みなさまのご期待にこたえ、カンニング問題へのコメントを。
昨夜娘から「ひどいよね、その分誰か落ちる人がいるとしたらかわいそうだもんね」と言われ、「でも、そのせいで落ちたのが誰かは、わかんないからいいんじゃね」と答えてしまった私。
でいうか、自分が受験生でたとえば京大を受けたとして、その話をあとで聞いたら「すげえな、どうやってやったの?」とまず感じたと思う。
だって、相当な手間暇をかけ、リスクを負わないと実際に実行するのは難しい。
「怒りをおぼえます」と言うような受験生のコメントを新聞で読んだけど、ちょっと幼いかな。
新聞記者さんが求めているまんまの答えをすっと言っているようでは、京大でノーベル賞は目指せないよ。
でも、受験生はまだ若いから、こういう反応でもしかたない。
大学の先生が「そんなことが行われるなんて、考えてもなかった」的な発言をなさってたが、いまって江戸時代ですか?
「高度情報社会」を生きるためにとか言ったり書いたりしてるのは、大学の先生じゃないですか。
その気になれば、試験問題をネットに流すくらい技術的にはなんでもないこととは、小学生にだってわかる。
道義的な面と、その準備の面倒さとリスクを考えたら、ふつうはやらない方をとるというだけだ。
この学生さんの能力なら、ふつうに大学受かるような気がするけどな。
自分が大学の先生だったら、「ここまで見事にカンニングしたなら入れてやるか」ぐらい思うかもしれない。
個性豊かな、非凡な人材に入学してほしいわけでしょ。
大学の先生も、まずこのブログを読み、ずいぶん前に紹介した黒田研二『カンニング少女』を手にしていたら、少しは見方も変わっていかもしれない。
この程度のカンニングで、その根幹がゆるいでしまうのが今の入試とか大学制度なのだとしたら、それ自体が制度疲労をおこしているわけで、ひょっとしたら今回しでかした受験生も、それを警告してくれたと言えるかもしれない。
不正防止の対策をとるようにと指示した文科省さんは、それより先に天下りしない対策を自らに講じてほしいと思う(今日もまんべんなく文句言えました)。
昨日のロングホームルームは、1・2年生合同での交通安全指導の時間だった。
そこでDVDを観たのだが、いかにもお上がつくりました、いやお上の下請けの業者さんが、そんなにこだわりなく、民間レベルなら考えられないような高額の予算を消費して、チープに作りましたと感じるようなものだった。
もちろん、様々な情報は盛り込まれている。
こういう場合にはこうしなさいと、チャートに従って問題を解決していけるような説明になってて「1呼びかけ、2容態の確認、3通報、4心肺蘇生 … 」という手順の説明は、たしかにそうやるんだろうなあとわかることはわかる。
でも、現実にそういう手順で解決しうる現場に居合わすことはあるだろうか。
「あなたは救急車を呼んでください、あなたはAEDをもってきてください、と周りの人に割り振ります」と説明されてもなあ。
今たしかにAEDはいろんな場所におかれるようになったけど、たとえば人通りの少ない田舎道で事故にあった人を見かけて、AEDはどこ? なんて言ってられるかどうか。
逆にAEDが置いてあるような場所なら、必ず対処できる人がいるから、よけいなことはするなという教えもありなのではないか。
「人工呼吸用のマスクをふだんから携行しておくとよいでしょう」って言われても、え? と思いませんか。
見てると、これってほんとに本気で作ったのかなという疑問がふつふつとわいてきたのだ。
いや、DVDを観ることは必要だろう。とくに2年生は保健の授業でも習ったことだから、映像で確認することは、それこそ知識として確認の意味はある。
だから観てもらっているのだが、どうも作り手の本気度が感じられない。
このレベルの作品で、本当に伝わっていると信じているとしたら、高校生、というか視聴者の実体がわかっていないか、なめてるかどっちかではないか。
細かいことを言えば、たとえばナレーションのおねえさんが、「容態」を「ようたい」と読む。辞書には「ようたい」も可って書いてあるけど、プロは「ようだい」と読まないと。
「高エネルギー事故においては … 」と唐突に説明しはじめるけど、そんな単語ははじめて聞いた。
どのレベルで作られたことばかは知らない。
おそらく業界では普通に使われるのだろう。
でも、それをそのまま使って通じるかどうか、そんな想像さえしない人たちのつくった映像なのかと思うと、ちょっと心が後ろ向きになってしまった。
でもDVDの出来云々ではないな。
DVDで手順を覚える、覚えさせるのが大事なのではない。
緊急のときにどう対応すればいいのか。想定外の事件に遭遇したときにどんなふるまいをできる人間をつくるのか。それこそ学校の仕事なのだろう。
だからこそ、部活もあれば行事もある。勉強だってちんたらではなく、とことんやらないといけない。
多部未華子さんが読売演劇賞を受賞したと新聞の小さな記事を見かけた。
見てる人はちゃんと見てるものだなあと思う。
対象となった去年の「農業少女」は運良くみることができて、多部未華子さんてこんなに上手な女優さんなんだといたく感心した記憶がある。
それで思い出したのが、そのとき吹越満も出ていたのだ。生で観てるじゃないか。おもしろかったなあ。
あじをしめて、そのあとの野田秀樹氏のお芝居、宮沢りえさまが出ているのをいつだったか観に行ったけど、これは全然意味がわからなかった。
若いころなら、意味がわかるふりした可能性あるけど、もういいもんね。
50年近く生きてきたのだから、感性にあうあわないは大事にしようっと。
定演でお芝居風のコーナーがあるので、その勉強にもなると思い、生の演劇に足をはこばねばならないと思っているが、なんとなく出かけてみて、とんでもない当たりにであったのが、先週だった。
池袋シアターグリーンで上演された「千年女優」。
関西の「Take it easy」という女の方ばかりの劇団だ。
原作は有名なアニメ作品らしい。
坂本千代子という大女優の生涯を、過去と現在をいったりいたりしながら、描いていく。
戦前の満州から現在にもどったり、戦後の映画興隆期に場面を移したかと思えば、いつのまにか彼女の出演した映画の1シーンになり、それが現実の彼女の人生に重なっていくという複雑な構成で、登場人物も多い。
それを5人の女性が、セットといえば5脚のイスぐらいの状況で、破綻なく進行させていくのは、すごいとしか言いようがなかった。
ザ・芝居。イッツ演劇。
がんばればマネできんじゃね?とか、あのネタもらえないかな、なんてことは微塵も思えない完成度。
あまりの凄さに圧倒され続けていると、わざと彼女たちはブレイクをとって、今誰の役やってるのかわからへんようなったので、ちょっとお客さんに聞いてみます、のように落語のくすぐりみたいなのをいいタイミングで入れるのだ。
お芝居の申し子ですわ。拠点が神戸ではなく、こっち方面だったら毎回観に行きたい。
5人とイスだけで200以上の役を演じきることを可能にする脚本と演出をやってらっしゃる方のすごさは言うまでもない。音楽や効果音や照明ももちろん。
ほんとにおいしい店は、何頼んでもおいしいし、そうじも行き届いてて、それでいてとげとげした空気はないものだ。
一流のシェフとスタッフのもとに、いい素材が集まったんだろね。
このお芝居に出会えた自分の運のよさはほめていいかもしれない。
朝通勤の途中、なんかし忘れてる気がして、学校に着いてわかった。
今日出そうと思ってた「学年だより」を作ってなかったのだ。
お誕生日おめでとうコーナーがあるので、日がずれすぎるのは申し訳ない。
ファイルを開くと、使おうと思っていた引用記事があったので、すぐ完成して印刷できた。
~ 僕はビジネスの世界において成功するには、二つの道しかないと思っています。一つは自分が夢中になれるものを仕事にするか、もう一つは与えられた仕事に夢中になるか。
イチロー選手は野球に夢中になれるから野球を仕事にした。しかし世の中の大多数は後者なわけです。どこの会社に行こうかなと求人情報なんかを見て、勤務地や初任給を見て選ぶ。多くが何の仕事に就くか分からないまま採用され、研修を受けて、「はい、あなたは総務」「あなたは営業」と配属を決められる。そうなると、成功するのは与えられた仕事に夢中になるしかないんですね。 … 絶対に仕事は好きになったほうが勝ちです。与えられた仕事に夢中になれる。それだけで、その人は運もツキもあると思います。by林野宏(クレジットカード業界の第一人者) ~
けっきょく一生懸命やるしかないんだよね、と書く。
わが吹奏楽部員のほとんどは元運動部で、たまたま入部したという子も多い。
楽器? 別になんでもいいですけど … という子もいた。
なんとなく先輩に言われた通りに練習し、とりあえず休まずやっているので少しずつ上達し、それがいつの間にか、早く帰りなさいと言われるくらいにのめり込んでいく。この経験そのものが大事なんだろうと思う。
経験の対象はなんでもよくて、経験の蓄積によって、自分てこんなことができるのか、ここまでやれたなあという漠然とした自信につながっていく。
なんにもしないで、自分はひとかどの人間だと言ってたら、ただのおバカだ。
~ 日本の高校生は自分の能力に自信が持てず、親や教員からも認められていないと感じている―。財団法人日本青少年研究所(東京)が昨年、日米中韓の高校生7233人に実施し、24日、公表した調査でこんな傾向が明らかになった。
… 男女ともに「私は価値のある人間」と自己評価する高校生の割合は日本が最低で36.0%。ほかの3国と比べ大幅に低く、米国は89.1%、中国は87.7%。3位の韓国でも75.1%だった。 ~
ちょっと気になったニュースだ。
~ 同研究所では「日本の高校生は、根拠もなく自分を肯定できない傾向があるようだ。謙譲な精神は重要だが、教育方法を考えないと、国際的な競争で自己PRができず不利な立場になるかもしれない」と分析している。 ~
根拠もなく自分を肯定するより、日本の高校生の方がよほど健全だろう。
別に高校生でなくたって、そんなにみんな自分に自信なんてもってなくない?
個人的にも、「練習分ほど結果出てないですよね」とか言われるとヘコむし。
この米中韓日の調査で、しかも米中という、非常に地球にきびしい二大国家の人たちと我が国とを比べて、どうこう言ったらかわいそうだ。
世の中の矛盾が見えるようになり、将来への漠然とした不安を抱く高校生の年代なら、自信などなくてあたりまえ。
根拠なく自信をもつ二つの国が、今どんだけ世界中に迷惑をかけていることか。
そんな想像もせず、「教育方法を考え直すべき」などと述べる識者の知能の低さの方がよほど心配になった。
素材をどう料理するか。
素材そのものの質が圧倒的な場合、手をかけるのは最小限にして、どうぞと提供すればいい。
「熱帯魚」はそれだったのかもしれない。
それは、吹奏楽でいえば、オーケストラの譜面をそのまま吹奏楽の楽器に置き換えた編曲作品と似ている。
ヴァイオリンのパートを機械的にクラリネットに写すような方法で、ペットショップを熱帯魚店に写したのだ。
なるほど、いい見立てだ。
「冷たい熱帯魚」をこの視点で論ずる人はいなんじゃないかな。
楽器を置き換えた「だけ」とまでは言わないが、正直それに近いアレンジ作品はある。
これなら、あえて吹奏楽でやることなくて、オケで演奏すべきだよねと思われがちな作品だ。
一方、オーケストラ全体が作り出す響きや音楽を全体像としてとらえ、それを吹奏楽のバンドがつくる全体に翻訳され、吹奏楽だからこそ可能ならしめる響きを得、別次元の魅力をもつに至った作品だ。
たとえば去年の演奏会でとりあげた「ハウルの動く城」はまさにそんな編曲で、後藤洋先生のすごさを思い知らされた。
そう思うと鈴木英史先生のお仕事って、やはりたいしたものだ。
この「熱帯魚」だったら、アレンジなしで再現フィルムでよかったんじゃないかとも思った。だったら観に行かないけどね。
すごいマグロだねえと言いながら食べるのが好きな人がいれば、えっ、これ何の肉? というのが好きな人もいる。
悲しい時に、声をあげて号泣する人もいれば、ニコっと微笑む人もいる。
女優さんを色っぽく見せたい時、セクシーな衣装で肌をあらわにする方法もあれば、和服をびっちり着せて後れ毛だけちらっと見せる方法もある。
曲のフレージングで、頂点を思い切り吹き鳴らす方法もあれば、あえて音量は抑える手もある。
これは好き嫌いの範囲であって、いい悪いではないのだろう。
ただし、セクシーな衣装でマグロを食べて号泣するのは、わかりやすくはあるが、ときに下品にもなる。
あえて、その表現手段を用いるのだから、置き換えではなく翻訳をし、その表現手段だからこそできるものを生み出すことに価値を見出したい。
それだからできること。
そっか、駅で立ち食いそばを食べるとき、大体コロッケそばを頼んでしまうのは、それか。
そのジャンルだからこそ成立するものの魅力だ。
不味いのが美味しいというアンビバレントな立ち食い蕎麦の魅力。
これって、けっこう表現の本質に近づこうとしてるような気がする。
冒頭から疑問を抱いたのは、同じ生活圏内に大小複数の熱帯魚店が存在しうるかという設定について。
だいたい熱帯魚店自体を今までほとんど目にしたことがない。
試しにネットで埼玉県の熱帯魚店を調べてみると … 、けっこうあるのね。
え?、自宅のほんのすぐそばに存在してた。
そっか、じゃそれについてはいいかな。
でも若いお姉ちゃんを、しかもフーターズみたいなかっこをさせて、十人ぐらい雇えるほどの大規模店が、静岡という土地でやっていけるだろうか。
この熱帯魚センターを経営する、一見ひとあたりのよさそうなおじちゃんが、実は自らの欲望のすえに何十人もの人を殺害している、とんでもない裏の顔をもつ男だ。
これを、でんでん氏が演じる。名脇役としてほんとにいろんな作品でみかけた。舞台でも一度みたことがある。ちなみに奥さんはたしか「ピンクの電話」のふくよかな方の方です。
最初の殺人は、熱帯魚を1000万円で売りつけようとして、お金を奪ったあと毒殺し、山中の隠れ家のようなところで遺体をバラバラにし、川に流す。
埼玉県で起こった、愛犬家殺人事件をベースにした死体遺棄損傷事件の様子が、生々しく描かれる。
風呂場で遺体を切断する場面のリアルさは、というか切断されたパーツのリアルさは目をそむけたくなるもので、スタッフさんの職人技のさえを感じさせる。
でんでんに取り込まれてしまう、小さな熱帯魚店の気の弱い店主を演じるのが吹越満で、ロボコップネタで世に出たのは何十年前だろうか、今や実力派として誰もが認める男優さんであろう。
でんでん氏も吹越氏も、仕事をしている。お芝居はもともと定評のある方々だし。さらに魅力的なのは黒沢さすかさん。でんでんの奥さん役。いやあ、色っぽくて、惜しげなく裸体をさらしてくれるし、血まみれになって死体を解体しながら、むじゃきな笑顔で切断された男性器を手にしてニコっとするところなど、ぞっとする。
あれ? 悪口になってないな。
みんな仕事をしてるのだ。
でも、脚本や設定にはいろいろ詰めの甘い部分があるのが気になる。
最初に殺され解体された吉田という男は、気の弱そうなおっちゃんで、簡単にだまされるのだが、殺されたあと「兄貴(吉田)をどこへやった!」と、押し込んでくる風体の悪い若者たちがいる。
つまり吉田は、そういう何人もの悪いやつらを束ねているような存在でないといけないはずだが、どうもそんなキャラに見えない。
どんな仕事で稼いでいた人かも見えない。
でんでんと組んでいる弁護士を名乗るやくざがいる。
この役者さんも存在感のある仕事されているのだが、いかんせんちょろい。簡単にだまされて死ぬ。
刑事が登場する。
でんでんの周囲で何人もの人が失踪している事実が明らかになることの気づき、捜査をしてるのだが、あまりに無能。
いや、いくらなんでもそんな捜査ぶりはないだろ的なふるまいをする。
吹越満の娘役の子がなぐられて気絶するシーンがあるけど、そんなきれいな失神の仕方は普通はしない。
この映画を絶賛されている方は気にならなかったのかな思うが、その細かいことが気になる。
「神は細部に宿る」「大説にまどわされるな」「目線を下げて物事を見よ」という宇佐美寛先生の教えを信奉する俺様には、気になってしょうがない。
細かい嘘があると、大きな嘘を信じられなくなる。
そんな感情をベースにすると、目を背けたくなるほどリアルな死体解剖シーンが、あまりリアルに感じなくなるのだ。
ちなみにリアルなエッチシーンからは、目を背けたくならなかった。
埼玉愛犬家殺人事件を題材にし、人間の悪とエロを、きわめて具体的かつリアルに描いた作品だという。たしかにそう言える。
でも、そこでとまっている。
でんでんの表現する悪が、吹越満の墜ちていく様が、黒沢あすかの愛欲が、一見異常に見えるけど、実は自分の中にもあると感じたとき、人は恐怖感を覚える。
自分の中の悪に畏怖する。
でも、そうはならないのだ(すくなくとも俺はね。だいたい俺っていい人だし)。
描かれたのは人間の悪ではなく、でんでん演ずるところの特殊な殺人鬼の悪。
具体が具体のままで終わり、抽象に昇華されてないと言えるかもしれない。
そして、その原因は、言いがかりかもしれないけど、細かい部分の詰めの甘さ。
ビデオテープを電子レンジでチンしてだめにするという細かいリアルさに、一瞬にして作品に取り込まれてしまった「ザ・タウン」とは、質がちがう。
だいたい、悪を表現するのに、悪をそのまま露骨に描くという表現自体、どうなのか。
エロを表現するのに、女性がいきなりみんなセクシーな衣装で登場するというのもどうなのか。
客席を埋め尽くした満員の観客は、みないい人っぽかった。
本当の悪人は映画館に足を運ばない。
いや、悪い人もいた。
ロビーで「ちょっと出先で人に会うことになったから、遅くなる」とロビーで電話してた、かなり年配のお父さん。
この程度。たいがいの人は殺人は犯さないし、まして解体して川に捨てないものなあ。
駄作ではもちろんないが、あまりにストレートな表現ぶりに、善人の一人としては、まあこんなもんかな、これを褒める人って本当に心からそう感じているのかなと思いながら映画館を出たのだった。
褒めないと価値がわからないヤツと思われそうだから、とりあえず評価しておこうか、という扱いを受ける人がいる。
どの世界にも。園監督って、ちょっとそんな位置になってないだろうか。
たまに悪口書いちゃおうかな。
園子温監督の「冷たい熱帯魚」は、いろんな人が手放しで評価してるし、お客さんも入っている。
修学旅行の前日、尚美学園での課題曲講習会に参加したあと、新宿で観た。
都内ではこのテアトル新宿しか上映してないというのもあるが、立ち見のお客さんがいるほどの満員の映画館て、何十年かぶりの経験だった。
本当のことを書くよ。
「冷たい熱帯魚」は、エロくてグロいだけの凡作です。
園監督といえば「愛のむき出し」が一番有名で、外国の賞もとったし、4時間を越えるこの長編を褒め称える人は多い。
満島ひかるさんの演技も評判だったから、いつか観たいと思いながらそのままになっていた。
前作「ちゃんと伝える」は観たけど、園監督ってこの程度の作品をつくる方なのかなという印象だった。
で、今作は園監督が再び本性を現した傑作とのことだったのだが … 、
あー、ここまで書いたけど、お迎えにいかないといけない時間になってきた。
今週は本音でいくつか書きます。
「冷たい熱帯魚」がなぜだめなのか。「シャコンヌS」も実は凡作。
Take it Easyという劇団の「千年女優」という芝居は大傑作、というラインナップで。
映画の冒頭で銀行強盗が最も多い都市と紹介される。
まず、その銀行強盗のシーンのリアルさに惹きつけられる。
犯人たちの手際のよさだ。
時間で解除される金庫や警報の発令システムを知り尽くしていること、DNAを採取されないために消毒液をまくこと、監視カメラのビデオテープを電子レンジにかけて処分することとか、細部までリアルだ。
この職業的に銀行強盗をするグループの一人が主人公。
伝統ある大都会である一方、もしくはあるがゆえに、ダークな部分もあわせもつボストンで育った彼は、銀行強盗の技術を父世代から受け継いでいる。
つまり、そのレベルのものまで含め、その街で代々生きている人がいて、その階層から抜け出ることの難しさが描かれる。
しかし青年は、いつか「そこ」から抜け出したいと願っている。
「そこ」のないどこかへ、四季の変化があり冬は厳しい寒さに包まれるボストンを出て、温かいフロリダで暮らしたいと夢想する。
もちろん、そんな願いを実現しようとすれば、仲間や共同体との軋轢が生まれるのは言うまでもない。
ある銀行を襲撃したときに人質にして解放した、その支店の支店長は若い女性だ。同じ街に暮らしていることを知り、仲間は始末しろという。
青年は女のあとをつけ、声をかけ、接触しているうちに、親密になっていく。
女は青年が自分を襲撃した犯人だとは気づかない。
男女の関係になったあと、青年は本気で足を洗って街を出ようとするが、自分が犯人であることを知られてしまう。
というように展開していくのだが、この青年の葛藤は、決して特殊な例ではないなと思いながら見ていた。
翌日の現代文で使うセンター評論のプリントがカバンに入っていたから。
センター99年追試のリービ秀雄氏、「「there」のないカリフォルニア」だ。
なんとタイムリーなのだろう。
「新大陸を求めて移住してきた人々は東海岸に住むものの、厳しい冬の生活に束縛を感じた人々は、さらに西をめざし、カリフォルニアに再移住した。カリフォルニアは、なんの束縛もない土地だ。」という話からはじまる。
そしてそこを訪れた筆者(リービ秀雄氏)は、「カリフォルニアにはthereがない」と嘆いたガートルード・スタインという文学者の言葉を紹介し、まさしくその通りだと実感するという経験が語られる。
カリフォルニアは一年中コバルト色の空が広がり、人々を何も束縛しない。
当初「there」のないカリフォルニアは、近代化を理想とする人々から、うらやむ目で見られていた。なぜなら「there」がないから。
しかし、その「there」のなさは、何もないことにもつながり、筆者は耐えられなかったと言う。
本文中、「文脈」「束縛」という言い方でも表現される「there」だが、「しがらみ」とか「世間」とか言い換えると、もっとわかりやすいよねと話し、映画の話も少し盛り込んだ今日の授業のなんとわかりやすかったことか。
「there」から逃げたい、これは多くの若者の気持ちじゃないだろうか。
高校を卒業したら、とにかく家を出ることのできる大学に行きたいという気持ち、田舎の生活はいやだ、都会に行きたいという気持ちも同じベクトルのはずだ。
この作品が素晴らしいのは、銀行強盗の犯人という特殊な事例を描きながら、暗い現実を抜け出して、自分をとりまく「there」を捨てて、未来に踏み出したいと願う青年の葛藤と寂しさを描く普遍につながるからだ。
「そこ」のない世界に憧れる青年の普遍を描くからだ。
「文学は、具体の具体性を徹底的に具体化することで、世界全体の真実という抽象に近づいていく」と、センター90年追試で勉強したけど、まさにそんな作品になっている。
これを傑作と言わずして何を、という作品だ。
それにしても今年は「キックアス」「アンストッパブル」「レッド」ときて、極めつけがこの「ザ・タウン」で、こんなに洋画を観て、こんなにはずれてない希有の年だ。
修学旅行最終日は札幌市内自由行動。何度もこの次期に札幌に来ているが、道路が乾いているのに驚いた。雪に覆われてないのだ。
スキー場も好天に恵まれたが、札幌も2月とは思えない過ごしやすさだった。
そういえば3年前の最終日は大雪で、飛行機がとぶかどうか微妙で、万が一に備えてもう一泊する宿をおさえてもらってから千歳に向かったのを覚えている。
今回は、予定通りのフライトで羽田に到着。
旅行チーフのやまぎし先生たちと、一週間弱ぶりのビールを流し込み、反省してからバスで川越まで。川越までのバスができて、帰りも楽になった。
無事みんな帰って来ました。
学年だより68「日常」
修学旅行お疲れ様でした。
驚くほど天候に恵まれたのは、みんなの日頃の行いがよほどいいか、運がいいかのどちらかだ。
そして、それは二つの別要素のようで、一つのことを別の側面から表現しているとも言える。
運がいい人は日頃の行いがいいし、日頃の行いがよくない人は運が悪い。
うそぉ? と思う人もいるとは思うが、これはほぼ一般的にあてはまる性質だ。
旅行期間中、いろいろと自分のしたいとおりではない部分もあったかと思うが、基本的にみんなは約束ごとをよく守って過ごしてくれた。
とくに集合時間はほぼ完全に守られたので、いろんなことが予定通りか予定より早く進行できたのがよかった。
室長のみなさん、実習班の班長さん、きちんと仕事をしてくれてありがとう。
さて、旅行という非日常のなかでは、みなさんの日常の姿がよりうきぼりになったとも言える。
良い面でも、未熟な面でも。
あえて問題点の方を指摘させてもらえば、あいさつはまだ足りないかな。
あいさつしてないわけではないのだが、あいさつする相手に伝えようとする気持ちが足りない。
内面には気持ちはあるというかもしれないが、あいさつは、相手にはっきり聞こえる声で、明るい顔でしてなんぼのものだ。
それから、室長さんを褒め称えるべきではあるのはまちがいないのだが、連絡もれはあった。
これについては、室長さんの非を指摘する気にはなれない。
やはり室長ではないメンバーが、もしくは班長以外の班員が、まったくの受身ではなく、自分からどうふるまうべきかを考えてなかった部分が大きいと思う。
コミュニケーション能力、そして言われてからではなく自分からやるという姿勢の物足りなさについては、今後のみなさんの大きな課題として把握させてもらった。
これをどう解決していくかは、わたしたち教員にとって今後の大きな課題だ。
実は、これらの問題点の解決こそが、日頃の行いであり、日頃の行いのレベルを上げることが、ますますみんなの運をよくすることにつながる。
自分からやる姿勢、コミュニケーション能力、これらはおそらくスキーがどれくらい上達できたかとかなり相関関係が高いはずだ。
そして、今後の勉強面での成果がどれくらい現れるかとの相関関係も高い。
さらにいえば、将来充実した人生が過ごせるかどうかとの相関関係もきわめて高いのだ。
見てて本当に育ちがいいなあと思えるみなさんを、なんとか世間の荒波に出ても大丈夫な方向で成長させることができたらなあと思う。
今日からまた日常である。
やるべきことを地道に積み上げていこうではないか。
あさってからの修学旅行用の荷物を、学校から送る。
さすがに遅刻常習犯も荷物をもって遅れずにやってくる。
生徒さんがたが登校しだい随時トラックに積み込んでいくのだが、その作業がスクールバスの到着にあわせて、朝7時半からおよそ1時間。
風が吹いてとんでもなく寒かった。
すでに泣きそうなのに、もっと本気で寒いところへ行かなければならないなんて。
この後ろ向きな気持ちを少しでも前向きにするためには、旅先がプチ快適になるといいと思い、昨日100均に行っていろいろ買った。
第一目標は、身体洗い用の泡立ちタオルだった。ついでに近くにあった入浴剤も。事件さえ起こらなければ、ふだんより時間のゆとりはあるから、ゆっくり湯船につかるという、ふだんはなかなかできない経験をしてみよう。ふだんできないことをやるのが旅だ。
生徒には、その気になればなんでも向こうでそろうのだから、何でもかんでも詰め込んでばかでかい荷物をもってこなくていいと連絡してたのだが、いざ100均に行くと、あれもこれもほしくなって、たとえば昼間晴れてたら紫外線をけっこう浴びるだろうから、夜寝る前にパックしようかなとか、ちょっとだけ部屋で洗濯したくなったときのためのキットを買っておこうかなとか、いろんなアイディアが降ってきたとき用のポストイットとかノートとか、ノートなんて職員室の机に山ほどあるのに、買いたくなったり、ふだん使っている髪がボリュームアップする高いシャンプーを入れていくボトルを買おうかとか、お酒は数日飲めないから、甘いお菓子を少しもっていこうかとか、小学生的に夢がひろがって楽しかったが、そこそこでがまんできた。あと新しい下着を100均でないとこでちょっと買った。
旅行中は、合間をみつけて、課題曲の予習と、二部台本の整理もしないといけない。できるような気がする。
出かける直前て、どうしてこんなに夢がひろがるのだろう。
あとは、飛行機がちゃんと飛んでくれるか。ていうか、当日の朝みんなちゃんと集合できるのか。
ずっと雨も雪も降らずにきて、ここへ来ての大雪の予報は、日頃の行いのせいか。それは誰の? おれか? やはり。最近あんまりわるさしてないつもりだけど。
学年だより№67「非日常」
たとえば部活の合宿は何のためにあるのだろう。
ふつうに長時間練習するだけなら、通いでできないことはない。
なぜ寝食をともにするのか。それは、日常を離れることにある。
日常生活を離れ、練習して食事して寝て起きて練習してまた練習して … という浮世離れした生活をともにすることが目的だ。
その結果どういうことがおきるか。
自分以外のメンバーが次に何を言い、何をするかがなんとなくわかるようになる。
誰かが笑えば自分もおかしくなり、笑うポイントもそろってくるし、なんでもないことが同時におかしくなったりする。
自分の身体が、自分の意志で行われているのかどうかさえわからないような境地にもなる。
自分の意志というより、そこにある集団の意志にしたがって、なりゆきで動くような状態になる。
すると、たんに共に生活する集団から、あたかも一つの有機体のような動きをする集団に変わる。
たとえば、サッカーの試合を想定してみてほしい。
試合中に「あいつはあの辺にパスを出してくるはずだ」と考えてからそこに向かって走り始めたのでは、ふつうは間に合わない。
無意識の段階で身体が先に動いている必要がある。
そういう意識を共有できるような身体性をつくるには、通常の練習だけでなく、やはり合宿のような生活が必要になるのだろう。
合宿しなくても、数時間でそういう感覚を身につけられる人たちが代表レベルの選手なのだとも言える。
修学旅行というのも、こういう合宿に近いものがある。
ただ旅行するだけなら、気のあった仲間同士で行った方が楽しいし、自由だ。
しかし、なにゆえ一緒にいるのかわからないような人々と、なぜか数日寝食をともにすることで、漠然とした一体感が生まれる。仲間みたいに思えてくるのだ。
だから、せいいっぱい浮世離れしよう。
スキーを滑って、ごはん食べて、寝て、がんがん滑ってがっつり喰って寝て、また起きてまた滑ってまた食べてという暮らしをしよう(ときどき「ユメタン」はやった方がいいかもしれない)。
同学年同士の漠然とした一体感は、今後のみんなの財産になる。
明後日(12日)朝は、雪のために電車のダイヤが乱れる可能性もあります。予定していたより早く家を出て、電車が動いているかぎりは集合場所まで来てください。
飛行機が飛ばないくらいの天候になっても、原則として羽田に集合したうえで、その後の対応を連絡します(「飛行機とぶんすか?」とか本部携帯にかけてこないこと)。