水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

朝が来る(3)

2015年07月30日 | おすすめの本・CD

 

 説明会は、四ッ谷にある区民会館の一室で行われるという。佐都子と清和が目指すビルに着くと、何か催しものでもあるのだろうか、たくさんの家族ずれでにぎわっていた。
 子どものいる家族はやはり楽しそうだなとの思いを抱きながら、会場に向かい、受付をすませ、会議室のような一室に入る。
 階下の喧噪とは打って変わって緊迫した雰囲気だ。
 40歳を迎えた自分たちよりもかなり年配に見える方も含め10組ほどの夫婦が参加した。
 浅見と名乗る代表から説明がはじまる。テレビ番組でも紹介されていた、気の良いおばさんというタイプの人だった。
 他にも斡旋する民間団体があること、児童相談所がその役割を果たす自治体もあること、それらの団体と「ベビーバトン」とのちがいは、赤ちゃんが生まれるとすぐに里親のもとの預けられるシステムであることなど、テレビ番組で紹介されたときの映像を用いながら、進められていく。 

 「よく“普通”の子どもがほしいと言われる方がいらっしゃいますが、“普通”の子は“普通”の家で育っているのです。うちを頼ってこられるということは、なんらかの問題を抱えているということです。実親さんの妊娠の経緯や家庭環境は、どんな事情があっても問わないということを覚悟していただきます」

 という説明には、現実を実感させられた。
 生まれた赤ちゃんに重度の障害があっても受け入れること、子どもには早い段階で養子であることを伝えることなども説明される。
 里親候補として登録されるには年齢宣言はあるのか、母親は専業主婦でないといけないのかという質問が参加者から出る。養親登録をした後は避妊してもらいたいという話についても、「そんな簡単に割り切れない」という声があがる。会の空気はかなり張り詰めたものになっていく。
 十分間の休憩のあと、心なしか表情を柔らかにした浅見が、「百聞は一見に如かずです」と告げる。


 ~ 「皆さん、どうぞ」
 浅見の声とともにドアが開き、会場の後ろにたくさんの家族連れが入ってくる。
 あっと思う。
 朝、清和とともに一階のロビーで見た、あの人たちだ。お祭りか、行楽地にでも出かける前のようにも見えた、あの家族たちだった。
 ぞろぞろと入ってきた親子たちは皆、笑顔で、砕けた様子だった。ママー、と甘えた声を出す女の子、抱っこされたまま、母親の胸でぐずる赤ちゃん。旦那さんが大きな腕で抱きかかえた、まだ本当に小さなおくるみの赤ん坊。その横で、にこにこしているお母さん。
家族は、全部で十組ほど。
 ――中に、テレビのニュース番組で見た、あの時計屋のご夫妻がいた。赤ちゃんを連れている。
 では、この人たちは。
 不意を衝かれた思いで顔を上げる佐都子たちに向け、浅見が言った。
「皆さん、『ベビーバトン』に登録されて赤ちゃんを迎えたご夫婦です」
 言葉がなかった。どの家族も皆、血のつながりがないなんて信じられないくらい、普通の親子だ。街中でよく見かける、どこにでもいる普通の家族だ。 (辻村深月『朝が来る』文藝春秋) ~


 ベビーバトンで赤ちゃんを迎えた家族同士が集まる会が、定期的に行われているという。
 今日はその日でもあった。いつもその会には、たくさんの親子が集まり、みんな自分の子どものかわいさを自慢し合う、大親ばか大会になるという。
 一家族ずつ話をしてもらえますかとふられ、順番に語っていく。
 自分達がどんなふうに子どもを迎えたか、迎えてからどうだったかを語っていく。
 無精子症と診断されて不妊治療を続け思わしい結果が出ず、養子の話を出したものの、もし障害のある子だったら育てる自信がないといってなかなか首を縦にふらなかった夫。しかし、今は溺愛というしかない接し方を夫はしていますと語る妻。
 あの子をうんでくれたお母さんに感謝します、そのお母さんが生まれたことにも、あわせてくれた浅見さんにも … と声をつまらせる母親。
 養子をむかえることに大反対していた両親が、いま一番孫の面倒をみていますと語る。
 テレビでもインタビューを受けていた夫婦が最後に登場した。


 ~ 「うちの場合は、養子を考えた時、夫に言われた一言がきっかけになりました。血のつながりのない子どもって言っても、もともと、オレと君だって血がつながっていないけど家族になれたじゃないか。きっと、大丈夫だよって」
「――赤ちゃんを連れて飛行機から降りてきた浅見さんを見た時には、浅見さんの頭の後ろから後光が差して見えました」
 自分の話をされて照れたのか、旦那さんの方が、すぐに話題を転じる。ここでもまた、笑いが起きた。
 康一です、と自分の子どもを紹介する。
「説明会のどの段階かで、浅見さんに言われたんです。やってきた赤ちゃんを見ると、親はだいたい、もう恋に落ちるように、としか言いようのない感じで、その子に一日惚れするって。うちの場合もまさにそれでした」はっきりした口調で、言い切る。
「康一に会えて、本当によかったです。今日はこのことを、皆さんに伝えたくて来ました」
 わああ、と大きな、泣き声が上がった。
 感極まったような長い鳴咽が、会場全体に、悲鳴のように洩れる。
 前に立つ家族から、ではなかった。
 それは目の前の、佐都子にさっき話しかけてくれた女性のものだった。ハンカチを強く握り締め、彼女は、顔を覆って、泣き出していた。 ~


 家族って何? 家族が家族として存在するために必要なものは何? という問いの方が核心にせまれるだろうか。
 別に「核心にせまって」と頼まれたわけではないけれど。
 「物語の共有」ではないか。
 この子の親として生きる、この人の子として生きる、この夫の妻として生きる、この人を兄と思って生きる … 。
 自分の役割を受け入れることで、物語は共有される。
 もちろん役割をどのように全うするかは各人それぞれでいい。
 遺伝子的関係とか契約上の関係とか社会的結びつきとか、人と人を結びつける要素はいろいろあるが、目に見えないもの、形のないものを信じられる者同士の結びつきは強い。


 午前中4コマの講習、おにぎり二個で、午後コンクールの合奏、一年チームの合奏と乗り切ったので、夕方幸楽苑の冷やし中華をおやつに摂ることにした。念のため『朝が来る』をもっていってぱらぱらと読み返してたら、今、紹介した部分(108頁~130頁)では、こみあげるものをこらえられなくなってしまった。冷やし中華はきてないから、辛子がつんときたというごまかしもできず、びーびー鼻をかんでしまった。ここ数年で一番泣いた本かもしれない。
 『ハケンアニメ』『家族シアター』『島はぼくらと』 … 。辻村さんて、直木賞をとったあとに出た作品が、受賞作(『オーダーメイド殺人クラブ』)をはるかにこえるレベルのものばかりというものすごい作家さんだ。そしてこの『朝が来る』。村上春樹氏の業績をも完全にうわまわったので、次のノーベル文学賞は決まりだ。村上さんもこのまま何もなしじゃかわいそうだから、平和賞をあげればいい。

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メガネ

2015年07月29日 | 教育に関すること

 

 夏期講習の2セット目も半ばをすぎた。
 1・2時間目は、ハイレベルな現代文の講習。今年の東大二次の問題を読んでみて、二年半後にこれが解けるようになるには、日頃から論理的に読むようにしようという話をする。
 もちろん「論理的に」と漠然と教えたところで、すぐに読み方が変わるわけではない。
 まず何と何が同じで、何と何が違うのかを見分けようとする、そのために線を引いたり丸で囲んだりしよう。
 ちょっとした言い回しにこめられた筆者の気持ち、つまり言いたいことの方向性をみつけよう。
 ただ読むのではなく、「国語のメガネ」をかけて読むことで、論理的に読めるようになる、と。
 「国語のメガネ」。
 昨年お亡くなりになった、授業名人有田和正先生の講演会で聞いたお言葉だ。
 国語の授業は、生徒に「メガネ」を与えることが目標だ。
 「たとえば」という言葉の後ろには、直前の内容を具体的に説明する中身があるから、「たとえば」の前の部分が筆者の言いたいことだよとか、「~ではなく」という言葉の後には筆者の言いたいことが書いてあるよとか。
 メガネをかけるとそういう目安も見えるようになる。
 
 音楽にもメガネがいる。
 全部のパートの音符が一覧できるスコアを見て指揮者は棒を振るが、吹奏楽の譜面は、楽器によって書いてある音符と実際に鳴らされている音が違うという衝撃の事実に気づいたのは、ほんの数年前。
 コードネームを自分をつけてみることで、和音の構造や音楽の進み方が少し見えるようになった。ごく最近のことだが。でもコードネームというメガネをかけられたことは大きかった。

 メガネ理論は学問全般にも敷衍できる。
 経済学部で勉強するということは、経済のメガネをかけて世の中の事象を見ることができるようになることだ。
 物理学のメガネをかける人と、生物学のメガネをかける人とでは、世の中の見え方が異なるだろう。
 そんなにいくつものメガネをかけることはできないが、何か一つのメガネをかける経験をすることで、他にもメガネがあることへの思いをよせることができる。
 そういう経験ができるという意味でも、大学には存在価値がある。
 直接何かを生み出さなくても、物事の見え方が異なる人たちを生み出す機関だ。
 そういう機関の存在が許されている国を、円熟した世の中、文化的な社会とよぶのではないか。
 「文系大学は役に立たないからいらない」とか言ってしまう人は、一度大学で学び直してきた方がいいかもしれない。

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朝が来る(2)

2015年07月28日 | おすすめの本・CD

 

 ~ 「――もし、もし」
 幽霊のような声だ、と思った。
 途切れるように頼りない印象の若い女の声は、およそ、そこに生気というものが感じられない。
「はい」
 声に心あたりはなかった。訝しく思いながら、「どちらさまですか」と聞いてみる。
 聞きながら、ふと、この間からの無言電話の相手はこの人だ、と直感する。微かに緊張し、受話器を持ち直す。
「私、カタクラです」と声が言った。
「栗原さんの、お宅ですか」
「そうですが」
「あの……」
 電話の向こうで、数秒、言い淀む気配があった。意を決したように、声が言う。
「子どもを、返してほしいんです」
「え?」
 胸が、どくん、と大きく打った。そして、告げられた名前を反芻する。
 カタクラ。
 漢字が思い浮かぶと同時に、目を、大きく見開く。
 片倉。
 女の声が続けて言った。
「私の産んだ、子どもです。――そちらに、養子でもらわれていった」
 心臓の音が、速く、大きくなっていく。声を失う佐都子とは反対に、片倉と名乗った女の出す声が、徐々に、落ち着き払っていく。
「いますよね。アサト、くん」
 きゃはははは、という朝斗の大きな声が、家の中に響き渡った。
「待てー」という声がして、清和が、朝斗をつかまえようとしている。くすぐろうと、している。
 大きさの違う二つの足音がリビングに入ってくる。清和の足が、電話の前の佐都子を見て止まる。
「――どうした?」
 夫が佐都子の顔を見て、ぎょっとしたように呼びかけてくる。
 受話器を持った手に現実感がなかった。    (辻村深月『朝が来る』文藝春秋)~


 血のつながりのない者どうしが家族になる話が、最近多くないかな。
 それとも、昔からあった話なのだろうか。
 一定量は作られ続けていて、たまたま最近の自分にひっかかってくるのが、そういう話なのだろうか。そうかもしれない。
 映画では、昨年の是枝作品「そして、父になる」とか、まもなく公開になる「アットホーム」とか。
 マンガだと、完結したばかりの「高杉さんちのお弁当」とか、オリジナルの連載中の西炯子「たーたん」がすぐに思い浮かぶ。
 いや、このマンガは系統が異なるか。むしろ「源氏物語」を原形にする、疑似親子が夫婦に発展するタイプとみるべきか。古典的名作「ひっくりかえったおもちゃ箱」のように。

 「親子として暮らしているけれど、実は血のつながりはない」と、どの時点で子どもに明らかにされるかは、難しい問題だ。
 不妊治療に長年取り組んだのち、佐都子と夫の清和が選んだのは、養子縁組だった。
 ちなみに、不妊治療の結果子どもを授かった身内がいるが、具体的にどういうプロセスを経るのかを事細かには聞いたことはない、なんとなく。
 この『朝が来る』で、その内実を知り、予想をはるかに上回る大変さに驚いた。「大変」なんて言葉でまとめてしまうのが申し訳ないのだけど。
 もちろん、夫婦によってその原因や状態は異なるので、中には期待通りにものごとが進んでいく例もあるはずだ。
 でも、現実にはこの作品の夫婦のように、いろんな方法を試し、身体的、精神的な辛さを強いられ、もちろん経済的にも負担があり、結果としてうまくいかなかった例も多いのでないだろうか。
 一つ一つの段階がすべて順調に進むはずはもちろんなく、今度こそはうまくいったかもと期待させられ、やはり不成功だったときの苦しさはどれほどだろう。
 二人が、二人で生きていくことを決めた雪の羽田空港のシーンはせつなかった。

 おだやかな日常がもどったかに思えた二人は、たまたまニュースで、養子縁組の斡旋をする団体の存在を知る。
 佐都子たちのように、子どもがほしくてほしくたまらなくて恵まれない夫婦もいれば、妊娠し出産したものの、育てたくない、育てられないと途方にくれる母親がいるのも現実だ。
 両者の仲立ちになる組織は、現実にももちろん存在する。
 二人は「ベビーバトン」と名乗る団体の説明会に出かけることにした。

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朝が来る(1)

2015年07月27日 | おすすめの本・CD

 

 生徒指導の問題で、保護者の方に来校してもらい、事情を説明する経験は、立場上何度もしてきた。
 まずはわざわざ来校してもらったことに感謝し、たとえば「いじめ」事件の加害側としてきてもらった場合も、こちらの指導がいたらなかったことをわびる。


 ~ 「きちんとこちらが見ていなかったせいで、防げず、すいませんでした」
 職員室の奥のテーブルに案内されてすぐ、園長先生と、担任の若い先生にそう言われた。園で子ども同士の問題が起きる時はいつもそうだ。自分の子がやった側でもやられた側でも、まず先生たちが謝ってくれる。 (辻村深月『朝が来る』) ~


 こういう描写からは、それなりにしっかりした保育園に通っている、通わせられる家庭であることがイメージでき、園側の対応をそのように受け止められる母親の佐都子自身も大人であることがわかる。
 だから、自分の息子である朝斗が大空くんを押したという話を、冷静に受け止め、どう判断すべきかを考える余裕がある。
 「うちの子がそんなことをするはずはありません!」とヒステリックに騒いだりしない。
 先生がたも、目撃者もいず、大空くんの言葉だけでで朝斗を犯人と決めつけるつもりはないという。
 同じアパートに住む同士の子どもとして仲が良く、男の子らしいやんちゃさはともにあるとは言え、わざわざジャングルジムの上で友だちを突き落とすとは思えなかった。
 

 ~ 先生たちから事情を聞いて、再び、朝斗のいる部屋に入る。朝斗は一人きり、さっきと同じ姿勢のままで項垂(うなだ)れるように座っていた。
「朝斗、帰るよ」
 声をかける。
 人を押したり、叩いたり、蹴ってはいけないと言い聞かせてきた。嘘を吐(つ)いてはいけない、とも教えていた。
 朝斗が顔を上げる。その目が見えて、佐都子はあっと声を上げそうになる。
 我が子ながら、美しい子だ。すべすべの肌に、黒くつやつやと天使の輪のできる髪。一直線に切りそろえた前髪の下でこちらを見る目は、利発そうにいつも澄んでいる。
 その目の色が、これまで一度も見たことのない色をしていた。泣いた後なのか、それとも泣くのを我慢しているのか。厚く作ってある前髪を、ぐしゃっと佐都子の腕に押し当てて、呻くように一言、言った。
「……ぼく、押してない」
 引き絞るような声が、使い古した雑巾のようにぼろぼろ穴が空いて聞こえた。見えなくなった目の色が、まだ同じ色をしているであろうことを思って、佐都子は胸をぎゅっと鷲づかみにされた気持ちになる。「うん」と答えていた。 ~


 朝斗が泣いているのは、自分の言葉が信じてもらえないことに対する悲しさであることを、佐都子は一瞬にして理解する。
 何があったの? どうやって登ったの? 二人の距離は? 落ちたときどこにいたの?
 誰もが「ほんとうのことを言ってね」という顔で、朝斗をのぞき込んでいただろうと、自分のことのように感じる。


 ~ 朝斗の目は傷ついていた。
「信じるよ」
 佐都子は答えた。ぶらんと下がった朝斗の左手の指を、自分の手のひらにくるむ。
「お母さん、朝斗を信じる。朝斗は大空くんを押してない」 ~


 「大空くん、大丈夫?」
 大空くんの母親に電話すると、「うん、たいしたことないよ。それにおおごとにするつもりもないしね。治療費だけは出してもらえればいいよ」と一方的に話してくる栗原さんに、「ちょっと待って」というのは、勇気がいった。
 「朝斗は、やってないって言ってるの」
 「えー、何それ?」
 急に不快感の表れた声を耳にし、かえって佐都子も腹が据わった気がした。
 「ていうことは、うちの大空がウソ言ってるということ?」
 「そこまでは言わないけど、朝斗はウソを言ってない」


 ~ 「信じるんだ」
 「うん」
 咎めるような言い方に、自分がもっと怯むかと思ったのに、意外なほど堂々とした声が出た。隣の部屋で、心細そうに待つ朝斗のことを考えたら、怖くなかった。
 そして、気づいた。
 朝斗が噓を吐いていないことを、佐都子は信じている。けれど、別にあの子が噓を吐いていたって構わないのだと。後でそれがバレて、謝ることになっても、ののしられることになっても構わない。今頷いたのは、その時、朝斗と一緒に怒られる覚悟ができたという、そういうことだ。 ~


 子どもができたからといって、自動的に親になれるわけではない。
 この子の親として生きようとする意志がいる。
 決して無条件に子どもを受け入れるのとは異なるし、もちろん子どもを支配し、思うままに育てようとすることでもない。
 子どもを見守り、迷いながらも手を貸し、大人として接し、時に実はあたふたしながらも、一緒に生きていくこと。
 会話の量や、物理的に同じ場所にいる時間ではなく、最後まで自分だけは逃げてはいけないという漠然とした思いは、覚悟というべきものなのかもしれない。
 

 
~ 「――お母さん」
 声がした。
 寝室のドアが細く開いて、そこから泣き出しそうな顔の朝斗がこちらを見上げていた。佐都子はあわてて「んー?」と何もなかったような顔を作り、子どもに近寄る。廊下につけた素足が寒そうだ。
「冷たくない?」と尋ねて、身を屈め、足の指に触れるが、朝斗は、今度は俯いたまま答えなかった。
 ――朝斗はやっていないよね、という声が出かかり、すぐに呑み込む。
 それは、この子に、自分の希望する答えを押しつけることだ。屈んだまま辛抱強く言葉を待つと、やがて朝斗が、呟くようにこう言った。
「大空くんと、また、遊べる?」
 唇を噛んだ。
 小さな頭の中をフル稼働させて、ずっと、胸をその心配事でいっぱいにしていたのだろう。佐都子は「うん」と領いた。自分でもわからないのに、「大丈夫、心配ないよ」という力強い声が出ていた。 ~


 この母と子の間に、血のつながりがないとは、思わなかった。

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まさか

2015年07月26日 | 日々のあれこれ

 

  まさか浦和学院さんまで苦杯を喫する結果になろうとは。
 聞けば、今年のベスト8は、昨年のそれと全て入れ替わっているという。
 野球だからなのか、他のスポーツでも起こりうることなのか。
 すくなくとも吹奏楽ではありえない。
 埼玉県のベスト8が去年も今年もまったく同じだった、という結果なら起こりうる。
 なぜ吹奏楽では野球ほどの波乱がおこりにくいかは、知っているけど、書かない。
 それに … 。今年は、順番かえてみせるから(え、いいの? そんなこと書いちゃっても。いや、だって、ほら。ここ読んで下さるのはお身内の方ばかりのはずだし、見守って下さるし。むしろ、後押ししてくれるはずだし。ですよね)。
 今日は一日オフにした。英気を養うことができた。がんばれる。

 

  もう少し夢を見させて

  最後までがんばってみる

  それがどんなに遠い場所でも

  この手伸ばして諦めない  (乃木坂46「もう少しの夢」)

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生還

2015年07月25日 | 日々のあれこれ

 

  なんとか週末にたどりついた。ずっと背中、腰、肩の痛みがひかず、整体・マッサージに計四回いってしまったが、やはり昨夜大先生の予約がとれて診てもらった結果、やっと生き返った気がした。
「ああ~、これは大変だったでしょう(笑)」と言ってもらった瞬間に、すうっと背中がかるくなる感覚。
 こういう仕事ができるようになりたい。
 まさかの野球応援なしからの、午前中に夏期講習、午後練習の日々。
 講習とは言いながら、1年生の国数英は実質強制参加だ。その前の時間に純粋な希望制のコマも用意してみた。
 題して「東大先取り講習」! よくわかんないメーミングだ。
 とにかくトップを狙う人なら、最終目標地点を早めにみておこうという企画で、国語も2コマ×二日行った。
 火曜から今日まで、古典文法と問題演習を2コマ×五日間。
 模試の問題を用いて、はじめて「文章」と言えるレベルの古文を読む。
 もちろん読めるわけがない。やっと助動詞をざっと一通り説明し終わった段階だから。
 それにしても読めないので、指名してやりとりしてみると、単語を全然おぼえていない。
 一学期の二回の試験範囲だったはずの基本語も覚えていない。
 高校入試で覚えるレベルの語が多いのだが。
 必要最小限をまとめた「スーパー単語集(1)」の由来を語った。
 
 この単語集はね、先生が昔クラスをもっていたときにつくったんだよ。
 みんなのずっと昔の先輩は、たいへんユニークな方がいてね、たとえば無○○○○してしまったり、お○○のんだり、よその生徒さんと○○○したり、活動的だったのね。
 先生も、充実した日々を送ってました。そんな先輩が、大学に行きたいと言ってきて、古典もあるとか意味不明のことを言い出したのね。
 「いやあ、きびしいだろう」「どっか、入れるとこないっすか?」「と言われてもなあ」「なんとかすんのが教師じゃねえのかよ」「勉強する気ねえんだろうが」「ちっとはやるって言ってんじゃねえか」「ぜったいやらないね」「ざけんなよ!」「なんだ、その口のききかたは!」なんて、ほのぼのとした会話がありました。
 じゃ、とにかくこの150個ぐらいだけはとにかく覚えなさい、「いと―とても」「なかなか―かえって」「あまた―たくさん」「かく―このように」 … って作ったんだよ。
 今のみんなは、そういう先輩たちも覚えたレベルの、英語で言うと「desk―机」みたいなの知らずに読もうとしてるんだよ。古文単語覚えるのに、英単語の十分の一の労力もいらないのだから、まずやろうよ。
 伝わった生徒さんが少しいたかもしれない。

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大人

2015年07月24日 | 教育に関すること

 

 ~ 誰かを守ろうとするのが、大人です。
   自分を守ろうとするのが、子どもです。
   これは他人が決めることではありません。
   結果として、自分自身が決めることです。
   年齢は、いっさい関係ありません。
  「何歳から大人」ということではなく、自分の意志で決められるのです。
   今この瞬間に大人になろうと思ったら、大人になることができます。
   人生のどこかで、自分を守るか、誰かを守るかの決断を迫られる時があります。
   その時にどちらかを選ぶのです。
   一度でも誰かを守ろうとしたら、その時から、君は大人です。
           (中谷彰宏『中学時代にガンバれる40の言葉』PHP出版) ~


 これ、わかりやすい定義だなあ。
 宇佐美寛先生が、「自分で食っていける人間」「他人に迷惑をかけない人間」を一人前と言い、それを作るのが教育の役割だとおっしゃられていた。
 これも、年齢とか、身体の大きさで、大人かどうかが決められるものではないという教えだ。
 自分しか守ろうとしない人が「子ども」なら、いい年をして大人になってない人もたくさんいる。
 新国立競技場とか選挙区改定のニュースを読むと、そんな人ばっかがこの国の中枢にいるのかとも思うし、自分だけは責任をとらなくてすむシステムを長い歴史の中で堅固に構築したのが「お役所」だともいえるだろう。
 そんなところまで思いをはせてもしょうがないか。
 学校で事件が起こったときの対応ぶりにも、「大人」か「子ども」かが現れてしまうので、気をつけないといけない。
 
 「自分以外の誰か」に、自分に子どもは入れていいだろうか。
  いいような気もする。それが自分以外の誰かを守ろうとする初めての経験で、親になって初めて「大人」になれる人がいてもいい。
 ただし、子どもを守ろうとするあまり、子どもの言うことを客観的にとらえられなくなると、かえって子どもを大人にしない。
 ある保護者が学校に電話をかけてくる。

 ○○先生、先生は「おまえなんか、もう要らない、やめちまえ」って言ったんですか。
 そう、うちの子は言ってます。自分は先生に嫌われてるから、しょうがないんだって。
 どういうことですか! 校長とかわってください!

 自分はそういう言葉を発していませんが、そんな風に聞こえてしまうような言い方をしてしまったとしたら、自分がいたりませんでした …

 と、いったん受け止められればいいけど、親は親で子どもの言葉が絶対で、かりに若い先生が該当者だとすると、「そんなこと言ってません」「悪いのはおたくのお子さんです!」とかのやりとりになってしまう。
 若くなくても、あるか。ま、自分もあったけどね。
 この頃、ほとんどのお父様お母様が年下になってきて、若いなあとうらやましく思うこともあるし、同時に年齢に関係なく大人っぽくない方もいるかもしれない、という想定だけはしなければならないだろう。

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あなたが生きている今日は

2015年07月23日 | 日々のあれこれ

 

  「学年だより」がすばらしいと伝えてほしいと言っていた保護者の方がいたと、ある担任から告げられる。
 もお、はやく言ってよ、そういうことは。
 泣きそうになった号があったそうだ。「泣きそう」ね。それはそうだろう。自分で読み返してほんとに泣いたことが複数回あるもの。むしろ大人の方なら、高校生以上にくんでもらえるかなと思いながら書いたこともあったし。
 なんらかの形での反応があるのはほんとにうれしい。ま、高校生からはほぼないけどね。
 でも、配布してもらった日に教室に行って、床に落ちている光景をみかけないのはうれしい。
 担任の先生の気遣いもあるとはいえ、ありがたいことである。
 無理矢理読ましておいて、反応までせよと求めたらばちがあたる。
 捨ててない要因として、その発行号近辺のお誕生日を紹介していることがあるだろう。
 クラス通信時代にやりはじめた企画を学年全体でも継続したのだ。
 クラスにお誕生日の生徒さんががいたら、祝ってあげてほしいと担任の先生には伝えてある。
 勉強も部活も大事で、それぞれに結果を出すことはもちろん大事に決まっているのだけど、16年も、17年も元気に生きてこられたことは、それだけでも祝福すべきことだ。
 それが叶わなかった親御さんの気持ちをたまに慮ると苦しくなる。


 ~ 世界中に定められた どんな記念日なんかより 
   あなたが生きている今日は どんなに素晴しいだろう
   世界中に建てられてる どんな記念日なんかより 
   あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう ~

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進学フェア

2015年07月19日 | 日々のあれこれ

 午前中コンクールメンバー合奏、一年合奏、全員基礎合奏。
 午後は、さいたまスーパーアリーナの進学フェアに出かける。
 午前チームから引き継いで、イスに座って相談を始め、お手洗いに立つことも許されないぐらい学校紹介をし続けた。ありがたい。

 野球残念でしたね、どれくらい文武両道なんですか、予備校に行く子はどれくらいいますか、スクールバスは座れますか、夏期講習は有料ですか、ぶっちゃけ北辰いくつですか、どんな雰囲気ですか、おたくのアピールポイントは、男子校ですよね … 。

 まず全体説明を行う学校説明会とはちがい、どの角度から質問が来るかわからない。
 その質問で何を聞きたいのかを見抜く力も必要なので、実際に座っていた時間以上にきつく感じる仕事だった。
 「授業のレベルはどれくらいですか?」は、ちょっと悩んだけど、「入学した子たちが、少し予習してけっこう復習してくれれば、なんとかついてこれるレベルに設定してますから、授業だけやってれば塾とか行く必要はまったくないですよ」という答えは正解だったかな。
 「部活はきびしいですか?」とは、複数きかれた。
 どういう状態を「きびしい」と定義するかだ。
 顧問がどなりちらして、失敗したら鉄拳制裁されるような厳しさをイメージするなら、たぶんかなり様子はちがうだろう。残念ながら惜敗した野球部さんも、今の監督はそういう様相からはほど遠い。
 ただし、自分たちで頭を使って、責任もってやるべきことをやらないと、結果は自分達にかえってくるよ、という任され方での厳しさはどの部もあるだろう。
 そういう意味では、中学校における「きびしい」部活とは、たぶん異なる。
 その「きびしさ」を経験することが、高校の部活の意義だと思う。

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野球三回戦

2015年07月18日 | 日々のあれこれ

三回戦の応援に行ってきました。残念です。

応援ありがとうございました。

コンクールがんばります。

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