おかげさまで、第26回定期演奏会は
盛況のうちに幕をおろすことができました!
たくさんのご来場ありがとうございました!!
第26回定期演奏会のご案内
日時 2018年3月30日(金) 17:30開場 18:00開演
会場 ウエスタ川越大ホール(川越駅西口より徒歩5分)
曲目(予定)
1部 春の猟犬
シャイン・アズ・ザ・ライト
祝典のための音楽
ウィークエンド・イン・ニューヨーク
2部 Jポップメドレー「バブルへGO! 2018」
~いつもそばにいるということ~
父と二人暮らしのあかねは、高校2年の冬を迎えていた。クリスマスが近づき、華やかさを増していく町の光景とはうらはらに、将来の進路が決まらないもどかしさを感じながら毎日学校に通っている。幼いころ亡くなった母親に、今の思いを聞いてもらえたら、どんなふうに答えてくれるだろう…、時々はそんなことも考える。
仲の良い友人たちと遊んだ帰り道、あかねは突然自分のからだが異空間に放り出されるような感覚に襲われる。気がつくと目の前にあらわれたのは1990年の世界だった。歴史の時間に聞いたことのあるバブル景気の時代。そう言えば、父が母と出会ったのがこの時代だと聞いたことがある。だとしたら、目の前にいるこの人は…。
目の前にあるかけがえのない一日一日をちゃんと生きていきたい…。
進路なんて簡単には決まらない、そんな先のことより今日の前髪が決まらない…。
3部 ディスコ・キッド~ベイ・ブリーズ~ファンキー・ヘンズ
3年生合奏「銀河鉄道999」
「ラ・ラ・ランド」メドレー
学年だより「100万分の1の恋人(3)」
ある人と出会い、新しく家族をつくるということは、人生のすべてを受け入れることと同義だ。
自分側に予想外の事件や試練が起こることもありうる。
ただし、夫婦であるならば、別々の道を歩き直すという選択肢もある。
親子の場合は、基本的にはそうはいかない。
自分が望んだタイプの子どもでとして生まれなかった、もしくは育たなかったからといって、縁を切るわけにはいかない。
冷静に考えてごらん、皆さんの親御さんだって、覚悟をもって育ててくださったではないか。
ひょっとしたら、かわいい女の子がほしかったわ、こんなにオヤジくさくなってしまって、ごはんばっか食って…とか思われたことがあるかもしれない。
もっと勉強しなさいとか、しゃきっとしなさいとか、文句ばかり言うなとか、もしかすると今も思われているかもしれない。みなさんにしても、親うざいと思ったことがあるやもしれぬ。
それでも共に生きてきたのだ。その距離感は家族によって様々な形があっていいが、親子の縁を無にすることはできない。
親子として共にすごしてきたことは、何らかの縁に導かれた「仕合わせ」なのだ。
~ 「今まで、話したことなかったけど、私、ときどきこうやって真っ暗闇の中で、お風呂入るんだ。何も見えない中でお湯に包まれていると、少し安心する」
声の向こうから、またあの水の流れるような耳鳴りが聞こえた。二人、肌を寄せながら闇の中で聞くと、耳鳴りも、どこか穏やかな音に聞こえた。
僕はミサキの身体を優しく抱き締めた。
「なんだか、双子みたいだ」
僕はそうなりたいと思った。ミサキの遺伝子も運命も、その身体も心も、すべて共有したい。ひとつに溶け合いたい。この胎内のような闇の中、漂う湯水の中に、静かに溶け合ってひとつになりたい。 ~
私たちはそれぞれの物語を生きている。物語とは因縁だ。
西洋的なひびきをもつ「運命」というよりも、「因縁」「宿縁」という言い方の方が、人生の真実を言い当てているように思える。
今後の長い人生で、たくさんの出会いがあるだろう。
この人と家族になりたいという願いを抱くこともあるだろう。それが叶っても、かりに叶わなくても、それは自分の因縁だと受け止める覚悟をもっていればいい。
目の前の仕合わせを大事にできる人には、これからの人生で別の仕合わせも訪れる。
みなさんが、この先たくさんの人と出会い、仕合わせな人生を過ごせるようにと祈っています。
3年間読んでいただき、ありがとうございました。卒業おめでとう!
学年だより「おまけ」
私達は万能ではない。あらゆる分野に無限の可能性を持っているわけがない。
「願えば叶う」という言葉があるが、おもいきり願っても、いや願った上に相当の努力を積んだところで、叶わないものは叶わない。
メジャーリーグで活躍したいとか、ミュージシャンとして世界中でライブをしたいとか、芸人になって冠番組を持ちたいとか、こういう類いの夢は、願っても努力しても、実現する可能性はきわめて低いだろう(もちろんゼロではない)。
みんなもわかっているからこそ、ほとんどの人が大学進学を選んだのではないだろうか。
だとしたら、むしろ今が人生のスタート地点に立ったということだ。
イチロー選手になったり、安室奈美恵になったりすることは難しいが、会社に就職して働くことはできる可能性は高い。自分で会社を興すこともできる。
大学に行けば、どうやって通う(住む)か、単位をどうとるか、サークルに入るか、バイトはどうするかといった、目先の問題をとりあえずクリアしていく必要がある。
それらをクリアしていく毎日をただ積み重ねるだけだと、今の正味の自分を変えていくことはなかなかできない。社会人としては未熟でピュアなまま就職活動の時期を迎えてしまう。
この先必要なのは、自分のスペックを高めていける日々を送ることだろう。
そのために最も有効なのは「オタク」化することだ。
何のオタクに? 何と言っても自分の選んだ学部・学科の内容についてだ。
Aを学びたいと思っていてB学科にしか受からなかった場合、そのBを徹底的に深めていく。
するとAに通ずる中身にも触れられるし、自分が当初考えていたAとかBとかの枠組みがいかに表層的なものであったかにも気づく。ちゃんと勉強していけば、AとBには何を入れてもあてはまることにいつか気づくはずだ。
そこまでBを究められれば、相当直接的に就職活動での武器にもなる。
サークルやアルバイトでも、漫然とではなく、のめりこんでみると自分の血肉になる。
ただ一つ心配なのは、みなさんが「イイヤツ」でありすぎることだ。
あいさつもできるし、事務仕事もこなせる。がんばりもきく。
アルバイト先では重宝されることだろう。そんな若者を上手に使ってやろうとする大人たちが世の中にはうようよいる。「インターンシップ」なる言葉で若者をつり、純粋にただ働きさせるだけの会社もある。きわめて巧妙に行われている。
何か困ったときは、だいたいの場合は普通の大人(まずはお家の方)に相談すると解決できる。 公的機関に相談してもいい。友達同士だけでなんとかしようとするのはかなり危険だ。
致命的でない失敗なら、むしろいい経験にはなるが、それが世の中だと知っていてほしい。
失敗も含めて意図的な経験のすべてはみなさんのスペックを高める。
広く世の中に触れることで、いろんな価値観の人に出会い、ときには理不尽や不条理に身をさいなまれることもあるだろう。それこそが正味の経験だ。
すると、一般的に「価値ある」とされているものに対して、「本当か?」という見方ができるようになる。「あいつの大学の方が少し偏差値高い」とか逆に「自分の方が上だ」とかいう感覚が、いかに表層的なものであるかがわかってくる。自分を変えられるのは勉強と経験だけだ。
学年だより「100万分の1の恋人(2)」
自分の父親を知らずに育ったケンには、結婚し子供が出来て父親となって…という夢があった。
あくまでもそれは漠然としたもので、何らかの覚悟に支えられたものでないことに気づく。
~ 「今のミサキと別れたくない」
僕の思いはそれだけだった。
ミサキは、本当に発病するのだろうか。発病するとしたら、いつ頃だろうか。そしてその病気は、僕達の子供へと引き継がれるのだろうか。ハンチントン病が不治の遺伝病であることや、ある程度の症状は分かったが、それは、実際どれほど重篤なものなのだろう。
「今のミサキと別れたくない」
繰り返し心の中でその言葉をなぞった。それは僕の正直な思いだった。そして、そんな単純な思いを実現できないことに、僕は苛立ちさえ覚えた。どうして、そんな簡単なことなのに、これほど重い未来への責任を覚悟しなければならないのか。そんなやりきれなささえ覚える。
未来への責任と覚悟。
その言葉に思い当たって、一瞬、戸惑った。
未来への責任と覚悟。
しかし、それは僕達に特殊なことなのだろうか。
今までだって、同じだったのではないか。どんな恋愛であっても、結婚であっても、未来への責任と覚悟はあるはずだ。どんな恋愛や結婚であっても、覚悟ははぐくまれなければならない。僕は今までその覚悟を育てていたのだろうか。
結局、僕は新しい事態を前にして、揺るぎ始めている程度の覚悟しか育てていなかったのだろう。 ~
考えてみると、ケンとミサキのおかれた状況は、決して特殊なものではないことにも気づく。
ハンチントン病の遺伝子をもつ可能性があるという事実をたまたま知ったことで、未来への責任が可視化されてしまったのだと。
結婚しようとする二人の将来に何が待っているか、その時点ではわからないのが普通だ。
逆に考えれば、どんなことでも起こりうる可能性があり、一般的に不幸と考えられる事態に陥る場合もある。それは誰にとっても同じはずだ。
学年だより「100万分の1の恋人」
高梨沙羅選手、羽生結弦選手、小平奈緖選手、高木姉妹、本橋マリリン … 。
アスリートの枠を越えて、ヒーロー・ヒロインとなった選手たちには「物語」がある。
逆か。物語があったからヒーローやヒロインなれたのだ。
すばらしい成績をあげている外国人選手に、日本の選手に対するほどの思い入れを抱くことが少ないのは、見る側に物語の蓄積がないからだろう。
日本に暮らしているなら、日本人選手たちがどれほどの苦労を重ねているかを想像することが、外国選手のそれに比べればおそらくやさしい。
どんな暮らしをしているのか、金銭的援助はどれくらいあるのか、毎日の送り迎えは誰がするのか、学校は通えているのか、友人関係はどうなるだろうか … 。
物語が紡ぎ上げられる背景は、あらかじめ整っている。
もちろん、日本人選手であっても、知ろうとしない人は知らない。
それほど興味が無い人は、羽生結弦選手の演技に「よかったね」と言うだけだろう。
小さいころからその姿を追い、東日本大震災直後「花は咲く」で舞う彼がまぶたにやきつき、平昌五輪直前に怪我をしたことを知っている人なら、彼がリンクに滑り出した瞬間に涙がこぼれる。
同じ景色を見ても、見えているものは人によって全く異なる。
純粋に同じ景色というものはないのだ。
芸術作品にも同じことが言える。
作品の背景にあるものを知っているかどうかで、見えるもの、感じるものは異なる。
芸術作品は、先入観なく純粋な心で味わうべきだという考え方もあるが、人がこの世に生を受けて何年か経ったなら、純粋な無ではいられない。
だとしたら、積極的に物語を知り、聞き、感じる人生を送った方が、いろいろなものが新しい姿で目の前に立ち上がってくるはずだ。
自分のなかに物語をふやしていく場として、大学ほど恵まれた環境はなかなかない。
人に対しても同じことが言える。
出会った人がどんな「物語」をもっているかを知ると、その人の対する見方が変わる。
小説『100万分の1の恋人』の主人公ケンは、大学院を終え、母校の高校への就職も内定し、恋人ミサキとの結婚を考えはじめていた。
そんなある日、ミサキは「自分の父親はハンチントン病だ」と打ち明ける。
遺伝性の難病で、自分も同じ遺伝子をもっている可能性が50%あると。
~ ミサキと別れることは考えられなかった。けれど、もう僕達は、昨日までの無邪気な二人に戻ることは出来ない。そのことにも気付いてしまった。いや、ずっと無邪気だったのは、僕だけだったのだろう。いずれにしろ、もうすべてが今まで通り、という訳にはいかなくなってしまったのだ。 (榊邦彦『100万分の1の恋人』新潮文庫) ~
ケンが想像もしていなかった物語をミサキは生きていた。