水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

シーサイドモーテル

2010年08月31日 | 演奏会・映画など
 この作品、以前新宿ピカデリーに行ったら満席で入場できなかったが、それであきらめるおれではない。そろそろ成海璃子禁断症状が出始めていることだし。
 それで、キネカ大森という上映館を探し当てて遠征してきた。入場料はサービス料金の1000円、観客は4人。
 映画の感想は「もったいない」の一言だった。
 これだけの役者さんをそろえられるのだから、監督さんも期待されてる方なのだろうと思う。原作も読んでないけど、きっと映画にしよう! と思わせる面白さががあったから製作にされることになったのだろう。
 山の中にある安っぽいモーテル。
 山の中なのに、なぜかシーサイドモーテルと名付けられている。
 その名の由来は最後まであかされない
 ま、でもモーテルとかラブホは不思議ななまえが多いものだ。
 郷里の実家そばに「大名」という大仰な名のホテルがある。
 何号室ではなく、前田家の間とか松平家の間とか名付けられてるとおもしろいのにと思ってたが、行ってみたら普通だった、って嘘です。行ったことありません。
 シーサイドモーテルの4つの部屋にチェックインした4組の客。
 インチキ美容クリームのセールスマンと、間違ってその部屋を訪ねてしまったコールガール。借金とりから逃げてきたやくざな若い男とその、家電量販店を営む夫婦、やっとのことでくどき倒してつれてきたキャバ嬢を連れ込む男。
 それぞれわけありで、だましだまされの関係になっている。
 予告編で、コールガール役の麻生久美子が部屋に入ってくるシーンを観て、これ絶対観に行かないとと思ったお父さんたちがどんだけいることか。
 家電量販店の主人に古田新太、ちんぴら風の男の恋人に成海璃子さま。
 期待するなという方が無理ではないでしょうか。
 4つの部屋のお話がオムニバス風に描かれながら、最後にそれらの人生がうまいぐあいに一本につながっていき、いろんな謎が解明されるという展開だと思った。
 もちろん、そういうところもあるのだが、最後までつながりきってないし、いい話にするのか、突き放すのかもちょっと中途半端だった。 
 何より、いま邦画の宝といえる成海璃子さまの台詞が少なすぎる。
 このネタなら、たとえば『運命じゃない人』の内田監督だったら、すべてを一本の糸でびしっとつなげてくれるんじゃないかな。
 これって、きっと原作の漫画の雰囲気をそのまま映画にしようとした結果じゃないだろうか。
 オーケストラの曲を吹奏楽に編曲するとき、大きく分けて二種類ある(と思う)。
 一つは、吹奏楽にはない弦楽器の音を、吹奏楽の楽器に置き換えていく方法。
 この場合、もともとある管楽器の音符は、普通そのまま用いられる。
 もう一つは、オケでつくられる響きや音楽を再現するために、もとの譜面にとらわれずに吹奏楽の楽器全体に割り振っていく方法。
 つまり全体像が優先される方法なので、もともとの譜面にはない音が加わったりもすることもある。
 「シーサイドモーテル」は前者に近くて、たとえば「武士道シックスティーン」は後者に近いように思える。
 それは原作が漫画か小説か、という要素が大きいのだろう。
 なんて、えらそうに書いてしまった。
 でも、ふつうに楽しかったですよ。
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遺伝子

2010年08月30日 | 日々のあれこれ
 最初の集合のあとジャージを取りに車にもどろうと外に出たら、熱風が全身を覆う。
 衰えるどころか、威力を増している気さえする今年の暑さだが、よくこんな中で運動部は練習するなと思ってグランドを見たら、半分ぐらいしかやってなかった。賢明かも。
 部活はまあそれとして、外回りのお仕事の方は大変だ。
 こんな暑さでもトレーニングをするプロレスラーの方も。
 山本小鉄氏が急死されたので、突然そんなことを思う。
 新日本プロレスの鬼軍曹とよばれた山本小鉄氏。
 現役レスラーとしてよりも、コーチとして、また審判や解説者としての氏のイメージが強いが、あの前田日明が小鉄氏の前では直立不動になるというほどの鬼コーチだった。
 プロレスラーのトレーニングといえばスクワットだ。
 竹刀をもつ鬼コーチの前で、3000回、4000回とスクワットしていると、汗で水たまりができるという話をきいて、すさまじいなと思ったものだ。
 そういえば中3のとき、柔道の時間にふざけてて先生に怒られて、罰として腕立て伏せを500回やらされた(1時間かかった)ときはつらかったなあ。
 そういえば、金沢産業展示館での新日本プロレス興業の試合前、ベンチプレスをしてる木村健吾のそばにふらふらっと近寄ったら、怒られたなあ。
 「ふつうはね、トレーニングっていうのは、疲れたら終わり。でもプロレスラーのトレーニングはそこから始まるんだよ」と言った『ジャイアント台風』の馬場氏の言葉も印象深い。
 お亡くなりになった小鉄氏の68歳という年齢は、いまの時代早いなあと言わざるをえないが、小鉄氏の育てたレスラーを列挙するなら、そのあまりの偉大さにおどろく。
 生物学的遺伝子ではないが、氏の薫陶を受けた、氏の教えを受け継いだという意味の遺伝子は、太く広く受け継がれている。
 人にものを教える人生として、こんな幸せなことはないのではないだろうか。
 
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アウトプット

2010年08月29日 | 日々のあれこれ
 「記憶の質を高めるのは、インプットではなくアウトプットだ」と学年だよりに書いていて、やはりこれも音楽と同じだと思う。
 アウトプット、つまり本番の演奏があるかないか、どんな本番なのか、それが練習の質を規定していく。
 考えてみればあたりまえのことなのだが。
 だから、コンクール前、定演前の練習は、演奏技術を大きく上達させるし、その過程を通して人間的にも成長させるのは間違いない。
 うん、間違いないのだから(たぶん)、自信もってやろう。
 だから、あんまり吹けてなくても、逃げずに本番はやらなくてはならないのだ。
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音と音楽2

2010年08月28日 | 日々のあれこれ
 畏友(と勝手に思っている)の堀裕嗣先生が、教育実習生の指導について書いておられる。
 教育実習生の授業をビデオに撮り、それをDVDにやいて実習生に渡すことにし、こう述べられる。

 ~ これを明日実習生に渡す。土日で自分の語りがいかにダメかということを確認してくるよう促すつもりである。いくら壮大な授業観に基づいて授業をしても、いくら指導された授業技術を駆使してみても、語りが悪ければ無駄である。そして語りは、いくら四六時中指導できる立場にいる実習担当教諭でも直してはあげられない。自分で気づき、自分で直していくしかないのである。そもそも語り口調は、2週間の実習で直せるような代物ではない。実習を終えたあとも、彼が日常的に意識し、直そうと試み続けることによってのみ改善される、そういう質のものである。~

 学校の先生には、自分の授業を録音や録画で見たり聞いたりした経験のある人と、ない人と二種類ある。
 ひょっとしたら、後者の比率が大きいかもしれない。
 この経験があるのか、ないのかは、かなり決定的な差ではないかと思う。
 同僚でも、「この人自分のしゃべりを聞いたことない人だな」と感じる人はいる。
 若い先生には強く勧めるけど、ベテランの方には…。
 教えるレベルの変わらない人と、少しずつでも変わる人と、最終地点での差はたぶんかなり大きいのだが、変わらないタイプの人は、その差自体に気づかずに退職できるから、ある意味幸せなのかもしれない。

 ただし、語りの技術が決定的に劣っていても、人間的に生徒を惹きつけることのできる先生もいるのは事実だし、やたら語りが上手で、でも冷静に考えてみると中身が何もない先生というのもいるのも事実なのだ。
 ここで自分の中では自然に音楽につながっていくのだが、「語り」と「語られる中身」は、「音」と「音楽」に対応するかな、と思って。
 だから、教師が語りと中身の両面を高めていくべきなのと同じで、音と音楽の両面を磨いていく必要がある。
 順番にではなく、ある程度同時に。
 伝えたい中身がある、でも生徒が聞いてくれない、という状況を本気でなんとかしたいと思ったとき、教員は伝える方法をみつけようとする。
 伝えたい音楽がある、でもうまく伝えられない、という状況を本気でなんとかしたいと思ったとき、われわれはその技術を身につけようとする。
 部活の場合は、教員とちがって、できなくてもおまんまの食い上げにはならないので、本気度の涵養が一番難しいのかもしれない。 


 
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変われ高校生

2010年08月27日 | 日々のあれこれ
 今日の朝日新聞の社説は「変われ高校生」という題でこんなふうに始まっていた。

~ 日本には337万人の高校生がいる。研究機関などの調査によれば、3人に2人が「自分はダメな人間だ」と感じ、10人中7人は「あこがれている人がいない」と答える。そして毎年7万人が中退で去る――。 ~ 

 なるほどねえ。
 ということは、高校生の三分の一は自信をもって生きているのかな。すごい。
 先日の人間ドッグで、メタボの心配もないし、内蔵も大丈夫、あえていえば肝機能が若干よくないので、お酒の量は少し減らした方がいいかもしれないと言われ、「はい、わかりました」と答えたものの、その日以来呑み続けているおれって、ほんとにダメ人間だ。
 「就寝前の2時間以内に夕食をとることがあるか」というアンケート項目にも、毎日と答えざるを得なかったし。

 ♪ッだ~め、だ~め、だめ、だめ人間、だ~め、人間~、人間~ by筋肉少女帯

 10人中3人はあこがれている人がいる。
 つまり、自分は今後こんな人生を送りたい、あの人のようになりたいという設計が見えているのだ。
 そんな高校生が3割もいるなんて。

 7万人が中退しても330万人が中退しない。
 たぶん、諸外国と比較したらかなり学んでいる比率が高いのではないだろうか。

 現場にいる人間の感覚として、または自分の高校時代をふりかえってみて、自分なんかダメだ、と思う高校生はふつうだと思う。
 ほんとに迷いがなく自信に満ちあふれている生徒さんがいたら、すばらしいことかもしれないが、ちょっと気持ち悪いな。
 ていうか、そんな子に教えられる身分ではないことはたしかだ。
 それで、高校生のこういう現状を憂える若者たちが、NPO法人を立ち上げて、高校生と語り合う場をつくるという活動をしていると紹介されていた。
 カタリバという組織の代表の方の言葉が紹介される。

「○か×かの解き方しか教わらないまま、大学に入り、就活でいきなり、自分は何者かと迫られる。もっと早くから考える機会があれば、と思った」
~今村久美「カタリバ」代表~

 自分は何者か、って高校のときはけっこう考えたかもしれない。
 その考えは、たいして深いレベルに達していなかったに決まっているが、やはりそれなりに考えていたと思うし、だから自分に自信などなかった。
 いったいどうなるんだろうと思っていた。
 何モノかにはなりたいと思いながら、そんなにたいそうな人生を過ごすわけでもないのだろうなあという思いが、打ち消し続けても、少しずつ大きくなっていることを感じざるをえなかった。
 そして、自分だけがそのように深く悩んでいるのにちがいない、と思っていた。
 相当数の人間が、そんなふうに思いながら生きてて普通なのが、高校時代ではないだろうか。ちがうかな。 だから「自分のやりたいことを見つけよう」「やりたいことに向かってがんばるべきだ」なんて迷いなく語る人を見ると、いまでも「この人、うすっぺらいよね」的感想を抱いてしまう。
 それを顔に出さずにいられる程度には大人になったつもりだが。

 就活の時期になってはじめて自分は何者なのかと考える人生を、今の若者は本当に送っているのだろうか。
 ちがうような気がするけどなあ。
 「○か×かの解き方しか教わらな」かったのは、誰が悪い?
 おれか? いやあ、そんな解き方は教えてないつもりだ。
 たぶん、誰かが発したそんな言葉を、自分の思考の枠にしてしまったのだ。
 「受験勉強は本当の勉強ではない」なんて言葉を。
 でも、そんなことはない。
 まして、だから勉強しなくていいには、絶対にならない。そのへんだけは勘違いしないでほしいと思う。

 社説はこう結んでいる。

~ 教育という分野で「新しい公共」を担い始めた新世代。彼らが活動しやすい社会づくりを、そのまた少し先輩の大人として、考えてゆきたい。 ~

 あの、一つだけ言っておくと、社説氏はこの先「考え」ないと思う。
 考えたとしても、具体的な行動にうつすこともないだろう。
 そんな雰囲気がただよってませんか。
 たぶん、来年やるけど、小論文でこういう「ほどよい」まとめを書いてきたら、徹底的に書き直ししてもらいます。
 これでは受かりません。受かるとこもあるけど、そのレベルはできれば避けたいな。
 ただし、今日のこの社説は、教育系学部の小論文で資料として用いられる可能性は十分にあるだろう(おっと、まとめたよ)。

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合同演奏

2010年08月26日 | 日々のあれこれ
 最初の集合時、夏休みの宿題の完成具合いを自己申告してもらった。
 ふっふっふ。予想通りといえよう。
 さあて、どうしようかな。

 夕方、幹部たちと、星野高校さんとの合同演奏の打ち合わせにでかける。
 昨年からステージ演奏ではなく、野外演奏になった。
 昨年、まったくはじめてのぶっつけ本番で、正直固い演奏をしたと思う。
 今年は、完璧に暗譜し、のりのりで演奏できるようにしたい。
 そのためにも、まず自分とこのをきちんとやらねば。

 帰校後、ある保護者の方と電話でお話。
 「部活のことでいろいろ悩んでいて、自分がなかなか上手のならないことがその悩みの根本にあるようなのですが」とおっしゃるので、「楽器をもって三ヶ月、四ヶ月でそんなに悩まなくてもいい、そんな暇があったら練習しよう」と私の方から話しますとお答えした。
 大人の世界でも、新入社員が三ヶ月や四ヶ月で使いものにはならないじゃないですか、と言って、なるほどそうだなあと自分で納得したのだ。
 きっと二通りある。
 全然仕事が覚えられなくて「こんなんで会社にいていいのだろうか」と悩むタイプと、全然仕事できてないのに「やべ俺ってばりばりやれてる」と勘違いするタイプと。
 おれは後者だったけど、両者とも結果として現れているものは同じだ。
 どちらも自分が見えてないという意味でも同じで、それが見えるようになるのは、数ヶ月とかの単位では無理で、部活で言えば3年生ぐらいになるとやっと見えてくるのが平均的かなというのが実感だ。
 
 
 
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武士道エイティーン

2010年08月25日 | おすすめの本・CD
 アンコンソムリエのS氏に便乗し、銀座ヤマハへ。
 新装なって初めてでかけたが、おしゃれなビルになっていた。
 基本もうかってるよね、ヤマハさん。
 銀座に向かう車中で『武士道エイティーン』読了。
 『シックスティーン』『セブンティーン』と、大事に時間をかけて読んできた。
 青春小説として、川上健一『翼はいつまでも』に匹敵するおもしろさだ。
 手元においておいて、ときどきぱらぱらめくるだけで幸せになれる本の一つになるだろう。
 映画『武士道シックスティーン』を先に観て、しかもこれほどすばらしいキャスティングはないだろうと思われる二大女優をイメージしながら読めるのもよかった。
 となると、『セブンティーン』以降に登場する重要人物をどうキャスティングするか、気になってしょうがない。
 映画の続編ができることはないだろうが、それを考えるのも楽しい。
 この本に出会えただけでもいい夏だった。まだ暑いけど。
 
 
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学校見学会

2010年08月24日 | 日々のあれこれ
 いやあ、しかし暑かった。
 この夏二回目の見学会は、昇降口付近での案内係だったが、ふだん職員室と教室と小講堂にしかいないので、たまに外気に触れる場所に行くとつらい。
 運動部の先生はえらい、というかばかげていると思われるほどの暑さだった。
 部活体験もできるので、それぞれの部活の用具をもった中学生もたくさん来られる。
 大きな剣道の防具と竹刀をもった生徒さんが、どこかにおかせてくれませんか、と何人かたずねてくる。
 4Fで全体会があるので、そこまで行ってください、そのあと剣道部員が案内します、というと不満げな顔の子もいた(親御さんも)。
 それが兵法者たる態度か。
 戦場で、おのれの鎧や剣を他人に預ける者がどこにいよう。
 そのような姿勢で本校において武を実践できようか、と思いながら(『武士道シックスティーン』にはまっているので)、やさしくお願いしていた。
 吹奏楽部には、5組の見学者。そのうち3人が実際に楽器をもって合奏に入ってくれたので、史上最高の部活体験者数であった。
 ぜひ入学、入部してほしいものだ。
 基礎合奏から、個人、パート練習。
 最後にもういちど集まってこんどは曲の合奏。
 「天体観測」は前にもやってことがあるが、今回やりたいという希望があって再挑戦する。ポップスの吹き方やリズムを練習するのに実にいい。前回よりも自信をもって、音のとらえかたを教えられるようになっていた。
 一見簡単だが、きちっとやるには、けっこうなトレーニングが必要であることもわかった。
 
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ちょんまげぷりん

2010年08月22日 | 演奏会・映画など
 ~ 江戸時代からやって来たちょんまげ頭の侍、木島安兵衛(錦戸亮)をひょんなことから居候させることになった、ひろ子(ともさかりえ)と友也(鈴木福)の母子。友也のために偶然作ったプリンから、お菓子作りの才能を開花させた安兵衛。彼は人気パティシエとなり、ひろ子や友也とのきずなも深まっていくが……。~

 タイムスリップもののおもしろさは、あらくわけて二つある。
 一つは、「たら」「れば」の実現。
 あの時こうしてい「たら」とかどうなっただろうとか、こうす「れば」よかったとか、そんなふうに考えることは普通よくないとされる。
 と頭ではわかっていながら、人はそんな夢想をしてしまうものだ。
 そして、できることならタイムパラドックスが生じない範囲で、自分の人生の一部をうまく変えたりできないかなと願ったりする。
 実際には起こりえないが、起こりえないとわかっているから、想像するとドキドキしてしまう。
 タイムスリップによって或ることがらの真相を知る、なんてのもこっち系に属し、16回定演二部の劇はこの趣向だった。

 もう一つは、異文化接触だ。
 異なる文化、異なる価値観がぶつかりあったときに生じるおもしろさ。
 「ちょんまげぷりん」は、江戸のお侍と、現代を生きるシングルマザーの出会いという設定で、山ほどあるタイムスリップ系作品の中に、また新しいおもしろさをつくりあげていた。
 シングルマザーのひろ子とお侍の錦戸くんの会話で、こんなのがあった。
 ひろ子が言う。
 「今はね、誰だって好きな仕事ができるの。女だから、家庭にいなきゃなんないってことはないの」
 それを聞いた錦戸くんが「さもしい世の中じゃ」と嘆く。
 二人の価値観はまったく歩み寄りを見せない。
 でも、錦戸くんは、ひろ子のマンションの居候させてもらうかわりに、家事いっさいや友也の面倒をみるようになり、ひろ子は会社での自分の仕事を充実させていくことができるようになっていく。

 現代文の授業でよく使う話だが、自分のやりたいことをやろう、好きな職業を選ぼう、なんて発想を、ふつうにみんながするようになったのは、ここ数十年にすぎない。
 好きな人と結婚しようと発想するのも、同じだ。
 ついこの間まで、婚礼の当日になってはじめて結婚相手の顔をみるのが特殊ではないという人生を、日本人は生きてきた。
 自分のやりたいことをやるのが人生、好きな人といっしょになるのが結婚という一見当然の考えが、実はここ数十年の歴史しかないものであり、しかもその考え自体ほんとうにいいものなのかどうか、疑問に思い始めている人も増えてきたのが、今の世の中かもしれない。
 だから、お侍の錦戸くんに台詞に、ときどきうなづいている自分に気づく。
 新宿武蔵野観ほぼ満席の8割方女性のお客さんもそうではなかったか。
 マクドで騒いでいる子供を叱りつける錦戸くんを見て、すっきりもする。

 だから現代人ももういちど自分の生き方を見直してみようと、お説教くさくはならないのもいい。 
 たまたま家ではじめたスイーツづくりに才能を見いだしてしまい、親子お菓子作りコンテストで優勝したのち、六本木の有名お菓子店で働けるようになる。
 急に忙しくなり、家にいる時間がなくなると、またひろ子が家事に向かわざるを得ず、しばらく続いていた奇妙な三人家族の均衡は壊れ、二人のお互いに対する気持ちがまたきしんでくる。

 そんなすれちがいを和解にむかわせる事件が最後におきるのだが、そのあと侍がしみじみと言う。
 現代にタイムスリップする前、つまり江戸時代において自分は武士だった。
 武士として禄をはんではいたが、実際にはなんの仕事もなかった。
 だから、家事をやるのが楽しく、その上菓子作りという仕事につけたことの充実ぶりといったらなかった、と。
 つまり、原作者はけっして現在はおかしい過去のあり方がいいと単純に言おうとしているのではないこともわかる。

 和解すると別れが生じるのは、物語の基本だけど、かわいそだったなあ。
 そのせつなさを、最後にひろ子と友也があるお菓子屋を訪ねる場面で、いっきに明るい気持ちにさせるのも見事。
 最近の映画では一番だった。
 



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教員セミナー

2010年08月21日 | 日々のあれこれ
 部活をこがわ先生にお願いし、駿台の教員セミナーで、現代文のお勉強にでかけた。
 会場はお茶の水ではなく、市ヶ谷の方、つまり医学系進学希望者がつどう校舎だ。
 市ヶ谷の橋をわたり、八幡神社の坂をのぼった先にある。
 そう思ってみるせいかもしれないが、たまにのぞいてみる池袋校とかより、生徒さんの顔が落ち着いている。
 セミナー会場の教室にすすむ階段付近に合格おめでとうの札がかかっているが、理3とか慶応医とか、全国国立医学部の合格札だ。すげえ。
 ほんとうにそういう人たちがいるのだ。
 8月も終わりのこの時期に、この校舎に来ているのだから、本気モードの方々だろう。
 そう思うと、校舎全体にかしこい「気」がただよっているように感じ、実際その後の講座では、50分6コマの授業の最後まで一度も眠くならなかった。
 やるじゃん、おれ。
 しかし、それは講師である稲垣先生の授業内容によるのだろう。
 東大の問題、センターの問題を用いての現代文の読解法、解答法だったのだが、全体を通してそこにあったのは、すぐれた言語論であり、コミュニケーション論だ。
 小手先のテクニックではなく、本質にせまろうとする読みだ。
 そのまま大学の授業になる。
 そして、学生時代の自分だったら、この授業のすごさにはたぶん気づかなかっただろうと思うと、いままだ老化よりも成長してるんじゃん、おれ。
 どどすこすこすこラブ注入ではなく、知力注入が、できてよかった。
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