水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

ディテイル

2012年08月31日 | おすすめの本・CD

 『ソロモンの偽証』は、東京に記録的な大雪の降った朝、屋上から飛び降りたとみられる中学生の遺体が発見されるところから始まる。パトカーが駐まり、ただならぬ雰囲気を感じ取る、登校してきたばかりの生徒たち。事情を説明するための校内放送が始まる。


 ~ 「皆さん、おはようございます。校長の津崎です」
 そう言ってから、ちょっと間があいた。いつもならポンポンしゃべるのに。三中のおんぼろ放送施設は、それでなくても音響が悪い。… 音響の「受け皿」である校舎も老朽化しているので、傷みの激しい壁や廊下で音が変なふうに反響したり吸い込まれたりしてしまい、スピーカーのすぐそばに立っていても、何が話されているのかわからないことだってある。
 だから津崎校長の声がひび割れていて、
「みださん、おばようございます」
 というふうに聞こえたとしても、それは格別珍しいことではなかった。珍しいのは、生徒たちがそれを聞いても、誰ひとり、クスリとも笑わないということの方だ。(宮部みゆき『ソロモンの偽証 第1巻』新潮社) ~


 なんでもない描写かもしれないが、事件の舞台となる中学校、そこに通う中学生たち、そして事件にはじめて触れようとする瞬間の様子を一瞬にしてイメージさせる。
 第一巻だけで700頁。なくなった柏木くんのクラスメート、その家族、教員、警察関係者、マスコミ …。
 ほんとにたくさんの登場人物が出てくるのだが、誰が誰かをメモしなくてもわかるのだ。
 外国の作品だと、主要人物が3人ぐらいしかいなくても、誰が誰かわからなくなることがあるし、ロシアの小説だと、主人公の名前も覚えられない。
 一人一人の人物が、「これこれこういう人でした」と説明されているわけではない。
 ただ、どんな人物かが一瞬でイメージできるような、さりげなくも効果的な台詞や行為が描かれる。
 まさに小説は説明ではなく描写するものだと納得できるのだ。
 そうか、人生って具体の積み重ねでしかないよなと改めて思わせられるような感覚になる。
 それぞれの人物の視点にも、うまく入り込んでいく。
 読者は、気がつくとその人物の視点になっているので、悪意に満ちた人物の悪意に満ちた行為を読みながら、それは悪意に満ちたその人物の特殊とは思えなくなる。
 これ、おれも同じようにしてしまうかもしれない、みたいに。
 とにかく、集積されている「具体」がすごい。クオリティってこうやって生まれるんだなと思う。


 ~ クオリティとはディテイルの集積のこと。
 サムライ(注:佐藤可士和氏の事務所)の成功要因のひとつに「クオリティに対する妥協のない追求」があります。では何をして「クオリティ」というのか。それは「ディテイルに対する妥協のない追求」に、ほかなりません。ゆるいディテイルの上に、高いクオリティを実現する、という例は決してないのです。大きな仕事をしたいのならば、目の前にある小さな仕事を完璧にできるようになることです。(佐藤悦子・清野由美『「オトコらしくない」から、うまくいく』日本経済新聞社出版) ~

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8月30日

2012年08月30日 | 学年だよりなど

 午前中は仕事がなかったのでタリーズに行って宮部みゆきをしばらく読む。なんとすばらしい夏休みだろう。小一時間と思ったが、どうにもやめられず、けっこういた。けっこういたけど、最後あと少しのところで、漠然とした恐怖感におそわれ、読むのをやめた。『ソロモンの偽証』。全部で3巻出るという。1巻の半分ほど読んで、年末のミステリーランキングは全部ぶっちりぎで一位になる作品だとわかった。「今年の~」レベルではない。「ここ10年の」にして、しかも「ミステリーの」というカテゴリーをはずしても、そう言えるかもしれない。『吉里吉里人』『レディージョーカー』『1Q84』などと並び、エンタメ系とか純文学系とか関係なく大きな現代小説だ。この先どんな世界がくりひろげられるのか、こわいくらいだ。
 あらくなった息を落ち着かせて学校にもどり、今日はアンサンブル中心の練習。
 あと明後日出る「進路だより」の原稿も書けてよかった。


「進路だより」原稿

 文系、理系のどちらを選ぶか、志望校をどこに設定して勉強していくのか、大学で何を学びたいのか、将来どんな人生を送りたいと思いながら生きていくのか。
 自分の人生全体につながるこのような問題を、2学期は身近なものとして考えることになる。
 いまの皆さんに大事なのは、とにかく高い目標を設定してみることだろう。
「自分は何をやりたいのか。」「自分は何をやるべきだと思っているのか。」「自分はどんな人になりたいのか。」これらの三つの文の実質的意味は同じだ。自分とは「志」のことである。
 明治時代の文豪幸田露伴はこう述べる。

 ~ いわゆる志を立てるということは、あるものに向かって心の方向を確定することで、いいかえれば、心に何を持つかということだ。だからこそ、心にもつものが最高最善のものでなければならないのは自然の道理である。それゆえに、志を立てるときは、その志が堅固であることを願う前に、まず志が高いものであることを願うべきである。そして志が立ったあとで、それを堅固なものにしたいと考えるべきだ。(渡辺昇一編『幸田露伴「努力論」を読む-人生報われる生き方』三笠書房) ~

 まず目標を「持つ」こと。そして、そしてその目標はできるだけ「高く持つ」ことが大切だと言う。
 なぜ高望みすべきなの。
 目標を持つときに、人は現在の自分を基準に考える。しかし、人は成長する。
 レベルが1ステージあがると、それまで見えなかったものが見えてくる。
 今の自分にとってはとんでもない高望みだった目標が、一年後の自分には手の届く範囲になっていることはよくあるものだ。

 ~ 七、八歳のころ持ち上げられなかった石でも、大人になれば簡単に持ち上げられる。七、八歳の自分が、大人になった自分に及ばないのは当然のことだ。学問修業中の青年時代の自分が、やや学問の積み重ねができた壮年の自分に比べて劣っているのは明白なことである。ならば、現在の自分を基準にして将来の自分を決めつけてしまうような考えを抱くのは、なんとも愚かしいことである。それよりも、今はただ当面の学問に真剣に取り組むのみだ。何を苦しんで自らを小さくし卑しめ、限定し狭める必要がどこにあろうか。(前掲書) ~

 先日卒業していって先輩たちの、一年生のときの成績をふりかえってみて驚くのは、2年間での伸びしろの大きさだ。
 小学校、中学校と勉強に勉強を重ね、努力の限りをつくして、持てる能力のすべてをふりしぼってこの川東に入学できたという人は、少ないのではないか。
 むしろ、それほどちゃんと勉強はしていない、勉強のやり方を知らないままなんとなくここにいるという人の方が多いのではないか。
 みなさんの日頃の勉強ぶりを見ていると、そう感じてしまう。だとすると、ほとんどの人は、とんでもない伸びしろを持っていることになる。それを無駄にしてはいけないと思う。

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読書感想文

2012年08月29日 | 国語のお勉強

 アパートの下の部屋のお母さんが、「もお、原稿用紙買ってきたわよ。いつまで経っても感想文書かないの」と愚痴ってた。夏休みも終わりをむかえ、宿題の追い込みに苦しんでいる方も多い時期だろう。
 では、読書感想文をてっとりばやくでっちあげるちょっとしたコツを。

1 あらすじを書くより「引用」しよう。
 どんなお話かをまとめ、それについて感想を述べるという定型はやめる。あらすじをまとめるのは難しい。
 印象的な場面を見つけたら、その場面を書き写してしまおう。物語ではなく評論文だったら、大事そうな部分をそのまま書き写そう。あっというまに行数もかせげる。ただし、一気に30行とか引用すると印象よくないかもしれないので、一回の引用は長くても半分から一枚弱(10行から15行)におさめ、それを複数用いる。引用部分の前後はもちろん一行ずつ空白行にする(ほんとは4、5行の引用が効果的)。
 引用したら、くわしく感想を書かない方がわかっているように見える。
 「主人公○○の心のいたみが自分のことのように伝わってくる」とか「筆者の怒りは、日本人みんなが共有するべきではないだろうか」的に、ざっくりまとめるといい。

2 感想を述べるより「体験」を書こう。
 感想をたくさん書こうとすると大変だ。感想、つまり人間の感想なんてそんな何行分にもならないから。
 本の内容と多少なりとも結びつきがありそうな、自分の経験を書いてみる。
 いや、本の内容とは全く関係ないことの方がかえっていいかもしれない。「今まで」でもいいし、「この夏」でもいいけど、すごい記憶に残ることがあったら、それを言葉にしてみる。原稿用紙5枚が宿題なら、2枚分ぐらいつかってもいい。その体験にインパクトがあればあるほど、評価はあがる。ポイントはできるだけ具体的に書くこと。書いてるうちに、本の内容との結びつく何かが見つかる。


 
3 きれいにまとめるより、「変化」を意識しよう。
 本を読むときに、「この主人公は、どんな出来事によってどういう変化をしたか」「筆者は、どういう事情でこのように考えるようになったか」を意識すると、内容ががつかみやすい。そこは、引用もしくは、自分のことばで書いておけるといいなあ。
 また自分の体験を書く部分でも、その体験でどう考えるようになったかとか、何かに気づいたとかを付け加えるといい。
 それから、自分はこの本を読むことでどういう変化があったかについて触れておこう。
 ただし人の中身なんてそう簡単に変わるものではないから、本一冊読んだからといって、道徳的にすごく成長しなくたっていい。無理に道徳的にきれにまとめることはない。だってうそくさいから。
 ただ、「今まで何も考えてなかったけど読書感想文のおかげでいろいろ考えることができてよかった」的なことばは、けっこう国語の先生的にはツボです。

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サラリーマン

2012年08月28日 | 日々のあれこれ

 「サラリーマンは奴隷だ、本当に優秀な人間なら独立して稼ぐはずで、サラリーマンなどやらないのではないか」という質問に、ホリエモンがこう答える。

 「お金だけで考えればね。独立して経理や税務の面倒くさい業務をするよりも、年収は少し下がっても会社に所属することで好きなことだけできる状態ならそっちを取る人もいる。それは企業がうまく人を使えている証拠だと思うよ」

 ホリエモンこと堀江貴文氏(服役中)は実は好きで、購読しているメルマガの、その中でもとくに好きなQAコーナーでの一節。
 堀江氏なら「すぐに会社やめて好きなことをやれば」と答えるのか思ったらそうではなく、なんとバランス感覚のあるお答えかと感心した。
 「すぐやれば」式に即答することもよくある。
 「起業したいのでそのためにお金をためている、いい方法はありませんか」というタイプの若い人からの質問が多いのだ。
 そういう時には、「お金ためてる暇があったら、起業してしまえ、お金なんてなくたって会社はつくれる、すぐに好きなことを始めよ」とアドバイスしている。
 ぎゃくに「留学したいのでその資金をためるために起業して順調にお金はたまっている、もっとためたい」という若者には、「典型的な留学ばかだな。留学自体が目的化してどうする」と答える。


 一私立高校教員としてサラリーをいただいている我が身をふりかってみると、日々の業務のなかには面倒なこともたくさんあるが、やりがいがあり、努力に見合う結果も得られることは多いし、数字や形にならない小さな喜びはたくさんある。奇跡とよびたくなる出来事に出会うこともある。もちろん心底ムカつくことや唖然とすることも多々あるけど、トータルではほんとに好きなことをやらせてもらっているなと思う。
 面倒と感じる書類業務は、おそらく公立学校の先生方よりはるかに少ない。だいたい毎週職員会議があるなんて話を耳にすると、ほんと私立に入れてもらえてよかったと思う。
 お給料のうち、どれだけが税金になり、社会保険につかわれているかなど全く知らない。
 ホリエモン氏が言うように、サラリーマンが独立すると、それまで会社にやってもらっていた事務仕事をすべてやらないといけなくなる。そのためのスタッフを雇えないなら、せっかく独立したところで自分の能力を使う時間が削られる一方だ。
 そういうスタッフを雇って十分にやっていけるだけの利益が計算できないなら独立しない方がいいということだ。
 だとしたら、独立して好きなことをやるという発想は志としてはすばらしいが、会社のなかで好きなことをやろうとする方が、一般人にとってはより効率のいい生き方だ。
 サラリーマンは奴隷だとか、社畜だとか卑下するのではなく、会社でどう過ごしているかが問題なのだろう。その人自身がどう生きているかであり、サラリーマン一般として語れることではない。
 もっと言うと、独立してしまったがために、意に沿わぬ仕事をそれまで以上にしなければならなくなる場合もある。
 給料をもらう仕事をやめて、たとえばお芝居の世界に身を投じるというような人生を選んだとする。好きなことをするために、好きでないことをしてお金を稼がないといけないのは間違いない。
 けっきょくはバランスの問題かな。もしくは、ものごとを幅広く好きの状態でいられるか。
 コピー取り、お茶くみにも、創造性はもとめられると中谷彰宏氏がよく言う。
 最近なんとなくそれもわかる気がする。
 ブラックでさえなければ、とにかく入れてくれるところに入って、与えられたことを好きになってみるのが一番だ。
 大学新卒生のニートが三万人いるってニュースを、昨日かな、読んだ。
 社会がどうの、経済がどうのという前に、「自分の好きなことを見つけよう」というわれわれの進路指導にも根本的問題があると思うのだ。

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生徒指導10の原理・100の原則

2012年08月27日 | おすすめの本・CD

 書店に行くとたとえば『ニーチェの言葉』なんて本が平積みになっていて、けっこう売れている雰囲気をかもしだしていたりする。
 誰が買うんだろ。おそらく平均的日本人よりは本を買って読む方だし、仕事的にも西洋思想の難しい風な内容を語らねばならない時もある。
 そんな自分でも、ニーチェの言葉を勉強してみようかとはなかなか思わないのに、こういう本が売れるとしたら、専門家ではないけど哲学的な本でもちょっと読んでみようかという人々が一定数いるわけで、でもこういう本がそこそこ売れる国ってそんなにはないだろうなと思う。
 内田樹先生の『街場の文体論』を読むと、上記の予想はあたっているようで、そもそも難解な思想を一般庶民のためにわかりやすく解説してくれる本そのものが、存在しない国の方がふつうであるようだ。
 「難解な思想」は、それを読んで理解できる人のみを対象にして書かれ、対象になった人のみが読むものらしい。


 ~ 日本では「学問の質」とは別に、その学的知見が「どれくらい広い範囲に共有されるか」ということが問題にされます。せっかく世界の成り立ちや人間のありようについて価値ある知見が得られたのなら、できるだけ多くの人々に共有されるべきだという考え方を僕たちがするからです。でも、これは世界的標準的には「常識」ではありません。
 僕はこの仕事を「ブリッジする」というふうに呼んでいます。(内田樹『街場の文体論』ミシマ社) ~


 堀裕嗣先生の『生徒指導10の原理・100の原則』を読みながら、「ブリッジ」のはたらきもずいぶん大きいお仕事だと感じた。

 「生徒指導を機能させる10の原理」という章の最初に「スクール・カーストの原理」がおかれている。
 教室内には、生徒同士の序列や位置づけが存在する。その序列をつくるものさしは一つではなく、いろんな要因に基づいて、意識的につくられたものもあれば、無意識的に、しかしほとんどの生徒が共有している感覚的なものもある。
 この教室内における「階級闘争」的現実を生徒たちは生きていると言える。
 「スクール・カースト」という概念を定義し整理したのは、堀先生も紹介している、森口朗『いじめの構造』という本だ。
 この本は、コミュニケーション能力のありようで規定される生徒のキャラクター類型を整理し、マトリクス化することで、「いじめ」が生まれる土台を明らかにする労作だった。
 「スクールカースト」への配慮をまったくしないまま、「いじめは絶対にいけません」と情緒的に訴える指導が、ときに問題解決にマイナスにはたらくことさえあることを指摘していた(ような記憶があるのだが)。
 いまの生徒たちの人間関係は、大人が外側からみているのよりずっと複雑で繊細だ。
 それなりに経験を積み、修羅場をくぐってきた先生なら、この原理そのものは言語化されてなくても、皮膚感覚でそれをつかみながら指導することはできる。
 できるけど、昔の感覚のままでは通用しない部分も大きくなっていることを、経験のある教員も意識しないといけない。
 当然若い先生方は、本を読んでこういうことを知っておくべきだ。
 たとえば教育学部に学ぶ学生さんが「いじめ」についてきちんと学んでおこうと考えるなら、上記の本の他に、向山洋一先生『いじめの構造を破壊する』、内藤朝男先生『いじめの構造』はまず読むべきだろう。
 今野敏『慎治』という小説を読み、今かかっている映画「桐島、部活やめるってよ」を観た方がいいだろう。
 現場に出た若い先生で、忙しくてそんな時間はない、でもクラスの人間関係が少し不安になってきたという状態であったら、さしあたり堀さんのこの本を読めばいい。
 そして、現実にトラブルに直面したなら、「生徒指導を機能させる100に原則」にしたがって、「すぐ」「管理職に話し」「記録しながら」「複数の教員で」対応していけば、大事にはいたらない。
 一歩原則をはずしてしまうと、それが少しずつ積み重なって、大津市のような取り返しのつかない事態まで招いてしまう。
 10の「原理」を整理するにあたって、堀先生の中にインプットされた経験や知見はどれほどの量があるだろう。どれくらいの本を読んでる人なのか、少し知っている。
 堀先生にお会いしたのはいつだったかと思い、古いファイルを開いてたら、今では少し恥ずかしい文章があったけど、載せちゃいますね。


~ 研究集団「ことのは」との出会い
 平成10年4月。雑誌「鍛える国語教室」の巻末で鍛国研を知り、「礎石」のバックナンバーと「碑」購読を申し込んだ。送られてきた「礎石」から、研究集団「ことのは」の存在を知る。「ことのは」の中心と思われる堀氏・森氏の文章力、その文章からかいま見る授業実践の質の高さ、そして二人の読書量に圧倒された。
 研究会の冊子「ことのは」のバックナンバーも送っていただいた。「礎石」の他に、質量劣らないもう一つの冊子を毎月発行していることに驚いた。土曜午後から日曜早朝までの十数時間の研究会を毎月行っているという。そのいきおいで冊子の印刷・製本をする。そしてそんな会に参加する同世代の仲間が十数人もいる。羨ましかった。それまで、サークル活動と言えば「法則化」のそれしか知らなかった自分にとって衝撃であった。自分もサークル活動に関わりたいと思いつつも、小学校の先生が中心となるサークルに参加することはためらわれた。中学校の先生が多い「ことのは」に惹かれた。
 冊子で語られている内容も、一般の本や研究会にはない魅力があった。ひそかに彼らを同士でありライバルであると思うことにした。この人たちにだったら、自分の考えていることを話してもいいのではないか、相手にしてもらえるのではないかと漠然と思った。片思いに似た感情であった。 ~


 そうか、昔はライバルと思っていたのか、おれ。
 「ライバル」に会いに行ったのは、翌平成11年の夏だ。はじめて自分のお金で札幌に行き、勉強会に参加させてもらった。
 その頃、堀先生のサークルは国語の研究会だったが、だんだんと学校教育全体についても発信するようになる。
 根っこは文学であっても、それを実践する場が学校という場である以上、授業で生徒をどう成長させるか変容させるかという意識を忘れない彼らが、教育の場全体に研究を広げていくのは必然だった。
 普通の教員はけっして手にしないような本もたくさん読み、研究会をもちつづけ、意図的に蓄積した経験に基づいて得られた「原理」「原則」。
 今まで言葉化されてはないが、経験豊かな教員なら自然と身についている「知恵」のようなものも「原則」の一つとしてまとめてくれている。
 教育哲学、先人の知恵、最新の教育学説が、「いま」の現場教員のフィルターにかけられ、整理されている。
 自分の授業がよくなればいい、自分のサークルが発展すればいい、自分の運動だけが大きくなればいいというような考えはそこには全くない。
 自分の心では友のままの堀さんに感謝の思いをいだきながら、手元においておりおり繙いていこうと思う。

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「而」の用法

2012年08月26日 | 国語のお勉強(漢文)

 「而」は接続のはたらきをする文字である。
 AさんがV1して、V2するとき、その間に置かれる。
 ただし、単純に順番に行われた二つを動作をつなげる時には、実は用いられない。
 a「我 読レ書 就レ寝(我書を読み、寝に就く)」のように。
 この文を
 b「我 読レ書 而 就レ寝(我書を読みて、寝に就く)」と書くこともある。

 ではaとbでは何が異なるのか。文を書いた人の意識がちがうのだ。
 「本を読んで寝た」と言いたいだけならaでいい。
 「実は本を読んで、それから寝たんだよ」というときにはbのように「而」を置くのだ。
 え? どこちがうの、と思った方はいるだろう。たしかに大きな違いはない。「訳しなさい」という問題の答えはaもbも同じになる。a・bの違いをきちんと説明してある参考書は今のところ見たことがない。
 それくらい微妙なちがいなんだけど、V1して、「そしてその結果」V2したと意識的に述べるときには「而」をおくのだ。
 二つの出来事を意図的に言うときに「ジー」と一呼吸おく。
 ただし、いちいち「しかして」と読むのは訓読としての流れがよくない。
 なのでV1の方の送り仮名に接続助詞「て」をつけて読むことにした。
 昔の人はえらいね。
 結果として「而」そのものは読まないので、いわゆる「置字」という漢文特有の扱いになる。
 でも、読まないからといって大事でないことにはならない。
 「而」がないときは、意識の中ではつながった一つの行為であり、「而」が置かれているときは、二つの行為や出来事を表現していると言っていい。
 有名な論語の一節を思い浮かべれば、なるほど「而」だよなという気もする。
 学 而 時 習レ之。
 (学びて時に之を習ふ…学問をして、そのあとは必ず機会あるごとにそれを復習する)

 「我 書レ信 而 送(我信を書して送る…私は手紙を書いて、そして送った)」というときの手紙は、それを送ろうかどうしようか悩んだあげくに送る告白の手紙。
 「我 書レ信 送(我信を書き送る)」は、一言の添え書きもない年賀状を送るイメージだ。

 「而」の前後に置かれた二つの出来事が、逆接の関係になっている場合もある。
 そういうとき、V1に「て」をつけずに「も」を送り仮名とし、関係をより明らかにすることもある。
 「我 書レ信 而 不レ送」(我信を書するも、送らず…私は手紙を書いたが、送らなかった)」
 ただし、こういう場合「て」のままでもいい。
 「手紙を書いて、それで送らなかった」で、日本語は通じるから。
 なんとなくつながっていさえすれば通じてしまうのが日本語であり、あいまいな部分が残ったままがかえってよかったりもする。
 だから、まとめると「而」は二つの事柄を意図的に表現する際に、その間に置かれる文字ということになる。

1a V 而 V … VしてVす。(而は置字)。

1b V 而 V … VするもVす。(而は置字)。

 「而」の前におかれたVに、必ず「て(も)」をつけて読み下すことが大切だ。
 一つ目の出来事が一続きの文の場合(けっこう長い場合)、「而」の前でいったん文を切る。
 もちろん、原文の古代中国語に句読点はないので、日本の学者が読みやすく切ったのである。
「○○○。而 ~」のとき、「而」は文頭で置き字にするのも不自然だし、こういうときは「而」のニュアンスがより強く感じられることになる。
 なので

2a ○○○。而 ~ … しかシテ・しかうシテ

2b ○○○。而 ~ … しかルニ・しかモ

 と接続語として読み下す。
 あえて文を区切って読んでいる流れなので、bの逆接で読む方が多い。

 3 ○○而已。…のみ。

 3の読みは特殊な読みとして暗記を求められるが、「而」の本質的意味は同じだ。
 「V 而 已」はつまり「Vして已(や)む」なのだ。
 Vをして、そしてそれで「已む(終わった)」ということ。

 寝坊して朝食を食べられず、休み時間に食堂で何か買って食べようと思っていたのに、授業がのびたり、寝てたり、宿題忘れてよびだされたりでいろいろあって昼休みさえ終わり頃になってしまい、食堂に行ったけど手に入たのはカレーのパック一つだった。
 「めしくった?」と問われて答える。
 我 食(二)包 咖 喱(一)而 已。 
 (我包咖喱を食して已む…私はパックのカレーを食べておわった)
 これは、気持ちの上では、すっごくおなかすいてたのに、食べたのはパック一つだけだったということだ。
 なのでこういうとき「~して已(や)む」は「~するのみ(~しただけだ)」と読むことにした。
 昔の人はやはりえらい。
 ちなみに「~而已」は音読みすると「ジー」になる。
 誰かが当て字に書いちゃったんだろう、一文字で。「~耳(ジー)」と。
 だから文末の「~耳」は「~而已」のことで、「~のみ」と読むのだ。

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メガネ

2012年08月25日 | 日々のあれこれ

 ピンチヒッターで2年現代文の講習を担当する。アウェイ感ただよう教室だったが、解いている様子をみた結果、ほんとに基本的なことだけを話してきた。
 基本が身についてない様子、つまり国語を解く「からだ」になってないなと感じた。
 といっても、筋力が足りないとか、柔軟性が足りないとかの話ではない。
 でも「視力」が足りないという言い方はあたっているかもしれない。
 どこを見ていいかわからず、ぼやっと全体を眺めている読みをしている。
 有田和正先生が、国語の力をつけるということは「国語のメガネ」をかけてあげることだ、と述べてらしたと思う。
 そのメガネをかけると、大事なところがすうっとうかびあがってくるようなメガネだ。
 これをかけてあげたい(ちなみに少し前に買ってたまにかけてた黒縁のメガネをかけて練習に行ってたら、Fくんにほめられたので、しばらくこれでいこうかなと思う)。
 音楽も同じで、わが部員たちは一生懸命にがんばってはいるのだけど、音楽をする「からだ」がまだできていない。
 そういえば、コンクール前の朝日新聞で、某県立強豪O高校のS先生(もうわかっちゃいますね)が、「うちの生徒は勉強は偏差値70で入学してくるけど、音楽偏差値は50なんですよ」と述べてらして、ちょっとかちんときたのは埼玉吹奏楽界でおれだけ?
 たとえば四分音符と八分音符の違いからスタートする本校部員たちはそんな言い方したら、偏差値なくなってしまうではないか。今も譜面をドレミで歌ってみてというとあやしい子はたくさんいる。
 なので、もういっかいコールユーブンゲンをきちんとやろうと思う。
 いつも一学期にやりはじめて、コンクールが近づくとうやむやになってしまうので。
 昔はもっと歌ってた。
 あと踊りも。体全体で何かを表現する「くせ」を身につけてもらうことで、音楽するからだをつくっていくことは、決して遠回りではないはずだ。
 運動部の子は、筋力アップのトレーニングをする。
 野球で言えばキャッチボールはロングトーンで、バーベルをあげるのはソルフェージュとかリトミックにあたるはずだ。
 腕立て五回しかできない選手が130キロのボールを投げることはできないのと同じように、ドレミファソってふつうに歌えない状態でメロディーはうまれてこないと思うので、もういっかいここから。

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アベンジャーズ

2012年08月24日 | 演奏会・映画など

 子供の頃、春休みや夏休みに福井の映画館につれていってもらうのが楽しみだった。
 もちろん「東映マンガ祭り」である。中1か中2の時かな、「マンガ祭り」ではなく普通の映画を観たいと主張して受け入れられ、そのときに観たのが「ロミオとジュリエット」「チキチキバン」だったような記憶がある。長男の意見に従うしかなかった弟と妹は不満だったかもしれないが、「あんたたちももうマンガは卒業かの」と母がつぶやいていたから、それなりにみんな楽しかったのだろう。
 小学生時代の「ゴジラ」シリーズや「サイボーグ009」はほんとに心躍らされた。
 もちろんテレビで「ウルトラマン」シリーズや「仮面ライダー」シリーズも楽しんだが、ウルトラマン派かライダー派かと問われれば、圧倒的にウルトラマンだった。
 そして自分にとって一番のヒーローは「タイガーマスク」だった。
 「アベンジャーズ」はだから、ウルトラマンと仮面ライダーとサイボーグ009とタイガーマスクとがいっぺんに出てきて、わるいヤツをやっつけて地球の危機を救ってくれる物語ということか。
 そうだ、紅一点も必要だ。ここはアンヌ隊員や003ではないとしたら、岡ひろみ? ヒロインだけど武器がない。いた、志穂美悦子さんだ。役はなんでもいい。
 なるほどそんな映画あったら楽しい。もし作ってくれたなら、マンガ映画を卒業して何十年も経った自分も見に行くにちがいない。
 アメリカの人はたぶん卒業しないまま見続けるんだね。
「アイアンマン」とか「キャプテン・アメリカ」とかをきちっと観てきたうえで、この映画を観たなら、それはそれは楽しいだろう。
 そういう人にとっては、地球侵略を狙うエイリアンの目的も方法論もどうでもよくなっているだろうから。
 とにかく敵が来る、やっつけるという骨格そのものを楽しめばいいのだ。
 とにかく敵が来て、やっつけるのが好きなんだろうな、アメリカ人は。
 「日本よ、これが映画だ!」という言葉で宣伝されているが、まさしくこれこそ、アメリカ人のための映画だ。
 「桐島、部活やめるってよ」の新聞広告欄に、「ハリウッドよ、これが日本映画だ」と書いてあって笑ったけど、両方観てみてみると、なるほどその通りだと思う。
 つまり、ほんとの意味での日本版「アベンジャーズ」を作るならば、桐島くんと、「苦役列車」の北町貫太と、「愛と誠」の大賀誠と、あとそうだなあ、「君に届け」の風早くんとかがでてきて、一人の女性をめぐってああでもない、こうでもない、早く打ち明けろよ、いや俺にはそんな資格がない、何言ってるんだよ、あいつにとられちゃうよ、それならそれでしかたないよ、それでいいのかよ、よくないけど、じゃ言えばいいじゃないか、おれはあいつを見てるだけでいいんだ、それは逃げじゃないのか … 、とぐだぐだするのが真の邦画とも言える。
 これアメリカ人が見たらつまんなくね? いや、けっこういけるかな。
 何はともあれ深く考えさえしなければ、「アベンジャーズ」は楽しい。スカーレット・ヨハンソンは素敵すぎる。
 変に理屈をこねたばかりにいろいろ破綻してしまった「ダークナイトライジング」より、よほどまっとうに作られている。
 ただ、宇宙からの侵略者がしょぼすぎる。
 アメリカのどの映画を観ても、宇宙人は人間と同じサイズで同じような形状をしている。
 これはやはり彼らにとっての敵が、われわれ黄色人種とかイスラムの人とか、そういう範囲内で想定されていることは間違いない。そういう意味ではイメージのサイズがきわめて小さい人たちであるとは言える。

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yesかnoか

2012年08月23日 | 日々のあれこれ

 今朝(8月23日)の朝日新聞のオピニオン欄に小田島隆さんが大きく載ってて、「すごくね?」って誰かに言おうとして相手がみつからなかった。小田島師匠がまさか大朝日にとりあげられるなんて。別におかしいことではないのかもしれないが、小田島氏の書かれる文章の内容と朝日新聞の論調とは、イメージとしてはかなりギャップがある。「朝日」向けにふだんより毒のうすいことを言っておられるのかなと心配したが、そうでもなくて安心した。
 「次の選挙では橋下徹さんに期待が集まりそうですね」とふられて、こう答える。

 ~ 自分の頭で考えることができない人は、橋下さんに丸投げしたいと考えられるのでしょうね。 ~

 きびしいな。きびしいけど、あたっている。
 自分もどこかに橋下さんにシンパシーを感じているのは、なんかよくわかんないけど、ガラガラポンとやってくれそうな気がするからだ。
 まちがっても自分の頭で考えた結果ではない。
 だって考える時間がない。講習の準備もしないといけないし、私学フェアーにでかけて個別相談しないといけないし、入試問題作成はじつは大変な仕事だし、楽譜の用意をしたり、譜読みをしたり、星野高校さんとの打ち合わせをしたり、打ち合わせをお願いしますという電話が斉藤先生からではなかったことに気づき泣きそうになったり、部費合宿費の未納分がまだあって整理できなかったり、人間ドックにいったり、体脂肪が12%だったので喜んでゲキ呑みしてしまったり、宮部みゆきの新刊が出てしまったり、半田屋さんでカツ丼(350円)を食べたら思いの他おいしかったり、車検の費用が予想以上にかかりそうでせつなくなったり、内田先生『街場の文体論』を二回目の読みに入ったり、学校のとじまりをしたり、娘の送迎をしたり。
 一般人はおおかれすくなかれ、自分の頭で考える時間には制約があるからこそ、世の中をどう動かすかについては、専門の人に委託するのだ。
 
 ~ しかし自民党は嫌だし、民主党はご覧の通りで、おそらく維新の会が勝つ、みたいな、間違いが起こるべくして起こるでしょう。… たぶん小泉チルドレンや小沢ガールズなんかより、はるかに劣悪なのがたくさん出てきて、国会は前代未聞の混乱に陥る。 ~

 「民間の優秀な人材が出てくることに期待してもいいのではないか」と聞かれ、こう答える。

 ~ そもそも私が民間企業に勤めていて、それなりの年齢で責任ある立場にいたら、政治家になろうなんて考えません。私の見るところ、権力欲だけあって内実の伴わない連中です。民間のダメなヤツは公務員のダメなヤツより、よっぽどダメですよ。 ~

 橋下徹氏を評価してないわけではないと言う。大阪市政にやっかいな問題があって、それをなんとかしようとする意識は間違ってない、ただ、手法に問題があると小田島先生は言う。

 ~ 大阪都構想や文楽の補助金問題。いづれも二者択一で答えが出るほど単純な問題ではないし、そもそも二択の質問に答える必要もない。… どっちでもない、決めないというのも答えとしては正しいんです。 ~

 消費税法案が通ったとき、決まった自体ことは一歩前進だという論調で、どの新聞も書いていた。
 大新聞は基本的に財務省とはお友達だからしょうがないけど、決まること自体が、決まった内容よりも必ず価値が高いとはたしかに思えない。
 そうか、だとしたら、橋下氏のAかBか、どっちかしかない、早く決めろ、決められないヤツは文句言うな、というやり方は、今の民主党と同じということか。マニュフェストとか今さら関係ない、とにかく決めることが大事なんだ、消費税が何に使われるかなんて今はしらないけど、あげることが第一優先なんだといっているのだから。
 実は、橋下氏や野田首相がこういう稚拙な政治手法をとる原因には思いあたるふしがある。
 あれなんじゃね? 小論文。(はあ?)
 弁護士になるために論文の試験勉強もかなりしたはずの橋下氏、松下政経塾でおそらく論文を書いたりした野田総理。
 「小論文には主張とその理由が明確に述べられなければならない」と習い、その方法で鍛錬した結果、思考形式がyesかnoかになっちゃったのではないだろうか。
 「小論文はyesかnoかを書く」という古典的かつ誤った考え方を身につけてしまったままなのかもしれない。人の世はyesかnoかじゃ決まらない部分もいっぱいあるんだよ、という考えをもつ、昔はたくさんいらした熟練の議員さんたちは少なくなってしまった。

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桐島、部活やめるってよ

2012年08月20日 | 演奏会・映画など

 「鎌塚氏すくいあげる」で一番書きたかったことをおとした。劇の音楽がたぶん全部吹奏楽の演奏だったのだ。どなたが担当して決めたのか知らないが、なんか聴いたことのある曲だなあとぼおっと聴いてて、えっ、これ「アルメニアンダンス」じゃんと気づき、誰かに言いたかったが、言える人はいない。八分の5の変拍子の部分だ。船の上での軽妙なやりとりのバックとしてうまくはまっていた。
 劇の後半、嵐が船をおそうなかで事件の核心があきらかになっていく場面では、アルメニアンダンスPartⅡの「ロリの歌」が流れる。
 きゅうにかわるけど「桐島、部活やめるってよ」では、舞台となった高校吹奏楽が演奏してたのは「エルザの大聖堂への行列」だった。これは「笑ってコラえて」で有名になった曲だからだろう。
 エンドロールを見て、なんと蕨高校さんが演奏を担当されているのを知った。
 いいなあ。こんな映画にかかわることができて幸せだなあとうらやむほど、いい作品だった。
 原作の小説の方は買ったのは買った。でも読みきった記憶はない。途中まで読んでそのままになって、最近見かけないからブックオフにいってしまってるかもしれない。
 文庫を買ってちゃんと読んでみようかと一瞬思ったけど、その時間があったらもう一回映画を見た方がいいかもしれないと思えるほどよくできてた。
 生身の高校生を知る度合いとしてたぶん平均以上の自分が、リアルな高校生像が描かれていると思ったのだから、けっこうリアルなんじゃないかな。
 登場する多くの高校生たち。
 学校でのアイデンティティがどうつくられているか、そしてそれがどんなにもろいものか、またいつのまにか形成されている彼らのなかの序列。
 「スクールカースト」ともよばれる人間関係のありようが、ちょっとした台詞やしぐさで見事に描かれている。これは監督さんの力量と言うしかない。
 渦中にいる現役高校生が見たらどう感じるだろう。ほんとは意識したくないカーストを目にせざるを得ず、かえって「現実はそんなんじゃない」と主張したくなったりはしないだろうか。
 それにしても、学校とはなんと閉鎖的で、逃げ場のない空間なのかと思う。
 明治時代につくられた柱をそのまま残し、太平洋戦争後に部屋の模様替えをして、そのまま何十年もほったらかしになっている家のなかで、外形的には同じだけど、内面ではずいぶん変わってしまった人間たちを収容し、黒板の前に立つ先生なる存在が、建前としての力さえ失いつつある学校的価値観を語り従わせようとする空間。問題が起こらなかったらおかしい。
 現在の学校教育のありかた、学校の存在価値そのものを問うべき時期に来ているのでないだろうか…、とか評論家なら言うだろう(そんなこともわからない人の方が多いのもたしかだけど)。
 でもどうしようもないんだよね。
 ここで生きていくしかないのだから。
 大人も同じか。
 世の中がわるいとか、政治がよくないとか、「桐島が部活やめるのは許せない」「竹島とられたのは悔しい」とか言ってても解決にはならないのだ。
 淡々とすごす日常のなかに、ひりひりとした人間関係が生まれ、仲違いしたり和解したりしながら、あとでふりかえれば愛おしく思える日々がうまれている。
 登場する多くの高校生たち。
 きっと誰が観ても、自分はあのタイプかなという役柄が見つかる。
 ていうかたぶん複数見つかる。
 見つかるどころか、おまえはこんなんだよとつきつけられて苦しくなる。
 目をそらすことができずに、胸がしめつけられる。
 多くの人が、自分とはちがうかなと思うタイプがいるとしたら桐島くんかな。最後まで登場しなかったけど。

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