水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

ももへの手紙

2012年04月30日 | 演奏会・映画など

 連休中の南古谷ウニクスは、さすがに普段より賑わっていて、遅めの回だったが二桁のお客さんがいた。
 老若男女。カップルも家族連れも。おっさんの一人客が自分含め3名。
 後ろの方にいたちびっこのうち年少の子が、妖怪の姿をみて「こわい」と言ってるのを、お兄ちゃんが「だいじょうぶだよ」と言ってる声が聞こえてきてほほえましい。
 小さい子を怖がらせたり、げらげら笑わせたりしながら、おっさんたちを感涙にむせばせるという、ハイレベルなエンターテイメントだった。
 父親を亡くした後、母と二人で、瀬戸内海に浮かぶ島で新しい暮らしを始める小学6年生の少女。
 東京を離れたこと、島の暮らしに入り込めないこと、そして何よりけんかしたまま父が帰らぬ人となったことへの後悔の念。
 そういう思いをぶつける相手が母親しかいなくて悶々としている少女の前に現れた妖怪たち。
 妖怪は人間がつくりだしたものだけど、だからこそ実在すると思う。
 見える子には見える。必要な子の前には現れる。必要が無くなれば去っていく。
 妖怪が妖怪そのものの姿の場合もあれば、不思議な人間だったり、事件だったり、景色だったり、音楽だったりするのだ。
 それが見えなくなったときが、大人への階段を一つ登ったということであり、ほとんどの人がそういう経験をもっている。
 夢を見たままではいられないこと、現実と向き合って行かねばならないことは誰もが知っていて、子どもでも一定の年齢になればそれを無意識のうちに予感する。
 子どもも大人も楽しめるファンタジーは、そのへんのつぼをついてくる作品だ。
 完成度はんぱないっす。あとアニメがずるいのは、全部作れるということかな。
 現実の風景を表現しているようで、隅から隅まですべて人の手が入っている。
 美しい瀬戸内海の風景も、人為による完璧な自然の姿になっているところがずるすばらしかった。

 妖怪がももちゃんと別れる終わりの方のシーンで、ももが「ありがとう、忘れないよ!」と妖怪に声をかける。
「女はいつもそう言うのさ」。山寺宏一が声を担当する妖怪のカワが答える。
 筋と関係なく、納得してしまった。
 別れ際、女の子って必ずそういうふうに言うもので、男はそれを信じてしまう。
 男はずっとその気分でいるバカモノなのさ。だから時を経て再び出会って、男がせつない目線でみつめても、誰?と思われるだけなのさ。そうでなかったら「県立川越東高校」なんて言われるはずないから。みんな、もうあきらめて、前向いて行こうぜ。

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課題曲クリニック

2012年04月29日 | 日々のあれこれ

 洗足学園の恒例企画となった課題曲クリニックへ。新河岸から渋谷に出て、田園都市線に乗り換えて溝の口まで1時間ちょっと。副都心線のおかげで便利になった。今までは課題曲が決まってない状態で出かけたことの方が多いが、今年は4に決めたので、聞くべき講座は決まっている。まずは桐田先生の合奏指導法で、マーチ練習法の基本的なことや、「お約束」的な演奏法を習う。聞いてしまえば何でもないように思える事柄も、知っているのとそうでないのとでは雲泥の差だ。自分で編み出そうとするなら何百時間もかかるか、編み出せないまま終わるかのちょっとした「技」を、1時間ほどかけて出かけていくだけで無料で教えてもらえるのは、効率がよすぎてもうしわけないくらいだ。
 続いて、伊藤康英先生と和田信先生が対談形式で、曲について語ってくださる講座。自分の曲にこめた作曲者の思いがかいま見える。曲は自分の子どもなのだ。外野から、何も考えずに、今年の曲はどうのこうのと言うのはやめようと思った。ていうか、ほんとに奇をてらわないふつうのマーチで、これだけ美しい曲はめずらしいのではないか。そんなことを思ってて質問コーナーになったら、参加してた中学生たちが、「この部分はどっちの音色が大事なんですか」とか「なんでホルンだけこの音なんですか」とか、ある意味身も蓋もない質問攻めをしてて、それに丁寧に応える和田先生がナイスガイだった。
 溝の口から電車に乗ると、なんと乗り換えなしで春日部まで行ける。渋谷を越えて表参道、青山のおしゃれな街、永田町、大手町の都心部を過ぎ、水天宮、清澄白河と下町へ。地上を走ってくれたらほんとに魅力的な路線だ。地上に出た押上でスカイツリーをみようと思ったが、方角がわからなかった。『太陽が動かない』が期待通りの面白さだったこともあり、一時間半の道のりは長く感じなかった。めったにこない春日部は、大きな街だと思うのだが、駅を降りたとたんになぜか場末感が漂う。越谷らへんに水をあけられてないだろうか。駅から15分くらい歩いて、春日部市民会館に着くと、見たことのある男子高校生の集団、OBもいる。基本的に、男子の方が義理堅いんじゃないかな。もう一つおつきあいのある姉妹校さんとのことを思っても。

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懇親会

2012年04月28日 | 日々のあれこれ

 ある学校の生徒さんから、定期演奏会にぜひ来て下さいとのお電話をいただいたのが先週末。
 ひょっとしてチケットが予想より残っているという現状もあるのかもと思い、また出かけて損のない演奏会であることはまちがいないから、積極的に行くようにと部員に話し、注文をまとめて希望枚数をファックスさしあげたのが週のなかば。
 昨日、念のためその学校の事務の方にチケット希望が伝わっているかの確認をしたら大丈夫だとのことだった。チケット代金を集める段取りをし、練習を終え、明日自分も行ければいいのにと思いながら夜ドトールで譜読みをしてたら、その学校の生徒さんから携帯に電話が入る。
 「SとAは希望通り用意できますが、B席はもう満席なので、その分はSかAでおねがいできますか」「そうですか … 、じゃAにかえてください」。当日になって「君たちチケット代追加徴収ね」とも言い難いし、まさか「チケットなかったんだって」はいくらなんでもかわいそうだ。差額はこの太っ腹のおれさまが、最近ほんとに少し太っ腹のおれさまが出してやるよ、と心で言い聞かせながら、電話をきったのだった。
 なので、出かけた諸君はしっかり勉強してきてほしい。したかな。
 たぶん自分だったら、そんなときは「差額は要りません」と言ってアップグレードするけどな。
 もしいつか有料の演奏会を開く日があれば、そんなふうにしよう。
 演奏会ではなく、父母と教師の会懇親会という重要な任務が今日の自分にはあった。
 昨春は震災のため開かれなかったこの会は、今年から少し趣向がかわり、落ち着いて懇談しあいましょうという会食になった。
 そうなるという噂はきいてたが、誰か一つくらいは余興をということになれば、T氏か自分におはちがまわってくるのは必定。会場に向かう車の中で、歌詞をみないで歌えそうな曲をいくつかラインナップしてみる。「霧の摩周湖」「甘い生活」「哀愁のカサブランカ」「イルカに乗った少年」 … 。いくらなんでも古いのではないか。
 結果的に歌うことなくおひらきとなり、それはそれで少し残念だったが、少し新しいネタをしこむ時期にきているのかと思う。いやそれよりも、新入部員を、一年の生徒を一刻もはやく顔となまえが一致するように努力するのが先決だ。先日見かけただけで買わなかった伊藤真先生の『記憶する技術』を買いにブックファーストに寄ったら、見あたらなかった。
 吉田修一『太陽は動かない』をゲットしたので、明日の春日部女子高校さん演奏会(無料)には電車に行くことに決定した。
 ちなみに、「いきものがかり」さんの好きな歌ベスト3は「茜色の約束」「最後の放課後」「白いダイアリー」である。

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ベスト3

2012年04月27日 | 日々のあれこれ

 1時間目の教室に入っていったら、「先生GOGOカレーの話しましたよね」と突然迫られたのだが、漢文の時間に話した記憶がなかったので「え? したっけ」「1組か2組で」「あ、したかもしれないけど、どうしたの?」「大宮にもできましたよ」。彼はこの貴重な情報を教えてくれたのであった。ありがとう、Mくん。ついに埼玉県にも進出したか。
 以前、GOGOカレーのホームページに、埼玉にも進出してくださいとメールを送った記憶があるが、それが聞き入れられたにちがいない。数ある店舗のなかで、今まで一番居心地がよかったのは、新宿の三越の裏にあった東口店だが、残念ながら移転してしまった。西口の総本店、高田馬場店も、パフォーマンスが高かった記憶がある。大宮店もぜひ、いい雰囲気をつくってほしい。
 同じ材料をマニュアルに従って調理し盛りつけて提供するチェーン店においてさえ、店ごとに完成度は異なる。カツの揚げ方、キャベツの水の切り具合、ごはんの固さ、そして店員のテンションなど、いろんなものの総合体で味はきまる。いわんや課題曲をや。まずは、マニュアルどおりにきちっと演奏するところから始めなければ。
 「先生!」「はい?」「うちの親が先生のブログでどこかの辛ミソラーメンがおいしいて書いてあったと言ってます」「え?読んでくれてんの」「はい、こんど教えてください」。
 吹奏楽部保護者ではない大人の方に見ていただいているとは思わなかった。
 ここ数年の体験から、みそラーメンのベスト3を記しておきたい。
 池袋東口「花田」さんのみそらーめん790円、南古谷駅前「みかみ」さんの辛ミソラーメン800円、そして蓮田の「もちもちの木」のみそラーメン750円。
 それにしてもどの店も濃厚だ。一食で、今の自分には塩分カロリー摂りすぎになっているのはまちがいない。みそラーメンといえば8番ラーメンだったが、久しく食べてないし、今食べたらあっさりに感じてしまうかもしれない。
 みそに限らないな。ラーメンのスープは、日本人の食生活の歴史上、いま一番濃厚になっているにちがいない。
 ちなみに、今年観た映画で、現時点のベスト3は「ドラゴンタトゥーの女」「篤姫ナンバー1」「僕等がいた(後編)」である。

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「市民」

2012年04月26日 | 日々のあれこれ

  震災後に学んだこと。権力側にいる方は自己保身を第一にする。マスメディアも、専門家も同じで、そのためには故意に情報を操作することもありうる。
 そういう構造が明らかになってしまった以上、民主党が政権をとって以来、小沢一郎氏がなぜここまでメディアから攻撃されるのかについてもある程度は類推できていた。
 無罪判決が出たあとでさえ、小沢氏を批判する人はどういう人たちか。自らの権益がおかされる心配をする方々、そしてそういう人達の考えに洗脳されてしまった人々だろう。
 後者については、学校でメディアリテラシーの教育機会がないことにも大きな原因がある。
 Aと書いてある文章を、ほんとにAなのかと疑う態度を身につけさせない国語の責任でもあろう。
 一部の人達にだまされない人をつくる仕事をしたいなあ。

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4月25日

2012年04月25日 | 日々のあれこれ

 学年だより「学ぶ力」

 学ぶ力を身につければ、学力は自然に身に付く。
 というより「学ぶ力」をこそ「学力」とよぶべきであろう。
 模試の偏差値が上がると「学力」がついたと判断されることも多いけれど、試験問題を解く力は、学力の一部に過ぎない。
 定期考査の問題や、模試の問題を解く力そのものは、社会人になってから仕事の現場で使える力ではない。
 だからと言って、今の勉強が将来役に立たないというのでは、もちろんない。
 学校の勉強に一生懸命取り組むことによって身に付く、勉強への姿勢や、勉強の方法論が大切なのだ。
 この世の中で自立して生きていこうとするなら、大人になっても学ぶことは求められる。
 むしろ世の中に出てからの方が、いろんなことを学ばなければならないくらいだ。
 自分で学ぶことのできる人間になるために、みなさんは今修行中なのだ。


 ~ 学ぶ力には三つの条件があります。第一は自分自身に対する不全感。自分は非力で、無知で、まだまだ多くのものが欠けている。だからこの欠如を埋めなくてはならない、という飢餓感を持つこと。
 第二は、その欠如を埋めてくれる「メンター(先達)」を探し当てられる能力です。メンターは身近な人でもいいし、外国人でも。故人でも、本や映画の中の人でもいい。生涯にわたる師ではなく、ただある場所から別の場所に案内してくれるだけの「渡し守」のような人でもいいのです。自分を一歩先に連れて行ってくれる人は全て大切なメンターです。
 第三が、素直な気持ち。メンターを「教える気にさせる」力です。オープンマインドと言ってもいいし、もっと平たく「愛嬌」と言ってもいい。
 以上、この三つの条件をまとめると「学びたいことがあります。教えてください。お願いします」という文になります。これがマジックワードです。これをさらっと口に出せる人はどこまでも成長することができる。この言葉を惜しむ人は学ぶことができないのです。学ぶ力には年齢も社会的地位も関係がありません。みなさんも、いつまでも学ぶ力を持ち続けてください。(内田樹「キャリアの扉にドアノブはない④」朝日新聞) ~


「こんにちは」「お願いします」は、単なる儀礼的あいさつではない。
 そのように元気に声に出すところから、みなさんの学びが始まっているのだ。

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時間配分

2012年04月24日 | 日々のあれこれ

進路指導部のプリントに書いた文章。

 努力の大切さを疑う人はおそらくそんなにはいない。
 何かを手に入れるためには努力が必要であり、その何かが大きければ大きいほど、簡単に手に入るものではないと私たちは理解している。
 ただ具体的にどうすることを努力と言うのかは、人それぞれで異なるかもしれない。
 たとえば、「一生懸命がんばること」とか「心をこめてやること」といったふうに。
 このように情緒的な言葉で表現した場合、「努力」の実像が明らかにならない面もあるので、思い切って単純化してみたら、どうだろう。
 努力するとはどうすることか。それは「時間をかける」ことである、と。
 勝間和代さんが、こう述べている。

  ~ 私は努力も、測定が可能だと思っています。どのように測定するかというと、とても簡単です。
  「 努力=使った時間配分量 」
と考えればいいわけです。しかも、私たちには1日は24時間しかありませんから、多数のことに努力をし続けることば実は不可能で、せいぜい2つか3つのことに集中しなければ、努力の成果は出ないわけです。だからこそ、得意なことを見つけて、そこだけに時間を割り振るようにしないと、努力の効率が悪くなります。努力というのはすなわち、
  「 あらゆる人に1日24時間平等に与えられた「時間」という資源を
    どのくらい、集中して「配分」するか 」
という、「資源配分」の問題なのです。 (勝間和代『断る力』文春新書) ~

 結果が出ない原因を、私たちは才能の不足や環境の不備に求めがちだ。
 しかしよくよく実体を分析してみたならば、もしくは冷静に自分で振り返ってみたならば、時間配分が不足していた、つまり単に努力が不足してだけだと気付くのがほとんどではないだろうか。
 週に一回休みのあるチームが、一年365日練習するチームに勝とうとするのは難しい。
 毎日3時間3年間勉強し続けた子を、半年間の勉強で追い越すのは至難の業だ。
 人に与えられた最も大切な資源である時間をどう配分するか。
 それはその人の生き方とも言うべきものであり、配分した時間と結果との相関関係は、他の何よりも高いと考えるべきだろう。
 能力もセンスもお金も環境もそろっていれば、それに越したことはない。
 でもまずは「そのこと」に時間を配分すること、それが最初にやるべきことだ。

 うん、いい文章だ。でも、そのまま自分にかえってくる中身だ。

 

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大学改革

2012年04月23日 | 日々のあれこれ

  社説なんてめったに読まないが、今朝の朝日新聞は「大学改革」というタイトルだったので、ちょっと目を通してみたら「日本の大学生は1日平均で、4時間半しか勉強しないという調査がある。」という一文に驚いてしまった。
 そ、そんなに勉強してるの?
 だって、よほどの高校生でないと一日4時間やらないし、やっとそこから解放された大学生になったのだから、ふつうゼロベースになるんじゃないの。
 しまった、そうだったのか。4年間ではほとんど何も残せず、地元の教員採用試験にも受からなかったのは、おれの勉強時間が足りなかったのか。30年近く経ってやっとわかったぜぇ。
 前に、「自由に海を見に行けるぐらいで喜ぶな、学生は勉強せよ」と書いたことがあったけど、訂正しないといけない。こんだけやってたら十分じゃね?
 でも、朝日新聞さんは足りないという。いや中央教育審議会が、それではだめだと言ってるそうだ。
「前もって課題を与えて予習させ、議論や意見の発表をさせる。一方通行の授業を改めて、自ら学び、考える力をつけさせる」ような方向に、大学改革をせよと答申しているそうだ。
 なるほどね。自分の頭でね。
 社説の最後はこんなふうにまとめられている。
  「経済のグローバル化や長引く不況で、多くの企業が創意工夫のできる自立した人材を求めるようになっている。そしてこれからは、他国の優れた若者と就職活動を競う機会も増える。大学改革は待ったなしだ。」
 なんというか … 、これほど何も考えてない文章も珍しいなと感じた。

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空想組曲

2012年04月22日 | 演奏会・映画など

 土曜は練習が早上がりになったので、余裕をもって「空想組曲」という劇団のお芝居を見に行けた。
 場所は赤坂レッドシアター。初めて出かけるハコだ。
 赤坂見附の駅をでて、魅力的な飲食店が立ち並ぶ通りを少し歩くと、赤い入り口が見える。
 150人強くらいのキャパだろうか(ハコとかキャパとかすっかり業界人だね)、コンパクトな空間でステージに手が届くくらいの感覚がある。
 これくらいの大きさだと、前の方はちっちゃいパイプイスだったり、クッションがなかったりするものだが、全部いい感じのイスでこじんまりしながら贅沢感が漂う。照明や音響の機材もお金がかかってそうで、池袋やら下北沢とは雰囲気がちがった。
 こういうハコで、定演のお芝居パートだけやれたら幸せだろうなと思ったけど、それは吹奏楽ではなくなるな。
 さて「深海のカンパネルラ」というタイトルの演目は、実によく練られた脚本だった。
 事故で友人を失ったショックから立ち直れない一人の若者。
 その友人から預かった「銀河鉄道の夜」を読みながら、いつしか妄想の世界に入り込むと、自分はジョバンニとして銀河鉄道に乗り込んでいる。そこに友人がカンパネルラとなって現れる。
 妄想の世界なので、時折設定のやり直しが行われながら、独特の「銀河鉄道の夜」が繰り広げられる。
 ちょうどそれは、作者がお話を創り上げていく試行錯誤とも似ている。
 宮沢賢治がこの作品を書いたときも、同じように壊れていたのかもしれない、途中から現れる先生とよばれる謎のおじさんはもしかしたら宮沢賢治なのかと連想され、「私も妹を失ってね … 」という話でそれは確信となる。
 妄想と思われるシーンに時折、その妄想の根拠となったであろう現実世界の出来事が入り込んでくる。
 クラスのなかで人間関係を築けてなかった様子、それゆえもともと自分の世界に入りこみがちであったこと。
 そんな彼だからこそ、亡くなった友人は、心の通じ合える貴重な存在だったのだ。
 彼をなんとか現実の世界に引き戻そうとする姉(きれいな女優さんだった)は、クラスメイトや、亡くなった友人の家族に、話をしてほしいと頼む。
 親しいとはとうてい言えない、ていうかイジめてたクラスメイトにまで頭をさげ、弟と話してやってほしいと頼み込む。
 こういうのは、不登校になってしまった生徒をこちら側にひきもどそうとして、様子を見に行ってもらったり、メールを送ってもらったり、電話したり、家庭訪問したりという光景と当然重なる。
 そんなことをしても劇的に解決することはないのだ。
 カウンセラーの人とかに相談すると、とりあえずそっとしておけと皆さんおっしゃるが、そうできるなら苦労しないし、ほおっておいたらどんどん距離が広がってしまう。
 だめもとでも関わり続けるしかなく、そうしているうちに、ちょうど瓶に水がたまるように心の隙間が埋まっていくのではないかという可能性にかけるしかない。
 それをどこまで諦めずにやれるか。
 こういう状態に陥った生徒さんがいたなら、勿論声はかけようとするだろうが、一方で長丁場になるだろうなという諦念がおこることは否定できない。
 そんな気持ちを一切持たずに働きかけ続けたお姉さん(けっこう萌え~)がいたからこそ、彼はこっちの世界にもどってこれたのだ。
 という、まるで教育関係者的な見方をしていた。
 歌も踊りもなく二時間を超える芝居を見たのは久しぶりだったが、ザ芝居だった。
 出てた役者さんたちの能力の高さからすれば、もっと簡単に笑いをとりにいったり、泣かせにいったりすることも可能だろう。
 それを抑えて、アドリブも多分ぜんぜん無く、脚本に書かれた内容をほんとストイックに真面目に表現しようとしてるように見える。
 たとえば曲を演奏するにおいても、こんな風に真摯に取り組んだならば、作曲した人は心から喜んでくれるのではないだろうか。
 いい仕事を見れてよかった。誘ってくださった方に感謝したい。

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酒場談義

2012年04月21日 | 日々のあれこれ

 今朝の大野勢太郎さんの番組で、犬飼基昭前サッカー協会会長のインタビューが流れていた。

 「今の若い人達は、学生時代タテ社会でもまれてないから、社会に出てとまどう。社会に出れば厳然たるタテ社会なのだから、学生時代は体育会で鍛えられた方がいい。
 世の中の問題に正解はない。学校で先生に正解を教えてもらうという勉強しかしてないから、自分で考えるということができない。知識ばかり詰め込んでいい大学に入っても、そのままではつかえない … 」

 という主旨の話だったと思う。
 「自分は学生時代にサッカー部で鍛えられてたので、三菱に入ったあともすぐ違和感なくやっていけた … 」というお話あたりで学校についた。
 浦和レッズの黄金期を築き、Jリーグでもいろんな改革を行った犬飼さんだから、類い希な仕事能力や、人心掌握術をもった方なのだろうと推測する。
 それほどの方でも、こと勉強に関しては、呑み屋さんのカウンターでどっかのおっちゃんが語っている話と同じだなと感じる。
 「学校の勉強は知識の詰め込みにすぎない」から、社会では役に立たないと言う人はいる。
 一面は真理だろう。
 学校で学んだ知識そのものが、現実の娑婆で役立つことはない。
 ていうか、直接現場で役立つことを教えるのが学校の役目ではない。
 頭の使い方やら、頑張り方を教えて、未知の世界に立ったときどう対処すべきかを教えようとしているのだから。
 それに「知識の詰め込み」だけでは、実は「いい大学」には入れないのだ。
 「いい大学」を出た若者がもし「つかえない」のだとしたら、学校での過ごし方よりも、別種の理由が存在するのではないだろうか。
 「タテ社会でもまれてない若者」なんてのもレッテル貼りに近くて、そういう言葉で分析してしまったから、ものの本質がみえなくなっている典型的な例だろう。
 「ゆとり世代」だから、なんて言い方も同じ。
 そこにいるA君になんらかの問題があったとしても、ゆとり教育を受けたことがその問題の原因であることなんて、ほとんどないと思う。

 2年生版の「進路だより」で、和田秀樹氏と東大大学院在学中の木村美紀さんとの対談が載っていた。

~ 和田: よく世間では「勉強ばかりやっていると、つまらない人間になる」なんて勝手なことを言うんだけど、勉強してない人のほうがつまらないんじゃないかな。
木村:そうですね。勉強って結局、その人の引き出しを増やすことにつながるし、引き出し自体も広がるんですよね。 ~

 学校の勉強をしてなくても、引き出しの多い人、引き出しの深い人は山ほどいる。
 でも、学校の勉強にはあえて背を向けて遊んでいる方が引き出しが増えるということはあり得ない。
 勉強ばかりやったからつまらない人間になるという例は実際にはないと思う。
 A君がつまらないとしたら、たんに元々つまらない人間だったか、もしくは勉強が足りなかったか。そっちが現実ではないだろうか。

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