不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

当サイトの掲載写真・イラスト等の無断転載/無断使用を禁じます

鬼大城をたどる

2014年12月23日 | ・琉球史散策/第一尚氏


先日、沖縄市郷土博物館主催の体験講座
「越来から知花へ 鬼大城をたどる」
に参加してきました。

第二尚氏によるクーデターの際、
越来グスクの按司となっていた大城賢雄が
戦いながらも終われ、
終焉の地となる知花までの
逃亡ルートをたどるウォークラリーです。

(けっこ~人いた!25人くらい?
しかも結構女子率高かった!賢雄人気!?(笑))

「鬼大城の道」と呼ばれる
逃亡ルート(地図)があるのは知っていましたが
実際に巡るのは初めて。

時折陽が差すものの
風が吹く寒い中、約3時間あまり。
賢雄のためならエンヤコラということで
頑張りましたよ(笑)

実際には越来から知花へ行く道での
越来・美里・松本・知花の
各の史跡も見ながらと盛り沢山だったのですが
今回は賢雄にゆかりのあるスポットのみを
復習も兼ねてご紹介します。

 


知花グスクも間近の松本エリア。

カンジャー(鍛冶屋)という屋号をもつ家があった場所。
今は取り壊され、更地になっていました。

この家の近くには
メーントーウーヌナーカという屋号のうちがあったそうな。
賢雄は側室である石城の娘を脇に抱えて逃げていたが
ここで死を覚悟して娘を逃がした
という伝えがあるそうです。

共に逃げたのは
妻の百十踏揚ではなく、

側室の石城の娘。

本読んでたらこの賢雄の最期を語るのに
この石城の娘ってちょこちょこ出てくる。
過去記事にも)

戦前まで残っていたという
賢雄の着物はこの石城家にあったものらしい。

側室の石城の娘…。
考えさせられる存在ですね~。

 


賢雄の逃亡ルートは2説あるらしく、
その分かれ目である知花第一公園前。

今回は左手にGO→

その先にあるのが…

 


屋号「ウフグシク(大城)」

賢雄が生まれた場所とも
幼いころに過ごした場所とも言われています。

喜屋武按司の息子だった賢雄は
幼くして父を亡くします。
母ちゃんは城を維持できなくなったため
実家である大城家に身を寄せます。

その、大城家。

残念ながら今は子孫ではなく
別の方が住んでいるようです。

前の坂はこの家にちなんだのか
「ウスグシクびら(坂)」と言います。

 

そして、逃げる賢雄はワタンジ川(ワタンジャー川)に阻まれ
大きく迂回して知花グスクへ。

 


そしてゴールの知花グスク。

これは幾度となく紹介済みなので割愛しますが、
墓の前の案内板が無くなってました。

今年の台風で壊れてしまったのだとか…。
(beforeはこちらから)

 

知花グスクの麓はクシドーと呼ばれる松林だったらしく、
若き賢雄はここで夜な夜な武術の訓練をしていたそうな。

当時知花には農民しかいなかったため、
賢雄は尚泰久の家来になる時、
「草むしりをさせてください」
とお願いしたと伝えられているようです。

阿麻和利が茂知附按司の家来になる時も
そんな感じだよね。

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 別冊モモト、今帰仁城跡 | トップ | 尚泰久と世利休 »