水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

幾代餅

2015年09月30日 | 日々のあれこれ

 

 先日の説明会に続き、本日は授業のあと中学校訪問に出かける。
 営業シーズンにはちゃんと季節がよくなってくれるのがありがたい。
 車移動中はふだんなかなか聴けない「ごごもんず」をかけていくが、今回は秘密兵器がある。
 古今亭志ん朝師匠のCDだ。未発表音源をまとめたCDのセットが、発売時2万5千円してて躊躇してたのだが、しばらく前にamazonに1万8千円で出品されているのを見て、クリックした。12枚組のうち4枚だけすぐに聴いて我慢してあった。
 最初にかけたのは「幾代餅」。これは生で聴いたことがある。
 こっちに出てきてわりと早い時期に戸田市文化会館で志ん朝・枝雀ふたり会があったのだ。
 今思うとすごいな、この二人会は。枝雀師匠の「壺算」もさすがだったが、やはり志ん朝を初めて生で聴けたという興奮につつまれた。
 お二人とも、もう少しだけでも長生きされていたら、落語の様子も変わっただろうに。
 CDのケースに書いてある録音年代を見ると、どうも自分が聞いたときと時期が近い。
 吉原の傾城(城を傾けるほどの遊女)幾代太夫の錦絵(ブロマイド)を見て恋わずらいに罹った若い職人が、お金を貯めて吉原に行き、太夫と一夜を過ごすというお話。
 太夫とは遊女の中では最も格上の存在で、本当なら大名クラスの客でないと相手をしてもらえないのだ。
 たまたま運良く部屋に通してもらい会うことができ、職人の一途な思いに真実をみた太夫が、「年季が明けたら、あんたはんの女房はんにしてくんなまし」と言う。
 これが泣けるのです。
 同種のネタとしては、紺屋の職人が高尾太夫にほれる、という設定の「紺屋高尾」があり、こちらの方が演じられる機会が多いかな。
 CDも何種類か出ていて、志の輔師匠のそれは聞きやすいし完成度が高い。生だと、国立劇場大ホールで聞いた小朝師匠のはよかったなあ。
 でも、自分的には「幾代餅」だ。何十年ぶりかで志ん朝師匠の「幾代餅」を聞きながら、まさかこんなにとことん埼玉県民になると思ってなかった時代も思い出されて、爆笑しながら号泣していた。中学校の門を叩く前にほどよくテンションを上げるにはよかった。

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容れ物(3)

2015年09月29日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「容れ物(3)」

 

 日本には会社がいくつぐらいあるかイメージがわく人はいるだろうか。
 こう書いておきながら自分も答えられないので調べてみると、一般的な「会社」の意味で用いられる法人企業の数は、およそ170万社にのぼるそうだ。
 みなさんはそのうちいくつの会社名を言えるだろう。せいぜい何十社ではないか。
 また、職業自体の数は2万種とも3万種とも言われるが、そのうちのいくつを羅列することができるだろう。がんばっても百の大台にのせるのは難しいのではないか。
 それは大人も同じだ。世の中で幅広く活躍しているような人でも、ありとあらゆる職種を知っているわけでないし、まして体験していることはあり得ない。
 われわれ教員も、みなさんの親御さんも、その知識はかぎられているし、情報は古くなっている。
 知っている会社が数十社、知っている仕事は数十種という状態で、数年後には就職活動をすることになる。
 自分の知識の範囲内で仕事を選ぼうとしたら、行き詰まるのは目に見えている。
 まして現状の過小な知識量に基づいて大学や学部を選ぼうとするなど、無意味としか言えない。
 「わかりました! まず仕事や会社についてのもっと調べてみます」と考えたかもしれない。
 それは一つの方法ではある。ただし、全てを知り尽くすことはできない。
 紙やネットの情報で知識だけを増やしたところで、表面的な理解でしかない。
 今すべきことは、職業を調べることではなく(もちろん調べること自体はいい)、どんな仕事に就いても力を発揮できる人間になろうとすることだ。
 そのためには、自分の体力、知力を根本的に高めていく必要がある。
 人としての容れ物が大きい人には、自然とそれに見合った役割が与えられるものだからだ。


 ~ よく天職が見つからないと言う人がいますが、何か特別なものを探そうとしている時点でダメだと思う。まずは「自分の内部の声に耳を澄ませよ」って言いたい。そこから見えてくるよと。そして見えてきたことに対して、とことんバカになって入れ上げて欲しい。別に仕事でなくてもいい、異性でも麻雀(マージャン)でも何でも。
 人が入れ上げたものというのは、生涯の中で必ず報われます。その時は何かのためにやっていたわけでなくても、一生懸命打ち込んだことで報われないものはない。実際、僕は高校時代に入れ上げたものがいろいろ生きています。
 例えば音楽。ビートルズが大好きで受験勉強もそっちのけでのめり込んでいました。歌詞を丸暗記したり、訳したり、東京のファンクラブと交信したり。本当に夢中だった。それはその場では生きてこない。でも、あれだけビートルズに入れ上げた時間や思い入れが僕の体の中に宿っているから、音楽の素養がなくても、日本のそうそうたるミュージシャンたちと対等な関係を築けたわけです。
   … だから何でもいい、何かに入れ上げ、熱中して欲しい。壁にぶつかっても、逃げずにもがき悩み抜け。それがどれだけ大事なことかを思い知る時は必ず訪れます。 (見城徹「七転八倒こそ 仕事の正しい姿勢だ」朝日新聞) ~

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前表現性

2015年09月28日 | 日々のあれこれ

 

 現代文の演習問題で演劇を素材にした文章を読む。
 演劇を素材にして、「芸術」をコミュニケーションの一つとして考えるという主旨の文章で、実に納得できるものだった。

 芸術をコミュニケーションととらえた場合、三つの層を設定できる。
 それは、(1)象徴のレベル、(2)技術のレベル、(3)前表現性のレベル、である。

 うん、言葉だけだと少しわかりにくいかな。
 「象徴のレベル」とは、作品が作品として成立するためのコミュニケーションだ。
 あるお芝居がある、それを役者さんが演じる、観客はそれを虚構と納得しながら受け入れていく。
 あんなのは嘘っぱちだ、と叫ぶ人は観客になれないし、舞台上の殺人事件を見て客席から警察に通報する人も観客になれない。つまりコミュニケーションが成立していない。

 「技術的レベル」とは、役者さんの技術によってコミュニケーションの成立度合いは大きく変わるという話。
 これは、イメージしやすいだろう。
 やはり上手な俳優さんは、作品世界を伝える。技術の存在さえ忘れさせるのがいい役者さんだ。
 歌舞伎のように様式化されたものから、極力人為を気づかせないい芝居までいろいろだ、という箇所があって、こういう部分はいくらでも具体例が出せる。
 身近なところで、平田オリザ演出、ももクロさん主演の「幕が上がる」の話をしてみたが、目を輝かせてくいついてきはしなかった。

 「前表現性のレベル」とは、俳優さんに関する知識がたくさんあると、作品以前に期待や共感は成立しているという話。
 有名な俳優が出てくれば、それだけでいい作品を見ている気分になるし、知人の演じるお芝居は技術的には劣っていたとしても、がんばれ! とはげます気持ちで共感している。
 結果として、作品そのもののそれとは別種の評価がうまれる。

 つい、音楽の話題に結びつけてしまうけれど、吹奏楽もこの「前表現性のレベル」にたよる、というか期待するというか、なんだろ重要視する部分が大きいのではないか。
 たとえば、今月号のバンジャで後藤洋先生が書かれていた、コンクールにおける所作の問題だ。
 先月、中学Bの県大会を聞きに行ったときに、曲名、学校名のアナウンスの際に、演奏者全員が前を向いている学校さんが多いのに驚いた。
 高校の大会では昔ほどみかけなくなった所作だ。
 後藤先生は、こういうのやら、演奏が終わった瞬間にざっ! と立つ動きなどに苦言を呈しておられた。
 演奏以外の部分、つまり「象徴(曲)」や「技術」以外に、われわれは結構気を遣い、外部の客観的な目で見ると違和感を感じさせる。
 そろいのブレザーをつくったり、髪型をそろえたり、不自然レベルに近いからだの動きをさせたり、どれも「前表現性のレベル」の問題だ。
 もちろんそれが評価の一端につながっていると思うからこそではあるけれど。

 現代文演習の作者は、けっして「前表現性のレベル」のコミュニケーションを悪いと言っているのではない。
 それも大事な要素だと述べる。
 吹奏楽も同じだろう。
 演奏の前に観客に期待を抱かせることは、そこまで含めて「サービス」の一環だ。
 ただし、不自然なまでに過剰なそれは、お客さんの目からはちょっとひいてしまう場合もある。
 そのへんのさじ加減が難しいよね(なんと平凡な結論だ)。

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存在

2015年09月27日 | 日々のあれこれ

 

 現役部員はオフだが、OBたちが練習にくるのでその送迎と、指揮のレッスン会場だったので電車で見える方の送迎をする。指揮を習うのも、OBたちに場所を貸すのも、すべて現役部員たちのためになることを考えればこそだ。あ、今日一番の仕事である、新人戦参加申し込みもできてよかった。

 指揮レッスンで初めてお会いした新任の若い先生と少し話した。
 どうやって練習していいかわからない、自分は合唱が専門なので、と。
 それでも、顧問になったときに楽譜を読めるのだから、大昔の自分より何十倍もえらい。
 少なくとも音楽大学で学んだなら、スコアに書いてある音符と実際になっている音とが楽器ごとに違うことなどは知っているにちがいない。おれなんか先日知ったくらいだから。
 先生、練習にはずっとついてるんですか? 
 それは無理でしょ。会議とかもあるしね。
 若いせいかもしれませんが、合奏だけみようとするとパート練習とかもちゃんと見てほしいと言われるんですよ。
 練習の仕組みをつくるのが顧問の仕事なんだけど、それが難しいよね、ていうか経験ないとわかんないよね。

 音楽の先生が、楽器の専門でなくても吹奏楽をもつのは良い方で、逆に吹奏楽しか知らない人が運動部の顧問になることもある。
 その先生がちゃんと勉強するタイプの方ならいいが、「おれはわからないから好きにやれ」方式の方だと部員もかわいそうだ。
 現実にそういう例は山ほどあり、一方で、やりすぎて(やらせすぎて)問題になる方もいる。
 学校生活における部活動の比重がきわめて高いものであることは論を俟たないのに、研究者レベルでも、行政においても、組織的にその質をあげようという動きがまったくない(ようにしか見えない)のが、いまの教育の大きな問題の1つだ。
 たとえばラーメン屋さんなら、おいしくなければ流行らない。
 でも学校はつぶれもしないし、教員も不祥事で首になっても、技術不足ではならない。
 えらそうなことを言えるほどの仕事はしてないが、もう少しだけでも市場原理がはたらくようなシステムが模索されてもいいのではないだろうか。

 一人職員室で働いていると、古いOBが尋ねてくるた。名前をきくとかすかに記憶がうずくのだが、そんな顔だったっけ? とも思う。
 頼まれて、その子の友人への結婚メッセージビデオに「おめでとう!」といれる。
 別れたあとに記憶がもどってきて、「おまえFといつも一緒だったな」と言いに行こうと追いかけたけど、もう姿は見えなかった。
 読んでないと思うけど、柴山君! 思い出したよ。
 いちばん苦労したクラスのメンバーではないか(笑)。
 当時の学級通信をひっぱりだしたら、彼の誕生日にこんな詩をおくっていた。

 

 ~    存在   岡部明美

   あなたが ただそばに「存在(いる)」だけで
   心がやすらぐ人がいる
   あなたが ただあなたで「存在(ある)」というだけで
   誰かが癒やされている
   あなたの「存在(ありかた)」そのものが
   誰かに元気を与えている

   自分の存在を証明するために
   無理して頑張って生きていると
   ふと忘れてしまうことがある
   自分が「存在(いる)」というだけで
   誰かの心をあたためていることや
   誰かの生きる支えになっているということを

       (岡部明美『もどっておいで私の元気!』善文社)  ~

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学校説明会

2015年09月26日 | 日々のあれこれ

 

  今年度初めての学校説明会。
 漢文1、現代文1、LHRは空き時間だったので演習プリントづくり、帰りの会のあとすぐに部員とともに学校説明会の会場セット、彼らはその後昼食をとって久しぶりに長い個人練の時間 … と思いきや、説明会への来校者数が予想以上に多く、急遽練習をストップし補助椅子を追加し、それもほぼ埋まるほどの盛況だった。ありがたいことだ。
 なので、全体会のあとの個別相談を受けられる方も多く、終わったあとに一時間ぐらい合奏したいなとのもくろみは叶わなかった。
 久しぶりの個別相談はうまくこなせるだろうかと少し不安げにスタートしたものの、わりと早い段階で、現状の成績はおもわしくないけど本校に入りたいという生徒さんがいらっしゃったので、ぷちんとスイッチが入って、なぜ勉強しないといけないのか、どんな方法でやればいいのかをかなり熱弁してしまった。お母さんは感激してらしたが、生徒さんはどうだったろう、内心うざかったかもしれない。
 5時近くに終了、そっこうで小講堂を復旧し、まずアンコン参加希望チームの発表をしてもらう。
 SAX三重奏チームに今年の代表としてがんばってもらうことにした。
 そっこうで合奏体型になり15分だけ「スクーティンオンハードロック」の合奏。これを西部地区音楽祭で演奏する。この先「にじの家ふれあい祭り」演奏曲の楽譜も配るけど、「男祭り」までにかかえていた莫大な楽曲数に比べると、気持ち的には余裕がある。
 これからの時期に、どれだけ基本に取り組めるかが半年後に生きてくるのだろう。
 理屈ではみんなもわかってると思うんだけどなあ。

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容れ物(2)

2015年09月25日 | 学年だよりなど

 

 学年だより「容れ物(2)」


 その人の「容れ物」の大きさとは、「体質」とおきかえることができるかもしれない。
 「体質」は持って生まれたもので、自分ではどうにもできないように考えがちだが、意図的な経験を積むことで変えることができる。


 ~ 「自分が知ってるかぎり、勉強ができる人は部活にも本気でうちこんでいたと、今思います。インターハイに出たとか関東大会に出たとかの結果ではなくて、たとえ予選ですぐ負けてても、そこまで打ち込んでいたやったかどうか。本気でやれてた人は勉強にも本気になれるし、逃げる人は勉強でも逃げてたように思います」 by平山凌光先輩 ~


 少しつらいとすぐに逃げることを繰り返していくと、そういう自分が強固に形成されてしまう。
 逆に、少しでも「一歩ふんばるクセ」をつけておくと、徐々に体質は変化していく。
 進路を考えるにあたっては、将来どんな職業につこうかとイメージすることだろう。
 しかし、どんな仕事をするか以前に、朝9時から5時まで働き続ける力が、まだみなさんには不足している。
 実際、新卒の新入社員は、一日しゃきっとしていられる方が少ないともいう。
 授業中もしくは講義中に少し睡眠をとろうとうたた寝するようなことは、職場ではできないのだ。
 仕事以前に、大学三年、四年になってからの就職活動に耐えられるかどうかも、今のままでは心許ない。
 エントリーシートを書いて、身だしなみをととのえて、電車に乗って初めて降りる駅から説明会会場を探し、見知らぬおじさんのお話を聞き、面接を受けて … という活動が、身体的・精神的に面倒になって続かない若者がいる。
 そういう人にかぎって、自分にあう会社が見つからないとか、本当にやりたいことが見つからないとか言ったりするものだ。
 娑婆を生きていくのには、体力がいる。
 1500メートルを何秒で走れるかとか、腹筋が何回できるかといった体力だけではなく、見知らぬ所へ出かけていき、見知らぬ人と会話できる力だ。
 娑婆を生きていくのには、知力がいる。
 模試の偏差値がどれくらいかとかだけの知力ではなく、必要なことをペンで紙に書きとめ、人に気持ちを伝え、他人の気持ちを慮り、自分のやるべきことを見つけていく力だ。
 そういう知力、体力をつける場として、学校はかなり有効なシステムだと言える。
 勉強も部活も、今のみなさんには大変な面も大きいかもしれないが、みんなが漠然と描いている将来像のなかにある「仕事」の大変さは、こんなものではない。
 結果的にそれが学校的価値観からはずれる何かでもいいから、その何かに打ち込んでみるという経験が大事だ。
 本を読む、美術館に行く、映画を観る、イベントに参加するという経験も容れ物を大きくする。
 ただしネット上で何かを見聞きしたものは、経験にはカウントされない。

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当日

2015年09月24日 | 日々のあれこれ

 

  9時に会館が開く。すぐに楽器の準備をしなければならないが、はて本校は今日はどこの楽屋を使えばいいのかなと思いながら中に入ると、「カワトンさんはこちらです、集まってください」と朝一番から和国女子さんが誘導を開始してくれる。
 前日リハにも誘導がついたおかげで、スムースに進行出来たのだ。そうでなかったら館内で迷ってはぐれる部員が絶対いた。ま、誘導してもらってても、はぐれてしまう子はいるのだが。
 全体ミーティングへの集まりが遅れたのは、さすがにステージへの誘導はなされず、ぼおっとしてた男子が多かったにちがいない。
 いたれりつくせり状態だと男はどこまでも甘えきるという、年代を問わない原則を垣間見た。
 和国部長さんたちからの指示事項をきいてから、全体練習がはじまる。
 前日とはうってかわってサウンドがまとまっているではないか。たてのズレも気にならなくなった。
 これなら、大丈夫。合唱はピアノと歌がずれてしまうのが気がかりだったので、少しテンポをおとそうと思った。
 若干おして合同曲練習を終えた。ここで中島、鳥越の若い顧問から、もっと気合いいれるようにとの叱責がとぶ(まさか、このことばまでメドレーへのふりだとは気づけなかった)。
 その後の学校別リハーサルは、割り振ってみると各校8分しかとれず、案の定少しずつ押していった。
 しょうがないので本校のリハを極端に短くして調整しようと決意したが、だめだった。
 なんとか開場10分前には全団体が終わった。すでのたくさんのお客様が並んで待ってくださっているとの連絡が入る。
 全体の打ち合わせはなしにし、各校代表あいさつのだんどりだけステージで行い、開場してもらうと、すぐに客席が埋まっていく。
 組織だった宣伝活動を行わなかったことが今回気がかりではあったが、ありがたいことだ。
 開演前アナウンスを慶應志木のOくんにお願いした。いつものステージパフォーマンスとはうってかわって落ち着いて、というかむしろ緊張気味に話す様子をみると、彼も内実はセンシティブな子なのかなと思った。
 そして時間通りに部長あいさつ、つづいて一番の星野高校の演奏 … 、もう大丈夫かなと思ったら、足がぱんぱんで、腰もいたい。ここでばっくれて整体に行ってしまっても会は進行するだろう、いや合同演奏前のMCは自分が適任だろうと思い直す。
 流れにのってしまえば、あとは夢のようにすすんでいく。
 自分の演奏を終え、アルメニアンダンス、スペシャルメドレーと進行し、メドレーの途中でやってくださいと言われたことはすべてこなし、合唱へ。
 第一回をはじめたときは、といってもほんの一昨年だが、まさかここまで本当に祭りになるとは思わなかった。
 最初の四校だけで回を重ねていたとしたら、まったく違った形になっていただろう。
 新しい血は組織を活性化する。
 去年、今年と新たに加わってくださった学校さん、そして若い顧問の力は大きい。
 打ち上げのときに、小池先生がすべてのアンケートを印刷してもってきてくださった。
 感動した、来て良かった、元気が出た、というありがたいご意見をいただく。
 カオス感がいい、男子はバカ、という本質をついたあたたかいお言葉にもうなづく。
 顧問たちもふくめ、まちがいなくみんなバカで、その一員でいられた自分が幸せだ。
 「300人で演奏することに意味はあるのか」という疑念を書いてくださった方がいらっしゃる。
 なるほど、そう言われてみれば、みんなでやることは前提だったので、意味は考えてなかった。
 考えたのはどうやるかだけだ。やらないことでなく、やることに意味いるかな。
 いくらでも言えるけどね、それで食ってる人間だから。
 でも、やったからこそできたこと、見えたものがある。やってないと意味はみえないにちがいない。

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秋の男祭り2015

2015年09月23日 | 演奏会・映画など

 

みなさん、ご来場ありがとうございました!

あたたかい拍手とご声援で、のびのびやらせていただくことができました(_ _)

 

 

9月23日(祝)12:30開場 13:00開演

 吹奏楽 秋の男祭り2015 

 会場:和光市民文化センター サンアゼリア(東武東上線和光市駅徒歩15分)

 曲目:本校演奏 「さくらのうた」「ミュージカル『ヘアスプレー』メドレー」


 各校ステージ 演奏順(時間はだいたいの目安です)
  13:00   各校部長あいさつ
  13:05 1 星野高校
  13:12 2 和光国際高校
  13:23 3 城西川越中学・高校
  13:38 4 立教新座中学校
  13:52 5 松山高校(参加されないことになったので、少し時間がくりあがります)
  14:06 6 川越東高校
  14:21 7 日大豊山中学・高校
       休憩
  14:47 8 立教新座高校
  15:00 9 城北埼玉中学・高校with国際学院高校
  15:17 10 慶應義塾志木高校
  15:40 合同ステージ
       「アルメニアン・ダンス」「男祭りスペシャルメドレー」

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前日

2015年09月22日 | 日々のあれこれ

 

  和光市サンアゼリアでのリハーサルがあった。
 各校に25分ずつ割り当てられたリハーサルを終えて、全体練習。
 心配だったのは、ステージにみんなが乗るのかという点だったが、なんとかクリアできた。
 今日から参加の日大豊山さんは、ギューギューづめぶりに驚かれたのではないだろうか。
 中高あわせて70人という、今回もっとも参加人数の多いチームとして初参加してくれた。
 一安心と思ったのもつかのま、「アルメニアンダンス」をはじめてみると、たてがそろわない。
 ひやひやしてる小池先生をはじめたみた。しかしそこは百戦錬磨なので、手を変え品を変え形にしていくのは見事だ。
 続いてスペシャルメドレーをふる中島啓先生も、ノリのよさを引き出しながら、びしっと決めるべきところは決まるように、限られた時間内で整理していく。「男祭り」はまた得がたい人材を得た。
 おそらく明日は今日以上にバタバタしているうちに、もう終わり? という状態になっていくのだろう。
 ただ、来ていただいた方に楽しんでいただけるだろうという一点においては、確信の得られた一日だった。
 

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本番前々日

2015年09月21日 | 日々のあれこれ

 

 個人練習のあと「さくらのうた」の合奏から。あまくみてたわけではないが、ここまで苦労するとは思わなかった。前から一度やってみたたっかし、文化祭の時期はイケイケの曲ばかりになるので、あえてこれを選んだつもりだが、自分達のいい練習になるというか、なりすぎる。コンクールだとうちは絶対に選べないタイプの曲だなあ。じょうずに演奏する中学校さんがあったけど、どうやって練習するんだろ。
 「ヘアスプレー」メドレーは、演奏も踊りもまあまあかたまってきた。
 合同曲の「アルメニアンダンス」は、他校さんに迷惑かけてしまいそうな部分を中心にさらう。ほんとは部員数の多いほうであるうちなんかが、演奏面でリーダーシップをとれるといいのだが、なかなかそこまでいかない。
 スペシャルメドレーは、星華祭でいっかいさらえたのがよかった。あとはどこまで自分のからを破りつつ、同時にいい音楽にのれるかだ。
 第一回の男祭りから考えると、合同演奏の曲もじわっと難しくなっている。大人数だからこそチャレンジできるのだ。やっぱりやってよかった。あさって終わったときに、もっとこの気持ちになれるようがんばりたい。

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