世間一般の価値観、または学校特有の価値観に照らし合わせて不適切と思われる行為に対して、それはいけないよというのが教員の仕事である。そして注意した生徒が反省しているかどうかを見届けるのも仕事だ。しかし人の心はわからない。心の中でほんとうに反省しているのかどうかを見分けることはできない。教師は生徒の内面を把握すべきなどとのたまわれる方もいるが、そんな神のごとき行為を可能だとする知性を疑ってしまう。だから教員は、見た目やふるまいで反省しているかどうかを判断することになる。内面は見えない。心の中でまったく反省してなくても、外から見て反省しているように見えればよいのだ。そのようにできることを社会性が身についたという。とこれは前書き。いや朝青龍の風貌はどう見ても反省しているようには見えないかったから。というか、謹慎中の生徒がひげはやして登校してきてたら、多分われわれは激怒するか途方にくれるかどちらかだろう。まあ横綱もかわいそうではある。獲物をみつけたマスコミ、そしてそれを喜ぶ私たちの心性は、やはりこれは「いじめ」と同じだ。ここまでの目にあったのだから、朝関も別に相撲に固執しなくていいんじゃないかな。私と同世代以上の多くの男性は悔しがっている。A猪木が現役であったならと。そして新間氏が若かったならと。そうしたら、今年の大晦日は、猪木VS朝関で、東京ドーム超満員、紅白歌合戦の倍は視聴率がとれる。できれば、朝関には謎のマスクマンで登場してほしい。あの素材がただ謹慎しているのはもったいないなあ。
人生の中で、自分がフルマラソンのスタート地点に立つなんて、
きっとこれっぽっちも考えてなかったでしょう。
スタート地点に立つだけでも奇跡なのに、
フルマラソンを走りきるなんて、さらに奇跡に違いない。
でも、それがあなたには可能なんですよ。
まず、スタート地点に立っている、自分を褒めてあげてください。
そしてゴールしている自分の姿を想像してみてください。
自分の力。
どれくらいかなって、半信半疑でこのレースに参加したと思います。
ゴールできるかな、途中でリタイヤしないかな。と不安でしょう。
スタート地点に立ったあなたは、必ずゴールできます。
なぜかって? スタート地点に立ったことで、
すでに自分に勝っているからです。
人間(あなた)は、捨てたもんじゃありません。
(一ノ瀬博明氏作成『フルマラソンへの道』より)
水道橋博士『筋肉バカの壁』に載っていたことば。漫才コンビ「浅草キッド」の一人水道橋博士(44歳)が、ある番組の企画で人生初のフルマラソンに挑戦することになった。3ヶ月あまりのトレーニングの後、いざ本番、第一回東京マラソンの日を迎える。スタート直前に、指導をしてくれた先生から手渡された言葉である。
「進路だより」(2年生版)の原稿にしようと思い、書き写してみた。大学入試でいえば、スタートラインにあたるのは入試当日の試験開始直前だろうか。コンクールなら、演奏直前の舞台袖だろうか。なるほどそう考えれば、完走できるかどうかはその時点で決まっている。どういう結果になるかもほぼ決まっている。それまでに何をやってきたか、どうやってきたか、どれだけやってきたかの総体としてスタートラインに立つのだから、スタートしてからはそれまでの総体の延長にすぎない。練習で100メートル15秒かかる人は、スタートしてからも当然そのペースでしか走れないし、練習でハモらない和音が本番だけ美しくなりひびくことはない。あたりまえといえばあたりまえのことだ。100メートル15秒で走ってきた人が、本番故のなんらかのアクシデントで、17秒かかることはありうる。練習以上によい結果が出るということが起こりうるとしたら、きっとそれを生み出すだけの何かをそれまでにやってきたということだ。スタート地点に立つのは3ヶ月後なのか、1年後なのか。5年後の話なのか、立つ気はないのか。そしてそれは、いったいどういうレースのスタート地点を想定するのか。決めるのは自分しかないだろう。(このまま「進路だより」に使えるかな…)
きっとこれっぽっちも考えてなかったでしょう。
スタート地点に立つだけでも奇跡なのに、
フルマラソンを走りきるなんて、さらに奇跡に違いない。
でも、それがあなたには可能なんですよ。
まず、スタート地点に立っている、自分を褒めてあげてください。
そしてゴールしている自分の姿を想像してみてください。
自分の力。
どれくらいかなって、半信半疑でこのレースに参加したと思います。
ゴールできるかな、途中でリタイヤしないかな。と不安でしょう。
スタート地点に立ったあなたは、必ずゴールできます。
なぜかって? スタート地点に立ったことで、
すでに自分に勝っているからです。
人間(あなた)は、捨てたもんじゃありません。
(一ノ瀬博明氏作成『フルマラソンへの道』より)
水道橋博士『筋肉バカの壁』に載っていたことば。漫才コンビ「浅草キッド」の一人水道橋博士(44歳)が、ある番組の企画で人生初のフルマラソンに挑戦することになった。3ヶ月あまりのトレーニングの後、いざ本番、第一回東京マラソンの日を迎える。スタート直前に、指導をしてくれた先生から手渡された言葉である。
「進路だより」(2年生版)の原稿にしようと思い、書き写してみた。大学入試でいえば、スタートラインにあたるのは入試当日の試験開始直前だろうか。コンクールなら、演奏直前の舞台袖だろうか。なるほどそう考えれば、完走できるかどうかはその時点で決まっている。どういう結果になるかもほぼ決まっている。それまでに何をやってきたか、どうやってきたか、どれだけやってきたかの総体としてスタートラインに立つのだから、スタートしてからはそれまでの総体の延長にすぎない。練習で100メートル15秒かかる人は、スタートしてからも当然そのペースでしか走れないし、練習でハモらない和音が本番だけ美しくなりひびくことはない。あたりまえといえばあたりまえのことだ。100メートル15秒で走ってきた人が、本番故のなんらかのアクシデントで、17秒かかることはありうる。練習以上によい結果が出るということが起こりうるとしたら、きっとそれを生み出すだけの何かをそれまでにやってきたということだ。スタート地点に立つのは3ヶ月後なのか、1年後なのか。5年後の話なのか、立つ気はないのか。そしてそれは、いったいどういうレースのスタート地点を想定するのか。決めるのは自分しかないだろう。(このまま「進路だより」に使えるかな…)
今日は二回目のオープンキャンパス。午前中は学校説明と公開講座、そして午後は部活動の体験というメニューである。吹奏楽部に部活体験に訪れる中学生はこれまで誰一人いなかったが、今回はじめて2名の参加者がいた。やったーー! パチパチパチ。二人とも吹奏楽部に所属しているというので、急遽楽器を用意して、合奏に参加してもらった。なんかふつうに吹けていた。史上初のこの二人には、ぜひ入試をクリアし、4月から仲間に加わってほしいものだ。
県大会を勝ち上がって支部大会(西関東とか)に出場した団体が228校(高校)。来年は何をやろうかななどと思いながら自由曲をみていると、「トゥーランドット」人気が大変高いことがわかる。数えてみたら、全国で14団体が演奏していた。なんと言っても昨年の埼玉栄高校さんの「トゥーランドット」がこの人気のみなもとであろう。(ちなみに以前から定番の「ダフニスとクロエ」は15団体でたぶん一番多い。「ローマの祭り」は9団体。)でも西関東支部では「トゥーランドット」を演奏する高校が一つもないのも、うまく言えないが西関東らしい。ちなみに課題曲は4番が100団体で最高だった。
第4期の講習では3年の古文を担当する。午前中2時間の授業、午後2時間ほど合奏。夏休みも終わりが近づき、生活も日常にもどっていく。死ぬほど暑いと文句を言ってはいるが、虫の声は秋を知らせている。こうして今年の夏も終わっていく。最後の集合の時、お盆休み中に誕生日をむかえた3人の1年生が紹介された。16歳だ。若いなあ。たとえば彼らは40歳を過ぎてどうなるかなどと想像もしないだろう。自分もそうだった。実際に大人になってみると、多少世の中についての知識は増えたかもしれないが、中身はほとんど変わっていない気もする。それでいて肌や髪の衰えはどうしようもない。造顔マッサージのDVDをやはりちゃんとみなければならないと思う今日このごろである。明日は営業活動のため大宮へ。部員たちは貴重なオフ日で宿題を完全に仕上げてくれることだろう。万が一そうでない子がいた場合は …
スポーツ新聞を読んでて、中越典子が佐賀北高校のOGであることを知った。けっこうかわいくね。先日観た「夕凪の街桜の国」で田中麗奈の友達役としていい仕事をしていた。「夕凪の街桜の国」は、同名のマンガを映画化したものだ。マンガを読んだ時も傑作だと思ったが、映画もすばらしいものだった。できることなら多くの日本人(おっきくでたな)に観てほしい。できれば世界中の人に観てほしい。とくに原爆を落としたアメリカ人には観てほしい。日本人はお人好しだから、東京大空襲や原爆のことをアメリカに謝れとは言わない。今も日本の戦争責任を言い立て、謝罪を終えていないと言う人がいるが、謝罪も何もこんな悲惨な目にあったではないか。戦争が終わってからは、日本だけが一方的に悪者にされ、たくさんの人が処刑された。B級C級戦犯1000人以上の命を差し出して謝ったのだ。などとあつくなってしまうのはよくないのかもしれない。「夕凪の街 桜の国」のように、静かに原爆の悲惨さむごさを伝えるのが奥ゆかしさなのかもしれない。
練習していたので見てはいないが、高校野球の決勝戦における佐賀北びいきの雰囲気はものすごいものであったと想像できる。野球留学や特待生のような選手を集めているような(感じのする)私立の強豪校と、ごく普通の県立高校との対戦になれば、県立を応援したくなるのが人情というものだ。豪華な楽器をならべてびちっとした衣装で演奏する団体のあとに、あまり高そうな楽器も持たず制服で登場する学校がでてきたら、つい「がんばれよ」という心情になるのと近いものがあるだろう。しかし、どちらがいいとか悪いとかの話ではないし、どちらがより価値があるという話でもない。環境や設備に恵まれないなかで努力した方が、恵まれていた子よりも偉いというわけでもない。形はちがえど、自分に与えられた環境の中で、違ったタイプの精進をつんできた子たちが戦い、たまたま勝負がついたということだ。優勝したのが佐賀北であっても広陵であっても価値は同じである。新聞の論調だと、普通の公立高校だからより価値があると言いたげな記事になっているが、そんなことはない。高い楽器をそろえている学校に対して、そこにいたるまでに関係者のどれだけの努力があったかを想像せずして、「あそこは恵まれているから」というのは間違っているのと同じだ。しかし、高校野球を食い物にしている高野連や朝日新聞は喜んでいるだろうなあ。特待生問題にふたをするには最高の結果になった。
さわむら君におねがいし、顧問日誌をブログにしてもらった。新たな気持ちで更新を重ねていきたい。今までのページとどうちがうかは実は理解していないのだが、世間の流れにのってみたのだ。さて、お盆明けの練習は文化祭で演奏するポップス曲。これは楽しい。とくに「ディスコパーティーⅢ」は懐かしく心おどる曲ばかりの構成だ。コンクールで演奏するような曲とちがって100%自信をもって教えられる。私と同世代の保護者のみなさまは、必ず楽しんでいただけるはず。いっそ文化祭ではディスコタイムをつくってしまおうかしら(チークタイムも)。