水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

5月31日

2011年05月31日 | 日々のあれこれ

 3月の震災以来中断していた学年だよりを復活させた。

 3学年だより「ヤル気」

 「ユメタンはがんばってやっているけど、どうも受験勉強にヤル気が出ません。キムタツ先生のようにヤル気満々になるのはどうしたらいいですか」
 北大志望の受験生からの質問に、キムタツ先生はこう答える。


 ~ 一応言うとくけど、僕は「ヤル気満々」ではないよ。やることが多いからそう見えるのかもしれへんけど、別に「満々」なわけではない。結構落ち着いてるのだ。
  … 結論から言えば、こうすればヤル気が出るっていう方法はないよ。ヤル気って、要は生きる気力なんやから、そんなものは自分で出しなさいと言うしかない。
  … 僕かって「今日はどうもヤル気にならんな」って日はある。おそらく君のご両親とか先生方だって同じようにある。だけど生きるためにはヤル気にならざるを得ん。
 ヤル気にならないと授業が成り立たないし、お父様は仕事をクビになるし、お母様がヤル気にならないと家の中はグチャグチャになるはずだ。
 だから「どっこいせ~」と言いながら大人は頑張っとるのだよ。
 君らは頑張らなくてもいい。成績が末期的に落ち込んでしまうぐらいのデメリットしかないのだから。つまり勉強しなかったからって餓死することはない。(「キムタツブログ」2011年5月27日) ~


 ヤル気にならないことを理由にして、やらずにいられるというのは、大人の側からは実に幸せな姿に見える。
 もっと正直に言えば、甘えているように見える。
 いったい、誰に食わせてもらってるんだ、と。
 しかし、誰もが通ってきた道なのだから、そのこと自体を引け目に感じる必要はない。
 今はぞんぶんに保護者の方の庇護を受け、のちのち独り立ちしていくための力を十分に養っていけばいい。
 ヤル気は、やることからしか生まれない。
 ヤル気が出るのを待つという手もあるが、出ないままに一生を終える人もいる。
 さしあたって目の前にあることから、「とりあえず」「少しずつ」やっていくしかない。
 ただしノってきた時には、少し多めにやろう。
 まだまだ受験勉強は先が長いが、調子の出ない時にどうすごすか大事だ。
 毎日の勉強の最初はこれをやる、というルーティンを決めておくとなおいい。
 ヤル気があってもなくても自然にそういう流れが生まれるようにするぐらいのだんどりは必要だ。
 大人だって、みんながみんなヤル気に満ち溢れて働いているわけではない。
 むしろ、普通は逆の時間帯の方が多いのではないか。
 だからといって、働かないわけにはいかないではないか。
 皆さんの生活費を、学費を稼がねばならないから。
 ヤル気に満ち溢れた状態で一年(ていうかあと数ヶ月)頑張りきれるなら理想的だが、そんなことは普通はありえないことを前提に、いろいろと計画していくのがいいと思う。

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少女達の羅針盤

2011年05月30日 | 演奏会・映画など

 「少女達の羅針盤」は広島県福山市を舞台にした作品。本庄市舞台の「JAZZ爺MEN」ほどのご当地色はないが、福山市の全面的なバックアップでつくられた作品だそうだ。
 ミステリー仕立ての作品だが、その謎解きの部分は、はっきりいって愚作。
 でも、出演者たちが演じる劇中劇のテンションはすばらしい。
 だって、成海璃子さま、忽那汐里さんたちが演じているんだから。
 映画はどうでもいいけど、ていうか「それはないだろ」と言いたくなる事件の真相が最後に明かされるけど、璃子さまたちの芝居だけをずっと見ていたかった。
 できれば本当にこのメンバーでの生のお芝居を、池袋グリーンシアターぐらいのキャパのはこで見てみたいと思った。
 劇中劇にかぎらず、彼女たちが学校の演劇部を飛び出して、自分たちのやりたい芝居をやる、そのためにストリートで演じるという設定、そしてそれを実現していく過程で起こるいざこざや、そこで生まれる葛藤など、まっすぐな青春映画として楽しかった。
 そう考えると、やっぱプレーヤーなのかな。

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体育祭

2011年05月26日 | 日々のあれこれ

 ほぼ一日曇っていて、暑くもなく寒くもなく、毎年こんな天候で体育祭ができたらいいなと思う。
 綱引きではあっけなく下級生に負けてしまった3年生が、さすがに走る種目では強くて安心した。
 調子こいて注意された子がいて、その担任がすいませんと言ってきたけど、調子にのるのを高校生と言うのだからとなぐさめる。
 ほんと、そうだよな。
 調子にのらない高校生はない。
 論理的に正しい恋愛はない。
 例外のないルールはない。There is no rule but has exception.
 閉会式後、写真撮影をする3年生たちを見ながら、彼らは走るのが好きなのか、盛り上がるのが好きなのか、どっちなんだろとふと思った。
 からだを動かすのは間違いなく好きだ。
 われわれだって、適度にからだを動かすのは心地よい。
 でもそれ以上に、みんなと盛り上がることの方が大事なんじゃないないかなと思ったので。
 そうでなかったら、今日なんか、たとえば100m走に出た子は、クラス対抗の1000mリレーや30人Rにも当然出るから、半日の間に6本を本気で走るという、オリンピックより過酷な日程なのだ。
 盛り上がりがなかったら、とてもやってられないだろう。
 だとしたら、体育祭でなくてもいいのだ。
 閉会式で生徒会長が「次は文化祭盛り上がろう!」と叫んでいたように、体育祭や文化祭は手段だ。
 ただし盛り上がる手段として、男子高校生にとってかけっこほどのものはなかなかない。
 シンプルに結果が出る度合いでは、文化祭よりはるかに盛り上がりやすい。
 わが部活はどうだろう。
 音楽と盛り上がるのとでは、どっちが大事か。
 どっちも大事かな。
 盛り上がるためには、徹底的に音楽するしかなくて、それこそ適当にやるなら肝心の盛り上がりさえ手に入らない。
 音楽そのものの盛り上がりは、どれだけ表現できたかから生まれる。
 だから楽譜に書かれたことを音にしたレベルで終わるなら、むなしい作業と終わってしまうのかもしれない。
 もちろん、楽譜の音符をただ音にしていっただけでぞくぞくするほどの喜びを感じ始める曲もある。
 わかった、マーチがつまらない理由が。もちろん自分にとってだけど。
 とくに課題曲のマーチって、とにかく完全無比の演奏、テンポを一定にできて、音そのものを磨いて、細かい音符を一糸乱れず演奏するという方向性を第一にやらないといけないからつまんないんだ。 
 あくまでも私自身の問題であり、伊奈学さんや淀工さんレベルにまで達すれば、マーチも音楽になる。
 表現レベルに達するには、やはり徹底的に練習するしかなくて、そこには効率だけでははかれない要素も入ってくるだろう。
 効率のいい練習をしなければならないのは間違いないが、理屈を超えたところに新たな地平が見えてくることがある。
 そう考えると、音楽も理論的に割り切れる正しさだけではかれるものでないのもわかる。
 理性的な恋愛がないように、中毒性をもたない音楽は感動を生まない。
 (なんか小林秀雄ぽくね? よく見ると文法的におかしいとこも)
 効率のいい練習は大事だけど、ほんとうに自分の好きなものは、効率やら費用対効果をはかる対象にはならない。
 今の仕事はおまんまを食べ、食べさせていくための手段ではあるが、なんか効率だけではかっていけないというか、はかりたくない要素をたくさん含みもっているから、そういう意味でいい仕事をいただいているなと感謝の念がわいてくる。

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体育祭予選

2011年05月25日 | 日々のあれこれ

 3時間だけ授業をして、綱引きの予選、騎馬戦は学年別に決勝まで行われた。
 昨日までの天気とはうってかわっての絶好の体育祭びより … 、ということは紫外線ばりばりに強い日ということでもあり、UVカット入りの乳液を少しぬったぐらいでは全く防げず、夕方の顔は、コントで出てくる酔っぱらいのおっさんみたくなってしまった。
 若いうちはそれでも日が経てばどんどん新陳代謝してたのに、もう生産がおいつかなくなっている。
 悲しいけど現実を受け入れていくしかない。
 見た目のマイナス化を補う内面のプラスをつくっていくためには、勉強するしかないのだろうか。
 いや、価値観を変えればいいのだ。若さをプラス、老いをマイナスととらえるのは、せいぜいここ数十年の近代社会においてではないか。
 ついこの間まで、老中とか大老とかが名誉ある職であったことでもわかるように、老はマイナスではなかった。
 バッハやモーツァルトはわざと老けてみえるようにカツラをかぶっていたではないか。
 でも、青い空を見ているだけで、騎馬戦でやたら盛り上がっている生徒諸君を見ているだけでうるっとしてしまう状態は、じじいか! とつっこまれてもしょうがないな。

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2011年05月24日 | 日々のあれこれ

 駿台での入試研究会でのお話。
 現代文の分析に入る前に霜栄先生は、「今回の震災は、ふつう人生の中で体験しえないレベルのものだった、これで変われなかったら、おまえ終わりだぞと自分に言い聞かせた」と語り始められ、そして「これからの日本をなんとかするためにも、有意の若者を育てなければならないという思いにかられる」という主旨のお話をされた。
 この志が必要なのだ。
 難関大学に受からせるなどという目先の目標をゴールにしないからこそ、本当の力がつく。
 国語についても「センター試験と東大二次で別々の対策があるなどと思った時点で敗北」という。
 ほんとうに読み取れるか、わかるかの一点だとおっしゃるのだ。
 なるほどと思う。
 わかっているけど、答えられないということはないのだから。
 
 前回のマーク模試の結果がアップされた。
 生徒諸君は数日後にこの結果を受け取り、弱いところをのばそう、こんな勉強をしていこうと考えればいい。
 一方われわれは「よし、この分だと○○くんは○○大学に行けそうだ」「○○くんはきびしくなってきた」などのレベルで資料をみがちだが、それではだめ。
 その結果をうみだした本人、人間そのものをどうしようかと思いながら今後の仕事を考えないと。
 次元をかえること。そこに志がある。

 まあ、それにしても「海水注入を中断させたのはおれじゃない」とか「言い方がちがう」とか言い合っている、えらい人たちって何なんでしょうね。ふつうならとうに切腹してないといけない人たちが。
 若者たちには高い志をもって成長してほしいと願いながら、我が国のトップにおられる方々の情けない姿を見せざるを得ないのが大人側としてはがゆい。志がどうこう以前のレベルだから。

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ジャンル

2011年05月23日 | 日々のあれこれ

 ジャンルには完成する時期というものがあるのではないかと、GOGOカレーを食べながら(またですか)考えた。
 昨日は、午前に指揮のレッスンを受けてぼろぼろになりながら、終わってすぐグリーン車を奮発して都内へ。
 久喜から上野まで、日曜だと550円で王侯の気分にひたれて、快適だった。
 乗り換えて御茶ノ水の駿台で入試問題の研究会に参加する。
 御茶ノ水のGOGOカレーはのっとられてなかったので、いつもどおりロースカツヘルシーサイズ600円を食すが、やっぱこれだよなという濃さである。
 はじめて金沢カレーを食べたのは、大学入学直前に入寮した日で、千成亭という寮生がみんな行く定食屋さんにでかけて、何を食べていいやらわからなかったので、とりあえずカレー330円を注文した。
 銀の平皿にカレーと付け合わせの野菜。フォークがついてくる。ルーはこってりしている。
 その後6年間の学生時代、いったい何皿食べただろう。
 たしかに金沢市内で食べるカレーは、ある程度の共通点はあったと、今は思う。
 それから十数年後、ご当地なんとかとか、B級グルメというムードにも支えられ、金沢カレーと称しておかしくないものを作り上げたのは、GOGOカレーさんであろう。
 おそらく現在の姿が完成形で、だからこそ二匹目のどじょうを狙う人もでてくるが、二匹目以降が本家を超えるのは難しい。
 本家をマネする形で勝負しようとする、その志のレベルで戦う前から勝負はついている。
 そこから新しいメニューが創造されることはない。
 
 ふと落語の世界を思うとき、古典落語とよばれるネタがほぼ完成して以来、新作とよばれるネタは山ほど作られているが、そのほとんどは作者である噺家さん一人のレパートリーにとどまっている。
 たぶん落語というジャンルは、明治から大正、せいぜい昭和初期にかけてジャンルとしては完成してしまったのだ。
 すぐれたプレーヤーはたくさん生まれているが、完成した時代の作品が常にメインであり、見た目も、興業形態も本質的にはそのころと何も変わっていない。
 談志師匠が、このままの落語じゃだめだといくら語ったところで、実際にやっていることは、その才能あふれる弟子達も含めて、数十年前に完成した落語というジャンルそのものに変化を与えるようなものにはなっていない。
 それが悪いというのではなく、完成してしまったジャンルとはそういうものだと思う。
 だからこそ好きで聴きにいくのだし、喬太郎師匠の新作には心ひかれるけれど、じゃ文七元結やる?って言われたら絶対にそっちを聞きたいと思うだろう。
 クラッシック音楽も同じだ。
 こちらは、ネタは落語より少ないくらいだ。
 演奏会にお客さんをよぼうと思ったら、プロもアマチュアも、ベートーベンやチャイコフスキー、せいぜいモーツァルト、ブラームスで、ちょっとひねったプログラムとか現代音楽をいれたら、しかも国内のオケの場合、ほんとに好きな人しか来なくて、経営的に苦しくなるだろう。
 つまり、それほど19世紀に完成してしまったジャンルなのだろう。
 吹奏楽はどうだろう。
 うまく言えないが、ジャンルとしての完成を拒み続けているジャンルという気がする。

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Q10

2011年05月21日 | 日々のあれこれ

 寝る前にポータブルDVDで「Q10」を一話分みるのが、最近のマイブーム。
 昨夜は、貧乏を理由に学校をやめなければならないクラスメイトの住むアパートに前に、クラスのみんなが夜やってきて合唱するというシーンがあった。
 歌うは「さらば恋人」。堺正章の「さよならと書いた手紙 … 」のやつだ。
 こんな昭和な脚本は、なかなか書けない。
 「うるさい!」「何やってんだ!」と文句を言う近所の住民に、校長先生が頭をさげにくる。
 落ち込む生徒達に「常識をやぶるようなことをしないと、伝わらないこともあるんだよ」と慰めるとこがじんときた。
 Q10とよばれるアンドロイド役の前田敦子さん。なんで人気があるのかここ数年の疑問だったけど、なんとなくわかるような気がしてきてきた。
 最近、精神に問題がある女子が追いつめられて変な妄想を抱きながら行う自傷行為を描く、サイコホラーみたいなB級映画をみた。主人公役の演技が絶賛されたらしいが、あれなら「悪人」の深津絵里さんのお芝居レベルで十分に上だし、前田あっちゃんのお芝居は、日本で1クール放映されただけのドラマが、アカデミー賞をはるかに凌駕していることを表している。

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君が代

2011年05月20日 | 日々のあれこれ

 「君が代斉唱時に起立しない教員は免職にする」法案を出した(出す?)大阪の橋下知事の話題は、一教員としてみると、意外と大きな騒ぎにはなってないように見える。
 学校の先生のささいなことなど話題にしていられる世の情勢ではないのが、一番の理由だろうか。
 むかしは、こんな話が出たら、蜂の巣をつついたように日本中の先生方が騒いだのではなかっただろうか。
 「勤評闘争」とまではいかなくても、国歌国旗法案が国会に出された十数年前、組合の先生方を中心に大きな反対の動きはたぶんあったと思うのだが。
 しかし、内面ではもう先生方のあつい思いはその時点でもうなかったのかもしれない。
 現実的に、政治的、思想的な問題にかかわっている余裕のない先生が多くなっていたから。
 目の前の生徒達が、「教師・生徒関係」を成立させる生徒でなくなっていく動きと、組合活動が下火になっていく流れとは重なっている。

 本校で禄をはむようになってすぐ、職員会議の場で「体育祭の国旗掲揚はやめてもいいんじゃないでしょうか」と発言したことがある。
 民主的な教師をきどったわけではないが、私立高校であえてやる必要があるのかという疑問を若き日のみずもち青年は抱いたのだ。
 「それは話し合って決めることじゃない、学園が決めることだ」と言われたと記憶してるが、なるほど、正しい手順である。
 その方針に心から賛同できないなら職場を去ればいいだけのことだ。
 心から納得できないものの、職を賭すほど重くは考えないなら、たとえ表面だけでも快く従うべきだ。
 だとしたら、法律で決められ、法にしたがった教育活動が求められている公立の学校では、決められたとおりにやるのが先生の仕事であるに決まっている。
 知識人とよばれる人のなかには、国歌国旗問題は懲戒権をふりかざして従わせるものではないと、橋下知事を批判する方もいらっしゃるだろう。
 でも橋下知事をそこまで強硬にさせている大阪の先生方の現状というのが想像されて、どちらかというと知事がかわいそうに思える。
 ちょうど、校則のきびしい学校ほど荒れてる学校であるのと同じ図式で。
 みずもち青年は、完全には納得できない気持ちを残しながらも、公立学校に採用してもらえなくてお世話になったこの学校の方針に当然従うことになる。
 歌唱指導の係にもなったから、「君が代」の指導もきちんとやった。
 ちなみに本校の校歌を自信をもって三番まで歌いきれるのは、世界中でおれ一人ではないだろうか。

 所沢高校での国旗国歌問題をめぐる対立は、国旗国歌法案が通ったころと同じ時期だ。
 所沢高校では、長年生徒会を主催とする自主的な入学式が行われていた。
 生徒の自主性を尊重する、伝統校ならではのありようだった。
 そこへ、新しく赴任してきた校長が、学習指導要領にしたがって、入学式では国旗掲揚、国歌斉唱を行うむね宣言する。
 学習指導要領自体に法的拘束力があることは、ずっと前から判例でもあきらかになっていた。
 だから、校長がそう言い出さなくても、本当は先生方がきちんとしたセレモニーを行うべきだったのだ。
 生徒会は当然反対する。所沢高校では、職員会も反対した。
 「校長VS生徒・先生」という図式になったこの問題は、地理的に近いこともあり、身近な事件として注目していた。
 「朝まで生テレビ」でも取り上げられる全国的な話題となり、新聞や雑誌にもしばしば記事が載った。
 生徒指導の研究会にでかけて、内情にくわしい先生にお話を聞いたりもした。

 けっきょくどう収束したんだっけ? この問題は。
 いま思うと、いやその時もうすうす気づいていたが、国歌国旗に反対する先生がたは、けっして生徒のためを思って反対していたのではなかった。
 ご本人の「つもり」はそうではなかったかもしれないが、第三者として彼らがとった行動を見るならば、生徒の自治を守るためよりも、思想信条の自由を守ることよりも、民主主義を守ることよりも、ご自身の対面を守るためのものであった。
 そういうことに反対できる自分、反対することで教師としての存在感を得、生徒からも民主的教師として扱われる、そういう自分を守る行動であった。
 だいたい「子ども達のために」とか「教育的に」という枕詞のつく議論は、そのほとんどがうさんくさい。
 コンクールの抽選のときに「生徒のことを考えて便宜をはかってほしい」とぬかす輩と同じと見ていい。

 公教育の場では、ほぼ同じ役割を担う私立の教員もふくめて、生徒の前に大人の代表として立ちはだからなくてはならないのは基本だ。
 自分の思想信条がどうあれ、従うべきことには従わなくてはならないと教えるのが仕事だ。
 それで個性が失われるとかいうなら、そんな程度の個性など本物ではない。
 それで失われる程度の「自分」なら、その程度のものだったのだと悲しめばいい。
 もっと大きなストレスは世の中に出れば日常茶飯時なのだから。

 ~ 刻下の国旗国歌論を徴する限り、ほとんどすべての論者は「法律で決められたことなんだから守れ」といったレベルの議論に居着いており、「国民国家の成熟したフルメンバーをどうやって形成するか」という教育的論件に言及することはまずない。by内田樹先生  ~

 法律問題にしないといけないのだと思う。
 学習指導要領の中から、こと国歌国旗の件だけを、別枠にしないといけないのはおかしい。
 まして一教員レベルが。
 問題があるなら、お上に言うべきではないか。
 われわれは指導要領に従ってやれと言われた内容を粛々と行うのみ。
 生徒のことを思って、ちょっと自主的に指導要領を逸脱してみたことがあったけど、さんざんな目にあった。
 知識人、評論家先生は誰も守ってくれなかった。

 ほんとうは橋下知事が言うような法律をつくらなくても、現行法の下で、教員は起立しなければならないのだ。
 なのにそれをしない先生がいる、しなくても税金から給料をもらい続けられるシステムがある。
 こういうシステムの弊害は、今回に震災で明らかになったお役所の論理とも重なる。
 今回の震災で、皇室と自衛隊がもしなかったならば、日本はいったいどんな悲惨な状況に陥っていただろうかと思うとき、若き日の疑問も氷解し、心から日の丸に頭を垂れたいと思いがわいてくるのである。

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出会い

2011年05月15日 | 日々のあれこれ

 中学校の先生になり、しかも吹奏楽部顧問になったOBのたくや君に指揮レッスンの紹介をしたら、さっそく見学にでかけ、そのまま入会するという。
 紹介したかいがあるというものだ。
 腰や肩がどうしてもまわらなくなった時、みずほ台のゴッドハンドのもとに出かけ、一瞬にしてバランスを整えてもらうことが年に何回かある。
 腰がいたいと言ってる先生に紹介すると、「どこどこ」と言ってすぐに行く方と、「行けたら行くね」と言う方とがいらっしゃる。
 この本おもしろいよと話したときに、「うそ、何」と言って帰りにすぐ買ってしかも読む人と、「いつか貸して」と言っててすぐに忘れる人とがいる。
 人ってどっちかだ。
 自分は、たとえばいつも読んでるブログでおもしろいとか書いてあったら、すぐアマゾンで注文してしまうので、はっきり言って本代どうにかなりませんかという厳しい忠告を受ける場合も多い。
 今年みたベストのお芝居である「千年女優」は、週刊SPAの紹介文を読んだ直後に電話をかけていた。
 すぐやる人が成功者だ、なんて言うつもりはないし、期待してたほどでなかったり、相性があわなかったりすることもあるけど、深く考えずに動いて、話して、注文して、出かけて、そこで出会ったものには、実にかけがえのないものが多いなと今あらためて思う。サンクス、おっちょこちょいの俺。

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子別れ

2011年05月14日 | 演奏会・映画など

 落語「子別れ」は、上・中・下の前編を演じるとCD2枚分になってしまう大作。
 腕はいいが呑兵衛の大工、熊五郎。酒のいきおいで吉原に居続けをし、女房のおみつと離縁するまでが「上」。
 吉原の女郎を身請けしたものの、家事もせず金を使うだけのその女が男をつくって出て行ってしまい、熊が再度独り身になる「中」。
 さすがに酒をやめて仕事に精を出し始めた熊が、息子の亀吉と出会ったことをきっかけに、おみつと復縁する「下」。
 「子は鎹(かすがい)」とよばれるこの「下」の部分だけが語られることが多い、ファンの多い人情話だ。
 橘家文左衛門師匠でこの噺を聴くことができたが、期待にたがわぬ名演だった。
 大柄で、はっきり言っていかつい顔で、ドスのきいた声を出すときは、もとやーさんかと思ってしまう師匠だ。
 今日も開口一番「立派なホールだねえ、草月会館? へ、上納金で建てたんだな」とぼそっと言う。 
 が、見た目は豪快で、芸は実にきめ細かい。
 今は酒をやめてるが、けっこうあそんだ過去をもつ熊五郎の雰囲気をよく伝わる。
 また息子の亀吉の存在感がいい。たんに純粋で幼いこどもではなく、親の事情を理解して、大人のばかさかげんにあきれながら、両親が恋しい気持ちをおさえきれなくなる様子が心にしみた。
 じっくり40分くらいの語りだったかな。カバンにタオルがあってよかった。
 
 これ、堀江貴文氏だったら、たぶんムダに長いといいそうだな。
 彼はいつか「小説を読むのは時間のむだ」だと言ってた。
 同じ情報を得るために、ほかに有効な手段はたくさんあると。
 なるほどねえ。
 文学って情報を得るためのものではないから。
 そういう要素もあるけど。本質ではない。
 情報などほしい状態じゃない、ていうか生きる気力があんましでないんですけど、みたいな時に助けてくれるのが文学だ。
 元気をくれるという助け方ではなく、もっとどうしようもない奴もいるよって教えてくれるかたちで。
 堀江氏も、そういう人生の機微が理解できてれば、あのあふれる才能をもっと上手につかえたかもしれないのに。

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