうか。法や権利より義理人情が優先する社会がいいのだろうか。

 埼玉県のご退職される先生方は、ぜひしっかり計算をして、全員が早期退職をされたらどうだろう。
 現場が混乱するなどとのたまう方がいるが、それだったら書類上だけ退職したことにして、一ヶ月か二ヶ月だけの再任用をして働いてもらえばいいだけのことではないか。
 「あの先生は早期退職なんだって」
 「あの先生は私たちのために、150万円とか関係ないっていって残ってるんだって」
 とか生徒が語りはじめてしまうのが一番よくない。
 そういう事態が生まれることは、けっして個々の先生の責任ではない。
 システムの瑕疵を個人の問題に矮小化して、自分は責任逃れしてる卑怯なヤツが必ずいる。
 経済的不利益を被ることを前提にしながら職務を全うせよという文科大臣の言葉など、許されないレベルの反社会的、反文明的発言だとしか言いようがない。

 いま、定年を待たずに退職される先生も相当数いらっしゃる。
 悠々自適に暮らせるめどが立って退職される方よりも、厳しい現場のなかで心や体を病んでしまい、早期退職を余儀なくされた場合も多いと聞く。
 長年現場で苦労された先生方が、何十万円かのお金の問題で、あらぬ批判を受けねばならない状況なんて …(ううっ、泣きそうになってきた)。
 もし自分が生徒だったら、先生長い間おつかれさまでした、残りの一ヶ月ぐらいは、先生の教えに従ってきちっと暮らしますので、どうぞ早めにお休みください、ぼくらに気遣って何十万円のお金をみすみす無駄にするなんてことはしないでくださいと言ってあげたい。

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センター評論

2013年01月24日 | 日々のあれこれ

 センター試験の国語の平均点が、中間発表では五割を下回っている。
 けっこう下がるとは思ってたが、ここまで低くなるとは思わなかった。
 勉強足りなくね? うそうそ。
 とくに一番の評論のできが例年より悪いようで、小林秀雄の文章が今の高校生には読みづらかったからだというのが、大方の見立てだ。
 それもある。だいたい現代文で、注を20個もつけないといけない文章は、センター試験としては不適格なのだ。
 根本的にそこを誰かちゃんと言ってあげてくれないかな。
 いくらでもいい文章があるのに。
 「鐔(つば)」にいたっては、注として挿絵まで添えられている。
 絵を見せられたって、女の子のなかには全く何について言っているか見当も付かない子がいるんじゃないかな。
 現代文の評論て、文章を論理的に読み取る力を調べるんじゃないの。
 小林秀雄の、こんな文学的随想を、注いっぱいつけて読ませて、一体どういう力を調べようと考えたのか。
 PISA(国際的な学力調査)が行われるたびに、日本の子どもには論理的に思考する力が欠けている、「PISA」型の読解能力をつける教育をしようという声がひろがる。
 大学の先生方もずいぶんそういうことを語ってらした。
 PISA型とはまったく逆の方向性を向いているのが、今回の問題だ。
 小林秀雄の難しさは、今回問題を作られた先生方が、しっかり読み取れてないことからも明らかだ。
 いや、読解はされているのかな。それを問題化する能力に欠けていたのかもしれない。
 何回か読み直したけど、いまだに問の4と6はよくわからない。3と5も正解の選択肢のできがあまい。
 問題文が難しいうえに(「ゆえに」かな)、設問の質が悪い。
 受験生にはもうしわけないが、一生で何問も作らない方々が作られる問題は、こういうこともあり得るとしか言いようがない。

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テッド

2013年01月23日 | 演奏会・映画など

 絵に描いたようなアメリカ人が誰も出てない。もちろん、そんな人はいないのだが。
 一昔前の日本人が漠然とイメージするようなアメリカ家族、たとえば美男美女の白人夫婦と、おしゃまなお姉ちゃんとヤんちゃだけど泣き虫の弟で構成される家族みたいなのが出てこない。
 人種もいろいろ、思想もいろいろ、宗教もいろいろ、家族構成もいろいろ、性別もいろいろ、性格もいろいろ、性癖もいろいろ。
 ぬいぐるみのテディベアに命が宿るという奇跡に、みんな驚嘆するが、アメリカ人なら映画のように受け入れてしまうような気がする。
 そして、時の流れとともに、ほどよく忘れていくことも。
 アーノルドシュワルツネッカー氏の扱いなんて、同じようなものではないだろうか。
 ぬいぐるみの持ち主ジョンが35歳のおっさんになり、テッドもともに二十数年の時を経て、すっかりおっさんになってしまった。「一生親友でいよう」と幼いころ誓いあった二人はずっと一緒に暮らし続けている。
 子ども時代からのギャグを言い続け、雷がなると怖がって二人でベッドにもぐりこむ。
 でも大人なので酒をのみハッパを吸う。観る映画はフラッシュゴードンだ。
 そんなジョンに恋人ができたのは四年前のこと。
 この年齢で四年もつきあっていたら、ちゃんと結婚して新しい生活を築く方向性に進むのが普通だが、そんな雰囲気にならないことを恋人のローリーははがゆい思いでみていた。
 どう考えても、テッドの存在が彼の人生を前向きにさせていない、クマを棄ててほしいと思っていた。
 ジョン自身もそれをわかっていた。
 テッドと別れようとするジョンと、それを予感しているテッドが、水族館に出かけ魚を眺める後ろ姿は、クマの背中がなぜこんなに? と思えるほど哀愁があった。
 結局二人は簡単には離れられない。何かがあれば、テッドに呼び出され出かけていってしまうジョン。
 別れたくない、つまり大人になりたくないのは、ジョンの方だということがわかってくる。
 けっこう、いろんなものの象徴として見ることができるなと思う。
 ジョンの未熟さは、この映画を観る多くのアメリカ人(日本人もか)が、自分のことのように感じるだろう。
 大人になることを求められていながら、巧妙に逃げ続け、そんな自分の心のよりどころになっているのがクマのぬいぐるみだとしたら、それにあたるものはほとんどの男子は持っている。
 母親だったり、こだわりの趣味だったり、過去の成功体験であったり、居心地のいい場所だったり。
 学校の先生なんてその最たるもので、大人になりたくない、成熟した社会の荒波にもまれたくないとの思いで教師になり(ほとんどの教員が深層心理に少しはある)、そんな自分を客観化できないまま齢を重ねると、生徒を暴力で屈服させて平気な人まで生まれてしまう。
 日本という国そのものが、大人になりたくないジョンみたいな存在ということもできる。
 ただアメリカ人は、自分達の未熟さをこうやって笑うことができる。
 未熟の自覚は成熟の第一歩。未熟をネタにして笑えるのは第二歩。
 こういう一見おふざけの映画で、現代のアメリカを的確に描いたうえに、それをさらに客観化して笑い飛ばしながら未来への第一歩にしているのだから、アメリカは意外に大人な面もあるのかもしれない。
 意図的に子どものままでいようと過ごしているわれわれ日本人よりも。
 R15指定にする必要はまったくない。
 子どもはテッドをテッドとして楽しめる。
 でも大人が見たなら、テッドをテッドとして、それからいろんなものの象徴として楽しめるだろう。
 テッドの描く世界に比べると、「玉虫」「地球儀」といった自分の周囲三メートル圏内ぐらいの世界しか描いていない日本の小説の世界は狭い。
 そんな小説をありがたがって何十万人の高校生に読ませようとする文学オタクの大学の先生方も、少し大人になってほしいと思う。

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2013年01月22日 | 日々のあれこれ

 入試がはじまった。
 午前中は試験監督、午後は面接。

 どうして本校を受験しようと思ったのですか?
 具体的にはどんな高校生活を送りたいですか?
 将来の夢は何ですか?

 はい、文武両道という校風にひかれたからです。
 ○○部に入ってがんばり、現役で大学合格できるよう勉強もしっかりやっていきたいです。
 将来は○○という職業につきたいと思います。
 はい、しっかりがんばります。

 さわやかに「ありがとうございました!」と言われると、「いやいや、こちらこそありがとう。よく受験してくれたね、合格したらぜひ入学してください」と言いたくなる。
 そして彼の夢の実現に少しでも役立ってあげたいとも思う。

 でも、一人一人の「夢」って、そんなに周りがサポートしてあげないといけないのだろうか。
 勉強したいと言えば、場所も教材も教師も、空調まで用意し、質問には親身に答え、プリントを用意し、宿題をやってなかったら出来るまで待っててあげて … 。
 部活をやりたいと言えば、場所も道具も顧問もあつらえ、日々の練習メニューを考えてあげ、コーチをよんであげて、試合のだんどりをし、練習が遅くなれば駅まで送り、合宿までしてあげて … 。
 そこまでしてあげないと叶えられない「夢」って夢なのかな。
 なんらかの要因で、夢の実現が困難になることはふつうにある。
 それであきらめる夢なら、それは夢とは言えない。

 ある特定の学校で、特定の顧問の指導のもとでしか叶えられないことって、ほんとに「夢」なんだろうか。
 それは自分勝手な人生計画にすぎないんじゃないか。
 私は○○高校を受験して、○○部に入り、結果を残して、推薦で大学に入りたいです。
 うん、そう願うのはその人自身の自由だ。
 ただし世の中は、そうそう思い通りにいくものではない。
 何か予定が変わったときに、自分の希望だけは手つかずにしておいて、自分以外のものが自分にあわせるように要求するのは、国語的には「自分勝手」という言葉の範疇にはいる振る舞いだと思う。
 おさない子どもはしかたがない。
 いい大人が「○○の夢をつぶすな」と一緒にさわぐ姿があるとしたら、かなり品のない振る舞いに見えてしまうのではないだろうか。

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バカを治す

2013年01月21日 | 学年だよりなど

 学年だより「バカを治す」
 
 「B層」という言葉がある。
 みなさんが小学校三年生の時に行われた衆議院総選挙は、「郵政民営化選挙」とよばれ、小泉純一郎ひきいる自民党が圧勝した選挙だった。
 その際、自民党がある広告会社に建てさせた戦略では、国民をA・B・C・Dの4層に分類し、B層にむけて徹底した対策を行った。
 B層とは、「マスコミ報道に流されやすい比較的IQの低い人たち」と定義されていた。
 この層の人たちは決して無知ではない。テレビを観、新聞も読み、本にも目を通す。
 自分たちはそれなりにものを知っているという意識もある。
 ただし、ものごとを深く考える習慣には欠けている。
 小泉自民党は、この分析に基づいて、マスコミを使ってワンフレーズのわかりやすい主張をぶつけていくことにした。
 問題を極端に単純化し「郵政民営化に賛成か反対か」「改革なくして前進なし」「自民党をぶっつぶす!」のスローガンだけを徹底して伝える戦略をとった。
 そこに理屈は存在しなかったが、当時多くの人々はこの雰囲気にのり、自民党に投票したのだ。
 後のこの戦略が明らかになり、国民を愚弄しているのではないかと国会で話題にもなったが、小泉首相の戦略が完全に狙い通りになったのも事実だった。
 その広告会社の分析によれば、若者の多くがこのB層に含まれていた。
 評論家の適菜収氏は、B層の人間とは「近代的価値を無批判に信じるバカ」であるという。
 「民主的」「平等」「人権」「発展」「改革」といった言葉に簡単にだまされてしまう人たちだ。
 バカを脱するには、たんに勉強するだけではなく、ものの見方を変えていく必要があるという。


 ~ 勉強してもバカは治りません。
 バカが資格をとっても「資格をもつバカ」になるだけですし、バカが英語の勉強をしても「英語ができるバカ」になるだけです。
 バカとは「世界の見え方」の問題です。
 バカから脱却するのはなかなか大変です。
「バカは死ななきゃ治らない」という言葉どおり、小手先の技術ではバカは治らない。
  … 物理的に死んだら元も子もないので、精神的に生まれ変わってしまうことです。
 つまり、世界観を完全に転換する必要がある。価値基準そのものを変えるわけです。
 そのためには、知識ではなく教養が必要になります。
 教養とは歴史や世界に対する態度です。
 ただ単に知識を集積するだけなら、一部の大学教授のように秀才バカになるだけです。 (適菜収『バカを治す』フォレスト2545新書) ~

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センター試験

2013年01月20日 | 日々のあれこれ

 登校後すぐに予備校さんのホームページからセンターの問題をプリントアウトして、スキャナーで読み込み、授業でつかえるプリントを作りながら、ざっと全体に目を通す。
 まさか小林秀雄とは。この手の文章を予想した先生はいないんじゃないかな。
 でもなぜ小林秀雄なのか。一回読んだだけではわからない。
 小説は、去年は「虫」で、今年は「地球儀」か。
 これも習作のような作品だと感じる。
 なぜにこの小説。
 午前、午後とポップス系の曲を練習し、入試の準備をして練習を終えた。
 練習のできない入試期間に、少しでも譜読みをしてくれることを願うしかない。
 もちろん、自分もやらねば。
 練習後、本格的にセンターの問題を解き始めてが、気づいたら落ちていた。
 部員たちも早めに撤収したので、木野目のマクドに移動して、解くことにする。
 どこかの女子高生たちの会話をBGMにしながら解いていったが、難しい。
 予備校さんも難化したと解説してたが、去年より10点ぐらい平均が下がってもおかしくない。
 いい問題ならいくら難しくてもなんの問題もないが、ちょっと違和感のある設問があるのも事実だ。
 古文、漢文は、とくに古文は良問だと思う。ちゃんと勉強した子しか点がとれない問題。
 評論、小説はどうかな。

 そのまま南古谷ウニクスに行き、「東京家族」を観る。二十日だから1000円だったけど、1000円で観て良いのかなと思える作品だった。
 山田洋次監督は、製作をすすめる過程で東日本大震災が起こり、脚本を変えざるを得なかったという話をどこかでされていたと思う。
 小津安二郎監督が「東京物語」で東京の家族を描いたのは60年前。
 戦後の日本の家族の変化を描きつつも、敗戦を忘れることのできない人々の心情が見え隠れする(て、言うよね。たしかそう言われてみれば、そんなだった気がする。前に早稲田松竹で観た)。
 小津作品のオマージュとしてつくられたこの作品には、戦争ではなく大震災後の視点が加わった。
 妻夫木くん演じる次男の生き方、台詞に、監督さんの思いが色濃く投影されていると感じた。

 こじつけかもしれないけど、センターの評論や小説を読んでみて感じた違和感がここにあるのかもしれない。震災後の視点が感じられないこと。それでいいのかもしれない。国語の役割ではないのかもしれない。でも、国語って、最終的には生き方を考えるためにもあると考える自分からとすると、大学の先生って何を考えて問題つくってるんだろ、何考えて若者に接してるんだろという疑問を抱いてしまったのだ。

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高校サッカー

2013年01月19日 | 日々のあれこれ

 高校サッカーの決勝が今日実施される。
 先週大雪で試合ができずに一週間順延されたが、今日のセンターを受ける予定の選手が一人もいないから順延できたと聞いた。
 一人でもいたら、どうしただろう。いや、おそらく最初から「いないよね」という前提で進められた話だろう。文武両道とはほど遠い人たちの世界の話だなとあらためて思う。
 でもなぜ一週間後? グランドコンディションもあるだろうが、選手には一泊だけ余分に泊まってもらい、翌日に実施するか、せいぜい翌々日だろう。それが難しそうなら、過去いろんな競技で前例があるように、両校優勝という措置がとられるのが普通の事例だが、今回はそうならなかった。
 選手はもちろん試合をやりたいに決まっている。しかも国立競技場で。
 だから今回の措置を「選手の夢を叶えてあげたいと考えた関係各所が尽力した結果」と見ることもできる。
 でも一方で、高校サッカーに群がって経済的利益を得る人たちの存在の大きさを思わざるを得ないのも事実だ。
 ていうか、なんでこんなまわりくどい言い方しないといけないんだろ。
 結局日テレがそうしたい(お金儲けしたい)と言って、周囲がみんな便乗してるということだよね。
 選手たちには非難される要素はもちろんない。
 一生懸命練習してきたことを、思い切り発揮してくれればいい。
 このレベルまで達している生徒さんたちだから、自分達を支えてくれている周囲の人に対する感謝の念も持ち合わせていることだろう。
 ただし親や教師や、また大人一般は、「高校生の夢」に付随するもろもろのものを、大人の目で見ることも必要だろう。
 それが高校生の夢のサポートを第一にするものなのか、手段にしているものなのか。
 さらに、勝敗を競う部活動では、通常ほんの一握りの高校生を除いて、負けて終わる。
 全国優勝とか全国金賞とかが一番大事な目標、一番大きな夢と設定した場合、ほとんどすべての高校生はそれを叶えられずに高校生活を終える。
 逆にいうと、それを体験させるのが部活動の目標ということもできる。
 夢に向かって努力することの大切さを教えるのは当然だが、一方で努力したからといっても結果が出ないこともあることを学んでもらうのも大事だ。
 「夢」という耳障りのいい言葉で、もろもろのことを覆い隠してしまわないように気をつけたい。

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