水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

自分編集力(2)

2021年02月27日 | 学年だよりなど
3学年だより「自分編集力(2)」


 いうまでもなく、私達は万能ではない。あらゆる分野に無限の可能性を持っているわけがない。
 メジャーリーグで活躍したいとか、ミュージシャンとして世界中でライブをしたいとか、芸人になって冠番組を持ちたいとか、こういう類いの夢は、願っても努力しても、実現する可能性はきわめて低いだろう。みんなも自覚しているからこそ、ほとんどの人が大学進学を選んだのではないだろうか。だとしたら、むしろ今が人生のスタート地点に立ったということだ。
 田中マー君や星野源にはなれなくても、会社に就職して働くことはできる可能性は高い。
 自分で会社を作ることも、中学校2年生で可能な世の中だ。プレイヤーやアーティスト自身になれなくても、それを支える仕事にはつける。

 大学に行けば、どうやって通う(住む)か、どの講義をとるか、サークルに入るか、バイトはどうするかといった、目先の問題をとりあえずクリアしていく必要がある。
 それらをクリアしていく毎日をただ積み重ねるだけだと、今の正味の自分を変えていくことはなかなかできない。気がつくと、社会人を目指す人としては未熟でピュアな状態のまま、あっという間に就職活動の時期を迎えてしまう。
 4年後、6年後にどうなっていたいかをイメージできる人は、それを目指してがんばればいい。
 それがない人は、昨日の自分より少し成長する今日を積み重ねていけばいい。
 具体的には、自分が選んだ「何か」について、十分に時間を費やすことだろう。
 当たり前の話だが、その「何か」の第一位は、自分が学ぶことにした学部・学科の内容だ。

 大学にいくと、「意識高い系」とよばれるタイプの人と出会って、イベントやセミナーやパーティーに誘われたりもするかもしれない。「これからは人脈づくりだ」「自分は○○さんという有名人とつながっているからね」と名詞を渡してくるような人。
 一見かっこよさげだが、その「人脈」が就職に役立つことはまずない。
 まずは学部・学科の勉強を、深く深く学ぶことが、就職に関しても一番の近道だ。
 穴は、深く掘ろうとすればするほど、その大きさは自然に大きくなっていく。
 専門分野を深めていく人は、いつのまにか幅広く学んでいる人になる。

 かりに、Aを学びたいと思っていて、B学科にしか受からなかったとする。
 そのときは、Bを徹底的に深めてみる。するとAに通ずる中身にも触れられるし、自分が当初考えていたAとかBとかの枠組みがいかに表層的なものであったかにも気づく。
 実は仕事も同じだ。Aという職業につきたい、Aになりたいと願い、それしか考えていなかったとする。就活では「A」関係のみを受ける。受かったとする、入社する、全くちがった仕事内容であることに気づく、「こんなはずじゃない」と落ち込む、転職する……。やはりここも違うと感じる、転職する、ここもなんか違う……。よくある話だ。
 深めた経験のない人に起きがちだ。
 AでもBでも、どんな学問も仕事も、表面的に見える部分は氷山の一角にすぎないことに気づけるような大学生活をすごせたら大成功だと思う。そのためにはまず、何かを深く掘ってみよう。
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自分編集力

2021年02月24日 | 学年だよりなど
3学年だより「自分編集力」


 AをとればBやCはできなくなる。
 有限の人生のなかで、AもBもCも全てにチャレンジすることは不可能だ。
 何を選ぶのか。たまたま最も適性の発揮できるAに出会えた人は幸せだが、みんながみんな、そうなれるとも限らない。
 自分にとって何がAであるかは、やってみないとわからないからだ。
 Aに一度のめりこんでみないと自分にどの程度の適性があるのかが見えてこないし、やってみると逆に、他のやりたいことが明確に見えてくる場合がある。
 何かを捨てて何かを残す。選ぶ段階では、その判断に科学的根拠はない。
 あくまでも自分の好みであり、自分で決められる。
 だから、当然リスクは伴う。
 リスクを含めて自分で選ばないといけないことが、自由であるということの本質なのだろう。
 広く見渡せば、そんな自由を与えられていない世界がいくらでもあることがわかる。
 ただただ自分の生命を維持するために生きざるを得ない、もしくは生命の維持さえ危ぶまれる状況におかれている人達がいる。
 自分でリスクをとって生きること、つまり人間らしく生きることが許されている私たちは、その恩恵をいかさないのはもったいないことだろう。
 てっとりばやいのは、AでもBでもCでも一つの何かに努力してみることだ。
 何を選び、どれほどの時間を費やしてみるのか。
 それが時間の編集であり、自分の人生を編集するということだ。
 私たちは、自分主演の作品をつくっている映画監督のようなものなのかもしれない。
 映画監督の最も大事な仕事は、何十時間、何百時間分の膨大なフィルムを削りに削って2時間に編集することにある。
 たくさんの撮れ高があっても、何か一つ足りない、こういうシーンがないとつながらない、主人公のキャラが立っていないと感じることもあるだろう。こんなつもりじゃなかった、とか。
 でも自分が監督、自分が主演だから、遠慮無く撮り直しできる。
 ここでもうちょっとがんばっておくと、かっこいいよねとか、せつないよねとか、想定しながら、新たに演じ直すことができる。
 だとしたら、仕事で大儲けしたとか、夢が叶って有名人になったとか、絶世の美女とつきあったとかの結果そのものより、そこに至るまで過程のシーンの方が魅力的だ。
 何大学に受かったかということ自体より、そこにいたるまでの過程がかっこいい。
 思うような結果が出ずに、苦しむ姿もいいかもしれない。
 仮に今うまくいってなくても、人前では強がりを言いながら一人静かに悲しみをこらえ、ひそかに心を燃やしてリベンジする様子を描けるなら、ほんとにかっこいい。
 自分編集力は誰にも認められている。他人に君の人生を編集する権利はない。
 この先、いい画(え)が撮れそうなイメージ湧きましたか。
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最後まで

2021年02月21日 | 学年だよりなど
3学年だより「最後まで」


 赤本の前書きは意外と読んでないような気がするので、目を通しておこう。
 今年の受験生が、入試制度変更のうえにコロナ禍が重なるという未曾有の状況におかれたことを述べて、こう激励する。


~ とはいえ、その状況は、受験生みな同じですので、ただ嘆いてばかりいても仕方がありません。どんな状況においても、自らの意志で黙々と努力を重ねることができるか、日々ひとつひとつ目標に向かって着実に成長していけるかどうかが大きく結果を分けます。結局のところ、受験生の毎日は自分との闘いと言えます。置かれた環境下で自分自身を冷静に見つめることができてこそ、今までの自分を超える道が拓けます。
 努力は必ず報われるとはかぎりません。しかし、努力なしに大きな結果が得られることもまたありません。偉大な細菌学者として知られる、野口英世は、「誰よりも三倍、四倍、五倍勉強する者、それが天才だ」と語ったと言われています。天才とは、努力をせずとも才能に恵まれている人だと思われがちですが、天才と言われる人ほど、陰日向なく膨大な試行錯誤を続けており、その中で無数の失敗を重ねるうちに、それまで誰もたどりつかなかったような境地に達することができるのです。毎日努力していても、なかなか報われないことがあるかと思いますが、それはまだ機が熟していないだけかもしれません。回り道も時には必要ですし、その時は無駄のように思えた努力も、後になって実を結ぶこともあります。
 勉強した内容のほとんどは、将来忘れてしまうものかもしれません。しかし、受験を経験することによって、自分の精神の根底に残っていく確信のようなものがきっとあるはずで、それはその後の人生を生きていく上で少なからぬ力になります。この大変な状況の中で、幾多の試練や難題を乗り越えて、栄冠を勝ち取られることを心より願っています。編者しるす (『2021年度版 大学入試シリーズ』教学社) ~


 努力とは、捨てることでもある。Aについて努力するとは、Aについて時間をかけることだから、必然的にBやCをする時間はなくなる。
 自分が何を選ぶかは、まかされている。
 その人が何を捨てて、何を残せばいいのかについて、科学的に判断できる材料は限られている。
 自分には向いてなさそうに思えたことでも、好きでのめりこんで取り組んでいるうちに、ひとかどの人間になれることも多々ある。
 絶対こうしたらいいというのは、誰にもわからない。やってみないとわからないからだ。
 だから選択にはリスクもある。
 本当はもっと成功するかもしれないAを捨てて、Bを選んでいるかもしれないからだ。
 しかしそれも証明することはできないから、自分が選んだ方で成功するまでやり続けることしか、選択の正しさを証明する手立てはない。
 今週の国立二次は、多くのものを捨ててきた若者達の戦いだ。
 たくさんのものを捨ててきた者のつどう場を大舞台という。
 人を成長させる夢舞台だ。
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仁禮彩香さん(2)

2021年02月19日 | 学年だよりなど
3学年だより「仁禮彩香さん(2)」


 株式会社「GLOPATH」が取り扱ったのは、教育モデルの提案だ。
 社会や仕事・お金について学ぶ授業プランを作り、各学校に持って行き買ってもらう。学校コンサルの紹介も行う。企業には社員研修モデルの提案に出かける。
 会社の仲間は、湘南インタースクール(SIS)で一緒に学んだ仲間達だった。
 中学生だから当然みんなアルバイト禁止で、報酬はストックオプション(社員が株式を一定金額で購入できる権利)で支払った。
 中高一貫の高等部へそのまま進学した仁禮さんは、母校SISが経営不振に陥っていると知り、買収を決心する。健全経営のための友好的な買収だったと語っている。
 中2で起業、高1で母校の買収……。よほど恵まれた環境に生まれたから、こんな人生を過ごせているのだろうと思う人もいるかもしれない。
 しかし、父親は一般の会社員で、母親は前号で書いたとおり元幼稚園の先生だ。
 中学生の娘が起業したいといったとき、「本気で起業したいなら、応援するよ」と言う父親であったことは恵まれていたと言えるだろう。
 何より、小学校が自分に合わない思った時、社会が勉強したいと思ったとき、すぐに大人に相談し行動する力が彼女にあったことが一番の原因だ。
 そしてこの日本は、ひとたび自分のやりたいことが見つかったなら、中学2年生でも社会に打って出ることが可能なのだ。
 やりたいことはあるけど元手が、人脈が、やり方が、年齢が、環境が……、などと言って踏み出せないのは本人の責任としか言いようがないだろう。


~ 現在の教育コンテンツには、ゴールが設計されていたり、最低基準が一律であったりするものが多いですよね。テストの点数がとれていれば評価され、それ以外は評価されないという極端な仕組みです。もちろん現行の評価軸を撤廃しろと言いたいのではありません。テストが得意な人がいるからそれはそれでいい。ただ、個々人の才能や個性をどう見つけ、どう伸ばすかを考えてつくられているものが非常に少ないことが問題です。
 「数学が嫌い」と言う子に「なぜ嫌いなの?」と問いかけてくれる人はいません。ただ先生が嫌いだからなのか、答えが一つしかないという数学の思考回路そのものが合わないからなのか、自分の人生にどう活かせるのかがわからなくて目的が見えてくるまではモチベーションが上がらないタイプだからなのか、それぞれ違う理由があるはずなのに、それを「数学嫌いなんだ。へえ」で終わりにしてしまったら、その子は自分を知ることができません。本来、学校は、一人ひとりに対し、サポーターとして「それはなぜなのか」「どうしたらいい?」「あなたはどう?」と一緒に考えるべき。それが教育の理想なのではないかと思います。(P・F・グジバチ『パラダイムシフト』かんき出版) ~


 「時間は有限である」――。これが、仁禮さんがもっとも大切にしている価値観だ。
 限られた時間をどう有効に使うかを常に意識しながら、日本の教育のあり方に、そして子ども達の未来に貢献できる仕事をしていきたいと語っている。
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推し、燃ゆ

2021年02月18日 | おすすめの本・CD

~ 推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわあず、それは一晩で急速に炎上した。寝苦しい日だった。虫の知らせというのか、自然に目が覚め、時間を確認しようと携帯をひらく。とSNSがやけに騒がしい。寝ぼけた目が〈真幸くんファン殴ったって〉という文字をとらえ、一瞬、現実味を失った。腿の裏に寝汗をかいていた。ネットニュースを確認したあとは、タオルケットのめくれ落ちたベッドの上で居竦まるよりほかなく、拡散され燃え広がるのを眺めながら推しの現状だけが気がかりだった。 ~


 「推しが燃えた」――。
 たった2文節で書かれた冒頭の一文。
 この6文字で、これほど多くの情報量を持つ文は、そうそうない。
 「メロスは激怒した」「山椒魚は悲しんだ」に勝るとも劣らない書き出し。
 もう、この一文で芥川賞は決まりだったろう。
 「サックスが壊れた」「講習参加者は一人だった」「体脂肪が増えた」……、だめだ芥川賞とれない。

 「推し」。最も応援するメンバー、一番好きな人、かけがえのない存在、……。「推し」と言いながら、決して他人に推したいわけではない(たぶん)。
 「推す」側の人達はなんていうんだろ。やはり「おっかけ」かな。
 「ファン」でも「サポーター」でも「谷町」でも言い換えられない。「信者」だと大分近いかな。
 「推し」に比べると「おっかけ」は相当昔からある言葉だが、質は変わっている。
 どう変わったのかは、作品を読むと胸をえぐられるくらいに伝わってくる。


~ 世間には、友達とか恋人とか知り合いとか家族とか関係性がたくさんあって、それらは互いに作用しながら日々微細に動いていく。常に平等で相互的な関係を目指している人たちは、そのバランスが崩れた一方的な関係性を不健康だと言う。脈ないのに想い続けても無駄だよとかどうしてあんな友達の面倒見てるのとか。見返りを求めているわげでもないのに、勝手にみじめだと言われるとうんざりする。わたしは推しの存在を愛でること自体が幸せなわけで、それはそれで成立するんだからとやかく言わないでほしい。お互いがお互いを思う関係性を推しと結びたいわけじゃない。たぶん今のあたしを見てもらおうとか受け入れてもらおうとかそういうふうに思ってないからなんだろう。推しが実際あたしを友好的に見てくれるかなんてわからないし、あたしだって、推しの近くにずっといて楽しいかと言われればまた別な気がする。もちろん、握手会で数秒言葉をかわすのなら爆発するほどテンション上がるけど。 ~


 日本全国のライブに出かけ、グッズもすべて購入し、同じCDを何十枚も買い、マスメディアやSNSはもれなくチェックする。
 自分が支えている気分になれるが、それをおしつけがましくアピールしたいなどとは思わない。
 むしろ支えさせてくれてありがとうという感覚。
 表面的、物理的には何の見返りもないこの関係性は、客観的にみれば変なのかもしれない。


~ 携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。 ~


 国語の授業でしょっちゅう教えている話題だが、近代的価値観は、前近代的な人のつながりを否定する。
 地縁、血縁、身分制、封建制、ムラ社会といったシステム内で成立している人間関係を、「しがらみ」「かせ」「桎梏」「ほだし」とよび、批判的にとらえる。
 自分がおかれているコンテクストよりも個が大事、自分そのものに価値があり、自分のために自分の人生を送ることに価値がある……と考えるのが近代的なものの考え方だ。
 西洋からこの考え方が入ってきて、日本人がとびついて、すばらしい、これこそ真実だと喜んだ。
 そして追い求めた。西洋にはキリスト経という絶対的なコンテクストがあることを忘れて。
 とくに純粋な若者達は、純粋であるがゆえに、学校で教わったとおりに生きようとして、思うようにならなくて悩み苦しむこととなる。
 前近代的なコンテクストを失って現代社会に浮遊し、自分の足下があまりに不安定なことに気づき、何かすがりつきたいものを探す。
 田舎の人間関係を逃れて都会に出てきた若者が、気がつくと大学や職場の人間関係にがんじがらめになっているのは珍しいことではない。
 ワーカホリックも、オタクも、自分を存在をかけて対象とのつながりを感じようとする点では同じかもしれない。
 もしかすると、そうすることでしか、人は生きていけないのかもしれない。


~ あたしは徐々に、自分の肉体をわざと追い詰め削ぎ取ることに躍起になっている自分、きつさを追い求めている自分を感じ始めた。体力やお金や時間、自分の持つものを切り捨てて何かに打ち込む。そのことが、自分自身を浄化するような気がすることがある。つらさと引き換えに何かに注ぎ込み続けるうち、そこに自分の存在価値があるという気がしてくる。ネタがそうあるわけでもないのにブログを毎日更新した。全体の閲覧は増えたけど、ひとつひとつの記事に対する閲覧は減る。SNSを見るのさえ億劫になってログアウトする。閲覧数なんかいらない、あたしは推しを、きちんと推せばいい。 ~


 自分の存在価値を見出すために自分以外のものにすがるしかないという逆説。
 まんま入試に使えそうなテーマだ。
 やばいくらいオタクな女の子の話なのに、現代を見事に照射する。いままでに読んだ芥川賞の作品をいくつか思い起こしてみても、ダントツの面白さだ。ぜひ書店へ。
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「ヌガー」(東大2019年)の授業(3)

2021年02月17日 | 国語のお勉強(評論)
5 記憶の中の次のシーンでは、僕は駅のホームに設けられた薄暗い駅員室のような場所にポツンと座っている。恐らく彼らがかわいそうに思って僕を連れて電車を降り、駅員を呼んでくれたのだろう。僕はその部屋で母の迎えを待つことになったのだ。すっかり暗くなってしまった風景の中、恩人のふたりが、再び電車に乗って去っていく姿を覚えている。窓ガラス越しに見えた中学生くらいの女の子は(もう大丈夫よ)というように少し微笑(ほほえ)んでいた。
6 母を待っている姿があんまり寂しそうだったからか、そばにいた駅員が僕の手のひらに菓子をひとつ握らせてくれた。ヌガーだった。キャラメルのような歯ごたえの、あの白いやつだ。駅員の顔は覚えていない。恥ずかしくてたぶん見られなかったのだろう。僕はお礼も言わずに、そのヌガーをほおばった。しばらく噛(か)んでいると甘さの奥にピーナッツの香(こう)ばしさが口いっぱいに広がった。美味しかった。ああ……今度このお菓子を母親に買ってもらおうと、その時思った。〈 イその瞬問、僕の中から不安は消えていた。 〉


 次の場面です。

 事 待合室で母を待つ
    ↓
 心 寂しい
    ↓
 事 ヌガーをもらう
    ↓
   甘さが口の中にひろがる
    ↓
 心 母に買ってもらおう
    ↓
   不安が消える

 小説の中の小道具・具体物には必ず意味があると勉強しましたね。
 ヌガーというお菓子をもらう。白く、やわらかいもの。
 口にふくむと、甘さと香ばしさが広がる。
 母親という存在を身体的に感じるときの状態が象徴的に表されています。
 ヌガーは母親なのです。
 ヌガーを口に含んだとき、母親の存在が実感できたということですね。

問二 「その瞬間、僕の中から不安は消えていた」(傍線部イ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

 理由説明、ここでは心情説明ですね。
 その瞬間 = ヌガーを含んで、母親を思い出した瞬間
   ↓
 不安が消えた

 母親がどんな存在かを説明できれば、「↓」部分がつながります。
 少し先の「抽象」のパーツを読むと、母親を説明した言葉が見つかります。純粋な小説より、随筆の方が解きやすいですね。

 母親
  ∥
 自分を無条件に受け入れ庇護してくれる存在
  ∥
 自分を包み込んでくれる世界そのもの

(二の解答例)
駅員がくれたヌガーの甘さに母親を思い出し、自分を無条件に庇護してくれる存在との確かなつながりが回復できたように感じられたから。
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ホリミヤ

2021年02月17日 | 演奏会・映画など
 主人公の宮村くんは、教室で孤立するタイプの男子高校生。顔を隠そうとするような長髪、一年中学ランを着て夏も脱ごうとしない。基本的に一人で過ごし、自分から誰かに声をかけようとはしない。
 同じクラスの掘京子さんは、眉目秀麗で勉強もできて気立てもいい、キラッキラな女子高生だ。
 全く接点のなかった二人だが、宮村くんが堀さんの弟を助けたことをきっかけに仲良くなる。
 弟くんにせがまれて、堀さんの家に遊びにいく。
 彼女の家は、基本的に両親が不在で、弟の面倒をはじめ家事の一切を担当してるのが堀さんだった。
 二人が学校でも時折会話するようになったある日、宮村の唯一の友人から、「おまえ、堀さんとつきあってるのか?」と尋ねられる。
 宮村は「そんなわけないだろ、第一おれとじゃつりあわないじゃないか」と答える。
 それを耳にした堀さんは、宮村に詰め寄る。
「ねぇ、ほんとにそんなふうに言ったの?」「おかしいよ」
「自分のことつりあわないとか、二度とそんなふうに言うんじゃないわよ!」

 堀さん役の久保田紗友さんは、はじめて見たけど(実際にはテレビドラマとか目にはしてるのだろうけど)、愛くるしさと大人っぽさとほどよく同居した、いい女優さんだ。これからどんどん目にする機会が増えそうな気がする。「言うんじゃないわよ!」みたいな昔の少女漫画風の台詞回しに違和感がない。

 「おれとは釣り合わない」――。彼女は自分よりもヒエラルキーのはるか上だから、というようなニュアンスだろう。自分を謙虚にいってみた感じもあるが、たしかにこれは相手に不誠実だと気づく。
 普通に友人として付き合っているつもりの相手が、そんな感覚でいたと知ったら、さびしくなるだろう。
 気持ちはわかるけどね。我が身に置き換えても、今までたくさんのすごい人と出会い、仲良くしてもらいながら、やっぱ俺って「下」の存在かなと思ったこともある。
 人は誰しもコンプレックスをもっている(たぶん)。性格が暗いとか、いつまでもくよくと思い悩んでしまうとか、体型がきらいとか、チームプレーが苦手とか、音程がとれないとか、初めての人と上手く話せないとか……。
 そもそも持って生まれたものはどうしようもないのだから、それ自体は受け入れ、努力でなんとかなる部分は努力してみる、その結果も受け入れる。努力して思うような結果にならなくてもやってみた自分のことは認めてあげる……、そんなスタンスで生きていくしかないのだろう。
 もちろん、そういう理屈は、みんなわかってはいるはずなのだけれど。
 わかってはいるけど、思うように生きられないことはつらいし、せつない。
 そんなとき、たった一人でいいので、受け入れてくれる存在がいると、息苦しさはずいぶん減る。
 「傷をなめ合う」存在でいいと思う。理屈ではなく、なんとなく話し始めて、いいとき悪いとき関係なく、なんでもない話ができる人が一人でもいると、この世は生きやすい。

 「あいつ暗いし面倒くさそうだから、話しかけれねぇよ」と扱われている宮村くんを、堀さんは学級委員だから意図的に仲良くしなくちゃと思って接してきたわけではない。
 弟と遊ぶ様子や、なぜか学校外ではピアスをじゃらじゃらつけて歩く、学校では見せない姿に不思議と惹かれていく。
 宮村くん、「蜜蜂と遠雷」のあの天才こどもピアニストが、いつのまにこんなお兄さんになったのだろう。
 キラキラJKではなく、すっぴんでエプロンをして夕飯の支度をする堀さんに、宮村君も心惹かれていく。
 人と人との関係は、つりあいとか上下とか関係なく、まして学歴や仕事や地位や能力やらにとらわれる必要はない。
 堀さんはけっして、宮村くんを相手して「くれてる」わけではないのだ。
 宮村の理解者がもう一人いた。何くんだったっけ?
 たぶん、原作のコミックではそれなりの存在感で描かれているのだろう。
 彼も、話しているうちに、宮村を叱る。
「おまえ、釣り合わないからとか言い方してるけど、それって逃げてるだけじゃねえか!」。
 いいなあ、こんなふうに言ってくれる友達がいて。
 こう言われ、宮村君も自分の気持ちに素直に向かい合おうとする。
 後半はほぼほぼ正統派少女マンガの展開だ。だからかな、二人を応援したい気持ち、あたたかく見守りたい気持ちがわき、もうこんなにせつないほど相手が気になる状況に自分がおかれることはないかな、いやそんなこともないかもと感じるような、心をのぞかれたならキモいと思われかねないほど、ときめかされた作品だった。ぜひ劇場へ!
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「ヌガー」(東大2019年)の授業(2)

2021年02月16日 | 国語のお勉強(評論)
1 迷い子になった。
2 僕が六歳か七歳の時だったと思う。母とふたりで買いものに出掛けた帰り途(みち)。乗り慣れた東武東上線の電車の中での出来事だった。車窓の風景を見るのが何より好きだった僕は、座っている母から少し離れたドアの前に立ち、夕暮れの街並みを目で追っていた。風景が止まり、又動き出す、その繰り返しに夢中になっていた僕は視界から遠ざかっていく「下赤塚」という駅名に気付いて凍りついた。それは僕たちが降りるはずの駅だった。あわてて車内を振り返ったが、母の姿は既にそこには無かった。あとになってわかったことだが、乗降客の波に一瞬僕を見失った母は、下赤塚で降りた別の少年を僕と見間違い、改札の外まで追い掛けてしまったらしい。
3 次の駅で降りれば、そこから家までは小学校の通学路だ。ひとりでもなんとか家に辿(たど)り着けるだろう。母はそう考えて、そのまま家へ戻り、夕飯を作りながら僕の帰りを待つことにしたようだ。しかし、車内に残された僕がそのことに気付いたのは、既に電車が次の駅を通過した後だった。その二度目の失敗に余程動揺したのだろう、僕は会社帰りのサラリーマンでほぼ座席の埋まった車内をウロウロと歩き始めた。
4 (どうしようどうしよう)じっとしていることに耐えられず、僕は途方に暮れてただ右往左往を繰り返した。その時の、僕の背負い込んだ不幸には何の関心も示さない乗客たちの姿が強く印象に残っている。それはぞっとするくらい冷たい風景だった。〈 アその風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた。 〉そのまま放って置いたら、終点の池袋まで連れて行かれてしまったと思うのだが、途中でひと組の母娘(おやこ)が僕に声を掛けてくれたらしい。らしい、というのはその瞬間は僕の記憶からはスッポリと抜け落ちてしまっているからだ。


 是枝監督の映画の一場面を思い浮かべるようなオープニングですね。「僕」は「奇跡」に出ていた時の前田前田の弟くん、「母」は「海よりもまだ深く」の真木よう子さんのイメージで読んでみましょうか。
 体験が描かれるパーツは、小説と同じように読んでいきます。
 事件が起きる、主人公が心を動かされ、なんらかの行動をする。
「ふられて、悲しくて、泣いた。」「勝って、うれしくて、叫んだ。」という基本構造をまず把握しましょう。
 事件や出来事は描写されますが、そこでどんな心情を抱いたのか、どんな感情がこみ上げてきたのか、直接書かれないことも多いです。
 全部書くと説明文になってしまうからです。
 描写される行動やセリフをもとに、どんな心情なのか説明しなさいと問うのが、小説の問題です。
 随筆、エッセイでは、その心情自体をさらに説明することが求められます。
 「それはどういうことか」という設問になります。


~ 迷い子(読み方は「まいご」でいいと思います)になった。 ~


 端的に状況が述べられ、つづいて具体的な説明です。


~ 風景が止まり、又動き出す、その繰り返しに夢中になっていた僕は視界から遠ざかっていく「下赤塚」という駅名に気付いて凍りついた。それは僕たちが降りるはずの駅だった。 ~


 東武東上線の各駅停車池袋行きですね。是枝監督は東武練馬と下赤塚の間ぐらいに実家があったと話してました。
Q「凍りついた」のはなぜか? という問いも作れますね。

A 自分が降りるはずの駅で降りていないことに気づき、驚きととまどいで身動きできなかったから。

 次の駅で降りればいいのかと我に返ったときには、もうドアが閉まっている。


~ その二度目の失敗に余程動揺したのだろう、僕は会社帰りのサラリーマンでほぼ座席の埋まった車内をウロウロと歩き始めた。
  (どうしようどうしよう)じっとしていることに耐えられず、僕は途方に暮れてただ右往左往を繰り返した。その時の、僕の背負い込んだ不幸には何の関心も示さない乗客たちの姿が強く印象に残っている。それはぞっとするくらい冷たい風景だった。〈 アその風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた。 〉 ~


 事件 二度の失敗
     ↓
 心情 動揺
     ↓
 行動 車内をウロウロする
     ↓
 事件 何の関心も示さない乗客に気づく
     ↓
 心情 不安が高まる


一 「その風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

 小説だったら、この段階で答えを創ってしまえばいいですが、随筆の場合は、説明してくれる部分が見つかります。
 「具体」が「抽象」に変わる部分まで読み進めてから、答えをつくった方がいいでしょう。
 7段落まで読み進めると、こうあります。


~ 迷い子になったときにその子供を襲う不安は、両親を見失ったというような単純なものでは恐らくない。それは、僕のことなど誰も知ることのない「世界」と、そしてその無関心と、否応なく直面させられるという大きな戸惑いである。その疎外感の体験が少年を恐怖の底につき落とすのだろう。 ~


 ここは使えますね。つまり、具体が抽象化された部分です。
 「迷い子」の体験とは、たんに親からはぐれた不安だけではない、その結果他者と対峙せざるを得なくなった感覚が、迷子の子どもをより不安にさせる、というのです。
 傍線部ア「その風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた」と対応しますね。
 「無関心」「疎外感」のような抽象的な言葉は、評論文でももちろん大事ですが、柔らかめの文章を読み解くときにはなお大事です。
 こういう言葉が本文にないときは、自分でい思いついて使えないといけません。
 「なんとか感」という言葉はとくに大事です。ふだんから意識的に使って、語彙力をつけましょう。
 「疎外感」「安心感」「厭世観」「既視感」「距離感」「孤独感」「罪悪感」「閉塞感」「親近感」「喪失感」「不信感」「劣等感」……。
 心情を記述する問題でよくわからないときは、とりあえず「漠然とした閉塞感」とか書いておくと、部分点もらえます。


(一の解答例)
迷子の自分に全く無関心な乗客に囲まれている疎外感は、母とはぐれた不安感をますます大きなものにしたということ。
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仁禮彩香さん

2021年02月15日 | 学年だよりなど
3学年だより「仁禮彩香さん」


 子ども達に「自らの人生を切り拓く力」を育むための教育プログラムを提供する――。
 株式会社「TIMELEAP」の代表取締役である仁(に)禮(れい)彩(あや)香(か)さんは、現在23歳、慶應大学総合政策学部に籍を置いている。 
 仁禮さんが教育のあり方に疑問を持ったのは小学校1年生のときだった。
 元幼稚園の先生の母親が、娘の感性を育ててもらえる幼稚園に通わせたいとあちこち探した結果、自宅から車で1時間かかるインターナショナルスクール幼稚園に入園させることになった。
 授業はすべて英語で行われる。先生はつねに子ども達に質問し、一緒に考えようとする。
 自分の感情がコントロールできないときは、「Thinking Chair」に座って心を落ち着かせる。
 そうして自分で「考える」ことが日常の幼稚園時代を過ごした仁禮さんは、普通の公立の小学校に入ると、ギャップに驚くことになる。


~ 地元の小学校に上がると、「教科書に書いてあるものが答えです」「先生が言っていることが答えだよ」と、答えを与えられるようになって、そのギャップに違和感を覚えたのです。それが「教育って何?」「学校って何だろう」と考えるようになったきっかけでした。 ~


 ここに通い続けるのは難しいと感じた仁禮さんは、幼稚園の先生に「小学校も作ってほしい」と頼みにいく。園長先生は、1年でそれを実現してくれた。
 1期生6人の新しい小学校がスタートする。そこで再び、「学ぶとはどういうことか」「成長するとはどうなることか」をみんなで考えながら、小学校生活を過ごしていく。学校のテキストは子ども達自身が選ぶ。体育の授業はすべてサッカーの時間で、先生は元Jリーガーだった。
 自分が感じた違和感や物足りなさの正体は何かを知りたいと思い、普通の中学校に進学した。
 そこで気づいたのは、先生方にも生徒達にも余裕がなく、社会との関わりがあまりに少ないことだった。私は、みんなの「Thinking Chair」になりたい、そのためにどうすればいいか。
 まずは社会そのものを学びたい、そして教育のあり方という課題に取り組みたい、それには起業してみるのが一番ではないか。
 小学校時代に通っていた合気道の先生に相談に行く。自分の会社を作ると言っていたことを思い出したからだ。起業プランを教えてもらい、出資もしてもらえることになる。
 仁禮さんが、株式会社「GLOPATH(グローバス)」を設立したのは中学校2年生の時だった。


~ 以降ずっと、社会に足りていない教育は何か、どういう学びの形をとれば小中高生くらいの子たちにいちばんいい形で作用するのかといったことを常に考え、勉強し、実験しながら、教育の仕組みに関心を持ち続け、主体的に関わっています。教育は若い時期に長く関わるものなので、良くも悪くも、限られた人生の時間をどう使うかに対して大きく作用してしまいますよね。どうせ影響を与えるなら、より良い影響を与える教育の仕組みをつくれたらいいなと思って、取り組み続けています。(P・F・グジバチ『パラダイムシフト』かんき出版) ~
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すばらしき世界

2021年02月11日 | 演奏会・映画など
 西川美和監督のエッセイ集『スクリーンが待っている』を読むと、映画一本撮るのにどれだけ多くのだんどりや下調べや俳優さんとのやりとりやスタッフさんの苦労や様々なしがらみが積み重ねられているかを垣間見ることができる。
 「構想何年、制作何年のすえついに公開……」というかんじの惹句を目にすることがある。役所広司主演で映画を撮りたいと思いが芽生えた日から数えるなら、この作品は西川監督にとって構想二十数年ということになるのだろうか。そういう方面に漠然と進みたいと思っていた高校2年生が、テレビドラマで連続殺人犯を演じた役所広司を観た日から数えるなら。
 その後映画監督となり「ゆれる」「ディアドクター」「永い言い訳」と、邦画史に残る名作を生み出した西川監督をして、役者としてエベレストと評さしめる役所広司という名優は、なるほどそうとしか言いようがなかった。
 やんちゃをして少年院に入った後、ヤクザの世界に身を置き、殺人で13年の懲役を終えた男。
 ひとたび道を踏み外した人間が、刑期を終えていざ堅気となってやり直そうとしても、世間の風は冷たい。
 役所演じる主人公の三上は、人としては魅力のある人物だろうと思う。いい言い方をすると正義感がが強い。
 気に入らないことをだまっていられない。好きな女は命がけで守ろうとする。それで人を殺めてしまったのだ。
 シャバに出たあと、問題を起こさずに生きないといけないのは分かっていながら、町でからまれている中年を見れば、助けに入ってチンピラをボコってしまう。こういう感じのワルはモテるんだよなぁ、くやしいけど。
 女性目線だと、恋人としては魅力的だけど、結婚相手としてはちょっと……といった感覚なのだろうか。知らんけど。職場の同僚としてみると、ときどき面倒になりそうかな。でも、その人間的純粋さゆえか(けっこう、すぐ泣くし)支えてくれる人たちもいる。
 「我慢しないといけない、見て見ぬふりをすることも世の中では大事」と橋爪功や六角精児に諭されて、「みなさんの顔に泥を塗りません」と誓い、介護施設で働きはじめる。
 施設では、もとの三上なら完全にぶちきキレているような出来事がある。あばれてしまうイメージも挿入される。 しかし思いとどまって周囲にあわせる三上の様子を見ているうちに、こみ上げてくるものがあった。
 我慢が本当に正しいのか、そうやって周りにあわせることが善なのかという思いがわいてきたからかな。
 すると、道を踏み外した人間の社会復帰がいかに難しいかを描いた作品ではないことに気づく。
 罪を犯した三上は普通ではない人物だが、彼が感じる生きづらさは特殊ではない。
 生きづらさに蓋をして、わかったような顔を生きている我々一般人の方が、ほんとはどうかしてるのか?
 とくに、この頃、この頃にかぎらないか、「この人は叩いていいですよ」と認定された人を、よってたかって袋だたきにする風潮が強まってるからなおさらそう思ったのだろうか。
 前作「永い言い訳」から5年? 西川監督が次の作品にとりかかっていると雑誌で読んでから3年、待ちに待った新作は期待以上で、「非の打ち所のない」とは、こういう作品のためにある言葉だと感じた。劇場へぜひ!
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