水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

声かけ力(3)

2019年02月27日 | 学年だよりなど

    学年だより「声かけ力(3)」


 長女の奈美さんは、高校3年になり関西大学の人文福祉学部を第一志望にした。
 母親が病気になる前には考えていなかった進路だ。
 担任の先生からは、実力的に難しいと言われ、猛勉強をはじめる。
 見事に合格を勝ち取り、入学、そして2人の先輩と知り合い、会社を立ち上げる。
 「ミライロ」と名づけられたその会社は、高齢者や障害者など、誰もが利用しやすいユニバーサルデザインを考案し、実現する業務を行おうとしていた。
 大学の講義が終わると、すぐにオフィスに行き、バリアフリーの地図を作ったり、施設調査をしたりする娘を、よくがんばるなあと他人事のように眺めていた。
 そんな奈美さんは、母親が「死にたい」と口にしたとき、こう答えていた。


 ~ 「こんな状態で生きていくなんて無理だし、母親としてあなたにしてあげられることは何もない。もう死にたい。お願いだから、私が死んでも許して」
 ……きっと泣いているだろうと思いました。
「ママ、お願いだから死なないで」と縋(すが)られるんだろうとも思いました。
 返事がないので恐る恐る視線を上げると、なんと奈美は泣きもせず、普通にパスタを食べていました。
 驚いて言葉を失くしている私に向かって、奈美は言いました。
「ママ、死にたいなら死んでもいいよ」
 私は耳を疑いました。
 奈美は手にしたフォークを離さずに、続けます。
「ママがどんなにつらい思いで病院にいるか、私は知ってる。死んだ方が楽なくらい苦しいこともわかってる。なんなら一緒に死んであげてもいいよ」
 奈美の目には、固い決意が宿っていました。
「でも、逆を考えてよ。もし私がママと同じ病気になったら、ママは私のことが嫌いになる? 面倒くさいと思う?」
「……思わないよ」
「それと一緒。ママが歩けなくてもいい、寝たきりでもいい。だってママに代わりはいないんだから。ママは二億パーセント大丈夫。私を信じて、もう少しだけ頑張って生きてみてよ」 (岸田ひろ実『ママ、死にたいなら死んでもいいよ』致知出版社) ~


 「死んでもいいよ」と、娘から予想外の言葉を聞き、逆に岸田さんは考え方が変わる。
 今の自分にないものを嘆いてもしょうがない、ゼロから自分の存在意義を考えてみようと。
 つらい入院生活のなかでも、入れ替わり立ち替わり誰かがお見舞いにきてくれる。その人たちと話していると、かえって感謝される、逆に元気が出たと喜ばれるという体験をするようになる。
 病院の看護師さんまでが病室を訪れ、悩みを相談しにくる。いっそ、人の心を開き、元気づける話し方を、ちゃんと学んでみようと岸田さんは考えた。

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声かけ力(2)

2019年02月25日 | 学年だよりなど

    学年だより「声かけ力(2)」


 ユニバーサルマナー研修の講師である岸田ひろ実氏が、車椅子での生活を余儀なくされるようになったのは、40歳の時だった。
 2008年1月、勤務する整骨院の新年会にでかけようと身支度していたとき、突然胸に衝撃がはしった。苦しさというより、怖くて身動きがとれなくなる。子ども達の前では平静を装って救急車をよび、病院で検査を受ける。心臓の太い血管が破裂してはがれていく、大動脈解離の疑いが強いと言われた。発症からの致死率は50%、搬送中に亡くなることも覚悟してほしいと言われ、手術のできる病院に向かう。
「手術をしても命が助かる確率は2割あるかないかですが、手術を同意いただけますか」
 高齢の母親と、高校2年生の娘、奈美さんは、別室で医師の説明を受けていた。
「ママを助けてください。お願いします」
 7時間超の手術は成功して一命をとりとめたものの、下半身の機能は全く失われた。
 術後一週間経っても身動きできない状態で、岸田さんは、自分のこと以上に子ども達のことを考えていた。
 年ごろを迎えた長女。障害をもつ長男。
 奈美さんに続いて誕生した長男の良太くんは、ダウン症だった。
 家族4人で支え合い、同じ障害をもつこどもを育てる家族とのつながりをもちながら、明るく暮らしてきた。会社をやめて独立した夫の事業も軌道に乗り始める。
 ところが、そんな夫が2005年、心筋梗塞で急死する。
 茫然としながら、いつまでも悲しんではいられない、何より食べていかねばと働き続け、家事を行い、長男の世話をし、毎日の睡眠時間は4時間程度だった。
 そんな暮らしがよくなかったのかと反省しても、どうにもならない。
「これからどう生きていけばいいのか」と思い悩む母を、娘が連れ出す。
「車椅子に乗ればどこでも行けるから」と。
 そうして街に出て驚いたのは、あまりにも動きがとれないことだった。ほんの少しの段差で目の前にある店に入れない。気がつくと「すいません、すいません」と周囲に謝ってばかりいる。


 ~ 「車いすがあればなんとかなるって言ったって、現実はなんともならないじゃない……」
 込み上げる感情を押し殺して、私は俯(うつむ)きました。
 ようやく車いすで入れるレストランを見つけて席につくと同時に、「もう無理」と初めて奈美の前で泣き崩れました。
「こんな状態で生きていくなんて無理だし、母親としてあなたにしてあげられることは何もない。 もう死にたい。お願いだから、私が死んでも許して」(岸田ひろ実『ママ、死にたいなら死んでもいいよ』致知出版社) ~


 感情のままに言葉をぶつけてしまい、しまったと思う。父親を亡くし、母親が倒れ、一番つらいはずの娘に向かって、自分はなんてことを言ってしまったのか、と。

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「である」ことと「する」こと(6)

2019年02月24日 | 国語のお勉強(評論)

「である」ことと「する」こと 第6段落   ⑳~㉔


「する」価値と「である」価値との倒錯

⑳ 〈 日本の近代の「宿命的」な混乱 〉は、〈 一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靭に「である」価値が根を張り 〉、そのうえ、「する」原理を建て前とする組織が、しばしば「である」社会のモラルによって〈 セメント化 〉されてきたところに発しているわけなのです。
㉑ 伝統的な「身分」が急激に崩壊しながら、他方で自発的な集団形成と自主的なコミュニケーションの発達が妨げられ、会議と討論の社会的基礎が成熟しないときにどういうことになるか。続々とできる近代的組織や制度は、それぞれ多少とも閉鎖的な集団を形成し、そこでは「うち」のメンバーの意識と「うちらしく」の道徳が〈 大手を振って 〉通用します。しかも一歩「そと」に出れば、武士とか町人とかの「である」社会の作法はもはや通用しないような赤の他人との接触が待ち構えている。人は大小さまざまの〈 「うち」的集団 〉に関係しながら、しかもそれぞれの集団によって「する」価値の浸潤の程度はさまざまなのですから、どうしても同じ人間が「場所柄」に応じていろいろに振る舞い方を使い分けなければならなくなります。私たち日本人が「である」行動様式と「する」行動様式とのごった返しの中で多少ともノイローゼ症状を呈していることは、すでに明治末年に漱石が鋭く見抜いていたところです。

Q41「日本の近代の「宿命的」な混乱」とあるが、なぜそのように言えるのか。(90字以内)
A41 日本の近代は、市民革命を経て成立した西欧の近代とは異なり、
  「である」価値が支配する精神性を残したまま表面的に取り入れたシステムにすぎず、
  その混乱は必然的なものと考えられるから。

Q42「一方で『する』価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に『である』価値が根を張り」は、具体的にはどのような社会状況として現れているのか。70字で抜き出せ。
A42 伝統的な「身分」が急激に崩壊しながら、他方で自発的な集団形成と自主的なコミュニケーションの発達 が妨げられ、会議と討論の社会的基礎が成熟しない

Q43「セメント化」とはどういうことのたとえか。「~化」という3文字の熟語で答えよ。
A43 硬直化 固定化

Q44 「セメント化」すると、その組織はどういうものになるのか。6字で抜き出せ。
A44 閉鎖的な集団

Q45「大手を振って」の意味を記せ。
A45 あたりをはばからず堂々と振る舞うこと。

Q46「 「うち」的集団」とはどういう集団か、本文の言葉を用いて60字以内で説明せよ。
A46 建前上は近代的組織でありながら、
  「うち」意識、「うちらしく」の道徳といった「である」社会の作法が公然と求められる集団。


 近代化 「西欧化」=「する」価値の浸透
     「である」価値が根を張る

      「である」社会のモラル
       ↓   セメント化
      「する」原理を建て前とする組織
       ∥
    近代的組織や制度
       ↓
    閉鎖的な集団 「うちらしく」の道徳
  
「である」行動様式と「する」行動様式とのごった返し
   ↓
 ノイローゼ症状


㉒ この矛盾は、戦前の日本では、周知のように「臣民の道」という行動様式への「帰一」によって、かろうじて弥縫されていたわけです。とすれば「国体」という支柱が取り払われ、しかもいわゆる「大衆社会」的諸相が急激に蔓延した戦後において、日本が文明開化以来抱えてきた問題性が爆発的に各所にあらわになったとしても怪しむに足りないでしょう。ここで厄介なのは、単に「前近代性」の根強さだけではありません。
㉓ むしろより厄介なのは、これまであげた政治の例が示しているように「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方〈 さほど切実な必要のない面、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面 〉では、かえって効用と能率原理が驚くべき速度と規模で進展しているという点なのです。
㉔ それはとくに大都市の消費文化において甚だしいのです。私たちの住居の変化――「である」原理が象徴している床の間つき客間の衰退に代わって、「使う」見地からの台所・居間の進出や家具の機能化――とか、日本式宿屋――ご承知のようにある室の客であることから食事そのほかあらゆるサービスの享受権が「流れ出」ます。なじみの客ほどそうです――がホテル化していく傾向などはまだそれなりの意味もありましょう。しかしたとえば「休日」や「閑暇」の問題になるとどうだろうか。都会の勤め人や学生にとって休日はもはや静かな憩いと安息の日ではなく、日曜大工から夜行列車のスキーまで、むしろ休日こそ恐ろしく多忙に「する」日と化しています。最近も「レジャーをいかに使うか」というアンケートをもらったことがあります。レジャーは「『する』こと」からの解放ではなくて、最も有効に時間を組織化するのに苦心する問題になったわけです。それだけではありません。学芸のあり方を見れば、そこにはすでに滔々として〈 大衆的な効果と卑近な「実用」の規準 〉が押し寄せてきている。最近もあるアメリカの知人が、アメリカでは研究者の昇進がますます論文著書の内容よりも、一定期間にいくら多くのアルバイトを出したかで決められる傾向があるという嘆きを私に語っていたことがあります。日本の大学における教授の終身制は一面ではたしかに学問的不毛の源泉であり、なんらかの実効的な検証が必要と言えます。けれども皮肉なことには、こうした日本の大学の身分的要素が、右のような形の「業績主義」の無制限な氾濫に対する防波堤にもなっているのでして、それほど文化の一般的芸能化の傾向はすさまじいと言わねばなりません。


Q47「さほど切実な必要のない面、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面」の具体例を、次の段落から抜き出せ。
A47 大都市の消費文化 休日 学芸

Q48「大衆的な効果と卑近な「実用」の基準」とはどういうことか。
A48 どれだけ大衆に認められたか、どれだけ実用的に機能するかという「する」価値にもとづく基準ということ。

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「である」ことと「する」こと(5)

2019年02月24日 | 国語のお勉強(評論)

「である」ことと「する」こと 第5段落  ⑱~⑲

政治行動についての考え方 
⑱ ところで政治行動とか経済活動といった社会行動の区別は、「する」論理から申しますと当然に〈 機能の区別 〉であって、人間や集団の区別ではない。近代社会の場合では〈 こうした機能 〉はあらゆる人間や集団に横断的に分布しているわけです。もちろん政府や政党のようないわゆる政治団体は主として政治活動をするし、会社や労組のような経済団体は主として経済活動をするにちがいない。しかしたとえば、政党も土地の売買をするときには、経済活動をしているわけだし、アメリカの労組のような「経済主義的」傾向の強い労組でも選挙などのときには活発に政治活動をする。ところが「である」思考と「らしく」道徳の強い社会では、とかくそうした「はたらき」の区別が特定の人間や集団の区別からもっぱら出てくるように考えられます。つまり文化活動は「文化団体」や「文化人」に、政治活動は「政治団体」や「政治家」にそれぞれ〈 還元 〉されてしまうから、文化団体である以上、政治活動をすべきでない、教育者は教育者らしく政治に口を出すなというふうに考えられやすいのです。
⑲ 〈 こういう傾向 〉が甚だしくなってくると、政治活動は職業政治家の集団である「政界」の専有物とされ、政治を国会の中にだけ封じ込めることになります。ですから、それ以外の広い社会の場で、政治家以外の人によって行われる政治活動は本来の〈 分限 〉を超えた行動あるいは「暴力」のように見なされるようになる。ところが言うまでもなく、民主主義とはもともと政治を特定身分の独占から広く市民にまで解放する運動として発達したものなのです。そして、民主主義を担う市民の大部分は日常生活では政治以外の職業に従事しているわけです。とすれば、民主主義は〈 やや逆説的 〉な表現になりますが、〈 非政治的な市民の政治的関心 〉によって、また「政界」以外の領域からの政治的発言と行動によって初めて支えられると言っても過言ではないのです。


Q35 「機能の区別」と同じ意味の言葉を9字で抜き出せ。
A35 「はたらき」の区別

Q36 「こうした機能」とは何を指すか、17字で抜き出せ。
A36 政治行動や経済活動といった社会行動

Q37 「還元」の意味を記せ。
A37 物事をもとの状態にもどすこと

Q38 「こういう傾向」とは何か、本文の言葉を用いて40字以内で記せ。
A38 さまざまな社会行動の機能の区別が、
   特定の人間や集団の区別に還元されていく傾向。

Q39「分限」の意味を記せ。
A39 身のほど 身分 分際

Q40「やや逆説的」とあるが、なぜそう言えるのか。40字以内で記せ。
A40 民主主義という政治活動は、
   非政治的な人に支えられて成立していることになるから。

Q41「非政治的な市民の政治的関心」とは何か。
A41 日常生活においては政治と無関係人が、主権者として政治に対してもつ関心。


近代社会
  社会行動の区別=機能の区別 → あらゆる人間・集団に分布
   ↑
   ↓
「である」思考と「らしく」道徳の強い社会
  はたらきの区別=人間・集団の区別

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声かけ力

2019年02月23日 | 学年だよりなど

    学年だより「声かけ力」


 障害を持つ人、お年寄り、ベビーカー、外国からの旅行者、具合の悪そうな人……、何か手助けが必要かもしれないと思える様子の人を見て、みなさんは声をかけられるだろうか。
 現実にはなかなか難しいのではないか。決して不親切からではなく「どうしていいかわからない」のが、一番の原因ではないかと思う。
 そういう現状をふまえ、声かけのマインドやアクションについての啓蒙活動や企業研修を行っている会社がある。
 「ミライロ」(本社大坂)というその会社で講師を務め、自身も車椅子で生活している岸田ひろ実氏が、東京出張の際にこんな経験をする。

 

~ 岸田ひろ実‏ @HiromiKishida · 2月18日 
 品川駅にて、車いすからタクシーに移乗しようとしたら、遠くからわざわざ駆け寄ってくれた人が。「何かお手伝いしましょか?……ゆーても僕、何したらええかわからんので教えてください」という思いやりとユーモアに溢れる言葉に感動して顔を上げたら、なんと小籔千豊さん(@koyabukazutoyo)でした。 76件の返信   16,559件のリツイート   46,541 いいね  

 岸田ひろ実‏ @HiromiKishida · 2月18日 
 今まで「大丈夫ですか?」と声をかけられることは沢山あっても(いつも反射的に大丈夫です!と答えてしまう)、小籔さんは「教えてください!」ってニコニコ笑ってくださって、つい甘えてサポートをお願いしやすいお声がけに、泣きそうになりました。タクシーに乗り込むまでそっと見守ってくれました。 17件の返信   2,710件のリツイート   7,546 いいね  

 岸田ひろ実‏ @HiromiKishida · 2月18日 
 私は、自分とは違う誰かの視点に立ち、高齢者や障害者への向き合う「ユニバーサルマナー」という考え方を、全国各地でお伝えしています。(ユニバーサルマナー検定という研修活動です)まさにユニバーサルマナーを体現してくださった小籔千豊さん、本当に本当にありがとうございました。 5件の返信   1,629件のリツイート   5,727 いいね ~


 「なるほど、こんな風に声をかければいいのか」と勉強になる話だ。
 と同時に、芸人さんがモテるのは、こういうところなんだろうなと深く納得する。
 「(笑顔で)教えてください!」というセリフには、何かして「あげる」とか、援助し「なければならない」のような気持ちがまったく含まれない。
 こんな声かけができる人を「ヒーロー」と呼ぶ。
 今、何のために勉強しているのか、部活をしているのか。
 みなさんの最終目標は、ヒーローになることだ。
 ヒーロー(もどきでも十分だ)になってしまえば、就職の面接など簡単にクリアできる。
 好きな子に声をかけるなど、なんでもなくなる。むしろ声をかけられたがるだろう。
 文武両道とは、ヒーローを目指す鍛錬だ。
 まずは「声かけ力」を意図的に身につけていくことから始めよう。

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「である」ことと「する」こと(4)

2019年02月22日 | 国語のお勉強(評論)

「である」ことと「する」こと 第四段落  ⑬~⑰

「する」社会・「する」論理への移行 
⑬ 「である」論理から「する」論理への推移は、必ずしも人々がある朝目覚めて突如ものの考え方を変えた結果ではありません。〈 これ 〉は、生産力が高まり、交通が発展して社会関係が複雑多様になるにしたがって、家柄とか同族とかいった素性に基づく人間関係に代わって、何かをする目的で――その目的の限りで取り結ぶ関係や制度の比重が増してゆくという社会過程の一つの側面にほかならないのです。近代社会を特徴づける社会学者のいわゆる〈 機能集団 〉――会社・政党・組合・教育団体など――の組織は本来的に「『する』こと」の原理に基づいています。そうした団体の存在理由が、そもそもある特定の目的活動を離れては考えられないし、団体内部の地位や職能の分化も仕事の必要から生まれたものであるからです。封建社会の君主と違って、会社の上役や団体のリーダーの「偉さ」は上役であることから発するものでなくて、どこまでも彼の業績が価値を判定する基準となるわけです。
⑭ 武士は行住坐臥常に武士であり、またあらねばならない。しかし〈 会社の課長はそうではない 〉。彼の下役との関係はまるごとの人間関係でなく、仕事という側面についての上下関係だけであるはずです。アメリカ映画などで、勤務時間が終わった瞬間に社長と社員あるいはタイピストとの命令服従関係が普通の市民関係に一変する光景がしばしば見られますが、これも「『する』こと」に基づく上下関係からすれば当然の事理にすぎないのです。もし日本で必ずしもこういう関係が成立してないとするならば、――仕事以外の娯楽や家庭の交際にまで会社の「間柄」がつきまとうとするならば――〈 職能関係がそれだけ「身分」的になっている 〉わけだと言えましょう。
⑮ こういう例でおわかりになりますように、「する」社会と「する」論理への移行は、具体的な歴史的発展の過程では、すべての領域に同じテンポで進行するのでもなければ、またそうした社会関係の変化がいわば自動的に人々のものの考え方なり、価値意識を変えてゆくものでもありません。そういう〈 領域による落差 〉、また、同じ領域での組織の論理と、その組織を現実に動かしている人々のモラルの食い違いということからして、同じ近代社会といってもさまざまのバリエーションが生まれてくるわけです。
⑯ たとえば一般的に言って経済の領域では、「である」組織から「する社会」組織へ、「属性」の価値から「機能」の価値への変化が最も早く現れ、また最も深く浸透します。封建的土地所有から「資本」の所有へという巨大な変化にそれが現れていることは言うまでもないでしょう。同じ資本主義でも、それが高度になると所有と経営の機能的な分離と言われている傾向が出てきます。株主であること、資本の所有者であることと、経営をすることとは必ずしも一致しなくなる。サラリーマン重役という言葉は、日本の場合にはまた特殊の意味合いを持っていますが、一般に高度の資本主義の下では経営者はすべてサラリーマンであって、トップ・マネジメントということがますます独立した仕事になってきます。無能な金持ちということはあまり問題にならないが、有能な経営者を得るかどうかということは企業にとって死活の問題になります。ところが、ここで厄介な問題があります。それは〈 政治の領域では経済に比べて「する」論理と「する」価値の浸透が遅れがち 〉だということです。
⑰ 政治の世界では、政治において「する」原理を適用するならば、それは〈 指導者の側 〉について言えば、人民と社会に不断にサービスを提供する用意であり、人民の側からは指導者の権力乱用を常に監視し、その業績をたえずテストする姿勢を整えているということになるわけです。私たちの国の政治がどこまで民主化されているかを、制度の建て前が民主主義であるということからでなしに、〈 右のような基準 〉で測ってみたらどうでしょうか。現在何に貢献しているか、いかに有効に仕事をしているかに関わりなく、ただコネとか資金の関係で、または長く支配的地位についていたとか、過去に功績があったとかいうことで、政治的ポストを保っている指導者が大は一国の政治家から、小は村のボスまで、〈 どんなにうようよ(傍点)していることか 〉。派閥とか〈 情実 〉の〈 横行 〉ということも、つまりは「『する』こと」の必要に応じて随時に人間関係が結ばれ解かれる代わりに、特殊な人間関係それ自体が価値化されるところから発生してくるものなのです。


Q23「これ」の指す内容を抜き出せ。
A23「である」論理から「する」論理への推移

Q24「機能集団」とは端的に言って何のためにつくられている集団のことか。9字で抜き出せ。
A24 ある特定の目的活動

Q25「会社の課長はそうではない」とあるが、「武士」と「会社の課長」の違いは何か、60字以内で説明せよ。
A25 武士はいついかなる時も武士としてと振る舞うことが求められる身分だが、
   会社の課長は仕事中に限っての地位であるということ。

Q26 「職能関係がそれだけ『身分』的になっている」とはどういうことか。50字以内で説明せよ。
A26 本来何かを「する」目的で結ばれた上下関係が、
   その目的以外の場面においてもつきまとっていること。

Q27「職能関係がそれだけ『身分』的になっている」組織は、筆者の言葉で言えばどういう組織と表現できるか。6字で答えよ。
A27 非近代的組織

Q28「領域による落差」とあるが、何の「落差」か。30字以内で記せ。
A28「する」社会・「する」論理への移行の速さや浸透度の違い。

Q29「政治の領域では経済に比べて「する」論理と「する」価値の浸透が遅れがち」とあるが、その結果どういう問題が生じているのか。20字以内で抜き出せ。
A29 特殊な人間関係それ自体が価値化される

Q30「指導者の側」とあるが「「する」原理」に基づくなら、指導者はどういう基準で選ばれるべきだというのか。26字で抜き出せ。
A30 現在何に貢献しているか、いかに有効に仕事をしているか

Q31「右のような基準」とはどのような基準か。
A31 政治的な判断が必要な場面で、
   指導者及び人民がともに、「する原理」に基づいているいるかどうかの基準。

Q32「どんなにうようよ(傍点)していることか」という表現について説明せよ。
A32 日本の民主主義が建前だけの状態にあることについて、
   指導者側の人々の行状に対する苛立ちと不快感が表明されている。

Q33  「情実」の意味を記せ。
A33 個人的な利害・感情に基づく不公平な取扱い。

Q34 「横行」のこの文章中の意味を記せ。
A34 悪事でありながら盛んに行われること


「行住座臥」 … 日常の立ち居振る舞いのこと。つねづね。ふだん。


「である」論理から「する」論理への推移

 生産力の高まり・交通の発展→社会関係の複雑多様化
     ↓
 何かをする目的の「限り」で取り結ぶ関係や制度
          ∥
 機能集団(会社・政党・組合・教育団体etc) … 「『する』こと」の原理に基く
          ↓
 会社の上役や団体のリーダーの「偉さ」
   上役「である」ことからではなく
   彼の業績が  →  価値を判定する基準となる

⑭武士 … 行住坐臥常に武士
     ↑
       ↓
 会社の課長   … 仕事という側面についての上下関係
            ∥
        「『する』こと」に基づく上下関係

⑮「する」社会と「する」論理への移行 … 領域によって差がある

⑯ 経済の領域

 「である」組織          「属性」の価値
   ↓                     ↓
 「する社会」組織        「機能」の価値
    ∥
 封建的土地所有  領主―農奴
   ↓
 「資本」の所有  資本家―労働者
   ↓
  所有と経営の機能的な分離 株主―経営者―会社員

⑰ 政治の世界

 現在何に貢献しているか、いかに有効に仕事をしているか
     ↑
       ↓
  コネ・資金
 長く支配的地位   政治的ポストを保つ指導者 → うようよ(傍点)
 過去に功績があった    
    ↓
  派閥・情実の横行
    ∥
  特殊な人間関係→それ自体が価値化
     ↑
       ↓
 「『する』こと」の必要性→人間関係が結ばれ解かれる

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上達の条件(2)

2019年02月19日 | 学年だよりなど

    学年だより「上達の条件(2)」

 堀江貴文氏は、「どうすれば成功できるか」「どうすれば儲かるか」について、とんでもなくたくさんの人たちから質問を受ける。
 「起業して成功したい」という人に対しては、好きなことではなく確実に利益のあがるものにまず取り組めと具体的に指導してきた。しかし現実には、うまくいかない人がいる。
 その理由は単純だった。
 結局は、たんに量が不足しているだけだと、堀江氏は言う。


 ~ で、これなんじゃないか?と思ったことが一つだけあった。
 それは睡眠時間以外のほぼ全てを仕事に使っていないということじゃないかと。
 私が8時間以上ずっと机に座ってデスクワークをしていて食事も仕事しながら摂っていたみたいな話を書いたらメルマガで質問があった。デスクワークをしていると、ついつい動画サイトやらをみてしまうんだと。
 動画だあ? そんなもん見てる暇ない。
  … 起業して3年くらいは、友達と飲みに行くこともほとんど無かったし、異業種交流会とか講演会の類も一度も行ったことがない。そんなの行くくらいだったら講演者の書籍を自分のペースで速読したほうがいい。メルマガを発行してたらそれを読めばよい。行く時間も勿体無い。
 今は違うが、当時は食事の時間も勿体無いので1Fにあるファミリーマートから弁当やら揚げたての惣菜やらを買ってきて食べてた。それすら時間がもったいなくて社員に買いにいかせたこともある。宅配の弁当屋もよく利用していた。
 土日も勿論ない。旅行も年に1度行くか行かないか。盆も正月も無い。ずっと仕事であった。  … 果ては家に帰る時間すら勿体無くなって、ずっと会社のベッドで寝ていたこともある。一時期は会社の仮眠室にシャワーまでつけていた。
 それくらいやったらほぼ確実に成功すると思うんだよなあ … 。 (堀江貴文「起業して確実に成功する方法」ほりえもんブログ)
 ~

 スポーツでも芸術でも趣味でも、正しいやり方を習い、圧倒的な量をこなすことは、上達の絶対条件だ。
 もちろん勉強にもあてはまるし、仕事においても同じ原理がはたらいていることは堀江氏の言葉でもわかる。
 圧倒的な努力を支える心を情熱という。
 「あの人は○○に情熱を持っている。その証拠に週に1回は○○に取り組んでいる」という言い方は、不思議な感じがする。
 「あの人は○○に情熱を持っている。その証拠に寝ても覚めても○○のことを考えている」には違和感がない。
 情熱の多寡とは、費やされる時間の量で測ることができるのだろう。

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上達の条件

2019年02月16日 | 学年だよりなど

  学年だより「上達の条件」


 スキー実習おつかれさまでした。悪天候の中、よく頑張りました。
 けがや病気をせず元気に帰れたことが何よりです。目標達成の土台となる身体と精神を持っていることが明らかになったので、これからはそれを有効に使っていきましょう。
 残念ながら、今回参加できなかった人は来年を楽しみに。
 物事の上達への一番の近道は「プロに習う」ことだ。
 先輩とか、経験のある友人とか、その道を先に歩いている人に習うことももちろん効果があるが、我流におちいる危険性がある。
 プロは、プロとして生きていくために、アマチュアが想像もできない時間をかけて、その道に取り組んできた。
 たとえば、スキーのレッスンを、今回のような班ではなく個人で受けるとすると、2時間で1万円ぐらいかかる。楽器や歌のレッスンも、先生によって差が大きい分野ではあるが、趣味のレベルなら30分で3~4千円ぐらい、音大受験レベルだと1回1.5~2万円かかる。
 ビジネスマンが、仕事上のコンサルティングを受けるとなると、30分5万円という世界もある。
 みなさんの感覚からは、高いと感じるかもしれない。
 しかし、レッスン料金というのは、その30分とか1時間ではなく、その講師が積み重ねてきた何十年分かへの対価だから、実はものすごく良心的な設定だと言える。
 何十年分の時間と労力とをかけて得られた知見や技を、つまりお金に換算するならとんでもない額に相当するものを、わずかなお金で手に入れることができるからだ。
 ただし、その価値をどの程度深く感じられるかは、習う側のレベルに左右される。
 何でもないようなプロの一言の重さを感じるためには、習う側も一定のレベルに達していなければならない。
 たんに習う側の技術レベルという問題ではなく、そのことに対する姿勢のありかたの問題も大きいだろう。
 「どうすればもっとうまくなれるのか」「ここはどうすればいいいのか」という強い疑問を持ってレッスンに望んだときには、必ず適切なアドバイスをもらえる。
 プロは同じ道のりを苦労して克服し、さらにその体験を相対化できているからだ。
 逆に受身の姿勢の場合は、得るものが少ないうえに、当事者はそのことに気づけない。
 これは何事にもあてはまる。
 物事の上達にもう一つ必要なのは「圧倒的な量をこなす」ことだ。


 ~ どうもたまに上手くいかない人がいるみたいだ。
 なぜだろう? と疑問に思って考えてみた。
 で、これなんじゃないか? と思ったことが一つだけあった。
 それは睡眠時間以外のほぼ全てを仕事に使っていないということじゃないかと。 ~


 堀江貴文氏が、「起業してほぼ確実に成功する方法」というブログ記事でこう述べる。

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スキー実習

2019年02月15日 | 日々のあれこれ

2/12(火) スキー実習初日。いつもどおりスクールバスで登校し、つぎに配車された西武観光さんのバスで出発する。先々週くらいがピークだったインフルエンザだが、残念ながら欠席連絡が数人入った。
 川越ICから関越自動車道に入り、湯沢で降りて苗場スキー場へ。長年親しんできた上越国際スキー場から苗場にかえて三年目、つまり自分達の学年は初めて使用する場所だ。
 おりしもユーミンコンサートが行われる苗場プリンスホテルは、歴史を感じさせるものの、様々な面で計算しつくされた施設で、ちょっと贅沢ではないかとさえ感じるほどの空間で実習ができるのは幸せだと思う。
 到着してすぐ着替えて、雪の降りしきる中、実習を開始する。いきなりこの天候は初めての生徒さんにはつらいかなとも思ったけど、はじめてゆえに、こんなものかと受け止めてる風でもある。
 実習をおえて、夕食、全体ミーティング。およそ480名がいっぺんに食事をとれるスペースも、この宿の魅力だ。せっかくなので、お誕生日の子を紹介し、みんなでハッピーバースデーを歌った。みんなで楽しく乗り切るために、手洗い、うがい、換気には気をつけようと話して解散、初日がおわる。
 

2/13(水) スキー実習二日目。雪。起床、朝食、実習、昼食、実習、夕食、ミーティング、就寝。昼食のカレーおいしい。夕食の鶏肉おいしい。なぜそんなにポテトをとるのか。
 

2/14(木) スキー実習三日目。雪。起床、朝食、実習、昼食、実習、夕食、ナイター自由滑走、就寝。朝食のししゃも美味しうございました。なぜパンケーキとポテトをそんなにとる。昼食の牛丼美味しゅうございました、夕食のローストビーフおいしゅうございました。鮭のマリネとシーザーサラダ美味しゅうございました。なぜそんなに無計画にすべての料理を天こ盛りにしようとするのか。
 

2/15(金) スキー実習最終日。はじめての好天。雪のなか、誰もケガせず、熱も出さずにがんばったご褒美かもしれない。
 この子は途中でいやになってやめるのではないかと思いながら初日に見ていた生徒さんも、それなりにすべっている様子を本部から眺める。やはり物事はプロに基本から教えていただくのが一番の近道だ。
 スキーができたから人生に何か直接的に得になるかと言えば、むろんそうではない。それは部活も同じか。映画や音楽も。でもそういう経験の蓄積が人としての豊かさを構成していくことだけは間違いないな、などとの感慨をいだくのは、スキー実習の引率もほぼラストだからか。
 実習中、誰も医者にかからなかったのは初めての経験で、彼らはきっとこの先いろんなことをやってくれるのだろうと希望を抱きながら、無事川越にたどりついた。

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センター2019年評論(4)

2019年02月10日 | 国語のお勉強(評論)

第4段落(13~15)

13 大学で現代ロシア文学を翻訳で読むというゼミをやっていたときのこと。ある日、一年生のまだ初々しい女子学生が寄ってきて、こう言った。「センセイ、この翻訳って、とってもこなれてますね。『ぼくはあの娘にぞっこんなんだ』だなんて。まるでロシア文学じゃないみたい」。それは確か、わが尊敬する先輩で、翻訳のうまいことで定評がある、浦雅春さんの訳だったと思う。そのときすぐにロシア語の原文を確認したわけではないので、単なる推量で言うのだが、それは人によっては「私は彼女を深く愛しているのである」などと四角四面に訳してもおかしくないような箇所だったのではないかと思う。
14 「ぼくはあの娘にぞっこんなんだ」と「私は彼女を深く愛しているのである」では全然違う。話し言葉としてアッ〈 (オ)トウ 〉的に自然なのは前者であって(ただし「ぞっこん」などという言い方じたい、ちょっと古くさいが)、実際の会話で後者のような言い方をする人は日本人ではまずいないだろう。しかし、それでは後者が間違いかと言うと、もちろんそう決めつけるわけにもいかない。ある意味では後者のほうが原文の構造に忠実なだけに正しいとさえ言えるのかも知れないのだから。しかし、〈 C正しいか、正しくないか、ということは、厳密に言えば、そもそも正確な翻訳とは何かという言語哲学の問題に行き着く 〉のであり、普通の読者はもちろん言語哲学について考えるために、翻訳小説を読むわけではない。多少不正確であっても、自然であればその方がいい、というのが一般的な受け止め方ではないか。
15 確かに不自然な訳文は損をする。例えば英語の小説を日本語に訳す場合、原文に英語として非標準的な、要するに変な表現が出てくれば、当然、同じくらい変な日本語に訳すのが〈 a「正確」な翻訳 〉だということになるだろう。しかし、最近の〈 b「こなれた訳」 〉に慣れた読者はたいていの場合、その変な日本語を訳者のせいにするから、訳者としては――うまい訳者であればあるほど――自分の腕前を疑われたくないばかりに、変な原文をいい日本語に直してしまう傾向がある。


13・14

「ぼくはあの娘にぞっこんなんだ」      話し言葉として自然
  ↑
  ↓
「私は彼女を深く愛しているのである」 原文の構造に忠実

15 原文の変な表現 → 変な日本語に訳す ……a「正確」な翻訳

          →(自然な表現への置き換え)……b「こなれた訳」


 二段落
  楽天的な翻訳家(A2)
   a 律儀な学者的翻訳→「生硬」な日本語 → 正確?
   b 近似的な「言い換え」→「こなれた」訳文に → 訳?


Q a「「正確な」翻訳」、b「「こなれた訳」」とあるが、「 」にはどのような働きがあるか、a、bの違いも明確にして100字以内で説明せよ。それぞれをa、bとよんでいい。

A aは、原文の変な表現を不自然なまま訳すことを正確な翻訳と言えるかどうか、
  bは、自然な表現に言い換えたものを本当に訳と呼んでいいかについて、
  筆者自身も結論が出ていないことを表している。

 

問4 傍線部C「正しいか、正しくないか、ということは、厳密に言えば、そもそも正確な翻訳とは何かという言語哲学の問題に行き着く」とあるが、ここから翻訳についての筆者のどのような考え方がうかがえるか。

 ② 翻訳の正しさとは、原文の表現を他言語に置き換えるとはどういうことか、あるいはどうあるべきか、という原理的な問いに関わるものである。
 そのため、原文を自然な日本語に訳すべきか(b)、原文の意味や構造に忠実に訳すべきか(a)という翻訳家の向き合う問題は、容易に解決しがたいものになるという考え方。

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