水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

8月31日

2011年08月31日 | 日々のあれこれ

 何人か登校し、勉強や自主練をしている。
 アンサンブルの譜面をさがしにいく前に、二学期の授業の準備をすこし。
 現代文は「舞姫」をつかって、小説の読解法を学びながら、日本人の自我意識の形成はいかなるものなりしやという、評論頻出ネタを話、かつ何か思うところを書いてもらうことで小論文の勉強もしちゃおうという、総合的な企画を思いついた。文語文でもあるから、なんでもやれそうだ。夢はひろがるけど、どこまで具体化できるだろうか。
 新学期配布の「進路プリント」に学年主任としてのありがたいことばを載せよという指令が下ったので、島田紳助氏ネタをつかうことにした。


 ~ 漫才には教科書がない。だからこそ、僕は十八歳でこの世界に入った時、自分で教科書をつくろうと思ったんです。
 「これで勉強したら、絶対売れる」という「教科書を」。
 僕は自分が「オモロイ!」と思った漫才師の漫才を、片っ端からカセット・テープに録音していきました。その頃は、録音機材といったら大きなラジカセしかなかったから、それをテレビの前に置いてね。劇場まで持っていたもありました。普通に持っていったら怒られるから、鞄に忍ばせて。
 そうやって録音した漫才を、今度は繰り返し再生して紙に書き出していく。書き出すことで、なぜ「オモロイ!」のかが段々とわかってきたんです。(島田紳助『自己プロデュース力』ヨシモトブックス) ~


 先日引退した島田紳助氏は、まだ紳助・竜介という漫才コンビでデビューする前に、こんなことをしていた。
 想像できるだろうか。たぶん、これはかなり大変な作業だ。
 これは、島田氏が吉本の若手芸人の前でした講義をテープおこししたものだ。
 その講義の様子が「紳竜の研究」という数年前に発売されたDVDに収められている。
 先日あらためて観てみて、島田紳助氏がどれだけ努力してあれだけの地位を築いたのをあらためて認識することができた。
 島田氏は言う。「この世はすべて才能だ」と。
 どんな仕事、どんな分野でも、5の才能を持つ人間と、1の才能しか持たない人間とがいる。
 5の才能を持つ人間が5の努力をしたとき、25という超一流の結果が生まれる。
 5の才能を持つ人間が1の努力しかしない場合には、5の努力をした2の才能の人間に簡単に負けてしまう。
 DVDの画面には、紳助氏の話に聞き入る若手芸人たちの姿がうつっている。
 おそらく、彼らのほとんどは島田紳助氏ほどの才能は持ち合わせていない。
 この話を聞きながら、よおしオレはやるぞと思ってはいるだろうが、たとえば紳助氏が若いころにしただけの作業を実際にするかどうかといえば、たぶん実際にやってみるのは一握りだけだろう。
 もちろん、彼らにいろんな言い分があるだろう。
 紙に書かなくても今は映像で繰り返し見られる時代なったとか、バイトが忙しくてそこまでの時間はないとか。
 紳助氏に教わったことを、実際に愚直にやってみた芸人さんは、何らかの結果はついてくるのではないだろうか。
 もし漫才では目が出なかったとしても、そこでした途方もない努力は、別の仕事にうつったときに必ず役に立つ。
 努力は、努力した内容以上に、努力したかどうか、どれほどやれたかどうかが重要なのではないかと思う。
 受験も同じで、「こんな勉強は将来役に立たない」とか「効率が悪い」とかすぐ口にするのは、勉強の意味がわかっていないのだ。
 講義の後半で島田氏はこう言う。


 ~ 君たちの才能は「1」かもしれないし、「5」かもしれない。
 でも、それは自分たちで得たんじゃない。親から与えてもらったもの、神様に与えてもらったもの。
 だけど、努力は自分で覚えるものです。
 誰でも頑張って「5の努力」をすれば、「5の筋力」を得ることができます。 
 それを得ることができたら、この世界が駄目でも、他の世界で絶対成功できます。
 なぜか。この世界が駄目だったら、次に見つけた新しい世界に「5」をかける。
 そうやっていったら、そのうちにちゃんと自分に合う世界が見つかって、成功するんです。
 「5の筋力」を持っているやつは時間がかかっても絶対成功する。 ~


 何事も、結果がどうなるかはわからない。
 自分の才能が5なのか、1なのか、それも実際にやってみないとわからない。
 ただし努力は、5をした場合に5の筋力としてからだに残っていく。
 多くの人が「努力は裏切らない」というのは、こういうことではないだろうか。

 

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8月30日

2011年08月30日 | 日々のあれこれ

 夏休み最後の練習日。
 宿題完成度チェックリストの記入具合をみると、思ったよりもこなしているようだったので安心した。
 曲の方がすすんでいない。
 アンサンブルを数チーム確認したが、1年金管さんがかなりきびしい状態だった。
 急遽チームを組み直すことにし、曲も選び直すことにした。
 文句がある子がいるかもしれないが、今なら取り返しがつくと思う。
 
 夕方、「にじの家」のスタッフの方が見えて、ふれあい祭りでの演奏を依頼された。
 依頼をいただかなったら、こちらからお願いに行こうと思ってたくらいです、と快諾する。
 
 講習も終わり、一段落ついた気分になれたので、福山雅治「家族になろうよ」を練習する。
 福山さんの歌って、これくらいなら作れんじゃねえかなって思う時があるし、けっして歌も「うまい!」とは思わないけど、あの味わいは絶対に出ないのはわかっている。
 そのへんが絶妙なのだ。ビジュアルは言うまでもないし、一つのことを極めるタイプではなく、何でもこなせるタイプの典型ですね。え? キャラかぶりますか。

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昨日

2011年08月29日 | 日々のあれこれ

 昨日は本校会場での指揮法レッスンの日。
 時間がかかっていた課題を、いちおう合格させていただけて、ほっとした。
 進んでいる先生方が、次々と美しい曲をレッスンされているのだが、一歩でも近づけてうれしい。
 県外からも見学の方が来られて、すぐに入会を決意されていた。
 でも、みんな、なんで?
 とくに県立高校の場合、理想に近い環境で長年指導されている先生もいらっしゃれば、ほとんど部員がいない学校さんに異動になることもある。
 吹奏楽部の顧問になれるとはかぎらないし、そういう意味では指揮法を身につけて、それを直接いかせないままになってしまう先生もいらっしゃるかもしれない。
 そっか、考えてみれば、おれ自身、来年も同じように顧問でいられるかと言えば100%ではないのだった。
 そしたら、こうやって勉強していることはムダだろうか。
 そうとも思えない。
 習い事が基本的に好きというのもある。
 斉藤メソッドの指揮法という、芸術と論理とが両立する不思議なものに接することができる喜びがある。
 何かを身につけるための方法論を身体で実感できる。
 レッスンの先生、参加されている先生方といろんな話ができることがまたありがたい。
 話は音楽のことにはかぎらないが、会話している内容と全然別のところでインスピレーションがわいてきて、あれもやろうこれもやろうと思うことがあるのだ。

 世に山ほどある自己啓発本のうち、どういうのをいい本かというと、あたりまえのことだが「ヤル気の出る本」だ。
 それが目的の本だから。その本に書いてある勉強法とか仕事術とかを、読後にいろいろ試してみたくなるのが、ふつうにいい本。
 読んでいる途中に、もう読むのをやめて全然関係のないことを、いろいろやりたくなってしまうしまうのが、さらにいい本だと思う。

 そのことによって何を学んだか。
 そのことによって何をしたくなったか。
 本を読むことで、自分の何が変わったか。
 指揮法を学びながら、自分の何が変わったか。
 何かがもし変わるとしたら、指揮自体がうまくなってなくても、月謝なんて安いものだ。
 こういう場で知り合えた先生方、つまり自腹をきって何かを学ぼうと集ってくる殊勝な方々との出会いもまた、お金にはかえがたい。
 けっきょく誰と接触できるかなのだろうか。
 勉強でも部活でも仕事でも、そこで誰に出会えるかは大事だから、できるだけ困難をともなう集団を目指してがんばった方がいいという話を、こんど学年で話してみよう。

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選手権

2011年08月28日 | 日々のあれこれ

 高校サッカーといえば冬の選手権だが、その予選で残念ながら先日本校は敗退した。
 「えっ、サッカー部負けたの? どこに?」
 「○○です」
 「そこ強いの?」
 「強くないですよ。でもしょうがないです。いくらずっと押してたって負けた方が弱いんですから。なんか、10年やってこんなに勝てないんじゃ、ほんとセンスないって思いますよ。」
 とサッカー部顧問が嘆く。
 「センスじゃないよ、努力足りないんだよ」
 「そうすかねえ」
 「そうだよ。センスって言っちゃったら、おわりじゃん。」
 「先生、今年どうだったんですか」
 「うち? … 」
 「 … 」
 「 … 」
 「先生、何泣いてんですか」
 「おれ20年やってるんだよぉ。センスどころか何もないよ」
 「そんなことないですよ。だいじょうぶっすよ」
 ぎゃくに慰められることになった。
 10年か。
 でもまだ10年残ってるから、がんばってみよう。

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合同練習

2011年08月27日 | 日々のあれこれ

 午前は講習で、午後は星野高校さんとの合同練習に出かける。
 こういう貴重な機会をどういかしていくかが大事なのだが、行きました、いっしょに練習しました、帰りました、というだけになってしまってる子もいる。
 あさってお説教しようかな。
 あと、ある保護者の方から「帰りが遅い」と昨日お説教されたのであやまったけど、その原因をつくった子を明日お説教しよう。
 夏休みも終わりが見えている。
 気温も下がってきたけど、文化祭が終わるまでは終わり感はうまれないだろう。
 終わったらすぐにアンサンブル、バッハザールとつづいていく。
 机上には未処理物件が堆積している。
 深い地層には何が隠されているのか、白亜紀ぐらいまで遡るのもありそうだが、それなら未処理のままクリアされているのだろう。
 忙しいといえば忙しいといえるが、やらなくても時が解決してくれそうなものにはできるだけ目をつぶることも必要ではないか。
 ただし、部員しょくんの夏休みの宿題だけは、きちっとやってもらわねば、新学期練習ができなくなることだけはまちがいない。

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今も昔も

2011年08月26日 | 日々のあれこれ

 現代文の時間に「日本には個人主義はない、それは絶対者が存在しないからだ」という評論を読む。
 早稲田大学の過去問だったけど、今まで他にも同じ主旨の文章は何回か読んできた。評論のお約束だ。
 「キリスト教を前提にしてはじめて平等の概念は理解できる。近代民主主義の原点はそれで、日本は民主主義を形だけ取り入れた国だから、現実には機能していないんだよ」という話も、3年にもなれば、先生またですかという顔になっているかもしれない。
 でも、民主党の党首を選びましょう、グループごとに決めましょう、やっぱ長老の意見を大事にしましょう、派閥、世間の論理で決めましょうという決め方を目にすると、これでいいのかと思う気持ちはおこるけれど、これでいいのだ。変えようがないのだから。
 古文の予習をしてると、藤原道隆、道兼が亡くなったあとに、誰が関白職に任ぜられるかと争いがあって … 、みたいな文章を読んでますます、日本は昔から今まで同じようにやってきたのだから、これからも同じなのだろうと思う。
 民主党さんが政権をとった時、ひょっとして少しは変わるのかと思った自分が青かった。
 人間て、根本は変わらないことをいつも思い知らされてるはずなのに。
 それにしても、前原さんが首相になれば年下だし、海江田さんだとほとんどタレントさん的経済コメンテーターというイメージしかないから、なんか政治の世界が変わったのか、自分がどんだけ年をとったのか、ほんと不思議な感覚だ。
 海江田さんがなるなら、いっそ若い頃の島田紳助氏がテープおこしをして勉強した海原千里(上沼恵美子)さんが総理になったらどうだろう。やり手だと思うけどなあ。
 官僚も、ヒラリークリントンにもばっちり対抗できるはずだ。

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オープンキャンパス

2011年08月25日 | 日々のあれこれ

 昨日からの夏期講習第4期、こんどは現代文になった。
 意味段落ごとの内容を整理しながら読解していくことが大事という話をする。
 そして各段落の関係をおさえる。
 関係といっても、「同じ」か「対比」か「因果関係」かの三つしかない。
 1段落は筆者の主張でA、2段落はその具体例だからA’、3段落は反対の内容だからB、最後にまとめでA、というシンプルな構造で把握しよう。
 A、A’、B、A … 。
 おお、これは音楽の二部形式と同じではないか。
 評論文を分析するときに、「三部形式」とか「ソナタ形式」とかの言葉を用いてみようかと思いついたが、ぎゃくに「?」感の人のほうが多いであろうことが予想できる。
 もったいないな、このひらめき。
 部員のみなさんに現代文の読解指導をし、その後スコアを読むという企画をやってみようかしら。
 う~ん、こっちもきびしいかな。

 午後は、夏休み二回目のオープンキャンパス。
 部活体験の時間に、チューバ経験者が二名も参加してくれた。
 すごい、うまい。もし入学、入部してくれたなら、文字通り即戦力である。
 共学の高校さんには、こういう吹き手が何人も入部するのかと考えたら、ちょっとずるいなと思ってしまった。

 合奏後、のぞきに来ていた三年生が「先生、今年は大変ですね」という。
 新体制での合奏の出来をそう言ったのだ。
 「君たちも大変だったんだよ」と笑う。

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紳竜の研究

2011年08月24日 | 日々のあれこれ

 島田紳助氏のニュースを聞いてすぐ「引退しても食うに困らない人はいいなあ」と思ってしまった。
 光星学院の先生以上に肚をくくれてない会社でやっていけるか、なんて思いもあったのではないだろうか。
 寝る前に、以前買って少しだけ観てそのままになっていたDVD「紳竜の研究」を観てみる。
 吉本興業の漫才師育成学校でたった一回だけ行われた彼の講義を収めた部分。
 何人かの方が「才能のある方だけに引退は惜しい」と述べていたが、ほんとうにそんな印象だし、才能があるうえに努力をしたからあそこまでの地位を手に入れたのだろうと改めて感じる。
 「おれも努力なんかしてへんよ」と島田氏は語る。
 「若いころ、おもしろいと思った漫才を録音して、全部ノートにおこしてな、繰り返して読んで、オチの構造とか間が何カ所あるかとか研究した」ぐらいかな、と。
 漫才で食っていこう、一番になってやろうと思った島田氏にとって、この程度の作業は努力というほどのものではないのだろう。
 しかし、この話を聞いている吉本の若手達のなかで、いったい何人がこの作業を行うだろう。
 昔、文章が上手くなるために、自分がいいと思う文章を原稿用紙に書き写すといいという話をきいて、少しやったことがあるけど、すぐにやめてしまった。
 ちなみに浅田次郎氏は、畳に穴があくほど川端康成他好きな作家の文章を写し続けたという。
 努力のやり方を聞いて「なるほど」と思う人が100人いたとして、そのうち実際に行動にうつすのは多分一桁ではないだろうか。
 きっとどんな分野でもそれはあてはまる。
 どんな仕事でも、それでおまんまを食っている人はプロである。
 しかしそのうち一流とよばれるプロは、ほんのひとにぎりだ。
 さらに超一流とよばれる人は、とんでもない努力をしている。
 一般人には想像もできないレベルの努力をしている。
 ただし、彼らはそれを意図的な努力とは思ってないふしがある。
 一年365日素振りを500回ずつするのは、ふつうですよね、みんなやってるよね、努力のうちにはいんないよねという感覚でいきているのだ。
 途中で寝てしまったが、明日続きをみよう。
 とんでもないDVDであることだけは間違いない。
 

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アホだけど …

2011年08月23日 | 日々のあれこれ

 光星学院高校野球部さんの選手の飲酒が問題になっている。
 何が悪いの? うそです。高校生がお酒のんではいけません。
 ただ、選手がブログに書いたことで発覚したという話だそうだが、ブログって証拠になるのかな?
 もし本校の生徒さんが、ブログに「友達と酒飲んじゃった」と書いてて、それをたまたま発見したとして、処分はできるだろうか。たぶん無理だな。
 「そう書いてみただけです」と言われたらそこで終わりだ。
 「ぼくが書いたんじゃありません」でも同じ。
 実際そういう次元の問題はあちこちの高校でおこっている。
 勝手にだれかのプロフをつくったとか、誰かになりすましてミクシィに登録したりとか。
 光星学院の生徒さんは、なぜそんなふうに言わなかったのだろう。

「いやあ、昨日電車のなかで態度の悪い高校生をぼこぼこにしてやってね」とありもしない話をたとえばおれが書いたら、警察が来て事情聴取するのだろうか。
 まして2ちゃんの情報で警察がうごくことはない。
 警察さんはガチな情報でさえ、実際に被害者が出ないかぎりはうごいてくれないし。

 だとしたら学校だって、どこからたれ込みがあったのかは知らないが、「そんな事実はない」「その生徒はやってないと言っている」「ねつ造だ」でつっぱねる手もあったのではないか。
 「生徒を信じている」の一点突破も充分可能だったんじゃないだろうか。
 はるばる大阪やら沖縄から選手連れてきて、学校経営目的もかねた野球をするなら、それくらい肚くくって生徒さんを守ってあげなかったら、親御さんに申し訳ないではないか。

 高野連がこの問題に対して処分を発表するという記事もさっき目にした。
 学校ではなく高野連がでてきて処分を下すというのは、何か法的な根拠はあるのだろうか。
 野球の特待生制度がどうのとか、地元の子が少ないとか、野球ばっかりで人間教育できてないからだとか言っている意見をみかけたが、高野連を頂点とするシステム自体に問題があることをそのままにしておいて、子どもたちだけを悪者にするのはおかしい。
 ま、基本アホだったんだけどね。でも、みんなアホだったじゃん、高校の時なんて。

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書いてないこと

2011年08月22日 | 国語のお勉強

「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」(八月十五日夜、禁中に独り直し、月に対して元九を憶ふ)という題の漢詩を読む。

 「元九」は人名です。「憶(おも)ふ」の主語は?
 作者ですね。漢詩ですから、とくに書いてない主語は作者に決まってます。
 じゃあ、作者にとって「元九」とはどんな人?
 詩のなかに「故人」とありますね。日本での意味とちがって「古くからの友人」の意味は知ってますね。
 友人だよ。「おもう」と言っても、たぶんBLではないよ。そういうのもあったかもしれないけど。
 漢詩では、誰かを「思う」場合、その対象となるのは家族か友人です。恋人は出てきません。

 と三時間目に説明してて、二時間目に読んだ「蜻蛉日記」での和歌のやりとりは、男女の感情ばっかだなあとあらためて思う。
 和歌の中に人がでてきたら、ほぼすべてが「思っている人」「思われたい人」になる。
 それは、やはり和歌と漢詩では作り手の層にちがいがあるからなのだろう。

 漢文の作者とはどういう存在ですか? 最初に言ったよね。
 古代中国の知識人たちです。科挙の試験に合格し、学問的知識をめいっぱい詰め込みながら、政治にも関わっている人たちです。
 だから、おのずと話題は政治、学問、そして知識人としての生き方を述べることになる。
 ただし、漢詩はやはり文学なので、政治、学問、生き方に対しての自分の考えをベースにしながらも、その思いがうまく叶わないことを嘆くときに詠まれたと思えばいいです。
 本当に嘆いているかどうか別としても、人生ってうまくいかないよね的感慨を述べるのが文学であるという点では日本の文学と同じです。
 ただし題材が異なる。
 和歌では男女の関係がうまくいかないことを嘆く。
 漢詩では、思うような生き方ができないことを嘆く。
 漢詩の作者はそういう人たちだとわかれば、「遠くに離れた土地にいる友人」と書いてあったら、なぜ遠くにいるのかも想定できますね。
 そうです。左遷です。
 中央での権力闘争にやぶれたり、自分の信念を貫こうとして上司や主君と対立した結果、そうなったりします。
 そういう姿を、科挙の試験の同期合格者というつながりがあった友として見たら、自分のことのように哀しく、やるせない思いになる。
 だから友人といっても、たんなる友人ではなく、戦友みたいなものなんだよ。
 遠く離れた土地で、あいつもこの「月」を見ているだろうか、という思いがこめられているのです。

 題だけで、こんなに語れるおれってえらいなあ。

 午後は、文化祭の曲の合奏。
 ここは四分音符が四つ書いてあるけど、こういう曲はほとんど八分音符で吹けばいいんだよ、と見た目だけではわからないことを教えている。
 ものを教えるというのは(きゃあ、えらそー)、書いてないことや、書いてあるけど見えてないことを教えてあげることなんだろなと思う。
 書いてないことが見えるようになる方法を身につけるのが、さらに上の次元だ。

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