両校が握手している写真を目にしただけでグッとこみあげるものがあった。
延長50回での決着。甲子園大会ほど注目されてない軟式野球だから、なおさらだったのだろうか。
四日間戦い続けた崇徳、中京両チームの選手達は、本当にいい経験ができたと思う。
ジャンルのなかで日の目を見ていない度合いでは、吹奏楽部における男子達も同じかもしれない。
今日、本校に集まった約170名の男子吹奏楽部員たち。
合奏を開始してみて、案の定細かいところはあらい(どんな日本語 … )。
気合いでがんばれたかというと、そこも足りない。
いちばんはじけて演奏してくれてたのは慶應志木さんの3年生たちだ。先輩が引退したばかりのわれわれ他5校は、若いのに若さが足りない。
本番までに、もっと譜面をさらえれば、はじけて演奏できるかもしれない。
9月23日は、いろんな会場で演奏会が行われる日ではあるが、気持ちでは一番になれるように、そして集いし6校(演奏は7チーム)みんなが、延長50回を試合した分くらいを、本番2時間半にこめて演奏したいものだ。
昨日で夏期講習をうちあげて、今日合同練習おえて、いよいよ明日から2学期。
やることはたまっているが、「LUCY」だけ観てきてもいいでしょうか。
数年前、いやもっと前かな、代ゼミさんの、教員研修ではなく普通の春期講習に参加したことがある。
さすがに窓口で申し込みすると「何、このおっさん?」という顔されるだろうから、電話と銀行振り込みとかで申し込みをし、当日は老けた浪人生の体で、代ゼミ本部校での講義を受けにいった。
有名な先生だ。一昔前なら、その先生の授業を申し込むために前の晩から並ぶ生徒がいた … というレベルで有名な方。
なので、それなりに広い教室の前数列に数人しかいない状態であることに、当日は驚いた。
ガイダンス的な春期講習で、二日で終わる講座だったとは言え、まさかこんなにがらがらだなんてと。
もっとずっと昔、「やべ実はおれ古典なんて教えられねえよ、予備校でも行こうか」と危機感を感じて参加した土屋博映先生の春期講習は、けっこう満員だったはずだ。
「ここ10年ぐらい、実は生徒数の減少には歯止めがきかなくなっていた」という最近の新聞記事を読み、そうだったのかと思う。
もうひとつ言えば、今の代ゼミ本部校とかいってみるとわかるけど、そのあまりにも立派な設備に、経営は大丈夫なの? と他人事ながら心配したこともある。
「八吾郎出世(妾馬)」という落語で、殿様のお屋敷に呼ばれた八っつぁんが、敷地内に入ったこう言う。
「たいそうなお屋敷に住んでやがんねえ。店賃は、大丈夫なのかい?」と。
そんな感じ。
大丈夫じゃなかったんだろうね。
「講師の代ゼミ、生徒の駿台、なんとかの河合」などと一時言われたこともあるが、その有名講師が売りの一つになってたことも問題点だったのかもしれない。
代ゼミで学ぼうとする生徒は、やはり誰それ先生の授業を受けたいという意識が、他校より強いだろう。
しかし、みんなのそういう希望を叶えることはできないし、コースによっては知らない先生ばかりになることもあるだろう。すべての先生が参考書を書いてらっしゃるような方ばかりではない。
対照的なのは河合塾さんだ。参考書や問題集をとっても、「誰それの古文」みたいに冠つきの代ゼミのとは異なり、「なんとか演習 河合塾国語科編著」みたくなっている。
有名な先生はいないかもしれないが、河合塾というシステムのなかで、どの生徒にも同じような指導がしてもらえるだろうと受験生は感じるにちがいない。
ていうか、予備校さんの心配をしてる場合じゃなかった。
本校もさいわい今は定員を超える生徒さんにきてもらってるが、明日は我が身だ。
教員一人一人の力量も大事だけど、どういうシステムで運営していくべきなのかを学校自体が意識してないと。 ただ、そうなるとやはり、高所に立った目線で学校と娑婆を観ることのできる存在は必要だ。
夏休みも終わりか … 。
あー、休んだー … という感覚がないけど、それはありがたいことだ。
いづれ訪れる一年中休みの日がこわくてしょうがない。どう過ごそう。
考えてもしょうが無いことは、考えてもしょうがないな。
小講堂に掲示してある「夏休み宿題チェックリスト」も、だいたい埋まってきた。
以前ほどきびしくチェックしてないのは、文化祭直前に居残りになり合奏に出られないなどという子は、まあその程度だったと思えばいいのかなとの達観が強くなっているからかもしれない。
夏休みの宿題代行業が最近はあるという。
学生時代、なかば冗談で、メシおごるからレポート書いてくんないなんて会話をしたものだが、今はれっきとした商売が成立しているようだ。
それはたとえば小学校の読書感想文といった宿題にも対応しているそうで、学生バイトではなくプロが書くことをうたい文句にする業者は、400字の原稿用紙1枚で数千円の料金がかかるという。
400字なんて、このブログレベルでいいなら数分でかける量ではないか。
一枚数千円て … 。なんで、こっそり連絡くれないのだろう。
その半分で、いい仕事してあげるのに。
直接ブログを読んだのではないが、尾木先生が、こう述べているそうだ。
~ 「子どもに詐欺の正当性を教え、お金でなんでもできるという歪んだ価値観を教えることになります。子どもの学力を奪い誤魔化すことになりますね」
また、宿題代行サービスに従事している大学生には、「このような『教育詐欺』への加担からすぐに撤退してください!」と訴えた。「読書感想文の原稿用紙1枚が、どうして中3で、5500円もするのですか!? 四~五枚代筆すれば、それだけで三万円近く! これは大学教授の水準をはるかに超えた暴利ですよ」として、「勇気を奮って撤退してくださいね…尾木ママ、信じていますよ」と締めくくった。 ~
ああ、教育者にあるまじきことを述べてしまいそうだ。
お金ですむんだったら、別にいいんじゃないかな。
そうやって代行してもらうことで浮いた時間を、海で泳いだり、山へ虫とりにいったり、『大宇宙の少年』読んだり、もっと夏休みらしい有意義なことに使ったらどうだろう。
代行してもらって、学校に提出して、ばれないのなら、それでいいと思う。
先生も、ちゃんと読んでないということなのだから。
たとえば読書感想文の書き方をちゃんと指導できる先生って、小学校の先生全体の何割いらっしゃるだろう。
国語がご専門で、山田式感想文をきちんと学んだ先生なら指導できるかもしれないが、「書き方は自分で考えろ」的指導の先生は相当数いらっしゃるのが現実ではないだろうか。
自分でうんうんうなって、むだに時間かけてやっとのことであらすじをまとめる程度の作業をするのは、時間のむだだ。
代行で済ませようと考える人は、学校の宿題をその程度のものとしか考えてないということだ。
そう思う本人が悪いのか、つまんない宿題をだす方が悪いのか。
代行で提出されて気づかない方が悪いのか。
そうやってお金で他人に依頼するのがだめなのだろうか。
しかしそれも、われわれは基本的に自分でできることでも、いろんな人にやってもらって、それに対価を支払うことで現代社会は成り立っている。
たとえば介護サービスはどうか。
田舎に住んでいて、お嫁さんが老いた親の面倒を外部に委託すると、あの家の嫁は人情味がないとか厭味を言われたりするなんてこともありそうだが、そういうのはどうなの。
ベビーシッターはどうか。家事代行は?
外食産業は、食べ物を調理するという人の営為を委託するところから成立している。
尾木先生が言われる「教育詐欺」という言葉は、あまりに感情的で、教師側の都合しか見てない言葉に思えるのだ。
もう何年も前のことだが、授業中に小テストを行った際に、思わず笑みのもれる解答に出会ったことがある。
「氷が溶けると何になりますか」という問いに、「春になる」と答えた生徒がいたのだ。
自分としては、もちろん「水になる」という答えを求めていたのだが、その着眼点のすばらしさに思わず二重丸をつけ、「待ち遠しいね」とコメントを書き添えた。
あとで返却するときに、この答えをクラス全員の前で紹介した。
「おー」というどよめきとともに、「なるほど」「そういう発想って斬新だな」との声が聞こえる。
自分のことのようにうれしくなり、金沢大学の伝わる「四校寮歌」の一節を歌う。
「氷塊のごと 我が胸に 抱く心の溶け出でて 語り明かさん 今宵かな 星影冴ゆる 記念祭 … 」
その答えを書いた生徒は、その日のうちに、いじめっ子に体育館裏に呼び出され「てめえ、いいかっこしてんじゃねえぞ」とボコられ、学校に来れなくなってしまった … 。
なんてね。そんな話はない。
「氷が溶けると」「春になる」という「笑点」のネタみたいな話が、いまだに教育関係者がエッセイでつかったりする。新聞のコラムなんかでも、きっと複数回使われているのではないだろうか。
たとえば、いつのまにこんなお仕事をされているのだろうと思われた元ヤンの義家弘介先生。
アドバイザーを務める北海道芸術高校のページで、この話をお書きになっている。
~ 「氷が溶けたら、何になりますか?」
小学校の理科のテストなどでよく出される問題。答えは当然『水』であり、それ以外の解答は不正解とされるだろう。
しかし、是非、違う視点から考えてみて頂きたい。
もし、ある生徒が、この問いに対する解答として『春』と答えたなら、あなたはどうするだろう?
それを不正解と断じることが果たしてできるだろうか? 雪国で生まれ育った私にはできない。
閉塞感が漂う現代社会において、こういった発想こそが新しい可能性の扉を開く原動力になると私は思う。
そして北海道芸術高校はまさにそこを大切にしている高校なのだ。
「政治について関心を持っているのは、ポスターの顔が嘘くさいところです」
私は心の中で彼女に花丸をあげた。
そこから初めて等身大の「なぜ?」が生まれ、そして、そこから学問が始まるのだ。 ~
「小学校の理科のテストなどでよく出される問題」とあるが、「よく」は出ないし、「など」とあるが、他教科では出ないんじゃないかな。
「不正解と断じることが果たしてできるだろうか?」
問題の枠組みによるだろう。
理科の問題で出されたなら、不正解以外の何ものでもないのだから、それはきちんとバツをつけてあげるべきだ。
それならいっそ、ロックが水割りになるとか、ツバルが消えるとかの答えの方がいいのではないか。
この程度の答えを「新しい可能性の扉を開く原動力」と持ち上げてしまうところが、われわれ学校の先生の貧困な頭脳を象徴する。
STAP細胞をもてはやしたのとどこがちがうのだろう。
こんな発想から「学問は始ま」らない。
何と何が同じで、何と何が異なっているのかを、教え、学ばせることからしか学問は始まらない。
考えてみると、専門家にポップスの曲をみてもらうことはあまりない。
まして文化祭で演奏するミュージックエイトの譜面とかは、なおさらだ。
こういう曲も専門家にみていただくと、おそろしくクオリティがあがる。
もちろんすぐに演奏そのもののクオリティがあがらない面はあるが、何をどうすればいいのかが明らかになる。
星野高校にみんなで出かけ、パート練習から、合奏。
(星野の)中島先生に「全部、お願いします」と言って、押しつけた合奏を聴きながら、そんなことを考えていた。
チューバのプレーヤーとして、バンドの指導者として活躍され、今年度から星野高校の音楽の授業と吹奏楽部を担当される方だ。
なにより中島先生自身が、ポップス曲を勉強されている。
ポップスの演奏経験が豊富だとかの話ではなく、吹奏楽の演奏としてどうすればいいのかのお勉強を。
原曲を聞き込んで歌詞も覚えるくらいにご存じで、そのニュアンスを演奏するのはこうしたらいいと、指導される。
そこはベースラインチームで四小節のストーリーをつくってください。
このフレーズのこの臨時記号に気持ちがこもってるんだよ。
転調したときは、シャープやフラットの変わった音をもっと強調して … 。
どきどきするくらい勉強になるなあと思える感覚は久しぶりだった。
合同演奏の練習だけでなく、うちだけの曲の合奏もぜひ一度みてもらいたいと思う。
考えてみたら、星野の先生なのだから、レッスン代も気にしなくていいはずだし、それに同じ学園内の職員としては俺の方が格上ではないか。
ちょっと来てくんない? と言えば拒否はできまい。ふふふ。楽しみだ。
もちろん自分ももっと勉強しようと思ったよ。
二回目の学校見学会(オープンキャンパス)は、一回目に続き、昨年を上回る方にご来校いただいた。ありがたいことだ。学校長の説明のあと、今回は少林寺拳法部の発表があった。
昨年全国優勝、初のインターハイ種目となった先日の大会では、惜しくも同点2位となったものの、まさに高校生最高峰の演武だ。自分も感動してしまったではないか。
うちも来年は発表させてもらえるよう頑張ろう。
全体後の部活見学には、二人のトロンボーン経験者がきてくれた。
その一人のお母様は、毎年文化祭のライブ喫茶におこしいただいていて、ご子息もここに入ればいいなと思ってらしたという。勉強の方が少し心配でと言われるので、勉強のやり方ははいくらでも教えるので、ぜひまた来て下さいと話した。
その後少しパート練習してから再度集まって、星野高校で合同演奏する「ズッコケ男道」「炎と森のファンタジー」の合奏。
知っている曲? と訊ねると、2曲とも聞いたことがないと言う子が相当いる。
「この曲やるよ」と伝えてあって、YouTubeひとつ調べないまま合奏に臨む問題点は、明日あらためてお説教しなければ。
知らない人が多いわりには、また最初の合奏にしてはまあまあできていた。
しかし、「関ジャニ」に「SEKAI NO OWARI」の曲を聴いたことがないなんて。
じゃ、君たちは何を聞いているの。いろいろ他のを聞いてるんだろな。
それほど趣味、好みは多様化しているということで、しかも楽曲はダウンロードで手に入れる時代になっているし、CDが売れなくなったのもうなづける。オワコンなのだろう。
でも、アナログ人間としては(CDは昔ちょーデジタルあつかいだったのに)、さすがにレコード復活とまでは言わないが、CDはなくならないでほしい。
「炎と森のファンタジー」を演奏することになって、昨日、指揮レッスンの前にさいたま新都心で「TokyoFantasy」というSEKAI NO OWARIさんのドキュメントともイメージビデオとも創作とも言える映画を観てきた。
彼らが、かくも短期間に人口に膾炙したわけを知りたかったからだ。
なんでかね。たしかに曲いいもんね。
あるファンがインタビューされて「SEKAOWAの曲を聴くと元気が出る」と語っているシーンがあった。
よくある受け答えなのだが、学校の先生ってこんなこと言われることあるだろうか。
まずないだろうなあ。あの先生の授業を受けると、なぜかやる気が出ると感じさせる授業を目標にしようと突然思ったのだった。
「不良」になる子供は家庭環境に問題がある … とよく言われるが、この場合に家庭環境ってなんだろう。
親の稼ぎが悪く経済的に困窮する家庭、親の生活態度がよくなくてすさんだ雰囲気の家庭、子供に対する親の愛情が不足している家庭 … 。
すぐに思いつくことを並べてみると、結局家庭環境とは親が形成するものであり、そこにあとから登場した子供が入ってくるという形になっていることに改めて気づく。
家庭の年収と、子供の学力・学歴との相関関係は、客観的な調査があきらかにしてはいるが、じゃ貧しい家の子はみな不良になるのかというと、もちろんそんなことはないし、逆の例も多い。
親御さんはぼおっとしてるけど子供はしっかりしている、というような例もあれば、その逆もよくある。
また「親の愛情不足で、子供が不良になる」という物語は実にわかりやすくはあるのだが、簡単にのっかりすぎるのは、本質を見失う。
我々はとくに、商売柄そういう便利な物語を想定して自分を納得させようとしてしまうが、慎重になるべきだろう。
だいたい、母親が男の人とつきあっているぐらいで、「自分は愛されてない」と落ち込む必要はないのだ。
だって、父親がなくなって何年も経つのだし。
お母さんだって、一人の人間であり、一人の女性ではないか。
根本的に親と子供とは別個の人間だ。
そんなことぐらい、中学生にもなったら、ある程度は理解しないといけない。
自分が周囲とうまくやれてないこと、勉強や学校行事に身が入らないこと、不良とつきあうことを、全部母親のせいにしようとするのは、あまりに母親ばなれできなさすぎではないのか。
そんなことを能年玲奈ちゃんに言ってあげたくなった。
それに、木村佳乃さんだよ。こんなお母さんが毎日家にいてごはん作ってくれるんだよ。
こっちが子供になりたいよ。
子供は、物心つく前の記憶はなくしている。
誰かの本に書いてあって、なるほどその通りだ、親子が最も原始的な関係であるときの記憶を、人はもっていないのだと思った。
物心つくまえ、つまり一番子育てとしては大変な時期の記憶。
一人では生きていくことのできない、まだ人とも言えない状態の生物から、おちちをのませ、ごはんをたべさせ、おむつをかえ、だっこしてもらい、げぼのせわしてもらい、やっとのことで人間にしてもらったのだ。
それで一人前にものを考えられるようになってから、うちの親の愛情は足りないんじゃないかなんて考えはじめたら、ばちがあたる。
人にしてもらって、そのうえ大きくなってからも衣食住を用意し続けてもらえることを、ありがたいと思わねば。
まあ、渦中の当人にとっては、そんな理屈は聞いてはもらえないかな。
成長のスピードのはやい子供の方が、親離れしていく方向で日々を過ごせる環境が必要なのだろう。
学校はどんな場所であるべきかを考えるとき、この親離れの機能をどれくらい果たす場所になっているかは、判断規準になると思う。
その昔若者の心をつかんだ「ホットロード」を、今の若者が見るとどんな感想を抱くのだろう。
暴走族とか長いスカートの不良少女とか、「昔か!」とつっこまれておわりのような気もする。
昔の若者にとっては雰囲気のある作品だったけど、なぜ今これ? という思いも残るのが正直なとこだった。
能年玲奈ちゃんが見れたからいいかな。それに、友達役の竹富聖花さんが実によかった。
現代文の講習が終わった。古文、漢文にくらべると予習が大変だった。
どうしてもいい答えが書けず、予備校さんのを読んでも納得できず、夜ドトールによって考えてたら、けっこう遅い時間だったけど、同僚が古典の予習をしているのに気づき、ああ俺も若いうちからこうやって勉強してたら、今もっと楽だったかなと思う。でも、この歳になっても成長する余地が残っていることを喜ぶことにしよう。
来週は漢文。添削もたまってきた。あと、曲の譜読みを本格的にしていかねば。
なので、とりあえずマッサージにいき、一息つくことにした。
星野高校さんに出かけ、星華祭合同演奏の打ち合わせ。星野さんから提案いただいた「ズッコケ男道」「炎と森のファンタジー」、本校から提案した「GUTS!」「今咲き誇る花たちよ」の4曲を中庭で演奏することになった。
夜は、朝霞台で「男祭り2014」の打ち合わせ。今年から参加される城西川越の先生、いづれ合流したいとお越し下さった都内の高校の先生も加わっての打ち合わせは、めずらしくいろいろ決定できた。そうしないといけない時期ではあるのだが。去年やれたから、大体決めておけば大丈夫だろうという感覚で臨んでいた自分はアマかったかもしれない。やるならよりクオリティを高めよう、来年はもっと規模を大きくしたいと皆さん考えてらっしゃったなんて。やってやろうじゃないの。
合同演奏の「エル・カミーノ・レアル」は、せっかく人数がいるのだからということで、ふだん各校でバスクラリネットを担当している子がアルトクラやコントラバスクラにまわったり、打楽器も余裕でわりふれたり、トランペット、コルネットも譜面通りにわりふってやることにしたので、普段の各校のバンドではできない大合奏をやろうという主旨にかなったものになりそうで、楽しみだ。
問題は、どの学校さんも同じだが、本番までの期間でさらえるかということだ。
「土曜授業をなくさないと市庁舎を破壊する!」
教育委員会に脅迫状を送った小学校の先生が捕まったという、ステキなニュースがあった。
脅迫状には「土曜日まで働かされて疲れがとれない、日曜日に寝こんでしまう」とも書かれていたというではないか。
自分のことばかりか、過酷な勤務を強いられる教員みんなを助けたいと思いやる気持ちにあふれている。
彼をしてそこまで義憤にからしめたものものは何か。
そんな脅迫状を送ったら捕まるのは間違いないのに。
最初、「ある小学生が」かと一瞬思ったけど、「小学校教諭が」だったから、たんにバカだなあでは済ませられないのではないだろうか。
かりに、その教諭の人格だけに問題を収斂させるなら、そういう方を採用している自治体の選考方法に問題が「あったのではないかとか、そこまで追い込んだ職場の問題はなかったのかとか、そんな問題になると思うな。
そっか、脅迫状方式は、やはり失敗するか … 。
諏訪哲治先生の新刊にこんな一節があった。
~ 教育の目的には「人格の完成」などという実現不可能なものが多い。(諏訪哲治『「プロ教師」の流儀 キレイごとぬきの教育入門』中央公論新社) ~
ほんとにそのとおりだ。
「教育は、人格の完成を目指し … 」は「教育基本法」の第一条で、採用試験受験から何十年も経った今も、さすがに覚えている条文だけど、何十年も教員やってきて、それは無理であることに気づいた。
大体自分が完成してない。
でもね、完成しない生き物のことを人間て言うのさ。