水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

恋は雨上がりのように

2015年05月31日 | おすすめの本・CD

 

  橘あきら(17歳)が恋に落ちた相手は、バイト先のファミレス店長の近藤(45歳)だった。
 「バイト先の」という言い方は正しくないな。
 雨に降りこめられた(下人ではなく)女子高生が、「雨宿りしていけば」と言ってくれたファミレス店長に気持ちが奪われたら、その店で働くようになった、と正確には書くべきだ。
 陸上競技で鍛えた身体はスタイルがよく、背が高くて美形の彼女は、ただし愛想がない。
 近藤も、その愛想のなさから、自分は絶対に嫌われていると思っていた。
 そうでなくても、45歳の冴えない中年が、女子高生からよく思われるわけはないと思い、遠慮しながらバイトのシフトを決めたり、言葉を選んで仕事の指示をしたりしていた。
 だから、「あたし店長が好きです」という言葉をきいたとき、「人として嫌いなわけではない」という意味だと理解し、「よかったぁ … 、おれてっきり橘さんから嫌われてると思ってたんだよね」と笑顔で答える。
 まさか、本気の恋心の告白だとは夢にも思わない。
 本当の意味が伝わってからも、信じられない気持ちと、どう対応すべきかというとまどいが頭を支配する。
 そうなるだろうなあと思う。
 自分なら、どうだろう。女子高生か … 。
 もちろん、商売柄そんなことは想像したこともないし、現実には起こりえないし、でももしかして教え子から「先生、じつは … 」と言われたら、どう対応すればいいのか。
 年齢差もあるし、同性ではないか。さらに難しい問題が起こってしまうのか。どうする、おれ。

 萌え系ラブの一つのバリエーションだと思う。
 おっさんの自分だからはまった部分はもちろんあるけど、若い男子が読んでも自己投影できるにちがいない。
 たまたま店長は、自分の年齢を中心にしたマイナス要素を意識し、踏み出せずにいる。
 じゃ、若かったらすべてはクリアできるのかといえば、そうでもないだろう。
 自分なんかがこんなかわいい女子とどうにかなれるはずがない、という思いで、自分から踏み込んでいけない若者ってたくさんいそうだし、自分もそうだった。
 大事なのは、見た目とか、いけてるかどうかとか、諸々のスペックとかではなく、実は心の持ちようだ。
 若いうちは特に、根拠なき自信でがつがついくくらいでちょうどいいのだけど、そうもいかないからこそ文学が生まれ詩が生まれ音楽が生まれるのだ。
 このマンガだけは実写化してほしくない … 。

コメント (2)
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作者と作品(4)

2015年05月31日 | 国語のお勉強

 

  ~ 問三と問四は、さっぱりわからなかった。問五から問七は正解の察しはついたが、解き進むにつれて、私は出題者の悪意に吐き気を催した。いろいろな背景を複雑に交錯させながら書いたのに、《著者が念頭においていたと思われる背景を一つ……》と著者の繊細(いつから繊細?)な感情を逆なでし、私が1万2000字もかけて書き綴った一章から2000字分だけ抜き出してきて、しかもそれを《50字で要約しなさい》と恐ろしいことを平気でいう。50字で要約できるなら、私だって最初からそうしている。莫迦も休み休みいってもらいたい。
 脱力しつつ、最後の問題に目を通す。

《本文の趣旨にあうものを、次の①~⑦の中から二つ選びなさい。》

 私がいいたかったことは、①と②と③と④と⑤と⑦だ(長くなるので省略)。さすがに⑥(時間を粗末にするものは、いつの時代でも取り残されてしまうものである)なんて説教じみたことは考えなかったが、しかし⑥もよく読むと、なかなか良いねえ。
 さてまあこうして、気になって先ほど買いに走った大学入試問題集の解答篇を開くと、10問中、私の正解は七つ。
 なかなかいい成績だ。って満足している場合か。
 最後に、私はいっておきたい。本書『何でも買って野郎日誌』は、大学入試問題への使用を禁じます(←偉そうに聞こえた?)。 ~

 

 日垣氏から再びお返事をいただくことができた。
 私が第2信に書いた以下の部分を引用されて、きびしいご意見を書いてくださった。


 ときどき、小説家が「自分の作品の入試問題を解いてみたら、点がとれなかった。こんな問題でいいのか。」と語ります。こういう例を調べると、たんにその小説家の学力が低かっただけだったり、その作家の文章自体に難があったりすることがあります。


 国語の教師がこのように言うのは、教師の側の「国語力や文章力や学力は、相当に難がある」とおっしゃる。
 この(水持の)ような大雑把な〝感想〟を言う者に国語力などない、というお話であった。


 ~ 引用したように大雑把な〝感想〟を言われたら、ろくな授業もできず、自分の頭で考え抜いた文章も書けない国語の教師に、子ども達の「学力をつける」なんて余計なことをしてほしくないというのが率直な親としての〝感想〟です。「ガッキィファイター」へのメール送信はこれにてご勘弁ください。 ~


 日垣さんの文章に対して「難があった」と書いたつもりはないのだが、逆鱗に触れたかのようなご返信をいただいた上、「出禁」になってしまった。
 
 今、こうして振り返ってみて、自分の文章に(表現の難はあったかもしれないけど)根本的過ちがあったとは思えない。
 プロの作家さんが書かれた文章に、いいものもあれば、残念なものもある。
 もちろん素人の軽々しい批判は本質を突いてないないことも多いし、素人とプロとの間にはものすごく大きな境があることは昔よりもわかる。
 ただ、入試問題については、大学なり高校なりの教員がプロ側であり、作家さんがご自身の文章による問題を解くといっても、それは素人側になるのではないだろうか。
 作家さんの「つもり」と、それが表現されているかどうかとは別次元のはずだ。
 自分の意図が伝わらなかったとき、読者の側だけに100%責任を負わせるのは、ちがう(んじゃないかなあ)。
 まあ、でもあれだし。
 どうせ、おれは「ろくな授業もできず、自分の頭で考え抜いた文章も書けない国語の教師」だからなあ。
 と言われても、おまんまの食い上げにならない程度には、生徒さんの「学力」をあげるための仕事をしなければならないのにはかわりはない。

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 多重人格(2)

2015年05月30日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「多重人格(2)」


 「多重人格」と聞くと、精神疾患の症状としての、この言葉をイメージするかもしれない。
 もちろん、その意味の用法もある。自分の中に複数の人格があり、一つの人格が表面に現れているときに、他の人格がまったく意識できなくなってしまう状態だ。
 だから、Aという人格で大きな犯罪を犯しても、Bという人格が現れたときには、自分がA時代に何をしでかしたかを全く覚えていない、嘘発見器にかけられてもバレない … という人がいた時、その人は「多重人格障害」「解離性同一性障害」と呼ばれる。
 ここで話題にしたいのは、自分自身のなかにある複数の人格を意識でき、それを使いこなそうとする「多重人格」だ。
 仕事の現場で自らの行いにも他人に対しても厳格で、いつも眉間に皺を寄せている人が、自宅に帰ると、幼い自分の子供の前でめろめろな父親になったりする。
 ライブ中、シリアスな曲をしみじみと歌ってお客さんを泣かせたすぐあとに、ノリノリの曲で一気を会場を盛り上げる。
 ある時は科学者として実験を重ね新しい法則を見いだしたかと思えば、翌日には美しい絵画を完成させたりする。時に空をとび、時に音楽を作る。
 多様な人格をもつ人は、多様な才能をもつ人と判断される。


 ~ 例えば、営業の仕事においては、「顧客の気持ちを感じ取る力」が一つの才能となりますが、この場合、顧客の言葉のニュアンスや表情・仕草の変化を敏感に感じ取る「細やかな人格」が、その才能を支えます。
 例えば、企画の仕事においては、「企画メンバーから創造的な意見やアイデアを引き出す力」が一つの才能になりますが、この場合、メンバーが自由に意見を言える雰囲気を作り、そのアイデアを励ます、包容力ある「温かい人格」が、その才能を支えます。
 同様に、例えば、交渉の仕事では、「何があっても感情的にならない力」が一つの才能ですが、「冷静な人格」が、その才能を支えます。また、プロジェクト・マネジメントの仕事では、「仕事の正確さについてメンバーからの信頼を得る力」が一つの才能ですが、「緻密な人格」が、その才能を支えます。 (田坂広志『人は、誰もが「多重人格」 誰も語らなかった「才能開花の技法」』光文社新書) ~


 「自分は他人とすぐに仲良くなれる才能はない」とか「物事に地道に取り組む才能がない」とか「リーダーシップをとる才能がない」というような言い方を私達はするが、才能を「人格」と置き換えた方が意味が通りやすいと感じないだろうか。
 人は誰しも複数の人格を持っている。つまり複数の才能をもっている。
 「自ら危険なチャレンジをする才能などない」と自覚していた人でも、家族が危険な目にあいそうなときには「おれが、なんとかする!」という人格が必然的に目覚める。
 ここで声をかけないと友だちが心配だという時、普段のキャラとは違った声かけをしたりする。
 想定外の事態にでくわした時、人はわりとたやすく別人格になれる。別の才能を発揮できるのだ。

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作者と作品(3)

2015年05月30日 | 国語のお勉強

 

 「大学入試問題=くだらない」という公式は自分の中にはない。
 だいたい「くだらない」もののために、こんなに毎日労力を費やせるわけがないし。
 国語の入試問題の「あり方」って考えちゃいけないのかな。いちおう作る側にまわることもあるのだが。
 日垣氏からいただいた返信に釈然としない思いは抱きながらも、お礼のメールを送った。


「入試問題について質問した水持です。さっそくご連絡いただきありがとうございました。
 手元に「入試問題集」がないのではなく、手元にある「入試問題集」に、日垣さんの文章がみあたらなかったのです。旺文社、学燈社ともに、全国のすべての大学を網羅しているわけではないので、女子短大の問題までは載らないことが多いのです。
 日垣さんがおっしゃるように、それを調べるのも仕事なので、これから調べるつもりです。失礼しました。
 私は大学入試を改革しようなどと思っておりません。現場の教師に(今の私に)できることではないと思っているからです。
 また、すべての入試問題が「くだらない」とも思ってません。いい問題だと感じるものにも出会います。
 もちろん「くだらない」と感じるものにも出会いますが、そういうものまで含めて、私ができるのは、生徒に入試で高得点をとる力をつけることです。「くだらな」さを感じるときほど、こんな問題ぐらいがんがん解いちゃえ、という気合いを身につけさせようとしています。
 ときどき、小説家が「自分の作品の入試問題を解いてみたら、点がとれなかった。こんな問題でいいのか。」と語ります。こういう例を調べると、たんにその小説家の学力が低かっただけだったり、その作家の文章自体に難があったりすることがあります。
「ガッキィファイター」での日垣さんの文章を読み、小説でない文章でも、書き手と作り手との齟齬があるのだなあと感じ、ぜひ調べてみたいと思いました。自分なりの考えがまとまりましたら送信させていただきます。」

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作者と作品(2)

2015年05月29日 | 国語のお勉強

 

 ~ 10月×日 非常に気になることができ、やむなく、また近所の蔦谷書店に大学入試問題集を買いに走る。880円。
 入試問題に文章が使われた大学から、「作品使用報告書」というお役所的〝状〟が届くのは、例年3月から5月にかけてのこと。今年は三大学に私の文章が使われた。入試に使われるような、まっすぐなものを書いているつもりはないのに、不名誉なことだ。
 … 普段なら、こんなふざけた報告書と入試問題など見ないのだが、今年は長女の大学入試の年でもあるので、とりあえず試しに一つだけ、私の『学問のヒント』(講談社現代新書)から一文を抜いた問題を解いて見ることに。全部で10問もある。
 問一の漢字問題は楽々クリア。
 問二は、次のような問題だった。

 波線部aの意味としてもっとも適切なものを、それぞれ次の①~⑤の中から選びなさい。
  a メディア  ①空間  ②通信  ③媒体  ④映像  ⑤機械

 ううむ。私が「メディア」という言葉を使う場合、通信(②)や映像(④)などを含む媒体(③)または空間(①)という意味に使っている。これはかなり厳格な定義である。同書にも、それは明記しておいた。が、その部分は出題の対象にはなっておらず、受験生は読むことはできない。仮に読んでいたら、この問題は解けないだろう。ということは、この出題者には国語能力が著しく欠けているか、それとも相当の悪意をもった男(たぶん男)だ。 (日垣隆『何でも買ってやろう日誌』) ~


 『何でも買ってやろう日誌』の「後書き」に記されたこの文章を、本が発売される前に読んでいた。
 購読していた日垣隆氏のメルマガに先に掲載されたからだ。
 今でこそ、たくさんのメルマガが発行されているが、十年以上前はまだ普通の習慣ではなかった時代だ。
 自分としては、好きな評論家のお一人である日垣隆氏の新しい媒体をいちやはく申し込み、愛読していた。
 だから、この文章を読んで興味がわき、かるい気持ちで、「何大学の問題か、教えていただけませんか」とメールを送ったのだった。
 もちろん、その前にすぐ調べた。国語科の本棚にある入試問題集を繙いてみた。でも発見できなかったのだ。
 大学入試のすべてを網羅する本はさすがにないので、掲載にならない大学だったのだろう、でも問題を見てみたいなあと思った。「読者QAコーナー」があることだし、うまくすればご回答を得られるかもしれない。なにせファンだし。


 「いつもガッキィファイター送信いただきありがとうございます。高校で国語を教えている水持と申します。先日の臨時号で、日垣さんの文章が大学入試になった話がありましたので、手元にある入試問題集を捜したのですが、みあたりません。できましたら、出題された大学名をお教えいただけないでしょうか。国語の入試問題のあり方を考えているものとしてぜひ見てみたいのです。お手数ですがおねがいいたします。」


 お返事をいただくことができた。
 正確には覚えておられないが、大阪なんとか女子短期大学だったということである。
 私信なので、全文引用してはいけないのだろうが、


 ~ お手元にないので(!)、とのことでしたので、そのような次元に合わせてお答えします。 ~


 という出だしが印象的だった。
 こんなことも自分で調べられずにてっとりばやく質問するなんて、学校の先生ってバカなの? という気持ちが垣間見られる味わい深い返信だ。
 興味がないので、もう正確におぼえてないが、名前は知っている大学だという。
 「教員なら自分で調べろ」という主旨のご返答とともに、


 ~ ご自分でお探しください。それもお仕事のうちだと思います。 … 具体的に、どのように(くだらない現状の)大学入試問題の「あり方」を変えるためにいったいどんな改革を個人でおやりになってきたのかすべて教えてくだされば、(もちろん「考え」でなく、あなたの「実績」だけを具体的にお教えいただきたい)私も具体的にお教えします。 ~


 というお言葉をいただいた。
 「国語の入試問題のあり方を考えているものとして」なんて書いてしまったからいけなかったのだろう。
 しょせん、おまえは高校の一教員だよね、何えらそうに「入試のあり方」とか言ってるの? 分を知ったらどうなの、というあったかい助言であろう。

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シンデレラ

2015年05月28日 | 演奏会・映画など

 

 幼いシンデレラが本当の両親と楽しく過ごしていた頃、数ヶ月ぶりに行商から帰ってきた父親と戯れるシーンから始まる。時代のついたお屋敷に住み、使用人もいるこの父親は、小さな土地の領主というぐらいの設定だろうか。
 貿易商とも言える規模の商売で、自分たちと領民の暮らしを支えているのだろう。
 いろんな土地にでかけるせいで、珍しいものも手に入るし、異国の文化に触れることもできる。
 そんな父と戯れながら、エラ(後のシンデレラ)はダンスを習う。この設定があとで生きる。

 母が亡くなり、父が再婚する。
 旅先で父親も不慮の死を遂げると、継母や姉たちとエラの暮らしになる。
 経費節減のために使用人も暇を出され、いつしかエラが下女のように扱われ始める。
 かまどの火をおこしたとき、その灰をかぶったエラを姉たちがはやしたてる。
 「おまえは、顔が灰でよごれているのがお似合いだよ。灰をかぶった(シンダーsinder)エラよ、このシンデレラ!」
 継母や姉からいじめられているところからスタートするのが自分にとっての「シンデレラ」だったが、その前段のお話がものすごく大事だったことを、映画を見て知った。

 魔法で美しい姫に変わったシンデレラが、パーティーにでかけていき、王子と踊る。
 美しく青いドレスに変わっているが、元は母の形見だ。
 みなから喝采を受けるダンスのステップは父から習ったものだ。
 踊っているのはシンデレラだけど、まるで今は亡き両親が踊らせているようなものだと思ったら、泣けてしょうがなかった。
 それほどまでに親は子供を思い、亡くなってからも支えようとする。

 音楽座の冨永波奈さんが、「『ラブレター』は死者が生者をはげます物語なんです」と先日語ってくれた。
 死んで跡形もなくなってしまう死者もいれば、残された人の心に住み続け、支えてくれる死者もいる。
 物理的には存在しなくても、心の中に存在する死者はむしろ死者ではなく、生者なのかもしれない。
 「気だてのいい娘は、いつか幸せになれるよ」という寓話ではなく、家族の話だったのだ。
 継母が、なんとか実の娘を幸せにしたいと願い、あれこれ策略を巡らすことも、親として決して不思議なものではない。ただ他人の不幸の上に自分の幸せを築こうとする方向性がまずかった。
 娘を思う気持ちをシンデレラはわかるからこそ、継母に「あなたを許すわ」と言えるのだ。ディズニー、深いっすね。

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武道館(3)

2015年05月27日 | おすすめの本・CD

 

  アイドルの人って、ライブでほんとにいいことを言う。
 たとえば前田敦子さんがAKB卒業発表のときの(古いけど)、たかみなさんの言葉を思い出す。
「AKB48にいることがゴール地点ではありません。 … 温かく背中を押してあげてください。」
 メンバー一人一人の成長や幸せを考えていて、リーダーらしい素晴らしい言葉だ。
 NextYouを卒業することになったリーダー波奈が、メンバーを思う気持ちにも心打たれた。


 ~  ここで、波奈は、くるりと客席に背を向けた。マイクを、口から離す。
「聞いて」
 微笑む波奈の背後で、ざわめきが広がる。
「人数だけじゃない。いろんなことが変わっていくよ」
 愛子は、ぐっと喉を締めた。
 マイクを通していないいつもの波奈の声を聞いた途端、泣いてしまいそうになる。
 「ライブを“授業参観”って呼んだり、スキャンダルを撮られた女の子が頭を丸めたり、握手券を付ければCDが売れたり……そんなの、すっごく最近のことでしょ?  ここ数年でそうなったことでしょ? だから、これまでみたいに、これからも、いっぱいいっぱい変わっていくの、多分」波奈の声は、とても小さい。ステージにいるメンバーにだけしか、聴こえない。
 「今目の前にあるほとんどは、最近生まれたものばっかり。ずっとずっと昔から当然だと思われてきたことなんて、実はほんのちょっとだけ。だから、目の前にあるほとんどは、これから新しく生まれ変わる。たとえば、握手なんかじゃなくて、歌って踊る姿をもっと見たいとか、そういうふうにまた変わるかもしれない」
 はなさまー! はなさまー!
「だからね」
 ファンの声が、波奈の背中で遮断される。
「何か変だな、この仕事向いてないのかなって思ったときは、変わっていくってことを思い出して。みんなが直面して、悩まされているもののほうが実は、これから変わっていくものなのかもしれないの。何でも、自分がおかしいんだっていうふうに思って、そこを直していくと、皆、おんなじ人間になっちゃうから。私、それは寂しいんだ。って辞める人間が言えることじゃないんだけど」
 ふふ、と笑う波奈。愛子はその決して暗くはない表情に、見覚えがある気がした。
「でも、皆なら大丈夫だって、私、安心してるよ。こんなことこうやって言わなくったって、きっと、わかってるもんね」
 安心。波奈からこぼれるその音に、愛子は、聞き覚えがあるような気がした。
 波奈がマイクを口元に戻す。
「……っていうことです。今の話は、“ネクス中毒”の皆さんには内緒だよ」
 わああああ、と、口をほどかれた風船のように、ファンの喚声がびゅんびゅんと飛び交う。卒業を発表したリーダーが、マイクを通さず、残されたメンバーにだけ何かを語りかけるという姿は、どうやらとても感動的なシーンに見えていたらしい。 (朝井リョウ『武道館』文藝春秋) ~


 あまりにも泣けたシーンなので、長々と引用してしまった。
 それにしても作者の朝井さん、よくこういうシーンが書けると思う。アイドルのおっかけしてたのだろうか。
 いや、そこまでの経験はなくても作り上げることができるから、プロの書き手なのだろう。
  たいしたものだ。
 仮にもし自分が総理大臣になるようなことがあったら、朝井リョウさんにスピーチライターをお願いしよう。
 ものすごいギャラも用意する。そしたら、「官邸だより」とかカリカリ書いたりするかな。それも、彼に添削してもらおう。


 来月みんなで参加する音楽座ミュージカルの方が、今日は、演目「ラブレター」の事前学習とワークショップを行いにきてくださった。
 ワークショップリーダーは、NextYouのリーダーと同じ名前の冨永波奈さん。
 音楽座さんの企画案内ではじめて来校された日から、4年経つのかな。
 いつの間にか彼女も、堂々たるワークショップリーダーになっていた。
 いい体験ができたと思う。ほとんどの一年生が初めてだというミュージカル鑑賞を、楽しみにしてくれるといいな。

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多重人格

2015年05月27日 | 学年だよりなど

 

 試験おつかれさまででした。
 勉強に取り組んでいる自分、部活で頑張っている自分は、それぞれどんな自分だろうか。
 じっと問題に向き合って集中している状態と、声を出してテンションをあげながら練習している様子とを思い浮かべてみてほしい。
 まるで別の人格になっているように思えないだろうか。
 逆に言うと、勉強にも部活にもうまく取り組めてない状態とは、ふさわしい人格になれきれていないということでもある。
 実は、人はもっと多くの人格を使い分けている。
 休み時間に友人と馬鹿騒ぎしている自分、今後相当親しくなりたいと願っている女子と話すときの自分、先輩や顧問の前での自分、「勉強しなさいよ!」「わかってるよ!」親とやりとりする時の自分 … 。
 どれも「自分」であることに間違いはないものの、客観的にみればかなり異なるふるまいをしているはずだ。
 別の自分から「ねこかぶってんじゃねえよ」とか、「何かっこつけてるんだよ」とか、「もっと素直になれよ」とか発せられた声を聞いた経験もあるかもしれない。
 映画「脳内ポイズンベリー」では、主人公いちこ(真木よう子)の脳内にある五種類の感情が擬人化されていた。
 「ポジティブ」「ネガティブ」「理性」「衝動」「記憶」の5つだ。
 桜井いちこが、町で若い男性と知り合う。「衝動」係が「めちゃタイプじゃん! 声かけよう」とすると、「変な女って思われるだけだよっ!」とネガティブが抑える。「昔も痛い目にあったことあるよね」と記憶係が書物を繙きはじめると、「大丈夫だよ、向こうもこっちを気にしてるよ」とポジティブがGOサインを出す。「では、決をとります」と理性がまとめに入る … 。
 瞬時に脳内会議が行われ、どの人格を出すかを、私達はそのつど決めている。
 その結果がうまくはまる場合もあれば、まったく逆効果になり後で落ち込む … なんて経験を、誰もがしているのではないだろうか。
 人は、無意識に、または意識的に人格を使い分けている。


 ~ 我々は、誰もが、自分の中に「複数の人格」を持っているのですね。そして、仕事のときと、私生活のときに、違った人格が出てくることは、むしろ、普通のことなのですね。
  … 問題は、それを自覚しているか、自覚していないかです。 (田坂広志『人は、誰もが「多重人格」 誰も語らなかった「才能開花の技法」』光文社新書) ~


 一般に「才能」とよばれるものの実質は、この「人格」を表している。

 

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作者と作品

2015年05月26日 | 国語のお勉強

 

  「羅生門」の研究授業をしたとき、作者の言いたかったことに迫るべきだというご意見をいただき、そんなものはどうでもいいと反論したことがある。もう随分経つなあ … (遠い目)。
 その時は「表現や構成などから作者が何を言おうとしたのかを考えることが大切だ、水持の授業にはそれが欠けている」とのお言葉をいただいた。


 作者がどう考えていたか、何を表現しようとしたのか、については、私は最終的には興味がありません。作品として世にでた以上、その作品は作者の手を離れたものであり、作者からは独立していると考えます。
 「入試問題を作者自身が解いてみたら解けなかった、よってこの国語の入試問題はおかしい」というような企画が新聞や雑誌に載ることがあります。
 でも、それって本当にそうでしょうか。作者の意図どおりに読まれてないとき、読み手のみが悪いのでしょうか。書き手の側に問題があって意図が伝わってないということもあるのではないでしょうか。
 もっと言えば、作者に問題を解く力がたりなかった(偏差値が低かった)だけかもしれません。
 ですから、(1)テキストに書いてあることそのものの把握(誰が何をしたのか)、(2)この表現は何を表現していると見るべきなのか、についてはしっかり指導する。その先、作品の主題をどうとらえたかについては、そんなに限定はしない、という立場です。


 数年前の自分て、きれきれだな。今はすっかり丸くなってしまった。
 でも考え方は今も変わっていない。
 今月号のバンドジャーナルに、後藤洋先生がこう書いてらっしゃっる。


 ~ すぐれた演奏家のアプローチは、実にたやすく作曲者の発想を凌駕する。筆者は第三者による演奏を信頼することに何の抵抗もなく、また自作自演の難しさを痛感しているので、よほどの事情がない限り自分で指揮しようとは思わない。なぜこのようなことを書いたかと言うと、楽譜から必要なことを読み取ることを怠り、「作品の背後にある物語」や「楽譜に書かれていない何か」をほしがる人々が最近多いように感じているからだ。
  …  吹奏楽の場合、レパートリーの多くは現在生きて活動している人が作ったものである。したがって、機会があれば本人に質問することは可能だ。しかし、自分で考えたほうがよい。作曲家本人の意見はあまり当てにならないことが多いから。スコアによく掲載されている作曲者自身による「演奏上の注意」が、だいたい的外れであることからも、それは容易に想像できる。 (後藤洋「「作曲者本人の解釈」は信頼できるか?」バンジャ6月号) ~


 後藤先生もお友達少ないのかなと思わせる文章だが、作曲家と演奏者の関係は、作者と読者の関係と同じ性質があると言えるだろう。
 もちろん、作品に込められた作者の「思い」に思いをはせることは、マイナスにはならないはずだ。
 楽曲でも、小説でも。
 だからといって、作者が読者よりもテキストよりも絶対的に上位にあるとは言えない。
 すぐれた演奏家が、作曲者の発想を超えた演奏をするように、すぐれた読者が著者の発想を超えた読みを成し遂げることもあり得る。
 ある小説を読んだ人が、作者がまったく想定しない「読み」をし、感動し、人生に影響を与えるほどのことが起こったなら、作者としては喜ぶべきことではないだろうか。
 小説家はちがうのかな。
 小説ではなく、評論の作者の方に同趣旨の内容を話したら、ものすごく怒られたことがある … 。

 

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脳内ポイズンベリー

2015年05月25日 | 演奏会・映画など

 

 「脳内ポイズンベリー」は主人公いちこ(ベリーだから?)の脳内にある五つの感情を擬人化して描いた作品。
 その感情とは「ポジティブ」「ネガティブ」「理性」「衝動」「記憶」の5つ。
 絶妙な設定だ。
 桜井いちこ(真木よう子)が、町で若い男性と知り合う。「衝動」(桜田ひより:「明日ママがいない」のピア美)が「めちゃタイプじゃん! 声かけよう」とすると、「変な女って思われるだけだよっ!」とネガティブ(吉田羊)が叫ぶ。「昔も痛い目にあったことあるよね」と記憶(浅野和之)が書物を繙きはじめると、「大丈夫だよ、向こうもこっちを気にしてるよ」とポジティブ(神木隆之介)がGOサインを出す。「では、決をとります」と理性(西島秀俊)がまとめに入る … 。
 主役の真木よう子さんはじめ、達者な役者さんばかりで、充実したお芝居が楽しめる。このメンバーのままの豪華な舞台も見てみたい。むしろ真木よう子さんは他の女優さんが替わることも可能だ。
 脳内会議をする五人の、セリフそのものとお芝居の完成度がはんぱない。「キサラギ」の古沢良太を思わせるなどと思ってたら、脚本は古沢さんではなかったが、「キサラギ」を撮った監督さんの作品だった。微妙に正しい感覚かもしれない。

 脳内に会議室ができてしまい、近代人が誕生した。
 「ポジティブ」「ネガティブ」「理性」「衝動」「記憶」が、こんなに主張しあわなければ、皆もっと楽に生きられるのだ。
 会議が紛糾し、その結果とんでもない行動をとってしまうからこそ、自分でとった行動のくせにそれを思い切り悔んだりする意味不明の生き物になってしまい、そんな姿を小説に表したりもする。
 中間試験後は「羅生門」に入るが、授業の構想がわいてきた。

  近代小説とは何か  ~ こじらせアラサー女子、真木よう子の脳内 ~
  主人公と世間    ~ 架純ちゃん、谷間は一瞬だけ? ~
  イメージ・風景   ~ 今日もずぶ濡れの戸田恵梨香 ~
  視点        ~ 尾野真千子と藤野涼子の偽証 ~
  比喩・象徴     ~ 青春の味、黒島結菜の初恋ドーナツ ~
  逆説・アイロニー  ~ 聖母像としての深津絵里 ~
  主題        ~ イニシエーション文乃ちゃんラブ ~

 て、感じにしてみようかな。

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