『ソロモンの偽証』は、東京に記録的な大雪の降った朝、屋上から飛び降りたとみられる中学生の遺体が発見されるところから始まる。パトカーが駐まり、ただならぬ雰囲気を感じ取る、登校してきたばかりの生徒たち。事情を説明するための校内放送が始まる。
~ 「皆さん、おはようございます。校長の津崎です」
そう言ってから、ちょっと間があいた。いつもならポンポンしゃべるのに。三中のおんぼろ放送施設は、それでなくても音響が悪い。… 音響の「受け皿」である校舎も老朽化しているので、傷みの激しい壁や廊下で音が変なふうに反響したり吸い込まれたりしてしまい、スピーカーのすぐそばに立っていても、何が話されているのかわからないことだってある。
だから津崎校長の声がひび割れていて、
「みださん、おばようございます」
というふうに聞こえたとしても、それは格別珍しいことではなかった。珍しいのは、生徒たちがそれを聞いても、誰ひとり、クスリとも笑わないということの方だ。(宮部みゆき『ソロモンの偽証 第1巻』新潮社) ~
なんでもない描写かもしれないが、事件の舞台となる中学校、そこに通う中学生たち、そして事件にはじめて触れようとする瞬間の様子を一瞬にしてイメージさせる。
第一巻だけで700頁。なくなった柏木くんのクラスメート、その家族、教員、警察関係者、マスコミ …。
ほんとにたくさんの登場人物が出てくるのだが、誰が誰かをメモしなくてもわかるのだ。
外国の作品だと、主要人物が3人ぐらいしかいなくても、誰が誰かわからなくなることがあるし、ロシアの小説だと、主人公の名前も覚えられない。
一人一人の人物が、「これこれこういう人でした」と説明されているわけではない。
ただ、どんな人物かが一瞬でイメージできるような、さりげなくも効果的な台詞や行為が描かれる。
まさに小説は説明ではなく描写するものだと納得できるのだ。
そうか、人生って具体の積み重ねでしかないよなと改めて思わせられるような感覚になる。
それぞれの人物の視点にも、うまく入り込んでいく。
読者は、気がつくとその人物の視点になっているので、悪意に満ちた人物の悪意に満ちた行為を読みながら、それは悪意に満ちたその人物の特殊とは思えなくなる。
これ、おれも同じようにしてしまうかもしれない、みたいに。
とにかく、集積されている「具体」がすごい。クオリティってこうやって生まれるんだなと思う。
~ クオリティとはディテイルの集積のこと。
サムライ(注:佐藤可士和氏の事務所)の成功要因のひとつに「クオリティに対する妥協のない追求」があります。では何をして「クオリティ」というのか。それは「ディテイルに対する妥協のない追求」に、ほかなりません。ゆるいディテイルの上に、高いクオリティを実現する、という例は決してないのです。大きな仕事をしたいのならば、目の前にある小さな仕事を完璧にできるようになることです。(佐藤悦子・清野由美『「オトコらしくない」から、うまくいく』日本経済新聞社出版) ~