名古屋市中川区の富田地域憲法九条の会(通称九条の会富田)が8月21日に結成5周年のつどいを行い、会員の若松初さんに被爆体験を語っていただきました。
若松さんは、広島の三菱の工場で働いている17歳の時原爆に遭いました。爆心地から3キロのところにいました。
ピカッと光った瞬間、「伏せろ!」と軍人に突き飛ばされるようにして防空壕に頭だけを突っ込みました。気がついたらその軍人の姿はどこにも見当たらなかったといいます。
若松さんはその軍人はおそらく原爆の熱で灰になってしまったのだろうと考えているそうです。その後被爆者の死体の処理にあたりました。
勤めていた三菱は戦後平和産業という名目で鍋、釜を作って成長し始めましたが、若松さんは故郷の天草(熊本県)に帰りたいと三菱を退社しました。
故郷の実家では広島は全滅と聞いて若松さんの位牌を作り、仏壇に飾っていたそうです。
帰ってきた若松さんを見てご家族は大喜びしたそうです。
若松さんは言います。「被災地の光景は悲惨だった。水を欲しがる人がいても誰もあげられない。私はまったくの偶然で幸いにも今まで生き残っているが、友達や同僚は死んでしまった。
でも私も後遺症が残り、脊髄が痛んでいる。左半身も不自由だ。戦争は絶対にやってはいけない。九条は何が何でも守らなければならない」と繰り返し強調されました。
なお、富田地域憲法九条の会ではこの集会で憲法についての簡単な質問を出して参加者に答えてもらう「憲法クイズ」を行い、成績優秀者に賞品を渡すことにしていましたが、全員の成績が良かったため、全員にノートとボールペンが渡されました。
若松さんは、広島の三菱の工場で働いている17歳の時原爆に遭いました。爆心地から3キロのところにいました。
ピカッと光った瞬間、「伏せろ!」と軍人に突き飛ばされるようにして防空壕に頭だけを突っ込みました。気がついたらその軍人の姿はどこにも見当たらなかったといいます。
若松さんはその軍人はおそらく原爆の熱で灰になってしまったのだろうと考えているそうです。その後被爆者の死体の処理にあたりました。
勤めていた三菱は戦後平和産業という名目で鍋、釜を作って成長し始めましたが、若松さんは故郷の天草(熊本県)に帰りたいと三菱を退社しました。
故郷の実家では広島は全滅と聞いて若松さんの位牌を作り、仏壇に飾っていたそうです。
帰ってきた若松さんを見てご家族は大喜びしたそうです。
若松さんは言います。「被災地の光景は悲惨だった。水を欲しがる人がいても誰もあげられない。私はまったくの偶然で幸いにも今まで生き残っているが、友達や同僚は死んでしまった。
でも私も後遺症が残り、脊髄が痛んでいる。左半身も不自由だ。戦争は絶対にやってはいけない。九条は何が何でも守らなければならない」と繰り返し強調されました。
なお、富田地域憲法九条の会ではこの集会で憲法についての簡単な質問を出して参加者に答えてもらう「憲法クイズ」を行い、成績優秀者に賞品を渡すことにしていましたが、全員の成績が良かったため、全員にノートとボールペンが渡されました。