水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

久しぶり

2010年11月29日 | 演奏会・映画など

 バッハザールもアンコンも終わり、少しほっとして高田文夫先生の『笑芸人しょの世界』を繙く。
 高田先生の選ぶ現時点の芸人ベスト9(高田ジャパン)が載っていた。
 1番:春風亭昇太、2番:伊東四朗、3番:爆笑問題、4番:ビートたけし、5番:立川談志、6番:浅草キッド、7番:イッセー尾形、8番:アンタッチャブル山崎、9番:立川志の輔→談春
 というラインアップで、日本一のお笑いプロデューサーの目とはこんなかんじかと納得する。
 3番、6番を文化祭によんでいる本校もえらい。
 落語家さんにしぼってベスト9をつくったなら、まちがいなくスタメンに選ばれるだろうと思われる、たい平、志らく、喬太郎師匠が集うという夢のような落語会が朝霞であり、久しぶりに落語をきいた。
 たい平「お見立て」、志らく「死神」、喬太郎「うどん屋」というみんなが楽しめるネタで、至福の時間だった。
 調子にのって噺家さんの私的ベスト9をつくってみた。大御所の師匠さん方を選び出すときりがないので、自分より年下に限定してみる。
 1番:たい平、出塁率はかるくイチローを越える。2番:一の輔、若いのに巧み。3番:白酒、長打率高い。4番:喬太郎、状況に応じて何でも。5番:志らく、怖い存在。6番:百栄、意外性。7番:馬石、地味だけど走攻守そろう。8番:歌武蔵、がっちり押さえる。9番:三三、キレのあるストレートを投げる若きエース。
 吹奏楽だと伊奈学園さん、埼玉栄さん、春日部共栄さんが、埼玉の不動のクリーンアップといえよう。

 朝霞市民会館にむかう途中にあった「はつがい」というラーメン屋さんの美味しさにびっくり仰天。
 話のたねにと並んで食べた記憶のある都内の何件かの有名店など、足下にもおよばないパフォーマンス。朝霞の方は幸せだ。

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アンコン行ってきました

2010年11月28日 | 日々のあれこれ

金管8重奏、サックス4重奏、ともに銅賞を受賞いたしました。
 ご声援、ご協力ありがとうございました。
 また、次の本番演奏に向けてがんばっていきます。
 

 しかし間際になると、こうしたい、こうなったらいいな、本番ではできるのでないかという期待をなぜ抱いてしまうのだろう。
 本番で100%出すのは、練習で167%できてないとだめとか言ったり思ったりしてるのに、本番直前になると、ひょっとしたら全部うまくいくんじゃね、全部うまくいったら県大行けんじゃね、という邪念をもってしまったことが私自身の反省点である。
 やりたいことが全部できたと言い切れないが、本番の演奏が実力であったことはまちがいないと思う。

 昨日は、県大会に推薦された10団体のうち、6団体が打楽器アンサンブルといった結果だった。
 実際、管楽器のアンサンブルでは、金賞を受賞された3チーム以外には、かなり肉薄できた。
 しかし、金賞レベルの学校さんとは厳然たる差が存在し、かんたんに乗り越えられそうにない気がするのも確かだ。

 打楽器アンサンブルチームのレベルの高さは素直に認めつつも、管楽器のアンサンブルとは別種のものではないか、同じアンコンというくくりではおかしいのではないかと昨日は感じていた。
 バンドとしての演奏にマーチング部門が別種のものとして存在するのだから、打楽器を別枠にしてもいいんじゃないだろうか。
 昨日、ステージ係をやりながら、打楽器アンサンブルには音楽以外の要素がきわめて大きいことをしみじみと感じたのだ。
 音楽以前に、音を出すための動き、息づかい、楽器の配列、そして特殊な楽器、そういうものの占める割合の大きさ。
 昨日にかぎらないのだが、いまや、打楽器アンサンブルの曲自体が、音楽としてのアンサンブルをいい意味でも悪い意味でも越えているのではないかと思う。 その楽器で、そういう叩き方で、そういう音を出す必然性がほんとにあるのか。
 ある国のある風景の一場面を表現するには、その国の楽器を、その国の人風に叩かないとだめなのか。
 たとえば、ある国のある風景を表現しようとしたとき、その国の民族楽器をもってくるのがてっとりばやい。
 でも、それは方向性としては、もともとの音そのものに近い音を求めることであり、本物に一番近い偽物を求めることになりはしまいか。
 プレイヤーがオオカミの鳴き声をマネするという、音楽以前に知を感じない曲を聞いたことがあるけど、それと同じではないか。
 ある場面のある風景、ある場面のある心情、そういうものを全く別次元の音で表現してはじめて音楽なんじゃないのか。
 悲しいのを悲しいと書いたら幼稚園の子の作文になる。
 具体的な事実を細かく積み上げて、悲しいと書かなくてもそれが伝わるような文章を小学生には教えたい。
 中学生になったら、その経験をベースに詩や小説といった創作で、そういうものを表現させたい。
 国語の先生としてはそう思う。
 作曲家の先生は、そんな風に思わないのかな。
 とりあえず雰囲気だすために、弦で鍵盤をこすっておこう、そんな風につくっただけなんじゃないのと感じてしまう私の感性が低レベルなのだろうか。
 (だいたい打楽器アンサンブルなのに弦でこすっていいのか。このレベルが許されてて、バンドの演奏に際に「ディスコっ!!」と叫ぶと失格になるのがよくわからない。)
 打楽器アンサンブルを音楽部門とパフォーマンス部門とに分けるのも一つの案だな。
 そして音楽部門は使用する楽器を、8種類以内で、値段の総額300万円以内とする。
 高い楽器を山ほど使いたいチームは必然的にパフォーマンス部門にまわることになる。
 冗談だと思われるだろうが、関係者の方が見られたら意外といい線だと共感していただけるのではないだろうか。
 よくよく考えると管楽器に同じ面がある。
 そのフレーズってほんとにそんなふうに指回し大会のように書かないといけないの? 高い音がむやみに出ることがそんなにえらいの? と思われる曲はあったから。
 管楽器の方も、音楽部門と、曲芸部門に分けてほしい気もする。できれば楽器の値段も。
 うちは曲芸の技術は足りないが、音楽にしようとするメンバーの気持ちは一生懸命だった。

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自己表出(2)

2010年11月26日 | 国語のお勉強

 2、3学年はセンタープレテスト。
 国語の問題をざっとみわたしたが、「だめだ、教えてない!」と叫ぶような問題はなく、ちゃんと勉強してる子は、このわたくしの教えをちゃんと聞いている子は、それなりに点数がとれるはずだと感じる。
 聞いていればだけど。
 標準実施日が日曜なので内容は書けないのだが、小説は「あえてセンタープレでこんなの出題するかな」と思ってしまった。
 こういう作品を高校生に読ませたいと思う人がいることへの驚きと言っていいかもしれない。
 でも、それを考えると「こころ」も同じか。
 読んでおもしろいと思う高校生はいると思うが、日本全国の高校2年生の読ませなければならない小説だとはとうてい思えない。
 思えない私はたぶん異端ではある。
 
 漱石「こころ」は、上・中・下に3部の分かれ、下は「先生の遺書」というタイトルの「下」の一部が教科書に載っている。
 この部分の「私」は、自分を慕う青年に読ませる遺書を書く「先生」の一人称だ。
 若い頃を回顧して、「あのときはそう思い込んでしまったのです」と語ることによって、先生は若者に何を伝えたいのか。
 いや「伝えたい」とは自覚されてないだろう。
 自然に表れてしまっているというべきであろう。
 これが表出された自己だ。
 では、先生は、どんな自己を表出してしまったのか。
 それはその後の展開から類推できる。
 Kがお嬢さんへの恋心を実現すべく動きはじめては困る。
 お嬢さんをいつか妻にするつもりであった自分の人生計画に狂いが生じる。
 こう考えた先生(私)は、Kの知らないうちにことを運ぼうと考え、奥さんに談判をし、お嬢さんとの婚約を成立させる。
 Kが自殺するのはその数日後である。
 「私」は当然その責任を意識する。
 Kの死を確認した瞬間、生涯にわたり罪の意識を持ち続けることになるだろうという感覚が私をおそう。
 と述べながらも、私は心のどこかで、自分のせいだけでKは自殺したわけではないのではないかとの思いも頭をもたげている。
 Kの死後、お嬢さんと結婚してからの人生のなかで、その思いは大きくなり、同時に孤独感をも深く抱くようになった私については、教科書部分だけではわからない。
 わからないが、「~てしまった」には、自分の責任を少しでも軽くできないかとの自己弁護の気持ちを読み取ることはできる。
 
 こういう読み取りをした後、あらためて他の部分にを読んでみると、ここにもそんな気持ちが表れてしまっているかも、という箇所を指摘できる生徒さんも生まれる。
 私に恋を打ち明けたときのKを私はどう表現していたか。
 「気味が悪かった」「祟られた」というように、あたかも我が身に降りかかった災厄のように表現する私。 奥さんとの談判のあと、Kのことをしばらく考えなかったと述べ、「あのときはいつもの自分ではなかった」という意味の文句を記す私。
 Kへの対抗心も全体にただよっている。
 このへんに気づくと、表層から先の意味へ、さらにもう一歩深層と入れるかなと思うのだが。

 「こころ(下)」は、「私」という語り手が明確だから、自己表出という概念を教えられるかもと思えたのかもしれない。
 ただし、自分の理解があっているのかどうか、正直自信はない。でももう少しこだわってみたい概念だ。

 小説を楽しめている時というのは、読者として無意識のうちに語り手の自己表出を読み取っているということでもあるのだろうか。

 そんなことを考えているうちに、片付けも終わったようだ。
 楽器を積み込んで、明日はアンコンにいってきます。

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アンコン

2010年11月25日 | 日々のあれこれ

 合宿もしたし、ホール練もしたし、もう万全の状態だ … 、とはなってない。
  最終日のくじを引いて「ヤッタ!」と思ったが、やはり時間は足りなかった。
 でも、まだ本番まで数十時間ある。
 ただし明日は模試で夕方までメンバーがそろわない。
 やれるだけのことはやりたい。

 

学年だより51経験(4)
 大学生活で大切なのも、結局は「やること」なのだろう。
 けっして「何か」が優先するものではない。
 何回も話したり書いたりしてるけど、とくに文系学部ならば、ほんとうにどの学部でも、どんなことでもやれる。
 ただし、できるだけ入るのが難しい大学に入った方が、やれることの質は間違いなく高くなる。
 これを「経験可能性」が高まると表現したい。
 大学を就職の手段と考える風潮が年々大きくなっていくようだが、やはり大学は「学び」の場だ。
 その学びの内容が、大学の学部や学科に合致するかどうかは別にして、学びの場であり、経験の場である。
 学ぶことなしに就職の準備だけしていると、えてして望み通りにはいかないものだ。
 「就職氷河期」という言葉をみんなも読んだり聞いたりしたことがあるだろう。
 大学を出ても、なかなか望ましい就職口がない、なかなか内定がもらえない状況だ、という話。
 先日も、「大学新卒者の就職内定率が6割に達していない」という新聞報道があった。
 しかし、考えてみてほしい。
 今、日本の経済が右肩あがりでないことは誰もが知っている。
 ていうか、みんなが生まれた時すでに、そんな時代は終わりを告げていた。
 一方で、大学生の数は増える一方だ。選ばなければ誰でも入れるから。
 大卒者の採用数が増えるはずはない状況下で、大学に行く若者は増えている。
 内定率がさがるのはあたりまえの話だと思わないか。
 まして、経験を積んで、スキルをもち、企業に貢献してきた人材であっても、常に職を失う危険をかかえている今の時代だ。
 一昔前なら大学には進まなかった若者たちが、何はともあれ大学進学し、だからといって何を学ぶということなく、それでいて大学卒として就職したいというのは、ある意味虫がよすぎると言えるかもしれない。
 今の状況下において、就職を第一優先にして大学を選んだり、学部・学科を選ぶのは、娑婆の空気を読めてないと言える。
 就職に有利な学部学科とか、就職に役に立つ資格は、たしかに存在するだろうが、それは万能ではない。
 知識もスキルも資格も大事だけど、それを使う人間の質が一番大事だ。
 知識もスキルも資格もないようだけど、この学生さんはぜひ採用したい、と思われるようになることが第一優先なのだ。

 

 

  

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自己表出(1)

2010年11月24日 | 国語のお勉強

言葉には「指示表出」と「自己表出」の二つの機能がある。
 「指示表出」とは、文字通りその言葉が、ある指示内容を表現すること。
 「自己表出」とは、その言葉によって、その言葉を用いた主体の自己が表現されること。
 と自分では理解している。
 吉本隆明氏が『言語のとって美とは何か』で提出されたこの概念は、多くの国語の先生にとって、単語自体聞いたことはあるけど、ふだんは意識してない、といったぐらいの術語ではないだろうか。
 最近、この意味が少しわかってきたような気がして、そういう目で見てみると、いま授業している「こころ」に表出されている、「私」の自己がうまく説明できるのだ。
 たとえば、今日は「思い込んでしまったのです」を授業した。
 って、突然言ってもわからないですね。こんな本文です。

 ~ Kの果断に富んだ性格は私によく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔なわけも私にはちゃんとのみ込めていたのです。つまり私は一般を心得たうえで、例外の場合をしっかり捕まえたつもりで得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を、頭の中で何べんも咀嚼しているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら動き始めるようになりました。私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかもしれないと思い出したのです。すべての疑惑、煩悶、懊悩を一度に解決する最後の手段を、彼は胸の中に畳み込んでいるのではなかろうかと疑ぐり始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を眺め返してみた私は、はっと驚きました。そのときの私がもしこの驚きをもって、もう一ぺん彼の口にした覚悟の内容を公平に見回したらば、まだよかったかもしれません。私はただKがお嬢さんに対して進んでゆくという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうといちずに思い込んでしまったのです。 ~ 

Q「思い込んでしまった」とあるが、「私」は何をどう「思い込んだ」のか。
A Kは、道への精進を捨てて、お嬢さんへの恋に進んでいこうと覚悟を決めたのだと思い込んだ。

Q「~てしまった」と言ったのはなぜか。
A あとで考えると、この思い込みが間違いであったと後悔しているから。

 と、ここまでは3年前の授業でも話していた。
 今回はさらに、こう問う。

Q この表現で、「私」は読者に何を告げているのか。この「~てしまった」にはどのような自己が表出されているのか。

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経験(3)

2010年11月22日 | 日々のあれこれ

学年だより50

経験(3)
 繰り返すが、高校時代に大切なのは、「何かをやること」だ。
 そして「何か」と「やること」とでは、「やること」の方が大切だ。
 「何か」は究極的には何でもいい。
 経験こそが大事なのだから、極端なことを言えば「学校で」それを「やる」必要さえない。
 自分で「何か」を見つけて一心に取り組むことができるなら、ひとかどの人間のなれるだろう。
 ほどほどの努力で手にした学歴より、もっと貴重なものを手に入れられる可能性はある。
 ただし、「何か」がはっきりしないままに、とりあえず学校から飛び出して、たとえばフリーターと言われる暮らしをしながら「何か」を探してても、なかなかいい結果にはつながらない。
 そのへんは、みなさんも十分予想できると思う。
 世の中というのはかなり広い。
 80年の人生で、世の中のあらゆることを経験しつくしたという人はいない。
 この世の森羅万象から、自分のやりたいことを見つけるというのは、冷静に考えてみればとんでもなく大変なことではないだろうか。
 先日、「週刊ポスト」という雑誌で、「きっと見つかる! 夢の求人台帳」という16頁の企画が載っていて、「週刊こどもニュース」で有名な池上彰氏の監修というところに惹かれて買ってみた。
 たしかに一般的な価値観とは異なる職種が紹介されてはいたものの(利き酒士とか、プラモデル制作者とか)、これらの仕事をピンポイントで自分の天職だと確信できる人も限られているのだろうなと感じた。
 現実問題として、仮にそのような職業につきたいという人が何万人もいたなら、その人たちが食っていけるほどの市場はない。
 ある職業が職業として成立するかどうかは、それで食っていけるかどうかにかかっているということは厳然たる事実だ。
 「自分のやりたいこと」を見つけて、それで生きていこうとしても、その仕事が生み出すものを認め欲する人がいないなら、職業としては成り立たない。
 このことから考えても、純粋に自分のやりたいことを仕事にすべきだという考えが夢物語であることがわかるだろう。
 まして「自分のやりたいことを見つけよう」と言う人の頭に中にある仕事のイメージは、意外と狭かったりするのも現実だ。
 社会において何が認められ、何が認められないかは、学んでいくしかない。
  それを学ぶためには、実際に世の中に出てしまうのも一つの方法ではあるが、「学校」は遠回りなようで、実は効率のよいシステムである。
 自分がどのような人間であるのかを、知ることができる。
 どういう分野に秀で、どういう分野を得意とし、またその能力は同世代の人間の中でどのへんに位置するレベルのものなのかがわかる。与えられた課題に、どれくらいのめり込んでやれる人間かがわかる。コミュニケーション能力をじっくり作っていくこともできる。
 幸いなことに、みなさんは大学にまで行っていいと言われている。

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思いつき(2)

2010年11月18日 | 国語のお勉強

 マーク式問題の演習をしていると、けっきょく毎日同じ話しかしてないことに気づく。
 同じ話なのだから、箇条書きでまとめて生徒さんに配ってしまえばいいのかなと思いつき、まとめはじめた覚え書き。

小説問題を解くために

1 近代小説は近代の産物である。
 近代人が、自我をもってしまったがゆえに起こる苦悩を描く。
 主人公は基本的に悩んでいる。鬱屈している。
 主人公は基本的に世間、社会と対立する位置にいる。

2 評論は論理の流れをつかむ。
 そのために大きく三つか四つの意味段落を想定して読む。
 同じように小説では、三つか四つの場面で構成されていることを想定して読む。
 ただし場面の時間的進行は一方向とは限らない。
 過去の場面、回想シーンに注意する。

3 一つの場面の中では心情は一つ。 
 その心情が、どのような行動やセリフで表現されているかをつかむ。 
 その心情は、どんな事件・出来事によってひきおこされたかをつかむ。
 風景描写は作者の創作。主人公の心情を投影している。

4 なんとなく解かない。必ず本文に根拠を見つけよ。
 傍線部と正解選択肢とは、「=」の関係か、因果関係である。
 誤答選択肢の主なパターンは次の通り。
 本文にない内容が書いてある。(ナシ)
 本文と逆の内容が書いてある。(逆)
 本文の内容と微妙にずれている。(ズレ)
 正解の一部分しか述べてない。(不足・セマイ)
 正解をより極端に述べている。(イイスギ)
 日本語として明らかにおかしい表現で書いてある。(問題外)

5 何がどうして、どうなった。どんな心情がうまれたか。
 「何が」「どうして」「どうなった」の部分で誤答はいくらでも作れる。
 「どんな心情」部分の誤答はすぐわかる。

6 傍線部について答えるには、まず傍線部が大事。
 傍線部のSVOを確認。
 その傍線部は、事件・出来事なのか、心情なのか、行動・セリフなのか、風景描写なのか。

7 次に、傍線部の前が大事。
 前に指示語があったら、必ずその指示内容をつかむ。
 前に「~て」「~ので」があったら、傍線部との因果関係をおさえる。
 前に「~が(S)」と書いてないか。
 前に「~を(O)」と書いてないか。
 

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オヤジ化(2)

2010年11月17日 | 日々のあれこれ

 昨日書いたネタが「学年だより」にスピンオフした(使い方あってるかな?)。

2学年だより49 経験(2)
 「経験的処理可能感」は、当然のことながら経験を積まないと生まれない。
 自分がどれくらいやれるのか、またはやれないのかを、学校生活という取り返しのつくことで経験しておくことが大事だ。
 大人になって取り返しのつかない何かで、やってみたけどだめだった、大切なものを失いましたとならないためにも、今みんなに必要なのはチャレンジしてみることだ。
 勉強でも、部活でも、自分はこの程度だろうと勝手に限界を決めてしまうのが、一番もったいない。
 大人になれば、オヤジになれば、ある程度は客観的に自分の限界も見えてくる。
 その時点で、おれの限界はここだと決めて、前に進むことをやめると、名実ともに立派なオヤジの仲間入りだ。
 年をくってても、チャレンジし続けることができればオヤジ化しない。
 通称ほりえもん、堀江貴文氏はこう言う。

 ~ 僕が本書で定義する「オヤジ」とは、年齢的なものではない。あらゆること  家族との向き合い方や仕事への接し方、服装や体型に至るまで  を、より良き方向へ改善しようとすることを放棄してしまった者たちへの表現だ。
 彼らは現状にただ不満を持ち、将来に不安を抱えながらも、そこを打開しようという意思すら奮い起こせない。ただ、誰に向けるともなく不平を口にしているだけだ。それを僕は「思考停止状態」と呼ぶ。(堀江貴文『君がオヤジになる前に』徳間書店) ~

    端から見ればチャレンジと言えないようなレベルであっても、前に進もう、「より良き方向へ改善しよう」とする気持ちさえあれば、オヤジ化しない。
 正直に言うと、今のみんなのなかにも時々、チャレンジする気持ちが薄れてて、オヤジへの道を早くも歩もうとしているように見えることがある。
 悪ガキから青春を経ずにオヤジ化していくだけではないかと不安を抱かせる人がいる。
 「現状にただ不満を持ち、将来に不安を抱えながらも、そこを打開しようという意思すら奮い起こせない。ただ、誰に向けるともなく不平を口にしている」状態を、しばしば目にするから。
 同じ環境で、同じ内容の仕事を与えられたとき、「やりがいを持ってその仕事をやり続けられる人」と、「大きなストレスを抱えてその仕事を投げ出さざるをえない人」との差も、こういう姿勢が原因の一つだろう。
 一見自分に納得できないこと、意に沿わないことでも、「きっと自分に役立つはずだ、だからこそ自分に与えられた試練なのだ(=有意味感)」と考え、先々を見通しながら(=全体把握感)、やれるだけやってみようという姿勢で取り組んでいく経験が自分を作っていく。オヤジ化を防ぐ。

 

 堀江氏が小説について語っている部分があって、それが自分の考えとは真逆であるのもおもしろかった。

 ~ 僕は小説を読むメリットは、あまりない気がする。思考をただ埋めるには、役立つかもしれないが … あれは長すぎる。
 小説に書いてある、最も重要なメッセージにたどり着くのに、延々ページをめくり続けなくてはならない。その間の風景描写や、キャラクターの心情の移り変わりがあまりに退屈で … 正直うんざりする。行間を読んで楽しめるほど、僕は気が長くない。 ~

 根本的に堀江氏は、小説が必要ない人だと思う。
 それは幸せなことだ。
 「こんな人生が送りたい」と思ったとき、その実現を信じて努力できる人だから。
 たいがいの小説のメッセージは、つまりところ「人生は思うようにはならないよ」であるので、堀江氏のように生きる方には受け入れがたいもののはずだ。
 たぶん本当に小説を必要とする人は、メッセージなどいらない。
 現実の娑婆をうまく生きられなくて、小説の世界にどっぷりつかることしか自己を保てないから読む。
 国語の先生の多くもその一味だ。
 ちゃんとした教科が教えられそうにないので、しょうがなく文学の方へすすみ、まともな会社勤めができそうになくて、学校の先生ならぎりぎりやれるかなとの思いで国語教師が生まれる。
 一見明るく前向きそうでも、実は内向的で虚勢をはっているだけというのが本当のところなのだ。

 

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オヤジ化

2010年11月16日 | 日々のあれこれ

 ~ 僕が本書で定義する「オヤジ」とは、年齢的なものではない。あらゆることーー家族との向き合い方や仕事への接し方、服装や体型に至るまでーーを、より良き方向へ改善しようとすることを放棄してしまった者たちへの表現だ。
 彼らは現状にただ不満を持ち、将来に不安を抱えながらも、そこを打開しようという意思する奮い起こせない。ただ、誰に向けるともなく不平を口にしているだけだ。それを僕は「思考停止状態」と呼ぶ。(堀江貴文『君がオヤジになる前に』徳間書店) ~

 オヤジかどうかは年齢ではない、という指摘は、強く支持したい。
 でも、最近かなりあぶないのは事実だ。
 仕事に対する、より良き方向への改善意欲があるだろうか。ないはずはない。いや、世間的にはめちゃめちゃあると言っておきたい。
 生徒さんがたにそればかり語っている身であるし。
 たとえば自分の授業をなんとかしたいという気持ちは、昔ほど強くはない。
 でも10年前の自分と比べたら、その頃の10分の1も努力すれば、その時期の授業レベルをかるく越えられる。
 10分の1でも良き方向への改善はしているのだから、オヤジ化してないと言っていいかもしれない。
 部活だと、和音の構造もだいぶわかるようになったし、指揮法を習って3拍子もそれなりになってきた(と自分では思う)。
 服装や体型はどうだろう。服装には前からそんなに執着はなかった。体型は、ほとんど運動してない今、けっこう走っていた頃とそんなには変わってない。
 酒量は増えた。これはオヤジ化なのか、そうでないのか。少なくとも著者よりはいい体型してると思うけどな。

 「現状にただ不満を持ち、将来に不安を抱えながらも、そこを打開しようという意思する奮い起こせない。ただ、誰に向けるともなく不平を口にしている」のをオヤジというなら、自分も危険ではあるが、今の若い人(生徒さんも含めて)の一部に、ずいぶんあてはまる人がいるのではなかろうか。

 久しぶりにホリエモンさんの本を読んでおもしろかった。

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さらば愛しの大統領

2010年11月15日 | 演奏会・映画など
 「さらば愛しの大統領」は、週刊誌や新聞の映画評にとりあげられたのを読んでないし、「ねぇあの映画観た?」「はやく観たい!」という会話の対象となる作品ではおそらくない。
 県民の日は1000円と書いてあったのと、クラリネットレッスンが予想より早く終わったので、ふらっとコクーン新都心に行ってみただけだった。
 観てよかった。楽しめた。「インシテミル」や「雷桜」よりはるかに完成度が高い。
 出演する芸人さんたちの、うまく言えないのだが、フィジカルの強さを見せつけられた感じなのだ。
 お笑いの人は、頭がよくないいけないという話はよくある。
 回転の速さとか、リアクションの瞬発力というか、そういうものはたしかに必要だ。
 ただ、それはちょっとやそっとの修練で身に付くものではなくて、小さいころから培ってきた土台のうえに、この道に入ろうと決意してからの努力の蓄積がつくりあげるものだろう。
 そういう意味で、純粋な役者さんのもつ演技性とは別次元の身体性の高さを感じたのだが、うまく日本語にならない。ばかにしないで観る価値ありだと思う。
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